第4話 幕間 帰蝶、尾張のうつけを見る
帰蝶は、泣かなかった。
泣けなかったのではない。
泣く理由がなかったわけでもない。
義父となった織田信秀という男に、深い情があったかと問われれば、答えに困る。美濃から尾張へ嫁いできた帰蝶にとって、信秀は夫の父であり、同時に斎藤家と織田家をつなぐ柱でもあった。
柱が倒れた。
その意味は、女の涙だけで済むものではない。
だから、帰蝶は泣かなかった。
泣くより先に、見るべきものが多すぎた。
葬儀の場は、香の匂いで満ちていた。
僧の読経が低く響き、白い煙がゆるやかに上がる。家臣たちはみな喪の顔をしていた。悲しんでいる者もいた。悲しんでいるふりをしている者もいた。悲しみながら、次のことを考えている者もいた。
人の顔とは便利なものだ。
一つの表情で、いくつもの心を隠せる。
美濃で生まれ育った帰蝶は、それを幼い頃から知っていた。
父・斎藤道三は、よく言っていた。
「人の泣き顔を信じるな。笑い顔も信じるな。信じてよいのは、泣いた後にその者がどこを見るかじゃ」
葬儀の場で、皆は織田信秀の棺を見ていた。
だが、本当に見ていたのは別のものだった。
織田三郎信長。
うつけと呼ばれる若き嫡男。
そして、信長の弟である勘十郎信勝。
帰蝶は、二人を見比べた。
信勝は整っていた。
衣の乱れもなく、背筋は伸び、父を悼む顔にも品があった。あの若者が織田家の前に立てば、家臣たちは安心するだろう。
分かりやすいからだ。
人は分かりやすい主を好む。
礼を守り、言葉を選び、家臣を立て、古い形を大事にする。
そういう主の下では、家臣たちも自分の居場所を見つけやすい。
一方、信長は分かりにくかった。
葬儀の場には整った姿で現れた。
それだけなら、帰蝶も少し意外に思っただけで済んだ。
やればできる男なのだ、と。
だが、信長は焼香の場で抹香を投げた。
場が凍った。
帰蝶も、一瞬だけ息を止めた。
信長の指先から散った白い粉は、軽いはずなのに、まるで石のようにその場の者たちの胸へ落ちた。
父の葬儀で、何ということを。
家臣たちの心の声が、言葉にならずとも伝わってきた。
平手政秀は顔色を失っていた。
林秀貞は目元に失望を浮かべた。
柴田勝家の顎には怒りが宿った。
佐久間信盛は、すぐに顔を戻した。ああいう男は、驚いた時ほど早く表情を隠す。
信勝は傷ついていた。
その顔を見て、帰蝶は少しだけ胸が痛んだ。
あれは、父を汚された息子の顔だった。
そして信長は。
信長だけが、場のすべてを見ていた。
父の位牌を見ていた。
だが、それだけではない。
家臣の顔。
僧の乱れた声。
信勝の傷ついた目。
平手政秀の絶望。
自分に向けられる軽蔑。
それらすべてを、抹香を投げた直後の一瞬で見ていた。
帰蝶は、そこに引っかかった。
衝動だけで動いた者の目ではなかった。
もちろん、すべてが計算だったとも思えない。
あの場にあった信長の感情は、もっと荒かった。
悲しみ。
怒り。
苛立ち。
父への甘え。
家臣への反発。
自分が形に押し込められることへの嫌悪。
それらが混ざって、抹香を投げさせた。
けれど、その直後に信長は見た。
あまりにも冷静に。
自分が壊した場から、何が露わになるのかを。
帰蝶は思った。
あの人は、壊したかったのではない。
見たかったのだ。
葬儀が終わってからも、城の空気は落ち着かなかった。
むしろ、葬儀の前より悪くなった。
表面は喪に沈んでいる。
だが、下では水が濁っている。
廊下を歩けば、女中たちの声が聞こえる。
「若様は、やはり……」
「平手様のお顔を見ましたか」
「勘十郎様なら、あのようなことは」
声は帰蝶に気づくと途切れる。
皆、慌てて頭を下げる。
帰蝶は何も言わずに通り過ぎた。
嫁いできたばかりの美濃の姫。
そう見られていることは分かっている。
尾張の者たちは、帰蝶をまだ織田の内側の人間として見ていない。
当然だ。
帰蝶自身も、自分がどこまで織田の者なのか、まだ測りかねている。
夫は信長。
だが、夫婦というには、二人の間にはまだ距離があった。
