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『うつけと呼ばれた俺は、天下を壊したかったわけではない ――織田信長、乱世を組み直す』魔王ではない。 革命児でもない。 ただ、乱れた世を放っておけなかった。  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第3話 葬儀の日、俺は抹香を投げた

 父上が死んだ翌朝、城は妙に静かだった。


 泣き声がないわけではない。


 廊下の陰で袖を濡らす女中もいた。


 庭の隅で、声を押し殺している下男もいた。


 若い小姓などは、目を真っ赤にしていた。


 だが、城全体は静かだった。


 静かすぎた。


 人が本当に悲しんでいる時の静けさではない。


 誰もが、次の音を待っている静けさだった。


 父上の死を悼む鐘の音ではない。


 次の主が誰なのか。


 誰が誰につくのか。


 誰の名が大きくなり、誰の席が遠ざかるのか。


 その音を、皆が待っている。


 人は死者の前では頭を垂れる。


 だが、頭を垂れながらでも目は動く。


 俺は、それを見ていた。


「若」


 部屋の外から、政秀の声がした。


「入れ」


 襖が開く。


 政秀はいつもより深く頭を下げた。


 父上が死んでから、この男の所作はさらに硬くなった。


 悲しみを形で押し込めている。


 形に入れておかねば、崩れてしまうのだろう。


「葬儀の支度、滞りなく進んでおります」


「そうか」


「若にも、喪主としてのお支度を」


「分かっている」


 そう答えたが、俺はまだ立ち上がらなかった。


 部屋の隅には、昨日町で買った干物の残りがあった。


 誰かが片づけようとして、俺が止めたものだ。


 塩の匂いが、かすかに残っている。


 父上の部屋で食った干物。


 あれが最後の食事になるとは思わなかった。


 いや、食事と呼べるようなものでもない。


 ただ、父上に「食え」と言われたから食った。


 それだけだ。


 それだけのことが、妙に胸に引っかかっている。


「若」


 政秀がもう一度呼んだ。


 小言の前の声だ。


 俺は干物から目を離した。


「何だ」


「本日は、決して軽率な真似をなさいませぬよう」


「葬儀で軽率な真似とは、どういうものだ」


「若」


「聞いただけだ」


「そのように、わざと人を試すようなお言葉もお控えください」


 政秀は苦々しい顔をした。


 この男は、俺が何かをやると決めている。


 まあ、長年見てきたのだから仕方ない。


 俺自身ですら、今日の自分が何をするのか分からないのだ。


「爺」


「はい」


「皆、俺を見るか」


「見ます」


 即答だった。


「父上を見るのではなく?」


「お屋形様を悼む場でございます」


「ならば父上を見るべきだ」


「死者は、もう動きませぬ」


 政秀の声がわずかに沈んだ。


「動く者を、人は見ます」


 なるほど。


 まったく、その通りだ。


 今日、父上は棺の中にいる。


 誰より大きかった男が、動かぬ姿で置かれる。


 そして俺は歩く。


 座る。


 頭を下げる。


 香をつまむ。


 涙を流すかもしれぬ。


 流さぬかもしれぬ。


 その一つ一つを、皆が見る。


 父を亡くした息子としてではない。


 織田信秀の後を継げる男かどうか。


 嫡男として正しいか。


 主としてふさわしいか。


 弟と比べてどうか。


 その目で見る。


「面倒だな」


「家を継ぐとは、そういうことです」


「父上も同じことを言った」


「お屋形様は正しいことをおっしゃいます」


「爺もたまには俺に正しいと言え」


