表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
54/86

第53話 左内、動く

 権蔵を熱田に置いた翌朝、左内が動いた。


 早い。


 早すぎる。


 いや、こちらが権蔵を捕らえ、熱田の火前へ立たせた時点で、左内が動かない方がおかしい。


 影は、光が当たれば場所を変える。


 権蔵という足が押さえられたなら、次に動くのは、その足を使っていた者だ。


 滝川左内。


 林美作守の旧臣筋に出入りしていた男。


 稲生の後、表からは姿を薄くしたが、消えてはいなかった。


 境の蔵で作兵衛と接触し、佐橋勘解由らしき老人のいる空き屋敷へ通っていた男。


 その左内が、夜明け前に屋敷を出た。


 報せを持ってきたのは恒興だった。


 朝餉の前である。


 俺は膳の前に座らされていた。


 帰蝶の目があったので、食べないという選択肢はなかった。


「若様」


 恒興は息を整えてから言った。


「左内が空き屋敷を出ました」


 俺の箸が止まる。


 すぐに帰蝶が言った。


「お聞きになりながら、召し上がってください」


「今か」


「今です」


 恒興が少し困った顔をした。


 信勝は隣で、何事もないように粥を口に運んでいる。


 偉い。


 いや、慣れすぎている。


 俺も仕方なく一口食った。


「それで、どこへ」


「清洲の町中へは入らず、北へ。林様の旧臣が住む屋敷筋を避け、古い寺へ向かいました」


「寺か」


「はい。表向きは無住に近い寺です。ただ、時々旅僧が泊まります」


 旅僧。


 薬売り。


 古着商。


 馬借。


 このところ、道の上の顔ぶれがどれも怪しく見えてくる。


 だが、全員を疑えば道は止まる。


 見分けるしかない。


「佐橋は」


「空き屋敷に残っています。少なくとも、表からは出ていません」


「左内だけ動いたか」


「はい」


 長秀がすでに帳面を広げていた。


 この男は、飯の場でももう遠慮がなくなっている。


 帰蝶も、今日だけは見逃した。


「左内が動いた理由は三つ考えられます」


 長秀が言った。


「一つ、権蔵が捕らえられたことで道を変えるため。二つ、佐橋を逃がす準備。三つ、こちらの困りごとの道を逆に揺さぶるため」


「三つ目だろうな」


 俺は言った。


 信勝が顔を上げる。


「なぜ、そう思われますか」


「権蔵を捕らえたことで、布と火の道は見られた。なら、次は人の心へ戻る」


「困りごとの道を疑わせる」


「ああ」


 信勝の顔が少し曇った。


 自分の名を使った文が、また出るかもしれない。


 それが分かっている顔だった。


「兄上」


「何だ」


「左内は、私の名をまた使うでしょうか」


「使うかもしれぬ」


「なら、先に言葉を置きますか」


「まだ早い」


 信勝は、少しだけ悔しそうに唇を結んだ。


「左内が何を言うかを見てからか」


「そうだ。こちらが先に強く言えば、相手はそれを利用する」


 信勝は頷いた。


「分かりました」


 分かっている。


 だが、痛い。


 それでも待つ。


 俺より待つのが上手いかもしれない。


 いや、俺が下手すぎるだけか。


 朝餉を終える頃、仁助から次の報せが来た。


 左内は寺へ入った。


 寺には、前夜から旅僧が一人泊まっていた。


 それから、薬売りらしき男もいた。


 また薬売りだ。


「薬売りの名は」


「まだです。ただ、熱田の煙の粉に関わった者と同じ筋かもしれません」


 仁助は、少し声を低くした。


「それと、左内は寺で文を書かせています」


「誰に」


「旅僧に」


「なぜ自分で書かない」


 長秀が言った。


「筆跡を残したくないのでしょう」


「あるいは、僧の字にしたいか」


 俺が言うと、帰蝶が頷いた。


「僧の字なら、女たちや年寄りの手に渡っても警戒されにくいですね」


「内容は分かるか」


 仁助は首を振った。


「まだ。ただ、紙の数が多い」


「多い?」


