表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
38/86

第37話 三河へ伸びる影

 影は、こちらへ来るだけではない。


 こちらからも、伸びていく。


 熱田に現れた駿河屋宗右衛門。


 その男が清洲の外れの小寺へ寄り、そこに三河方面の旅僧が出入りしていると分かった時、俺は尾張の地図を広げ直した。


 清洲。


 那古野。


 熱田。


 守山。


 それから、三河へ続く道。


 地図の上では、線一本で済む。


 だが、実際の道には、宿があり、寺があり、馬借がいて、川があり、橋があり、村がある。


 そして、そのすべてに人の口がある。


 口は飯を食う。


 酒も飲む。


 愚痴もこぼす。


 噂も運ぶ。


 銭を握れば余計なことも言う。


 怖がれば黙る。


 得だと思えば、誰かの目にも耳にもなる。


 今川の目は、そういう道を通って尾張へ入ってきた。


 ならば、こちらも道を見るだけでは足りない。


 道の向こうを見る必要がある。


 ただし、兵は出さない。


 まだだ。


 ここで三河方面へ兵の気配を出せば、今川に口実を与える。


 尾張はまだ内を整えている最中だ。


 清洲の扉は、少し開いているだけ。


 信勝の言葉も、ようやく自分の足で立ち始めたばかり。


 柴田の兵も、稲生の傷を抱えながら組み直している。


 今ここで派手に外へ手を出せば、内の火がまた揺れる。


 だが、見ないわけにはいかない。


「若様」


 長秀が地図を覗き込みながら言った。


「三河へ伸びる道を、いきなり帳面に入れるのは危ういです」


「分かっている」


「尾張の内なら、まだ若様の触れで押せます。ですが、三河に入れば今川の目が強い」


「だから、尾張側だけ見る」


「境目、ですか」


「ああ。尾張から三河へ出る者、三河から尾張へ入る者。まずそこだ」


 長秀は頷き、筆を取った。


「商人、旅僧、馬借、薬売り、鍛冶道具を運ぶ者、塩、魚、油、米」


「あと、人質の話を運ぶ者」


 俺が言うと、長秀の筆が止まった。


「人質」


「松平だ」


 部屋の空気が、少しだけ変わった。


 松平。


 三河の小さくない名。


 今川に押さえられ、織田とも因縁のある名。


 幼い頃に織田へ来かけ、結局今川へ行った竹千代。


 今は元服し、松平元信、あるいは元康と呼ばれ始めているとも聞く。


 名は変わっても、立場は変わらない。


 三河の若い松平は、今川の手の内にいる。


 だが、三河の者たちが皆、腹の底から今川に従っているかといえば、それは違う。


 人は、従うことと納得することを別々に持てる。


 そこに影が伸びる。


「若様」


 佐久間が慎重に言った。


「松平の名を今ここで強く見るのは、危ううございます」


「分かっている」


「今川に知られれば」


「知られるだろうな」


 佐久間が顔を上げた。


「知られる前提ですか」


「見ている相手を、こちらだけが一方的に見られると思うな。今川は見ている。こちらが見返せば、その気配も見る」


「では」


「見返していることを、少しだけ見せる」


 柴田が腕を組んだ。


「牽制でございますか」


「半分は」


「もう半分は」


「向こうの反応を見る」


 帰蝶が静かに茶を置いた。


 今日は同席させている。


 今川と三河の話になれば、美濃の目を持つ帰蝶を外す理由はない。


 彼女は地図を見て、少し首を傾けた。


「信長様。今川の目は、おそらく尾張の道だけでなく、あなたと信勝様の距離を見ています」


「ああ」


「そして、三河の松平家もまた、その距離を気にするでしょう」


「なぜ」


「人質の家は、他国の内輪揉めに敏いものです。強い家に従うしかないからこそ、周囲の揺れを読む」


 信勝が静かに聞いていた。


 その顔には、少し痛みがある。


 自分の名で家中が割れたことを思い出しているのだろう。


「私は、どう動けばよいでしょう」


 信勝が言った。


「動かない」


 俺が答えると、信勝は少し驚いた顔をした。


「私を出さないのですか」


「今は出さない」


「理由は」


「お前の名は、尾張の内をつなぐために使う。三河に向けて振れば、今川に別の意味で読まれる」


 信勝は少し考え、頷いた。


「私を、松平への柔らかい手として見られるかもしれない」


「そうだ」


「それは、今は早い」


「早い」


 信勝は、少しだけ息を吐いた。


「分かりました」


 以前なら、使われないことに安堵したかもしれない。


 今は、役を外されたことの意味まで考えている顔だった。


 やはり変わっている。


 よい変化だ。


 怖い変化でもある。


「では、誰を出す」


 柴田が聞いた。


「人を出すというより、道に聞く」


「道に?」


「仁助を使う」


 長秀が即座に顔を上げた。


「馬借の仁助ですか」


「ああ。あいつは口が悪いが、道の嘘を見抜く」


「確かに」


「それから、熱田の宗次。清洲の久右衛門。三人に同じことを別々に聞く」


「同じことを、別々に」


