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第39話 兄弟の飯、外へ流れる噂

飯の噂が、三河へ流れていた。


 最初にそれを聞いた時、俺はしばらく何を言われたのか分からなかった。


 清洲の道。


 熱田の火。


 岡崎の名。


 今川の影。


 そういうものなら分かる。


 こちらも警戒している。


 長秀の帳面にも残している。


 だが、飯だ。


 俺と信勝が同じ場で飯を食っている。


 帰蝶が俺に飯を食わせている。


 信勝も同じ膳に呼ばれている。


 その噂が、馬借や商人の口を通って三河方面まで流れているという。


「若様」


 恒興は、笑いをこらえる顔をしていた。


 こらえられていない。


「その顔をやめろ」


「失礼しました」


「それで、何と言われている」


「尾張の兄弟は、同じ膳を囲んでいるうちは割れぬ、と」


 俺は黙った。


 部屋の隅で長秀が帳面を開いている。


 信勝も同席していた。


 信勝は、少し困った顔で口元を押さえている。


 笑うな。


 弟よ。


 笑う場面ではない。


 たぶん。


「誰が言い出した」


 俺が聞くと、恒興は今度こそ少し笑った。


「馬借の仁助が、三河の者にそう言ったのが広がったようです」


「あいつか」


 飯の話を使ったのは仁助だ。


 兄弟仲を深刻に聞かれた時、飯を食っているうちは大丈夫だと答えた。


 軽い返しだ。


 だが、軽いから道を越えた。


 重い言葉は、途中で誰かが落とす。


 軽い言葉は、荷の隙間に入り、馬の背に揺られ、酒の席で笑われ、気づけば遠くまで行く。


 飯の噂は、そういう類のものだった。


「兄上」


 信勝が静かに言った。


「悪い噂ではないと思います」


「分かっている」


「ですが、少し恥ずかしいですね」


「お前もか」


「はい」


 正直だ。


 俺も少し恥ずかしい。


 戦に勝った噂なら分かる。


 清洲を動かした噂なら分かる。


 信勝の言葉が広がるのも分かる。


 だが、飯を食っているだけで政になるとは思わなかった。


 いや。


 思わなかっただけで、政だったのかもしれない。


 同じ膳を囲む。


 同じ汁を飲む。


 同じ飯を食う。


 それは、人にとって思った以上に大きい。


 敵同士は同じ膳を囲まない。


 囲んでも毒を疑う。


 家族でも、割れれば膳が分かれる。


 家中でも、主君と誰が食を共にするかで、人の見方は変わる。


 飯とは、腹を満たすだけのものではない。


 人の位置を示すものでもある。


 父上はそれを知っていたのだろう。


 だから、腹を空かせた顔をするなと言った。


 政秀も、飯を軽く見るなと言っていた。


 帰蝶は、俺に毎日それを実行している。


 ……あの女、どこまで考えていた。


「帰蝶を呼べ」


 俺が言うと、恒興は少し顔を引き締めた。


「はい」


 ほどなくして帰蝶が来た。


 偶然ではない。


 どうせ廊下の耳で聞いていただろう。


「お呼びでしょうか」


「飯の噂が三河へ流れている」


「そのようですね」


「知っていたのか」


「少し」


「少しとは」


「台所の者が、町で話したようです。町の者が馬借に話し、馬借が道で話し、道が三河へ向かったのでしょう」


「なぜ止めない」


「悪い噂ではありませんので」


 即答だった。


 帰蝶は澄ました顔をしている。


「兄弟が同じ膳を囲んでいる、という話は、稲生の後には必要な噂です」


「お前、狙ったな」


「半分は」


 出た。


 最近、皆がこの言い方をする。


 帰蝶が使うと、特に信用ならない。


「もう半分は」


「本当に食べていただきたかっただけです」


 信勝が小さく笑った。


 長秀は目を伏せた。


 恒興は露骨に肩を震わせている。


 俺は諦めて息を吐いた。


「つまり、飯を食わされていたのは、俺のためであり尾張のためでもあったと」


「はい」


「腹立たしいほど正しいな」


「ありがとうございます」


