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第38話 岡崎という名

 岡崎。


 地図の上では、小さな字だった。


 三河の中にある一つの城。


 松平の名と結びついた場所。


 今川の影が伸びる道の途中にある、厄介な点。


 だが、その小さな字を地図へ書き込んだだけで、部屋の空気は少し変わった。


 清洲。


 那古野。


 熱田。


 守山。


 そこまでは、まだ尾張の話だった。


 もちろん清洲は面倒だ。


 熱田も軽く見られない。


 守山道の泥ですら、政に絡む。


 だが、尾張の内側であれば、まだ俺の手が届く。


 届きにくくても、届かせる方法を探せる。


 岡崎は違う。


 そこは、こちらの手が届かない場所だ。


 しかし、目を逸らせない場所でもあった。


「若様」


 長秀が地図を覗き込みながら言った。


「岡崎の名を帳面に入れますか」


「入れる」


「どの扱いで」


「まだ敵ではない」


「味方でもない」


「そうだ」


 長秀は少し考え、帳面の端に小さく書いた。


 ――岡崎。松平。今川の内にあり。尾張への道を測る点。


「点、ですか」


 信勝が横から言った。


「今は点だ」


 俺は答えた。


「線ではなく?」


「線にしたら、こちらが動いたことになる」


「なるほど」


 信勝は静かに頷いた。


 このあたりの言葉の置き方を、弟は以前よりずっと慎重に見るようになった。


 名を置くとは、ただ書くことではない。


 それは、こちらがどう見るかを決めることでもある。


 岡崎を敵と書けば、そこへ向かう心が生まれる。


 岡崎を味方と書けば、甘い期待が生まれる。


 今はどちらも早い。


 点。


 それくらいがいい。


「松平の若君は、今川の中にいるのですね」


 信勝が言った。


「人質としてな」


「人質でありながら、三河の名を背負っている」


「ああ」


 信勝は少し目を伏せた。


 何かを考えている顔だった。


「私とは、違いますね」


「違う」


 俺はすぐ答えた。


「だが、似ているところもある」


「名を、他人に使われるところですか」


「そうだ」


 信勝は黙った。


 人質。


 言葉にすれば一つだ。


 だが、その中身は重い。


 松平の名を持つ若い男が、今川の家中にいる。


 三河の者たちは、その名をどう見ているのか。


 今川は、その名をどう使っているのか。


 松平本人は、自分の名をどう持っているのか。


 それが分からない。


 分からないものは、見なければならない。


 ただし、見ようとして目を近づけすぎると、こちらの目玉を突かれる。


「仁助から続きの報せは」


 俺が聞くと、長秀が帳面をめくった。


「境近くの宿で、岡崎の名を口にした若い侍についてです。名はまだ不明。ただ、松平家の旧臣筋に近い者ではないかと」


「旧臣筋」


「はい。今川に従いつつも、松平の名を忘れていない者たちです」


「その若い侍は何を聞いていた」


「尾張の兄弟仲、柴田殿の立場、清洲の道、熱田の火。それから……」


 長秀が少し言葉を切った。


「それから何だ」


「信長様は、松平をどう見ているのか、と」


 部屋が静まった。


 俺は少しだけ笑った。


「面白い」


 信勝がこちらを見る。


「面白い、ですか」


「ああ。向こうもこちらを点として見始めた」


「松平の側が?」


「あるいは、松平の周りが」


 今川の目だけではない。


 三河の松平に近い者も、尾張を見ている。


 信長は松平をどう見るのか。


 その問いは、ただの情報集めではない。


 自分たちがどう見られているかを気にする者の問いだ。


 人は、まったく関係ない相手に自分がどう見られているかなど聞かない。


 見られ方を気にする時、そこには何かがある。


 恐れか。


 期待か。


 警戒か。


 まだ分からない。


「若様は、どう見ているのですか」


 佐久間が聞いた。


 俺は地図の岡崎を見た。


「今川の手の中にある、三河の名」


「それをそのまま返すのですか」


「いや」


「では」


「まだ見ている、とだけ返す」


 長秀が筆を止めた。


「曖昧ですね」


「今は曖昧でいい。相手も曖昧なのだから」


 はっきり言いすぎると、道が一つに決まる。


 まだ道を決める時ではない。


 岡崎へ文を出すわけでもない。


 松平へ手を伸ばすわけでもない。


 ただ、向こうがこちらを見ていることに気づいた。


 こちらも見ている。


 それを、道の上に薄く置く。


「仁助に言わせる」


「何と」


「尾張の若様は、岡崎の名を知らぬふりはしていない。だが、軽々しく口にも出していない、と」


 長秀が少し考え、頷いた。