信長は帰蝶を美濃の蝮の娘として見ている。
帰蝶もまた、信長を尾張のうつけとして見ている。
ただし、それだけで終わらせる気はなかった。
その日の夕刻、帰蝶は庭に面した廊下で信長を見つけた。
信長は一人だった。
喪の衣のまま、縁側に腰を下ろし、庭を見ている。
だらしない座り方ではない。
かといって、作法通りでもない。
片膝を立て、腕をそこに乗せ、遠くの木々を見ている。
風が吹くたび、庭の葉が揺れた。
信長の目は、その葉を追っているようで、別のものを見ているようでもあった。
帰蝶は少し離れたところで足を止めた。
近づくべきか迷った。
この男は、何を言えばどんな反応をするか分からない。
しかし、分からないままでは困る。
父は言っていた。
分からぬ相手ほど、近くで見ろ。
遠くから見て分かった気になるな、と。
「いつまで、そこにいる」
信長が庭を見たまま言った。
帰蝶は眉を動かした。
気づかれていた。
「気づいておいででしたか」
「足音が軽い。尾張の女中ではない」
「美濃の女は足音が違いますか」
「育った場所が違えば、歩き方も違う」
信長は振り返らなかった。
帰蝶は近づき、少し距離を空けて座った。
「葬儀の後に、庭見物ですか」
「見物ではない」
「では、何を」
「風を見ている」
帰蝶は黙った。
何を言っているのか。
そう思ったが、口にはしなかった。
信長は続けた。
「木の葉は風が吹けば揺れる。だが、どの葉が先に揺れるか見ていれば、風の通り道が分かる」
「人も同じだと?」
「そうだ」
即答だった。
帰蝶は信長の横顔を見た。
葬儀の場で抹香を投げた男と、今ここで風の通り道を見ている男が同じ人物とは思えなかった。
いや。
同じだからこそ、厄介なのだ。
「今日、あなたは多くの葉を揺らしました」
「よく揺れたな」
「わざとですか」
信長は少しだけ口元を歪めた。
「そう言えば、賢そうに見えるか」
「では、違うのですか」
「違うと言えば、愚かに見えるか」
「質問に質問で返すのは、逃げている時です」
信長が初めて帰蝶を見た。
目が鋭い。
怒ったのではない。
むしろ、少し面白がっているように見えた。
「蝮の娘は、言うことがきつい」
「うつけの妻ですから」
「俺をうつけと思うか」
「分かりません」
信長は目を細めた。
「分からぬ、か」
「はい。分からないものを、分かったふりはしません」
「それはよい」
「よいのですか」
「分かったふりをする者が一番危うい」
帰蝶は、父の言葉を思い出した。
血は違う。
育った国も違う。
だが、この男の言葉には時々、父と似た臭いがある。
人を信じていない者の言葉。
それでいて、人を見ずにはいられない者の言葉。
「あなたは、なぜ抹香を投げたのですか」
帰蝶はまっすぐ聞いた。
遠回しに聞いても、この男ははぐらかすだけだと思った。
信長は庭へ視線を戻した。
「父上に挨拶した」
「その答えでは、平手様が泣きます」
「もう泣きそうな顔をしていた」
「泣かせたいのですか」
「泣かせたくはない」
信長の声は、意外に静かだった。
「だが、泣かせぬために俺が形に入れば、爺は安心する。その安心が、いずれ爺を殺すかもしれん」
「どういう意味です」
「爺は俺に、父上の後継ぎらしくあれと言う」
「それは当然でしょう」
「当然だ。だが、父上の後継ぎらしい俺など、父上の小さな写しにすぎぬ」
信長は自分の手を見た。
指先に、まだかすかに抹香の匂いが残っているのかもしれない。
「父上の真似では、父上を超えられぬ。超えられぬどころか、父上が残したものも守れぬ」
「だから、葬儀であのようなことを?」
「半分はな」
「残り半分は」
信長は答えなかった。
風が吹いた。
庭の葉が揺れる。
帰蝶は待った。
待つことには慣れている。
美濃では、言葉より沈黙の方が多くを語る場面がいくらでもあった。
やがて信長が言った。
「腹が立った」
帰蝶は少し驚いた。
あまりにも率直だった。
「誰に」
「皆に。父上に。俺に」
「お父上にも?」
「勝手に死んだ」
その言葉は乱暴だった。
しかし、帰蝶は責めなかった。