「正しければ申し上げます」


「一度も聞いた覚えがない」


「では、まだ早うございます」


 俺は思わず笑った。


 政秀の眉がわずかに下がった。


 叱るべきか、安堵すべきか迷っている顔だった。


 笑いはすぐ消えた。


 腹の底には、昨夜から冷えた石のようなものが沈んでいる。


 父上が死んだ。


 何度思っても、まだ事実になりきらない。


 だが、城はもう動き始めている。


 父上が死んだ途端、父上抜きの織田家が始まっている。


「着替える」


 俺が言うと、政秀は小さく頷いた。


「はい」


「ただし、きれいにしすぎるな」


「若」


「父上の葬儀だ。飾り立てる気はない」


「喪主として乱れなきように、というだけです」


「乱れなき姿を見せれば、皆は安心するか」


「少なくとも、不安は減ります」


「不安を減らすのが、今日の俺の役目か」


 政秀は答えなかった。


 それが答えだった。


 俺は立ち上がった。


 衣を改める間、部屋の外は静かだった。


 小姓たちは手際よく動く。


 誰も無駄口を叩かない。


 いつもの俺なら、わざと何か言って困らせたかもしれない。


 今日は言わなかった。


 言えば、自分が軽くなる気がした。


 衣を整え、髪を結い直す。


 鏡に映った自分は、俺ではないように見えた。


 織田家の嫡男。


 喪主。


 父を失った若君。


 周りが欲しがる形に、少し近づいた俺。


 俺は鏡の中の自分をしばらく見た。


 悪くはない。


 悪くはないが、これを俺だと思われては困る。


 姿は使うものだ。


 だが、姿に使われるようになれば終わりだ。


「参ります」


 政秀が言った。


 俺は頷いた。


 廊下へ出る。


 城の者たちが道を開ける。


 昨日まで俺を見て眉をひそめていた者たちが、今日は深く頭を下げる。


 父が死んだからだ。


 俺が変わったからではない。


 人の頭の下がり方には、いくつも種類がある。


 敬う頭。


 恐れる頭。


 様子を見る頭。


 義理で下げる頭。


 今、俺に向けられている頭の多くは、様子を見る頭だった。


 まだ軽い。


 まだ浅い。


 だが、それでいい。


 深すぎる頭ほど、腹の底が見えにくい。


 広間を抜け、葬儀の場へ向かう。


 途中、勘十郎がいた。


 白い喪の衣をきちんとまとい、背筋を伸ばしている。


 目は少し赤い。


 泣いたのだろう。


 それでも顔立ちは崩れていない。


 父を悼む弟として、実によく整っている。


「兄上」


「勘十郎」


「お支度、整われたのですね」


「ああ」


 短く答える。


 勘十郎は俺の姿を見て、ほんの少し安堵したようだった。


 兄がまともな格好をしている。


 それだけで、弟を安心させるらしい。


「今日は、父上を静かにお送りしたく存じます」


「そうだな」


「家中も、不安の中におります。兄上が喪主として立派に務められれば、皆も安心いたしましょう」


 悪気はない。


 たぶん、本当にそう思っている。


 だから厄介だ。


 勘十郎は俺を責めているのではない。


 織田家のため、父上のため、家中のために、俺に「正しい形」を求めている。


 そして、その正しい形を一番自然にできるのは、俺ではなく勘十郎だ。


「お前は、そういうことを言うのがうまいな」


 俺が言うと、勘十郎は困ったように眉を寄せた。


「皮肉ですか」


「半分は褒めている」


「もう半分は?」


「聞かぬ方がよい」


 勘十郎は小さく息を吐いた。


 怒るかと思ったが、怒らなかった。


 昨日より、弟の顔が少し大人びて見える。


 父の死は、人を一晩で老けさせる。


「兄上」


「何だ」