「よいと思います」


「かなりか」


「かなり」


「お前、本当にその言い方が馴染んだな」


「諦めました」


 信勝が少し笑った。


 この場で笑えるようになっただけでも、変わったものだ。


 だが、笑いの下に緊張はある。


 三河。


 岡崎。


 松平。


 今川。


 これは尾張の内輪ではない。


 一つ間違えれば、外の大きな力が動く。


 その日の午後、俺は柴田の兵の訓練を見に行った。


 岡崎の名を聞いた後で兵を見る。


 順番としては自然だった。


 道を見て、火を見て、名を見て、次は兵だ。


 柴田は、稲生で敵味方に分かれた兵たちを混ぜて組ませていた。


 まだぎこちなさは残る。


 だが、最初の頃ほどではない。


 隣の男が以前どちら側にいたかを気にする目は、少し薄れた。


 代わりに、柴田の怒号を気にする目が増えた。


 それはそれでよい。


「柴田」


「はっ」


「岡崎の名が出た」


 柴田の顔が変わる。


 やはり、この男は外敵の気配に敏い。


「松平でございますか」


「ああ。今川の目と一緒に、松平に近い者の目も尾張を見ているらしい」


「今すぐどうこうではありませんな」


「そうだ」


「ですが、いずれ火種になる」


「あるいは、道になる」


 柴田は俺を見た。


「道、でございますか」


「敵が来る道でもあり、相手を見る道でもある」


「若君は、何でも道で見られる」


「最近そうなった」


「悪くございません」


 柴田は訓練場へ目を戻した。


「あの者たちにも、いずれ三河を見せねばなりませんか」


「今は尾張を見るだけで手一杯だ」


「されど、兵は外を見せぬと内で腐ります」


 柴田らしい言葉だった。


 そして正しい。


 内ばかり見ている兵は、いずれ内へ刃を向ける。


 外敵を意識させることは、内の傷を薄めることにもなる。


 だが、外敵を強く見せすぎれば、焦りが生まれる。


 また線引きだ。


「三河とは言うな」


 俺は言った。


「今川とも、まだ言わぬ」


「では」


「外の敵に備える、と言え」


 柴田は頷いた。


「承知」


「ただし、兵糧の動きも合わせる。槍だけ鍛えても、米がなければ動けぬ」


「丹羽殿の帳面ですな」


「そうだ」


「帳面様は、兵にも効きますな」


 柴田が真顔で言うので、俺は少し笑った。


 長秀がここにいなくてよかった。


 いたら、また嫌な顔をしただろう。


 城へ戻ると、帰蝶が待っていた。


 珍しく、飯の話をする前に地図を見た。


「岡崎ですか」


「もう聞いたか」


「廊下が」


「耳を持つのだろう」


「はい」


 帰蝶は地図の上の小さな字を見た。


「小さく書かれましたね」


「大きく書くには早い」


「よいと思います」


「かなりか」


「かなり」


 最近、俺の周りはこの言い方に染まりすぎている。


 原因は俺なのかもしれない。


 認めたくはない。


「松平の若君を、どう見ますか」


 帰蝶が聞いた。


「まだ見えない」


「見えないものを、どう扱いますか」


「点にする」


「線にはしない」


「ああ」


 帰蝶は少しだけ目元を緩めた。


「父なら、点を打った時点で周囲の線を探します」


「俺も探している」


「でしょうね」


「松平につながる線は、今川、三河の旧臣、岡崎、寺、商人、旅僧。多すぎる」


「そして、織田との昔の縁も」


「竹千代のことか」


「はい」


 竹千代。


 俺はその名を、あえて口にしないようにしていた。


 幼い松平竹千代が、織田へ来かけた過去。


 人質の行き先が変わったこと。


 そして今、今川の下で成長していること。


 その名を出せば、昔の糸が動く。


 今はまだ、糸を引く時ではない。


「帰蝶」


「はい」


「竹千代の名は、今は出さぬ」


「分かりました」


「松平元康とも、まだ書かぬ」


「では、岡崎」


「岡崎だ」


 地名なら、人を直接刺激しにくい。


 だが、分かる者には分かる。


 岡崎という名の奥に松平がいる。


 松平の奥に今川がいる。


 今川の奥に、いずれ尾張へ来る大きな影がいる。


「食事を」


 帰蝶が言った。


「ここで?」


「岡崎を見ても、腹は空きます」


「それはそうだ」


「考え事は、食べてからでも続きます」


「むしろ続くのが困る」


「では、食べてください」


 結局、食べた。


 最近、飯を食うことまで政の一部になっている気がする。


 いや、前からそうだったのかもしれない。


 俺が気づいていなかっただけで。


 その夜、仁助に伝える言葉を整えた。


 直接の文にはしない。


 口で流す。


 尾張の若様は、岡崎の名を知らぬふりはしていない。


 だが、軽々しく口にも出していない。