乱暴な言葉の奥に、幼い悲しみが見えたからだ。
「死ぬ前に、俺に背負えと言った。見ろ、決めろ、背負えと。父上は言うだけ言って死んだ。俺はまだ、何も決められておらぬのに」
信長の声は低かった。
「葬儀の場で、皆が俺を見ていた。俺が泣くか、礼を守るか、勘十郎と比べてどうか。父上の死さえ、俺を測る秤になっていた」
帰蝶は黙って聞いた。
「ならば、秤を壊してやろうと思った」
「それで、抹香を?」
「そうだ」
「子供の癇癪にも聞こえます」
「半分はそうだ」
また半分。
この男は、自分を飾らない。
いや、飾る時は飾る。
正徳寺で蝮と会えば、おそらく見事に飾るだろう。
だが、今は飾らない。
飾らないことを選んでいる。
「もう半分は、計算ですか」
「計算というほど美しくない」
「では」
「見たかった」
帰蝶の胸に、葬儀の場で思ったことが戻ってきた。
やはり。
「あの場にいる者たちが、俺の抹香一つでどんな顔をするか。誰が怒るか。誰が呆れるか。誰が安心するか。誰が勘十郎を見るか。誰が俺を見続けるか」
信長は淡々と言った。
「よく見えた」
「そのために、お父上の葬儀を乱したのですか」
「父上なら怒るだろうな」
「そう思うなら」
「だが、父上なら見ろとも言う」
帰蝶は返す言葉を失った。
都合のよい解釈かもしれない。
父の言葉を、自分に都合よく使っているだけかもしれない。
けれど、信長の中ではそれが嘘ではないのだと分かった。
この男は、自分でも割り切れない感情を抱えたまま、それでも何かを見ようとしている。
だから危うい。
そして、だから目が離せない。
「家中は揺れます」
「もう揺れている」
「勘十郎様を担ぐ者も増えるでしょう」
「増えるだろうな」
「よろしいのですか」
「よくはない」
「ならば、なぜ止めないのです」
「止められるなら、とっくに止めている」
信長は苦く笑った。
初めて、年相応の顔に見えた。
「人の心は、関所のようには閉じられぬ」
「では、どうなさるのです」
「流れを見る」
「また、見るのですね」
「見る前に斬れば、余計な血が流れる。見すぎれば、こちらが斬られる」
「難しいことを」
「簡単なら、誰かがとっくにやっている」
帰蝶は、その言葉に妙な重みを感じた。
信長は最初から天下を語っているのではない。
大きな夢を美しく掲げているわけでもない。
目の前の面倒を見ている。
家中の割れ目。
町の詰まり。
道の流れ。
米と銭。
父の死。
弟の存在。
そして、自分自身の危うさ。
それらを見て、見すぎて、時に耐えきれず壊す。
信長は魔王ではない。
少なくとも今は。
革命児という言葉も似合わない。
もっと泥臭い。
もっと未完成だ。
ただ、他の者が見ないところを見ている。
それだけは確かだった。
「あなたは、尾張をどうしたいのです」
帰蝶は問うた。
信長はすぐには答えなかった。
庭を見たまま、しばらく黙る。
やがて言った。
「まず、飢えぬようにする」
帰蝶は瞬きをした。
「……飢えぬように?」
「ああ」
「もっと大きなことをおっしゃるのかと思いました」
「大きいことだ」
信長は帰蝶を見た。
「兵が飢えれば盗む。百姓が飢えれば逃げる。商人が怯えれば道が死ぬ。道が死ねば、国が死ぬ」
その言葉は、静かだった。
しかし、葬儀の場で抹香を投げた時よりも、帰蝶の胸に深く残った。
「父上は強かった。だが、強い男がいるだけでは国は保たぬ。強い男が死ねば、皆が不安になる。今の尾張がそうだ」
「だから、人が飢えぬ仕組みを作ると?」
「作れるかは分からぬ」
「分からないことばかりですね」
「分かっているふりをするよりはよい」
信長はそう言って、立ち上がった。
「どちらへ」
「町へ」
帰蝶は思わず眉を寄せた。
「今日、葬儀の日ですよ」
「だからだ」
「平手様が倒れます」
「爺はしぶとい」
「そういう問題ではありません」
信長は少し笑った。
「父上が死んだ。町は必ず動く」
「町が?」
「商人は不安になる。米を隠す者が出る。銭を貸す者は利を上げる。道で余計な銭を取る者も増える。城の中で喪に沈んでいる間に、外ではもう次の損得が始まっている」