「父上は、最後に何をおっしゃいましたか」


 俺は勘十郎を見た。


 言うべきか迷った。


 父上は、勘十郎を侮るなと言った。


 お前も、わしの子だと言った。


 人はお前を担ぐと言った。


 それをそのまま言えば、どうなる。


 弟は傷つくか。


 それとも、重荷を背負うか。


 どちらにせよ、今言うべきではない。


「腹を空かせた顔をするな、と」


 勘十郎は目を瞬かせた。


「父上が、そのようなことを?」


「ああ」


「……兄上らしい答えです」


「俺ではなく父上の言葉だ」


「本当に?」


「疑うのか」


「いえ。ただ、父上がそのようなことを兄上におっしゃるのは、少し分かる気もします」


「どういう意味だ」


「兄上は、昔から腹を空かせている時の方が顔が怖い」


 俺は少し驚いた。


 そんなことを弟に見られていたとは思わなかった。


 俺が黙ると、勘十郎はわずかに笑った。


 その笑みは、昔の弟のものだった。


 俺の後ろをついて回っていた頃の。


 泥だらけになって、母に叱られて、それでも俺の真似をしたがった頃の。


 胸が少し痛んだ。


「今日は食っている」


「それなら、よろしいです」


 それだけ言って、勘十郎は先に進んだ。


 俺はその背を見た。


 まっすぐな背だった。


 あの背に、多くの者が安心する。


 分かる。


 俺でも分かる。


 だからこそ、いずれ厄介になる。


 政秀が後ろから小声で言った。


「勘十郎様は、若を案じておられます」


「知っている」


「ならば」


「案じている者が、敵にならぬとは限らぬ」


 政秀は黙った。


 この男も分かっているのだ。


 分かっているが、口にしたくない。


 俺も口にしたくなかった。


 だが、言葉にしなかった危機は、なくなるわけではない。


 むしろ濃くなる。


 葬儀の場には、すでに多くの者が集まっていた。


 家臣。


 僧。


 一族。


 近隣の者。


 父上に恩ある者。


 父上に恐れを抱いた者。


 父上の死を心のどこかで喜んでいる者。


 皆、同じような顔をして座っている。


 人は喪の場では、よく似た顔になる。


 それが恐ろしい。


 同じ悲しみの顔の下に、違う思惑がいくつも潜んでいる。


 香の匂いが強かった。


 煙が細く上がっている。


 その奥に、父上の棺がある。


 織田信秀。


 尾張で名を轟かせた男。


 今は、静かだ。


 静かすぎる。


 俺は喪主の座に向かった。


 視線が集まる。


 昨日よりさらに多い。


 俺の衣を見ている。


 歩き方を見ている。


 顔を見ている。


 涙の跡があるか見ている。


 俺は座った。


 作法通りに。


 政秀がかすかに息を吐いた。


 安心したのだろう。


 俺も、やろうと思えばできる。


 礼を知らぬわけではない。


 形を覚えていないわけでもない。


 ただ、形だけで済むと思っていないだけだ。


 僧の読経が始まった。


 低い声が場を満たす。


 経の意味など、すべて分かるわけではない。


 ただ、その音は人を黙らせる。


 黙った人間の目は、なおさら動く。


 俺は正面を向いていた。


 だが、視界の端で見ていた。


 林秀貞。


 佐久間信盛。


 柴田勝家。


 丹羽長秀。


 政秀。


 勘十郎。


 そして、少し離れた場所に帰蝶。


 美濃の蝮の娘。


 彼女は泣いていなかった。


 無表情でもない。


 ただ、見ていた。


 俺を。


 父上ではなく、俺を。


 あの女は怖い。


 俺を「うつけ」と決めつけていない。


 かといって、理解した気にもなっていない。