「褒めていない」


「半分は褒めています」


 この女には勝てない。


 戦ではないところで勝てない。


 それもまた、政なのだろう。


 その日の昼、俺は信勝と同じ膳についた。


 いつも通りのつもりだった。


 だが、いつも通りに見せることが難しい。


 見られていると分かると、人は不自然になる。


 信勝も少し硬い。


 箸の動きが丁寧すぎる。


 俺は粥を口に入れながら言った。


「いつも通り食え」


「兄上こそ」


「俺はいつも通りだ」


「少し、噛む回数が多いです」


「見るな」


「見えてしまいます」


 帰蝶が横で静かに言った。


「お二人とも、普段より不自然です」


「言うな」


「自然にしてください」


「自然にしろと言われると不自然になる」


「では、普通に食べてください」


「同じだ」


 信勝がついに笑った。


 俺も笑ってしまった。


 すると、部屋の空気が少し緩んだ。


 それで箸が動くようになった。


 飯とは、不思議なものだ。


 言葉で整えようとするとぎこちない。


 笑えば、少し戻る。


「兄上」


「何だ」


「この噂、利用するのですか」


 信勝は、小声で聞いた。


 ただ食っているだけでは終わらないと分かっている。


 成長したものだ。


「利用はする」


「やはり」


「だが、飾りすぎない」


「飾りすぎると?」


「芝居になる。芝居の飯は、人に届かない」


 信勝は頷いた。


「では、普段から共に食べる」


「無理に毎日ではない」


「はい」


「だが、隠さない」


「分かりました」


 俺たちが飯を食っている。


 それだけの噂を、こちらから大きく宣伝する必要はない。


 大げさに触れを出せば、かえって嘘くさい。


 しかし、隠す必要もない。


 自然に流れる噂ほど、強い時がある。


 ただし、放っておけば歪む。


 だから、少しだけ向きを整える。


 飯の後、俺は長秀に言った。


「噂の流れを拾え」


「飯の噂まで帳面に?」


「そうだ」


 長秀は、少し遠い目をした。


「若様、帳面というものは便利ですが、無限ではございません」


「増やせ」


「簡単に」


「出世だ」


「その言葉も聞き飽きました」


 長秀は文句を言いながらも筆を取る。


「どのように拾いましょう」


「兄弟が仲良しだ、という形になりすぎると軽い。信勝が俺に従っている、となると信勝の面目が傷つく。俺が信勝に譲っている、となるとまた担ぐ者が出る」


「では」


「兄弟が同じ膳を囲み、それぞれの役で尾張を見ている。そう流したい」


 長秀が頷いた。


「分かりました。仁助や久右衛門を通して、少しずつ言葉を整えます」


「露骨にやるな」


「もちろんです」


「信勝」


「はい」


「お前からも、熱田や清洲へ文を出す時に、飯の話を少しだけ入れろ」


「飯の話を、ですか」


「直接ではない。共に食し、共に考えている、と」


 信勝は少し頬を赤くした。


「恥ずかしいですね」


「俺もだ」


「ですが、必要なら書きます」


「無理に飾るな」


「はい」


 信勝は少し考えた。


「では、清洲へはこう書きます。兄上と膳を同じくしながら、清洲の火と熱田の道について話しました、と」


「よい」


「本当に?」


「かなり」


 信勝は少し笑った。


「その言い方、便利ですね」


「使うな」


「もう遅いかと」


 まったくだ。


 午後、仁助を呼んだ。


 仁助は来るなり、にやにやしていた。


「若様、飯の噂が効いてますよ」


「お前が流したのだろう」


「流したというか、聞かれたんで答えただけです」


「答え方が軽い」


「重く答えると、相手が重く受け取ります。軽く答えた方が遠くへ行くこともあるんで」


 この男、やはり分かっている。


 道の言葉を扱う者だ。


 馬借というのは、荷だけでなく噂も運ぶ。


「三河では、どう受け取られている」


「尾張はまだ割れてない、と。いや、割れたけど縫い直してる、と言う者もいます」


「縫い直している」


