第37話 三河へ伸びる影
影は、こちらへ来るだけではない。
こちらからも、伸びていく。
熱田に現れた駿河屋宗右衛門。
その男が清洲の外れの小寺へ寄り、そこに三河方面の旅僧が出入りしていると分かった時、俺は尾張の地図を広げ直した。
清洲。
那古野。
熱田。
守山。
それから、三河へ続く道。
地図の上では、線一本で済む。
だが、実際の道には、宿があり、寺があり、馬借がいて、川があり、橋があり、村がある。
そして、そのすべてに人の口がある。
口は飯を食う。
酒も飲む。
愚痴もこぼす。
噂も運ぶ。
銭を握れば余計なことも言う。
怖がれば黙る。
得だと思えば、誰かの目にも耳にもなる。
今川の目は、そういう道を通って尾張へ入ってきた。
ならば、こちらも道を見るだけでは足りない。
道の向こうを見る必要がある。
ただし、兵は出さない。
まだだ。
ここで三河方面へ兵の気配を出せば、今川に口実を与える。
尾張はまだ内を整えている最中だ。
清洲の扉は、少し開いているだけ。
信勝の言葉も、ようやく自分の足で立ち始めたばかり。
柴田の兵も、稲生の傷を抱えながら組み直している。
今ここで派手に外へ手を出せば、内の火がまた揺れる。
だが、見ないわけにはいかない。
「若様」
長秀が地図を覗き込みながら言った。
「三河へ伸びる道を、いきなり帳面に入れるのは危ういです」
「分かっている」
「尾張の内なら、まだ若様の触れで押せます。ですが、三河に入れば今川の目が強い」
「だから、尾張側だけ見る」
「境目、ですか」
「ああ。尾張から三河へ出る者、三河から尾張へ入る者。まずそこだ」
長秀は頷き、筆を取った。
「商人、旅僧、馬借、薬売り、鍛冶道具を運ぶ者、塩、魚、油、米」
「あと、人質の話を運ぶ者」
俺が言うと、長秀の筆が止まった。
「人質」
「松平だ」
部屋の空気が、少しだけ変わった。
松平。
三河の小さくない名。
今川に押さえられ、織田とも因縁のある名。
幼い頃に織田へ来かけ、結局今川へ行った竹千代。
今は元服し、松平元信、あるいは元康と呼ばれ始めているとも聞く。
名は変わっても、立場は変わらない。
三河の若い松平は、今川の手の内にいる。
だが、三河の者たちが皆、腹の底から今川に従っているかといえば、それは違う。
人は、従うことと納得することを別々に持てる。
そこに影が伸びる。
「若様」
佐久間が慎重に言った。
「松平の名を今ここで強く見るのは、危ううございます」
「分かっている」
「今川に知られれば」
「知られるだろうな」
佐久間が顔を上げた。
「知られる前提ですか」
「見ている相手を、こちらだけが一方的に見られると思うな。今川は見ている。こちらが見返せば、その気配も見る」
「では」
「見返していることを、少しだけ見せる」
柴田が腕を組んだ。
「牽制でございますか」
「半分は」
「もう半分は」
「向こうの反応を見る」
帰蝶が静かに茶を置いた。
今日は同席させている。
今川と三河の話になれば、美濃の目を持つ帰蝶を外す理由はない。
彼女は地図を見て、少し首を傾けた。
「信長様。今川の目は、おそらく尾張の道だけでなく、あなたと信勝様の距離を見ています」
「ああ」
「そして、三河の松平家もまた、その距離を気にするでしょう」
「なぜ」
「人質の家は、他国の内輪揉めに敏いものです。強い家に従うしかないからこそ、周囲の揺れを読む」
信勝が静かに聞いていた。
その顔には、少し痛みがある。
自分の名で家中が割れたことを思い出しているのだろう。
「私は、どう動けばよいでしょう」
信勝が言った。
「動かない」
俺が答えると、信勝は少し驚いた顔をした。
「私を出さないのですか」
「今は出さない」
「理由は」
「お前の名は、尾張の内をつなぐために使う。三河に向けて振れば、今川に別の意味で読まれる」
信勝は少し考え、頷いた。
「私を、松平への柔らかい手として見られるかもしれない」
「そうだ」
「それは、今は早い」
「早い」
信勝は、少しだけ息を吐いた。
「分かりました」
以前なら、使われないことに安堵したかもしれない。
今は、役を外されたことの意味まで考えている顔だった。
やはり変わっている。
よい変化だ。
怖い変化でもある。
「では、誰を出す」
柴田が聞いた。
「人を出すというより、道に聞く」
「道に?」
「仁助を使う」
長秀が即座に顔を上げた。
「馬借の仁助ですか」
「ああ。あいつは口が悪いが、道の嘘を見抜く」
「確かに」
「それから、熱田の宗次。清洲の久右衛門。三人に同じことを別々に聞く」
「同じことを、別々に」
「答えが揃えば道の声だ。ずれれば、そこに誰かの意図がある」