 分からないものとして、分からないまま観察している。


 そういう目は、厄介だ。


 だが、嫌いではない。


 読経は続く。


 時間が伸びる。


 香の煙が揺れる。


 父上の顔が、棺の中にある。


 俺は父上を見た。


 動かない。


 当たり前だ。


 死んだのだから。


 それでも、まだどこかで思っている。


 このあと急に目を開けて、俺を叱るのではないか。


 三郎、座り方が悪い。


 三郎、顔が暗い。


 三郎、そんな目で家臣を見るな。


 三郎、腹は減っておらぬか。


 そんな声が聞こえるのではないか。


 聞こえない。


 父上は何も言わない。


 言わぬから、周りがうるさい。


 声に出してはいない。


 だが、俺には聞こえる。


 立派に務めろ。


 泣け。


 泣くな。


 悲しめ。


 崩れるな。


 勘十郎様の方が落ち着いている。


 若君は案外まともではないか。


 いや、あれは今日だけだ。


 父上ほどの器はない。


 織田はどうなる。


 誰につけばよい。


 誰を担げばよい。


 誰が勝つ。


 誰が。


 誰が。


 誰が。


 うるさい。


 俺は、父の葬儀に来ているのだ。


 お前たちの値踏みの場に来たのではない。


 そう思った瞬間、胸の奥の石が熱を持った。


 怒りではない。


 いや、怒りもある。


 だが、それだけではない。


 悲しみをどう置けばいいのか分からない。


 悔しさをどこへ向ければいいのか分からない。


 父上に言えなかったことがある。


 聞けなかったことがある。


 褒めてほしかったことがある。


 反発したかったことがある。


 認めたくなかったことがある。


 そのすべてが、俺の中で行き場をなくしている。


 そして周りは、俺に美しい喪主の形を求めている。


 父の前でさえ、形か。


 父の死さえ、形に入れるのか。


 ならば。


 俺は、香炉の前に進んだ。


 場の空気が変わる。


 いよいよ喪主の焼香だ。


 ここで俺がきちんと香をつまみ、静かに頭を下げれば、皆は安心する。


 織田三郎も、やればできるではないか。


 父の死を前にして、ようやく大人になったか。


 これなら、しばらく様子を見てもよい。


 そう思うだろう。


 思わせることもできた。


 俺は香をつまんだ。


 指先に、細かな抹香が触れる。


 香の匂いが濃くなる。


 父上。


 俺は、父上の顔を見た。


 昨日、言われた。


 笑われる己に酔えば、本物のうつけになる。


 見ろ。


 決めろ。


 背負え。


 必要なら、泣いても斬れ。


 腹の減った顔をするな。


 父上。


 俺は今、何をすべきですか。


 整った嫡男を演じるべきですか。


 泣くべきですか。


 祈るべきですか。


 家臣どもの望む形に収まるべきですか。


 答えはない。


 死者は答えない。


 だから、生きている者が決めるしかない。


 俺は香を、父上の位牌に向かって投げつけた。


 ぱん、と乾いた音がしたわけではない。


 抹香は軽い。


 ただ、白い粉が乱れ、香炉の周りに散った。


 けれど、場の空気は確かに割れた。


 誰かが息を呑んだ。


 誰かが小さく叫びかけて、飲み込んだ。


 僧の読経が一瞬乱れた。


 政秀が立ち上がりかけた気配がした。


 勘十郎の顔が凍りついた。


 帰蝶の目が、わずかに細くなった。


 俺は、そのすべてを見た。


 ああ。


 よく見える。


 今まで喪の顔で隠れていたものが、一瞬で出た。


 失望。


 怒り。


 恐怖。


 軽蔑。


 興味。


 計算。


 安堵すらあった。


 安堵?