「はい。一通二通ではありません。小さく折って、いくつにも分けています」


 ばらまくつもりか。


 火をつけるのに、大きな薪はいらない。


 乾いた草をいくつも置けばいい。


 左内は、そういう火のつけ方を知っている男だ。


「恒興」


「はい」


「寺の出入りを見ろ。文を持つ者を追う。ただし、寺へ踏み込むな」


「承知しました」


「仁助」


「へい」


「道の者へ伝えろ。今日、急に小さな文を運ぶ者が増えたら拾え。奪うな。誰がどこへ運ぶか見る」


「分かりました」


「長秀」


「はい」


「困りごとの入口役に知らせる。脅し文、信勝の名を使う文、那古野が名を集めているという噂。その類が来たら、すぐこちらへ」


「はい」


「帰蝶」


「承知しています」


 言う前に返された。


「針仕事の家には、私から静かに知らせます。騒がせません」


「頼む」


 こういう時、帰蝶がいることの意味は大きい。


 俺が動けば戸が閉まる。


 帰蝶なら、戸が少しだけ開いたままになる。


 昼前、最初の文が見つかった。


 届け先は、清洲の下級武士の家。


 稲生で直接動いてはいないが、親類が信勝側に寄った家だ。


 文には、こうあった。


 ――困りごとを届けよとは、家々の弱みを集めることに候。弱みを知られし家は、後々使われ候。今は沈黙こそ家を守る道に候。


 名はない。


 信勝の名もない。


 しかし、狙いは明らかだった。


 困りごとの道を、弱みを集める罠に見せる。


 俺は文を読み、息を吐いた。


「左内は、こちらの穴をよく見ている」


 佐久間が頷いた。


「困りごとは、確かに弱みでもあります」


「そうだ。だから効く」


 嘘だけなら潰しやすい。


 だが、半分本当の言葉は残る。


 困りごとを届ければ、こちらはそれを知る。


 それは弱みを知られることでもある。


 その怖さは本物だ。


 だから、左内の文は人を揺らす。


「どう返しますか」


 信勝が聞いた。


「まずは、同じところへ文で返さない」


「なぜ」


「文の打ち合いにすれば、相手はさらに文を増やす」


「では」


「入口役に言葉を渡す」


 俺は少し考えた。


「困りごとは、弱みではない。いや、違うな」


 信勝がこちらを見た。


「困りごとは弱みでもある。だからこそ、外の影へ渡すな」


 長秀の筆が動いた。


「よい言葉です」


「かなりか」


「かなり」


 信勝も頷いた。


「弱みではないと言い切ると、嘘になります。でも、弱みだからこそ守る、と言えば届くかもしれません」


「使う」


 また信勝の言葉が混ざる。


 この方が強い。


 一人の言葉では足りない。


 困りごとの入口役たちへ、すぐ言葉を渡した。


 ――困りごとは弱みでもある。だからこそ、外の影へ渡してはならない。名を伏せ、入口を選び、守られる場所へ置く。


 広く触れにはしない。


 人から人へ。


 針仕事の家ではおまきが言う。


 台所ではおたえが言う。


 兵には柴田が鍋の後で言う。


 商人には久右衛門が言う。


 馬借には仁助が、もっと乱暴に言うだろう。


 それでいい。


 同じ言葉でも、口が変われば届き方が変わる。


 午後、二つ目の文が出た。


 今度は、信勝の名を使っていた。


 ――信勝様の御心を思えば、困りごとは兄君へ届けず、信勝様を慕う者同士で守るべし。兄君の御前へ差し出すは、信勝様の御名を薄めることに候。


 信勝の顔が、はっきり変わった。


 怒りだった。


 静かな怒り。


「私の名を、兄上から切り離そうとしている」


「ああ」


「これは、私が返します」


 今度は止めなかった。


 待つ段階は過ぎた。


 相手が信勝の名を使い、俺から切り離そうとしている。


 なら、信勝本人が火の前に名を置く必要がある。


「書け」


 信勝はすぐ筆を取った。


 文は短かった。


 ――私の名を兄上から切り離して語る者は、私の心を知りません。私を慕う心があるなら、私を孤立させないでください。困りごとは、兄上と私の双方へ届く道に置いてください。