長秀の筆が走る。
帳面様の目が少し輝いた。
「若様、そのやり方は使えます」
「顔に出ているぞ」
「……うつりました」
帰蝶が小さく笑った。
その場で決めたことは三つだった。
一つ。
尾張から三河へ向かう荷と人の流れを、尾張側で見る。
二つ。
松平の名をこちらから大きく持ち出さない。
ただし、三河から入る者が松平の話をした時は、誰が何を言ったか記す。
三つ。
今川の目と思しき商人や旅僧を、すぐ捕らえない。
だが、どこへ泊まり、誰と会い、何を見たかを見る。
地味だ。
だが、今はそれでいい。
大きく変えるために、小さく直す。
信勝の言葉は、外を見る時にも使える。
翌日、仁助を呼んだ。
馬借の頭というほど立派な立場ではない、と本人はいつも言う。
だが、実際には荷を動かす者たちの多くが、あいつの顔を知っている。
仁助は、俺の前へ来るなり言った。
「若様、今度は三河ですかい」
「耳が早いな」
「道の者は、道の匂いで分かります」
「格好よく言ったつもりか」
「半分は」
長秀が横で少し笑った。
仁助は最近、うちの家臣たちの言い回しまで吸収している。
よくない。
便利ではある。
「三河へ出る荷を見る。ただし、騒ぐな」
「見るだけ?」
「見るだけだ」
「今川の荷ですかい」
「今川とは言っていない」
「言わなくても、顔が」
「お前まで言うな」
仁助は悪びれず笑った。
「若様。三河へ行く道は、最近少し妙です」
「何が」
「商人が増えた、というより、商人のふりをした聞き上手が増えました」
「聞き上手」
「自分の荷の話より、尾張の道を聞く。どこの橋が直ったか。清洲と那古野が本当に一緒に控えを作っているのか。柴田様は怒っていないか。信勝様は清洲で何を言ったか」
「信勝のことも聞いたか」
「聞きますね。穏やかなお方だと聞いたが、信長様とは本当に並んでおられるのか、と」
信勝がその場にいなくてよかった。
聞けば、また自分の名の怖さを知ることになる。
いや、知るべきか。
後で伝える。
隠しても意味がない。
「答えたか」
「答えすぎないようにしています。ただ、黙りすぎると怪しまれます」
「何と言った」
「兄弟仲は、飯を食ってるうちは大丈夫でしょう、と」
俺は少しむせた。
「何だそれは」
「帰蝶様が若様に飯を食わせてるって話は、町にも流れてますから」
「なぜ流れている」
「城の台所と町はつながってますんで」
帰蝶が聞いたらどう思うか。
いや、きっと平然としている。
むしろ、飯を食うことが政にも役立つならよいことです、と言う。
言うな。
間違いなく。
「その答えで、相手はどうした」
「笑ってました。でも、聞きたかったことの半分は潰せたはずです」
「どういう意味だ」
「兄弟が並んでいるかどうかを、深刻な話として聞きたかったんでしょう。でも、飯の話にしたら、深刻にしづらい」
俺は仁助を見た。
この男、思ったより使える。
いや、前から使えるとは思っていたが、改めてそう思った。
「仁助」
「へい」
「今の話、長秀に全部言え」
「帳面様に?」
「そうだ」
「俺の名も残りますか」
「残る」
「いいことした時だけ残してくださいよ」
「悪いことをした時も残る」
「帳面様は怖いなあ」
長秀は無言で筆を動かしていた。
その後、宗次と久右衛門からも報せが来た。
熱田では、駿河訛りの商人が「火の分け方」に強い興味を持っている。
清洲では、三河方面から来た僧が「道普請の処分」について詳しく聞いている。
どちらも、尾張がどの程度まとまっているかを測っているようだった。
とくに久右衛門の報告は興味深かった。
ある旅僧が、こう言ったという。
――道を止めた者に道を直させるとは、信長殿は人を斬らずに恥を残す方か。
久右衛門は、それにこう返した。
――恥だけではなく、道も残ります。
俺はその報告を読んで笑った。
「久右衛門も言うようになったな」
長秀が頷いた。
「清洲の商人たちも、若様の政を自分たちの言葉で語り始めています」
「危ういな」
「はい。ですが、広がっている証でもあります」
「半分ずつか」
「はい」
その夜、信勝に仁助や久右衛門の報告を伝えた。
信勝は、飯の話で兄弟仲を答えられたところで少し笑った。
「帰蝶様のお力は、三河にも届くのですね」
「笑いごとではない」
「いえ、大事なことかもしれません」
「飯がか」
「はい。兄弟が共に飯を食べている、という噂は、兵より柔らかく伝わります」
俺は黙った。
なるほど。
飯の噂は、馬鹿にできない。
兄弟が共にいる。
同じ場で食う。
それだけで、外から見れば一つの印になる。
帰蝶は、そこまで考えていたのか。