 そうだ。


 俺が奇行をすれば、安心する者がいる。


 やはり信長はうつけだ。


 ならば担ぐべきは勘十郎だ。


 そう決められるからだ。


 人は、分からぬものより、愚かだと決めつけられるものを好む。


 俺は振り返らず、父上の前に立った。


「父上」


 声が出た。


 低く、かすれていた。


「先に行かれたか」


 場がさらに静まる。


「ならば、俺は後から参ります」


 俺は父上の位牌を見た。


「ただし、まだ先です」


 誰も動かない。


 俺は続けた。


「この尾張を、まだ見終えておりませぬので」


 それだけ言って、俺は踵を返した。


 作法など知らぬという顔で、場を出る。


 本当は知っている。


 知っていて、破った。


 背中に視線が突き刺さる。


 怒り。


 戸惑い。


 軽蔑。


 恐れ。


 期待。


 ああ、実によく分かる。


 さきほどまで皆、同じ喪の顔をしていた。


 今は違う。


 顔が割れた。


 家中のひびが、少し見えた。


 それでよい。


 父上。


 俺は、うつけでいるなら最後までうつけでいろと言われました。


 ならば見ていてください。


 俺は、うつけのまま始めます。


 葬儀の場を出ると、廊下の空気は冷たかった。


 外から風が入っている。


 俺は足を止めなかった。


 後ろから、政秀の足音が追ってくる。


 いつもより荒い。


「若!」


 呼び止める声。


 俺は止まった。


 振り返る。


 政秀の顔は、見たことがないほど青ざめていた。


 怒りではない。


 絶望だ。


「なぜ、あのようなことを」


「父上に挨拶した」


「挨拶ですと!」


 政秀の声が震えた。


 廊下の端にいた小姓が身を縮める。


「葬儀の場でございます! お屋形様の御前でございます! 家中一同が見ておりました! あれでは、あれでは……」


「うつけか」


 俺が言うと、政秀は言葉を失った。


「皆、そう思っただろうな」


「若……」


「爺もそう思ったか」


 政秀は答えなかった。


 答えないのが答えだった。


 俺は、少しだけ笑った。


 笑いたかったわけではない。


 笑わねば、別のものが出そうだった。


「父上は俺に、笑われる己に酔うなと言った」


「ならば、なぜ」


「酔っているかどうか、試した」


「誰を」


「俺を」


 政秀は目を見開いた。


 俺は廊下の外を見た。


 庭の木が揺れている。


 葉の音が乾いている。


「俺は、きれいな喪主になれた。お前の望む通り、家中の望む通り、父上の前で頭を下げ、涙の一つでも落とせた」


「それが務めです」


「そうだな」


「ならば」


「だが、それをした俺を見て、皆は何を思う」


「若が成長なされたと」


「違う」


 俺は政秀を見た。


「ようやく扱いやすくなった、と思う」


 政秀の顔が固まった。


「人は、形に入った者を扱いやすいと思う。嫡男らしくなった若君。父の死で改心したうつけ。そう思えば、次はその形を使って俺を縛る」


「それの何が悪いのです。形は人を支えるものです」


「支える形と、縛る形は似ている」


 政秀は唇を噛んだ。


 怒っている。


 悲しんでいる。


 俺も、少し苦しい。


 この男にこんな顔をさせたいわけではない。


 だが、ここで折れれば、俺はたぶん一生、折れた形で使われる。


「若は、皆を敵に回されたいのですか」


「違う」


「ならばなぜ、わざわざ人の心を遠ざけるのです」


「遠ざかる者を見たかった」


「人の心を試すなど」


「試されているのは俺だ」


 俺の声が、思ったより強く出た。


「父上が死んだ。皆が俺を見る。泣くか。泣かぬか。礼を守るか。崩れるか。弟と比べ、父と比べ、己の得と比べる。俺は最初から試されている」


「それでも、応えるのが主です」


「何に応える」


 俺は一歩、政秀に近づいた。


「家臣の安心にか。古い作法にか。父上の影にか。勘十郎の整った姿にか。俺は誰のための主になる」


 政秀は黙った。


 俺は続けた。


「父上のためなら、俺は父上の前で俺のままでいる。家臣のためなら、俺は家臣に顔色を見せぬ。尾張のためなら、俺は尾張が生き残る形を探す。たとえ嫌われてもだ」


「嫌われて、国は治まりませぬ」


「好かれるだけでも治まらぬ」


 廊下に沈黙が落ちた。


 政秀の肩が、小さく震えている。


 この男は、俺を守ろうとしている。


 分かっている。


 分かっているから、苦しい。


「爺」


 俺は少し声を落とした。


「俺が間違っていると思うか」


 政秀はすぐには答えなかった。


 長い沈黙の後、かすれた声で言った。


「思います」


「そうか」


「ですが」


 政秀は顔を上げた。


 目が赤かった。


「若が何を見ておられるのか、分からなくなる時がございます」


「俺にも分からぬ時がある」


「それでは困ります」