 俺は読み、少し胸が詰まった。


 私を孤立させないでください。


 強い言葉だ。


 同時に、痛い言葉だった。


 信勝は、自分が担がれることを、もう栄誉ではなく孤立として見ている。


 それが分かった。


「よい」


 俺は言った。


「これは、少し広く流す」


「よろしいのですか」


「相手が広く文を出している。こちらも届かなければ負ける」


 長秀が頷いた。


「ただし、信勝様の文だけでなく、若様の言葉も添えた方がよいかと」


「何と」


 少し考えた。


「信勝の困りごとは、俺の困りごとでもある」


 信勝が顔を上げた。


 驚いている。


「兄上」


「変か」


「いえ」


 信勝は目を伏せた。


「ありがたく」


「大げさだ」


「大げさではありません」


 帰蝶が横で静かに言った。


「よい言葉です」


「かなりか」


「かなり」


 その文は、清洲、那古野、熱田の入口役へ流した。


 大きな触れではない。


 だが、広めるべき場所には広める。


 信勝の名を切り離す文には、信勝自身と俺の言葉で返す。


 夕方、左内が寺を出た。


 報せは早かった。


 左内は一人ではない。


 旅僧と薬売りを別々に出し、自分は少し遅れて動いた。


 向かった先は、空き屋敷ではなかった。


 清洲の奥に近い、古い茶屋。


 そこは、守護家周辺の者や古い取次が、人目を避けて話す場所だった。


「奥へ近づいたか」


 俺は地図を見た。


「左内は、清洲の奥とつながろうとしている?」


 信勝が言う。


「あるいは、もうつながっている」


 帰蝶が静かに言った。


「困りごとの道を揺らし、信勝様を兄上から切り離す文を出した後、清洲の奥へ近づく。順番がよすぎます」


「何を狙う」


 佐久間が言った。


「那古野が困りごとの名目で清洲の家々を探っている、という形にしたいのでは」


「清洲の奥がそれに乗れば」


「河尻殿や久右衛門殿が作っている道も揺らぎます」


 面倒なことになってきた。


 だが、見えた。


 左内の狙いは、ただの逃げではない。


 困りごとの道を疑わせ、信勝を切り離し、清洲の奥に「那古野への警戒」を焚きつける。


 その上で、今川の影へつなぐ。


 まったく、嫌な男だ。


「河尻へ知らせるか」


 長秀が聞いた。


「知らせる」


「どの程度」


「左内が清洲の奥へ近づいていること。だが、清洲の奥を責める文にはしない」


「はい」


「河尻には、こう伝えろ。困りごとの道を清洲の家々への詮議にしないためにも、清洲自身の目が要る、と」


 長秀が頷いた。


「清洲を疑うのではなく、清洲に見てもらう」


「そうだ」


「河尻殿なら動くでしょう」


「動いてもらわねば困る」


 夜に入る前、河尻から返事が来た。


 短い。


 ――承知。茶屋は清洲の内にて見る。火種を奥の名で隠させぬ。


 河尻らしい返しだった。


 清洲の古い柱は、まだ倒れていない。


 そして、少し風を入れる気がある。


 だが、左内もそれを読んでいるだろう。


 簡単には捕まらない。


 夜、茶屋で動きがあった。


 左内は、清洲の古い取次の一人と会った。


 名を真野主水。


 守護家の奥向きへ出入りする下役だという。


 大物ではない。


 だが、奥の言葉を外へ運ぶには十分な位置にいる。


 左内は真野に文を渡した。


 その文は、河尻の者が茶屋の外で追ったが、真野はすぐ奥へは向かわなかった。


 いったん、別の屋敷へ入った。


 そこは、佐橋勘解由の遠縁にあたる家だった。


「左内、佐橋、清洲の奥」


 長秀が呟く。


「線になりましたね」


「ああ」


 線になった。


 だが、まだ切るには早い。


 線の先に、誰がいるか。


 そこを見たい。


 しかし、見すぎれば逃げる。


 また同じ悩みだ。


 柴田が言った。


「若君、左内を捕らえる時が近いのでは」


「近い」


「今夜では」


 俺は黙った。


 地図を見る。


 左内は茶屋から動き、真野へ文を渡した。


 真野は奥へ直接行かず、佐橋の遠縁へ。


 つまり、文は一度そこで中身を変えるか、別の文と合わせるかもしれない。