いや、飯を食わせるのは半分本気、半分政だったのかもしれない。
あとで聞くのが怖い。
「信勝」
「はい」
「三河の者が、お前を聞いている」
「はい」
「怖いか」
「怖いです」
「だが、隠れなくていい」
「分かっています」
「今は、三河へお前の言葉を出さぬ」
「はい。出せば、意味が大きくなりすぎる」
「そうだ」
信勝は、少し考えてから言った。
「なら、尾張の中で私の立つ場所を、もっとはっきりさせる必要がありますね」
「どういうことだ」
「外から見られた時に、私は兄上と争う名ではなく、尾張を内から整える名だと見えるように」
また、よいことを言う。
こいつは本当に、時々こちらの先を行く。
「具体には」
「清洲、熱田、那古野の触れでは、私は兄上の横に名を置いています。ですが、兵の話には出ていません。そこを無理に混ぜない方がよいかと」
「お前は、火と祈りと名の側か」
「今は」
「よい見立てだ」
信勝は少しだけ嬉しそうだった。
自分の役が見え始めているのだろう。
役が見えると、人は立ちやすくなる。
ただし、役に縛られもする。
「役を決めすぎるな」
俺が言うと、信勝は顔を上げた。
「はい」
「今はそうでも、後で変わる。役は持て。だが、役に閉じこもるな」
「兄上が、それを」
「俺も閉じこもりかける」
「うつけに?」
「それは周りが押しつけた名だ」
「今は?」
「今は……」
少し考えた。
「道を見すぎる男、かもしれんな」
信勝は笑った。
「兄上らしいです」
翌日、恒興からさらに報せが来た。
駿河屋宗右衛門は清洲の小寺を出た後、三河方面へ向かった。
ただし、一人ではない。
旅僧二人と、薬売りを連れていた。
それぞれが別々に見えて、道の途中で合流したらしい。
「間者か」
柴田が険しい顔で言った。
「間者だとしても、捕らえぬ」
「なぜです」
「こちらが見ていることを、まだ知らせすぎたくない」
「見逃すのですか」
「違う。道に印をつける」
長秀が顔を上げた。
「どの宿へ泊まるか、どの寺へ寄るか、どの荷場で何を聞くか」
「ああ」
「三河側へ入った後は」
「直接は追えない。だが、戻ってくる者がいる。道は片道ではない」
仁助に聞いた。
馬借の中には、三河との境を越えず、境の手前で荷を渡す者がいる。
その手前の宿で、誰が誰と荷を替えたか。
そこなら見える。
まずはそこを見る。
今川の影を追って三河の奥へ踏み込むのではない。
尾張側の端に、目を置く。
数日後、その端から小さな情報が戻った。
宗右衛門たちは、三河に入る前の宿で、松平家に関わるらしい若い侍と会っていた。
名は分からない。
ただ、供の一人が「岡崎」と口にしたという。
岡崎。
松平。
三河。
今川。
線がつながる。
まだ細い。
だが、無視できない。
「若様」
佐久間が慎重に言った。
「松平へ、こちらから触れるのは」
「まだしない」
「はい」
「だが、松平の周りに今川の目がどう入っているかは見る」
「承知しました」
帰蝶が言った。
「松平の若君は、今川の中にいながら三河の名を背負っています。尾張の信勝様に似た危うさがありますね」
信勝が同席していなかったのは幸いだった。
いや、聞かせるべきかもしれない。
だが、今はまだいい。
「人質の名は、他人に使われやすい」
俺は言った。
「はい」
「松平も、自分の名を自分で持てるようになれば厄介だな」
「敵として?」
「相手として」
帰蝶は少し笑った。
「言い直されましたね」
「敵か味方かは、まだ決める段階ではない」
「よいと思います」
「かなりか」
「かなり」
その夜、俺は地図に岡崎の名を小さく書いた。
大きくは書かない。
まだ小さい点だ。
だが、その点から影が伸びている。
三河へ。
今川へ。
そして、いつか尾張へ戻ってくる。
外の影を見るということは、未来の道を見ることでもある。
今はまだ、商人と僧と薬売りの影だ。
だが、いつか旗になる。
その時までに、尾張の道をもっと固める。
清洲の火を守る。
信勝の立つ場所を明らかにする。
柴田の兵を整える。
長秀の帳面で道を読む。
佐久間の文で面目を整える。
帰蝶の目で外を測る。
やることは多い。
多すぎる。
だが、少しだけ楽しくもあった。
見えてきたからだ。
尾張の内を組み直すことが、外の戦につながっている。
地味な道普請も、火の見回りも、帳面も、飯の噂さえも。
すべてが、いつか来る大きな影への備えになる。
俺は灯火を見た。
火は揺れている。
影も揺れている。
三河へ伸びる影は、まだ薄い。
だが、確かにそこにある。
ならば、こちらも目を逸らさない。
尾張はまだ一つではない。
けれど、尾張の道は、三河の影に気づき始めた。