「俺も困っている」


 政秀は、今度こそ本当に怒った顔をした。


 だが、その怒りの奥に、どうしようもない悲しみがあった。


「若。今日のことは、必ず尾を引きます」


「分かっている」


「家中は、さらに揺れます」


「分かっている」


「勘十郎様を担ごうとする者も増えましょう」


「分かっている」


「ならば、なぜ」


 またその問いだ。


 俺は答えなかった。


 答えをすべて言えば、嘘になる気がした。


 なぜ抹香を投げたのか。


 父上への怒りか。


 悲しみか。


 家臣への反発か。


 自分を侮らせるためか。


 形に入れられることへの恐怖か。


 それとも、ただ俺が本当にうつけだからか。


 たぶん、すべてだ。


 人の行動に、理由が一つだけということは少ない。


 一つの理由で動く人間は、美しい。


 だが、美しすぎる人間は嘘くさい。


 俺はそんなに美しくない。


「爺」


「はい」


「葬儀は続けろ」


「……若は」


「俺は少し風に当たる」


「今、戻られねば」


「戻れば、皆はまた俺を見る。父上ではなく」


 政秀は何も言えなかった。


 俺は廊下の外へ向かった。


 庭に出ると、空は曇っていた。


 雨は降っていない。


 降るなら降ればいいものを。


 中途半端な空だった。


 俺は庭石の上に座った。


 喪の衣が汚れる。


 どうでもよかった。


 遠くで読経が再び整っていく。


 僧は偉い。


 何が起きても経に戻る。


 武士より、よほど肝が据わっている。


「父上」


 声に出す。


 返事はない。


「俺は、間違えましたか」


 返事はない。


 当たり前だ。


 死者に聞いても答えはない。


 だが、人は死者に問う。


 答えが返ってこないと分かっていても問う。


 なぜなら、生きている者に問えば、たいてい都合のよい答えしか返ってこないからだ。


 俺は膝の上で手を開いた。


 指先に、まだ抹香の匂いが残っている。


 父上に投げた香。


 いや、父上にではない。


 父上を見ている者たちに投げたのかもしれない。


 俺自身に投げたのかもしれない。


 白い粉が散った瞬間、皆の顔が変わった。


 あれで、いくつか分かった。


 林秀貞は失望を隠さなかった。


 佐久間信盛は眉を動かしたが、すぐ顔を戻した。


 柴田勝家は怒った。


 あの怒りは本物だ。


 主君の葬儀を汚された怒り。


 そういう男は、嫌いではない。


 勘十郎は傷ついた。


 俺ではなく、父上を傷つけられたような顔をした。


 帰蝶は、見ていた。


 あの女だけは、判断を保留した。


 つまり、敵味方はまだ定まらない。


 それでいい。


 定まりきった盤面は、動かしにくい。


「若様」


 声がした。


 振り向くと、丹羽長秀が控えていた。


 まだ若いが、落ち着いた男だ。


 派手さはない。


 声も大きくない。


 だが、こういう場で近づいてくる胆はある。


「何だ、長秀」


「平手様より、若様をお探しするようにと」


「見つけたな」


「はい」


「連れ戻すか」


「それが務めなら」


「お前の務めは何だ」


 長秀は少し考えた。


 すぐに答えないところがよい。


「今は、葬儀を乱さぬことかと」


「俺を戻せば乱れるぞ」


「戻られぬ方が、さらに乱れます」


「正しい」


 俺は立ち上がった。


 衣の裾についた土を払う。


 完全には落ちない。


 長秀がそれを見て、何も言わなかった。


 言わないのも才だ。


「長秀」


「はい」


「お前は、俺がうつけだと思うか」


 長秀はまた少し考えた。


「分かりませぬ」


「正直だな」


「分からぬものを分かったと言うのは、危ういので」


 俺は長秀を見た。


 地味な顔をして、面白いことを言う。


「ならば、そのまま分からぬと思っておけ」


「はい」


「その方が、よく見える」


 長秀は深く頭を下げた。


 俺は葬儀の場へ戻るために歩き出した。


 戻れば、また視線が集まるだろう。


 抹香を投げたうつけ。


 父の葬儀を乱した嫡男。


 織田家を危うくする若君。


 好きに言えばいい。


 だが、見ていろ。


 俺も、お前たちを見ている。


 父上の葬儀の日。


 俺は抹香を投げた。


 この日から、俺のうつけという名は、ただの噂ではなくなった。


 家中の不安になった。


 弟を担ぐ者たちの口実になった。


 政秀の胸に刺さる棘になった。


 帰蝶の目に宿る疑問になった。


 そして俺自身にとっては。


 父の影から、一歩外へ出るための、最初の傷になった。


 傷は痛む。


 だが、痛むから分かる。


 俺はまだ、生きている。


 父上は死んだ。


 ならば、この先は俺が決める。

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