 左内を今捕らえれば、真野の先は見えない。


 だが、逃がせば左内はまた火をつける。


 どうする。


 帰蝶が言った。


「信長様」


「何だ」


「左内は、自分が見られていることに気づき始めているはずです」


「だろうな」


「なら、泳がせる余地は短いです」


「捕らえろと?」


「いいえ。左内を捕らえるのではなく、左内が頼った道を先に押さえるべきかと」


「道を」


「真野主水です」


 帰蝶の目は静かだった。


「左内は逃げる足を持っています。けれど、真野は清洲の奥へ出入りする立場を持っています。そこを河尻殿に押さえてもらえば、左内は奥へ入る道を失います」


 なるほど。


 左内本人ではなく、奥へ入る入口を押さえる。


 しかも、那古野ではなく清洲の河尻がやる。


 これなら、清洲の奥を那古野が攻めた形にならない。


「河尻へ」


 俺は言った。


「真野主水を、清洲の名で止めろと伝えろ。理由は、守護家の奥の名を曇らせぬため」


 長秀がすぐ文を整える。


「左内は?」


「見張り続ける。だが、真野が止められたと分かれば動く。その動いた先を押さえる」


 柴田が頷いた。


「今度こそ、網を狭めますな」


「ああ」


「兵は」


「まだ出すな」


 柴田は少し笑った。


「承知しております」


 夜半、河尻が動いた。


 清洲の内で、真野主水は呼び出された。


 表向きは、守護家奥向きへの取次についての確認。


 つまり、詮議ではない。


 しかし、事実上は足止めだ。


 真野は逃げられない。


 そして、その報せは必ず左内へ届く。


 届いた。


 左内は、茶屋から出た後に戻るはずだった空き屋敷へは向かわず、境の道へ走った。


 やはり。


 逃げるなら三河側。


 あるいは、作兵衛へ知らせるつもりか。


「追え」


 俺は言った。


 恒興と仁助の者が動いた。


 柴田は兵を動かさない。


 だが、境近くの道には、すでに道普請の者たちがいる。


 鍬を持った目だ。


 左内は馬を使わなかった。


 徒歩で細道を抜ける。


 速い。


 年の割に足がある。


 しかし、道はもうこちらのものでもある。


 仁助の者が先回りした。


 小さな橋。


 道普請のため、片側の板が外されている。


 左内はそこを越えようとして足を止めた。


 その一瞬。


 恒興が声をかけた。


「滝川左内」


 左内は振り向いた。


 逃げるかと思った。


 だが、逃げなかった。


 むしろ、笑ったという。


「ようやく、名を呼ばれたか」


 その言葉が、後で俺のところへ届いた時、背筋が少し冷えた。


 この男は、捕らえられることもどこかで読んでいたのかもしれない。


 いや、読んでいたというより、待っていたのか。


 名を呼ばれることを。


 影ではなく、一人の火種として見られることを。


 左内は抵抗しなかった。


 袖の中から文を一つ出し、自分で差し出した。


「若君へ」


 恒興は受け取らず、長秀の者に持たせた。


 用心深くなったものだ。


 文は封じられていた。


 那古野へ届いた時、俺は皆の前で開いた。


 そこには、短く書かれていた。


 ――道を見、火を見、飯を見、布を見、ついに人を見るに至られ候。ならば問いたく候。信長様は、怨みまで組み直せると本気でお思いか。


 俺は、文を見つめた。


 左内。


 こいつは、ただ逃げていたのではない。


 問うてきた。


 怨みまで組み直せるか、と。


 腹立たしい。


 だが、逃げない問いだった。


 俺は文を置いた。


「連れてこい」


 誰も、すぐには声を出さなかった。


 左内は捕らえられた。


 だが、本当の詮議はここからだ。


 怨みまで組み直せるか。


 そんなもの、できると言い切れるほど俺はうつけではない。


 だが、できぬと認めて放るほど、もう昔の俺でもない。


 なら、聞く。


 左内の怨みを。


 その奥にいる佐橋の怨みを。


 そして、今川の影が何を食っているのかを。


 火はまだ消えていない。


 だが、火種はようやく手の届くところまで来た。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