「答えが揃えば道の声だ。ずれれば、そこに誰かの意図がある」


 長秀の筆が走る。


 帳面様の目が少し輝いた。


「若様、そのやり方は使えます」


「顔に出ているぞ」


「……うつりました」


 帰蝶が小さく笑った。


 その場で決めたことは三つだった。


 一つ。


 尾張から三河へ向かう荷と人の流れを、尾張側で見る。


 二つ。


 松平の名をこちらから大きく持ち出さない。


 ただし、三河から入る者が松平の話をした時は、誰が何を言ったか記す。


 三つ。


 今川の目と思しき商人や旅僧を、すぐ捕らえない。


 だが、どこへ泊まり、誰と会い、何を見たかを見る。


 地味だ。


 だが、今はそれでいい。


 大きく変えるために、小さく直す。


 信勝の言葉は、外を見る時にも使える。


 翌日、仁助を呼んだ。


 馬借の頭というほど立派な立場ではない、と本人はいつも言う。


 だが、実際には荷を動かす者たちの多くが、あいつの顔を知っている。


 仁助は、俺の前へ来るなり言った。


「若様、今度は三河ですかい」


「耳が早いな」


「道の者は、道の匂いで分かります」


「格好よく言ったつもりか」


「半分は」


 長秀が横で少し笑った。


 仁助は最近、うちの家臣たちの言い回しまで吸収している。


 よくない。


 便利ではある。


「三河へ出る荷を見る。ただし、騒ぐな」


「見るだけ?」


「見るだけだ」


「今川の荷ですかい」


「今川とは言っていない」


「言わなくても、顔が」


「お前まで言うな」


 仁助は悪びれず笑った。


「若様。三河へ行く道は、最近少し妙です」


「何が」


「商人が増えた、というより、商人のふりをした聞き上手が増えました」


「聞き上手」


「自分の荷の話より、尾張の道を聞く。どこの橋が直ったか。清洲と那古野が本当に一緒に控えを作っているのか。柴田様は怒っていないか。信勝様は清洲で何を言ったか」


「信勝のことも聞いたか」


「聞きますね。穏やかなお方だと聞いたが、信長様とは本当に並んでおられるのか、と」


 信勝がその場にいなくてよかった。


 聞けば、また自分の名の怖さを知ることになる。


 いや、知るべきか。


 後で伝える。


 隠しても意味がない。


「答えたか」


「答えすぎないようにしています。ただ、黙りすぎると怪しまれます」


「何と言った」


「兄弟仲は、飯を食ってるうちは大丈夫でしょう、と」


 俺は少しむせた。


「何だそれは」


「帰蝶様が若様に飯を食わせてるって話は、町にも流れてますから」


「なぜ流れている」


「城の台所と町はつながってますんで」


 帰蝶が聞いたらどう思うか。


 いや、きっと平然としている。


 むしろ、飯を食うことが政にも役立つならよいことです、と言う。


 言うな。


 間違いなく。


「その答えで、相手はどうした」


「笑ってました。でも、聞きたかったことの半分は潰せたはずです」


「どういう意味だ」


「兄弟が並んでいるかどうかを、深刻な話として聞きたかったんでしょう。でも、飯の話にしたら、深刻にしづらい」


 俺は仁助を見た。


 この男、思ったより使える。


 いや、前から使えるとは思っていたが、改めてそう思った。


「仁助」


「へい」


「今の話、長秀に全部言え」


「帳面様に?」


「そうだ」


「俺の名も残りますか」


「残る」


「いいことした時だけ残してくださいよ」


「悪いことをした時も残る」


「帳面様は怖いなあ」


 長秀は無言で筆を動かしていた。


 その後、宗次と久右衛門からも報せが来た。


 熱田では、駿河訛りの商人が「火の分け方」に強い興味を持っている。


 清洲では、三河方面から来た僧が「道普請の処分」について詳しく聞いている。


 どちらも、尾張がどの程度まとまっているかを測っているようだった。


 とくに久右衛門の報告は興味深かった。


 ある旅僧が、こう言ったという。


 ――道を止めた者に道を直させるとは、信長殿は人を斬らずに恥を残す方か。


 久右衛門は、それにこう返した。


 ――恥だけではなく、道も残ります。


 俺はその報告を読んで笑った。


「久右衛門も言うようになったな」


 長秀が頷いた。


「清洲の商人たちも、若様の政を自分たちの言葉で語り始めています」


「危ういな」


「はい。ですが、広がっている証でもあります」


「半分ずつか」


「はい」


 その夜、信勝に仁助や久右衛門の報告を伝えた。


 信勝は、飯の話で兄弟仲を答えられたところで少し笑った。


「帰蝶様のお力は、三河にも届くのですね」


「笑いごとではない」


「いえ、大事なことかもしれません」


「飯がか」


「はい。兄弟が共に飯を食べている、という噂は、兵より柔らかく伝わります」


 俺は黙った。


 なるほど。


 飯の噂は、馬鹿にできない。


 兄弟が共にいる。


 同じ場で食う。


 それだけで、外から見れば一つの印になる。


 帰蝶は、そこまで考えていたのか。


 いや、飯を食わせるのは半分本気、半分政だったのかもしれない。


 あとで聞くのが怖い。