「はい。清洲の道や熱田の火と一緒に、そういう言い方になってます」


 縫い直す。


 悪くない。


 組み直す、より民の口に合う。


 布を扱う商人が言い出したのかもしれない。


「今川の目は?」


「面白くなさそうです」


「なぜ分かる」


「笑うけど、目が笑わない商人がいました。兄弟が同じ飯を食っていると聞いて、『それは結構』と言いながら、すぐ柴田様の話に移した」


「柴田へ」


「はい。柴田様は本当に納得しているのか、と」


 やはりそこを突く。


 今川は、稲生の傷を見ている。


 信勝と俺。


 柴田と俺。


 清洲と那古野。


 そのどこかが割れれば、尾張は動きにくくなる。


「柴田を呼ぶ」


 俺が言うと、長秀が少しだけ苦笑した。


「飯の次は柴田殿ですか」


「そうだ」


 柴田勝家は、呼ばれてすぐ来た。


 俺が飯の噂を話すと、しばらく無表情だった。


 それから、少しだけ口元を動かした。


「兄弟の膳が、三河へ流れましたか」


「ああ」


「世は妙なものを見ますな」


「そう思うか」


「はい。ですが、戦場でも飯は大事です。誰と飯を食うかで、兵の心は変わります」


「お前もそう見るか」


「当然でございます」


 柴田は、意外にも真面目だった。


「稲生の後、敵味方に分かれた兵を混ぜました。その時、最初にやったのは、同じ鍋を食わせることでした」


「聞いていないぞ」


「申し上げるほどのことではないかと」


「いや、大事だ」


 柴田は少し驚いた顔をした。


「敵味方だった者が同じ鍋を食う。これは、俺と信勝が同じ膳を囲むのと同じだ」


「若君と兵を同じに申すのは」


「構わぬ」


 柴田は少し考え、頷いた。


「たしかに、似ております。最初は互いに箸も伸ばしません。ですが、腹が減れば食う。食えば、少し話す」


「その話も流せ」


「流す?」


「今川は、お前が納得しているかを聞いている。なら、柴田が敵味方だった兵に同じ鍋を食わせていると流す」


 柴田は、しばらく俺を見ていた。


「若君」


「何だ」


「それは、私を使うということですな」


「そうだ」


「悪くありませぬ」


 柴田は深く頭を下げた。


「ただし、私は若君に甘い言葉は言えませぬ」


「要らぬ」


「ならば、兵にはこう言いましょう。昨日の敵味方を数える暇があるなら、同じ鍋を空にしろ、と」


 俺は笑った。


「よい。使え」


 柴田らしい。


 乱暴で、分かりやすい。


 兵には届く。


 長秀がすぐ筆を走らせている。


 信勝が少し笑った。


「柴田殿らしいお言葉ですね」


「信勝様のお言葉ほど柔らかくはございませぬ」


「ですが、温かいです」


 柴田が少し困った顔をした。


 信勝にそう言われるとは思わなかったのだろう。


「温かい、ですか」


「同じ鍋ですから」


 部屋の空気が緩んだ。


 こういう時、信勝は本当にうまい。


 柴田の武骨な言葉を、兵の飯の温かさへ変える。


 俺には少し難しい。


 だから使う。


 悔しいが、使う。


 その夜、城内で小さな膳が設けられた。


 大げさな宴ではない。


 俺、信勝、柴田、長秀、佐久間、恒興。


 帰蝶は表立って同席しないが、膳の采配は明らかに彼女のものだった。


 料理は豪華ではない。


 だが、温かい汁と飯がある。


 魚も少し。


 漬物。


 それだけだ。


「これは何の膳でございますか」


 佐久間が聞いた。


「ただの飯だ」


 俺が答えると、佐久間は慎重な顔で頷いた。


「ただの飯ほど、意味を持つ時がございます」


「お前まで」


「事実ですので」


 長秀は静かに食っている。


 珍しく、帳面を横に置いていない。


「長秀、書かぬのか」


「飯の席まで帳面を持つと、本当に歌にされます」


「もうされている」


「これ以上は困ります」


 柴田が汁を飲んで言った。


「飯は温かいうちに食うものです。帳面は後でも書けましょう」


「柴田殿に言われると、妙に説得力がありますね」


 長秀が答える。


「兵糧が冷えれば兵が怒る」


「なるほど」