帰蝶は言葉を失った。
葬儀の日に町へ出る。
それだけ聞けば、やはりうつけだ。
しかし、理由を聞けば違って聞こえる。
いや、違う。
理由があれば何をしてもよいわけではない。
けれど、この男は少なくとも、ただ退屈だから外へ出るわけではない。
「あなたは、悲しくないのですか」
帰蝶の口から、思わず言葉が出た。
信長の足が止まった。
背中だけが見える。
しばらく沈黙があった。
「悲しい」
低い声だった。
「だが、悲しんでいる間にも腹は減る」
帰蝶は息を呑んだ。
それは、父を失った息子の言葉であり、国を背負わされかけている若者の言葉でもあった。
信長は振り返らなかった。
「父上に、食えと言われた」
「最後に?」
「ああ」
「ならば、食べればよろしいのでは」
「食うためには、米がいる。米を動かすには道がいる。道を守るには人がいる。人を動かすには、不安を見ねばならぬ」
「あなたの話は、すぐ国の話になりますね」
「国とは、腹の集まりだ」
帰蝶は思わず小さく笑った。
不謹慎だと思った。
だが、笑ってしまった。
信長がようやく振り返る。
「何がおかしい」
「いえ。美しい姫君に聞かせる言葉ではないと思いまして」
「美しい姫君は、腹が減らぬのか」
「減ります」
「ならば同じだ」
信長はそう言って、また歩き出した。
帰蝶はその背を見送った。
止めるべきか。
止めれば、妻らしいだろう。
葬儀の日に町へ出る夫をたしなめる。
それは正しい。
しかし、帰蝶は止めなかった。
止めれば、この男が何を見るのか見損なう気がした。
しばらくして、廊下の向こうから平手政秀の声が聞こえた。
「若! どちらへ行かれるのです!」
「町だ」
「今日という日に!」
「今日だからだ」
「若!」
怒声と足音が遠ざかっていく。
帰蝶は一人、縁側に残された。
庭の葉がまた揺れた。
風の通り道。
信長はそう言った。
帰蝶は庭を見た。
たしかに、葉は一斉には揺れない。
まず端の細い枝が揺れ、次に奥の低い木が揺れ、それから庭全体に風が広がる。
人も同じ。
城も同じ。
国も同じ。
父・道三なら何と言うだろう。
帰蝶はふと考えた。
あれはうつけではない、と笑うだろうか。
それとも、うつけであることまで使おうとする厄介な男だ、と目を細めるだろうか。
おそらく、後者だ。
帰蝶は立ち上がった。
自室へ戻ろうとした時、廊下の陰に人の気配があった。
若い女中が慌てて頭を下げる。
「申し訳ございません、奥方様」
「何か聞きましたか」
「い、いえ、何も」
嘘が下手だった。
帰蝶は責めなかった。
「なら、今聞いたことも何もなかったことにしなさい」
「はい」
「ただし、もし誰かに話すなら、こう言いなさい」
女中はびくりと肩を震わせた。
「若様は、葬儀の後に町を見に行かれた。泣かなかったのではない。泣く暇を、自分に許さなかったのだ、と」
女中は驚いた顔で帰蝶を見た。
帰蝶は淡く微笑んだ。
「人は噂を止められません。ならば、流れる向きくらいは変えられます」
「奥方様……」
「行きなさい」
女中は深く頭を下げ、去っていった。
帰蝶は一人、廊下に立つ。
自分がなぜそんなことを言ったのか、少し考えた。
信長を庇ったのか。
織田家の混乱を抑えようとしたのか。
それとも、あの男をもう少し近くで見てみたくなったのか。
答えは出なかった。
分からないものを、分かったふりはしない。
自分で言った言葉を、帰蝶は胸の内で繰り返した。
信長は、うつけなのかもしれない。
けれど、ただのうつけではない。
葬儀で抹香を投げ、家臣を怒らせ、弟を傷つけ、傅役を絶望させ、それでも町へ出ようとする男。
父の死を悼むより先に、米と道と人の不安を見ようとする男。
そんな男が織田家を継げば、尾張は荒れる。
間違いなく荒れる。
だが。
荒れた先に、何かが変わるかもしれない。
帰蝶は庭の向こうを見た。
空は曇っている。
雨はまだ降らない。
中途半端な空の下で、尾張の風だけが少しずつ向きを変えていた。