「信勝」


「はい」


「三河の者が、お前を聞いている」


「はい」


「怖いか」


「怖いです」


「だが、隠れなくていい」


「分かっています」


「今は、三河へお前の言葉を出さぬ」


「はい。出せば、意味が大きくなりすぎる」


「そうだ」


 信勝は、少し考えてから言った。


「なら、尾張の中で私の立つ場所を、もっとはっきりさせる必要がありますね」


「どういうことだ」


「外から見られた時に、私は兄上と争う名ではなく、尾張を内から整える名だと見えるように」


 また、よいことを言う。


 こいつは本当に、時々こちらの先を行く。


「具体には」


「清洲、熱田、那古野の触れでは、私は兄上の横に名を置いています。ですが、兵の話には出ていません。そこを無理に混ぜない方がよいかと」


「お前は、火と祈りと名の側か」


「今は」


「よい見立てだ」


 信勝は少しだけ嬉しそうだった。


 自分の役が見え始めているのだろう。


 役が見えると、人は立ちやすくなる。


 ただし、役に縛られもする。


「役を決めすぎるな」


 俺が言うと、信勝は顔を上げた。


「はい」


「今はそうでも、後で変わる。役は持て。だが、役に閉じこもるな」


「兄上が、それを」


「俺も閉じこもりかける」


「うつけに?」


「それは周りが押しつけた名だ」


「今は?」


「今は……」


 少し考えた。


「道を見すぎる男、かもしれんな」


 信勝は笑った。


「兄上らしいです」


 翌日、恒興からさらに報せが来た。


 駿河屋宗右衛門は清洲の小寺を出た後、三河方面へ向かった。


 ただし、一人ではない。


 旅僧二人と、薬売りを連れていた。


 それぞれが別々に見えて、道の途中で合流したらしい。


「間者か」


 柴田が険しい顔で言った。


「間者だとしても、捕らえぬ」


「なぜです」


「こちらが見ていることを、まだ知らせすぎたくない」


「見逃すのですか」


「違う。道に印をつける」


 長秀が顔を上げた。


「どの宿へ泊まるか、どの寺へ寄るか、どの荷場で何を聞くか」


「ああ」


「三河側へ入った後は」


「直接は追えない。だが、戻ってくる者がいる。道は片道ではない」


 仁助に聞いた。


 馬借の中には、三河との境を越えず、境の手前で荷を渡す者がいる。


 その手前の宿で、誰が誰と荷を替えたか。


 そこなら見える。


 まずはそこを見る。


 今川の影を追って三河の奥へ踏み込むのではない。


 尾張側の端に、目を置く。


 数日後、その端から小さな情報が戻った。


 宗右衛門たちは、三河に入る前の宿で、松平家に関わるらしい若い侍と会っていた。


 名は分からない。


 ただ、供の一人が「岡崎」と口にしたという。


 岡崎。


 松平。


 三河。


 今川。


 線がつながる。


 まだ細い。


 だが、無視できない。


「若様」


 佐久間が慎重に言った。


「松平へ、こちらから触れるのは」


「まだしない」


「はい」


「だが、松平の周りに今川の目がどう入っているかは見る」


「承知しました」


 帰蝶が言った。


「松平の若君は、今川の中にいながら三河の名を背負っています。尾張の信勝様に似た危うさがありますね」


 信勝が同席していなかったのは幸いだった。


 いや、聞かせるべきかもしれない。


 だが、今はまだいい。


「人質の名は、他人に使われやすい」


 俺は言った。


「はい」


「松平も、自分の名を自分で持てるようになれば厄介だな」


「敵として?」


「相手として」


 帰蝶は少し笑った。


「言い直されましたね」


「敵か味方かは、まだ決める段階ではない」


「よいと思います」


「かなりか」


「かなり」


 その夜、俺は地図に岡崎の名を小さく書いた。


 大きくは書かない。


 まだ小さい点だ。


 だが、その点から影が伸びている。


 三河へ。


 今川へ。


 そして、いつか尾張へ戻ってくる。


 外の影を見るということは、未来の道を見ることでもある。


 今はまだ、商人と僧と薬売りの影だ。


 だが、いつか旗になる。


 その時までに、尾張の道をもっと固める。


 清洲の火を守る。


 信勝の立つ場所を明らかにする。


 柴田の兵を整える。


 長秀の帳面で道を読む。


 佐久間の文で面目を整える。


 帰蝶の目で外を測る。


 やることは多い。


 多すぎる。


 だが、少しだけ楽しくもあった。


 見えてきたからだ。


 尾張の内を組み直すことが、外の戦につながっている。


 地味な道普請も、火の見回りも、帳面も、飯の噂さえも。


 すべてが、いつか来る大きな影への備えになる。


 俺は灯火を見た。


 火は揺れている。


 影も揺れている。


 三河へ伸びる影は、まだ薄い。


 だが、確かにそこにある。


 ならば、こちらも目を逸らさない。


 尾張はまだ一つではない。


 けれど、尾張の道は、三河の影に気づき始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