 この言葉は、微妙だ。


 言う相手によっては、脅しにも期待にもなる。


 だから仁助に言わせる。


 馬借の言葉なら、武家の文より柔らかく、商人の噂より少し重い。


「若様」


 仁助はそれを聞いて頭をかいた。


「また難しいことを道に流せと」


「できぬか」


「できますけどね。道の噂は、軽すぎても重すぎても転びます」


「分かっているじゃないか」


「最近、若様のせいで考えることが増えました」


「よいことだ」


「俺にとっては微妙です」


 仁助も長秀みたいなことを言うようになった。


 よくない。


 いや、使える。


「それから」


 俺は続けた。


「岡崎の名を聞いた者が、どういう顔をしたかも見ろ」


「顔ですか」


「顔だ」


「若様の周り、顔を見るの好きですね」


「うつった」


「誰から?」


「帰蝶だ」


 仁助は笑った。


 道の者は、人の顔を見て生きている。


 荷主が急いでいるのか、嘘をついているのか、銭を渋るのか、危ない荷を運ばせようとしているのか。


 顔で見る。


 ならば、仁助は向いている。


 数日後、仁助は戻ってきた。


 早かった。


 尾張の境近くまで行き、そこで三河から来る者たちに噂を落としてきたらしい。


「若様」


「どうだった」


「岡崎の名を出すと、三河の者は顔が固くなります」


「それだけか」


「今川の名より、岡崎の名の方が固くなる者がいます」


「松平の者か」


「たぶん、心だけは」


 心だけは。


 よい言い方だ。


 三河の中には、今川に従いながらも松平の名を捨てていない者がいる。


 それが見えた。


「俺の言葉は流したか」


「流しました。尾張の若様は岡崎を軽く見てはいない、と」


「少し違うな」


「道では、それくらいに変わります」


「まあいい」


「それを聞いた薬売りが、一言だけ言いました」


「何と」


「岡崎も、尾張を軽くは見ていない、と」


 部屋が静かになった。


 仁助は続けた。


「その薬売り、たぶんただの薬売りじゃありません」


「どこへ行った」


「三河へ戻りました。追いすぎるなと言われてたんで、追ってません」


「よい」


 岡崎も、尾張を軽くは見ていない。


 その言葉が誰のものかは分からない。


 松平に近い者か。


 今川の者か。


 ただの三河者の強がりか。


 だが、置かれた。


 こちらが点を打ったら、向こうからも点が返ってきた。


 まだ線ではない。


 だが、点と点は、いつか線になる。


「長秀」


「はい」


「書け」


「岡崎も尾張を軽くは見ていない、ですね」


「ああ。ただし、誰の言葉か不明、と」


「承知しました」


 信勝は、その報告を聞いて静かに言った。


「岡崎という名が、少し近くなりましたね」


「近くなったように見えるだけだ」


「はい。距離は変わっていない」


「だが、見え方は変わった」


「それも大事ですね」


「ああ」


 その夜、俺は地図の岡崎の点を、ほんの少し濃くした。


 大きくはしない。


 線も引かない。


 ただ、薄かった点を少し濃くする。


 それだけだ。


 地図の上では、本当に小さな変化だった。


 だが、その小さな点が、俺の頭の中では妙に重かった。


 岡崎。


 松平。


 今川。


 三河。


 まだ会わぬ相手。


 まだ敵とも味方とも呼べぬ名。


 それでも、こちらを軽くは見ていないと言った誰かがいる。


 ならば、こちらも軽くは見ない。


 尾張の道を固める。


 清洲の火を守る。


 信勝の名を曇らせない。


 柴田の兵を外へ向ける。


 長秀の帳面で境の声を拾う。


 帰蝶の目で今川と美濃の影を測る。


 全部が、岡崎という小さな点につながり始めている。


 政秀。


 もし生きていたら、お前は何と言っただろう。


 若、地図の点に夢中になりすぎて、足元の飯を忘れては困ります。


 きっとそう言う。


 ちょうどその時、帰蝶が部屋へ入ってきた。


「お食事です」


 俺は思わず笑った。


「どうされました?」


「いや。爺と同じことを言いそうだった」


「光栄です」


「お前、本当にそれを光栄と思っているな」


「はい」


 俺は地図を閉じた。


 岡崎の点は、紙の内側に隠れた。


 だが、頭の中では消えない。


 清洲の扉を開けながら、三河の影を見る。


 尾張の火を守りながら、今川の目を読む。


 やることが増えた。


 面倒だ。


 だが、少しずつ見えてきた。


 岡崎という名は、まだ遠い。


 けれど、その遠さが、いずれ尾張の運命に触れる。


 そんな気がした。

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