 信勝が笑った。


 俺も笑った。


 この光景が、外へ流れる。


 それを思うと、少し気恥ずかしい。


 だが、悪くない。


 食卓は、人が無防備になる場所だ。


 完全には無防備ではない。


 毒もある。


 作法もある。


 面目もある。


 だが、戦場ほど固くはない。


 文書ほど冷たくもない。


 人が少しだけ本音を漏らす。


 柴田は兵の飯を語った。


 長秀は、馬借の荷の時間が飯の支度に影響することを話した。


 佐久間は、清洲の使者を迎える時の膳の順序を気にした。


 恒興は、犬千代が食いすぎる話をした。


 信勝は、熱田の社で出された茶の香りを覚えていた。


 俺は、思った。


 飯の席は、尾張の小さな地図だ。


 武。


 文。


 道。


 祈り。


 商い。


 家族。


 全部が、椀の周りに集まる。


 帰蝶は、それを見ていたのかもしれない。


 膳が終わった後、帰蝶が片づけの様子を見に来た。


 俺は、少し離れたところで声をかけた。


「お前、最初からこうなると思っていたのか」


「何がでしょう」


「飯が噂になることだ」


「半分は」


「またか」


「稲生の後、兄弟が共に食べているという話は、自然に流れればよいと思っていました」


「自然に?」


「作った噂は、作った匂いがします。けれど、台所から流れる噂は生活の匂いがします」


「生活の匂い」


「はい。人は、生活の匂いがする噂を信じます」


 俺は少し黙った。


 帰蝶は続ける。


「戦に勝った。文を出した。道を直した。それも大事です。でも、兄弟が同じ膳を囲んでいるという話は、もっと日常に近い。日常に近いものほど、遠くの者にも伝わります」


「今川にもか」


「はい」


「恐ろしい女だな」


「褒め言葉として受け取ります」


「褒めている」


 今回は、はっきり言った。


 帰蝶は少し驚いた顔をした。


 珍しく、言葉に詰まった。


 俺はそれを見て、少し勝った気になった。


 ほんの少しだが。


 翌日、仁助からまた報せが来た。


 三河の境近くで、薬売りがこう言ったという。


 ――尾張は、兄弟で飯を食い、柴田が兵に鍋を食わせているらしい。


 そして、その後に続けた。


 ――なら、割れ目を探すには別のところを見るしかないな。


 俺はその報せを聞き、地図を見た。


「別のところ」


 長秀が呟いた。


「清洲の奥か、寺か、荷か、松平か」


「全部だろうな」


 信勝が静かに言った。


「飯の噂で一つ塞げば、相手は別の割れ目を探します」


「その通りだ」


「では、次はどこを見ますか」


 俺は地図の端にある岡崎の点を見た。


 それから、清洲の奥を見た。


 熱田の火。


 守山道。


 柴田の兵。


 信勝。


 全部が見える。


 全部が火種であり、つなぎ目でもある。


「全部だ」


 俺は言った。


 長秀が少し嫌そうな顔をした。


「帳面が増えます」


「出世だ」


「もう聞きました」


「では、飯を食え」


 言ってから、自分で笑った。


 長秀も少し笑った。


 信勝も笑った。


 帰蝶が聞いたら、満足そうに頷くだろう。


 飯の噂は、外へ流れた。


 それは笑い話のようで、尾張が割れていないことを伝える小さな印になった。


 だが、印は一つだけでは足りない。


 飯で塞げる割れ目もあれば、飯では塞げない割れ目もある。


 それでも、今日一つ分かった。


 政は、評定の間だけで動くのではない。


 戦場だけでも、帳面だけでも、触れだけでもない。


 台所からも動く。


 膳からも動く。


 椀の温かさが、道を越えて三河へ行くこともある。


 ならば、そこも見なければならない。


 俺は、うつけと呼ばれた男だ。


 だが、うつけも飯は食う。


 兄弟で食う。


 家臣とも食う。


 その当たり前が、尾張を少し縫い直すなら、悪くない。


 いや、かなり悪くない。

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