第36話 今川の影、尾張の道を見る
火を守る者が増えた。
そのことに、少し安心していた。
安心と言っても、腹の底から力を抜けるようなものではない。
清洲、那古野、熱田。
道と荷と火が、細い線でつながり始めた。
長秀の帳面には、清洲から熱田へ通った油と布、二度目の荷、道普請の場所、火の見回り、社寺方の見学、馬借の文句まで残っている。
信勝は、自分の言葉で清洲や熱田に返すようになった。
河尻は、清洲の古い柱に少しだけ風を入れている。
覚円坊も実円も、祈りを守る側からこちらを見始めた。
久右衛門は、相変わらず商人らしく損得を測っている。
そして帰蝶は、俺が飯を抜こうとするたびに、どこからともなく現れる。
尾張はまだ一つではない。
だが、ほんの少し、つながり始めている。
そう思った矢先だった。
熱田から、妙な報せが来た。
「若様」
長秀が帳面を持って来た時点で、良い報せではないと分かった。
最近、長秀の帳面は天気より当たる。
「今度は何だ」
「熱田の油屋宗次からです」
「火の扱いか」
「いえ。客です」
「客?」
「駿河訛りの商人が、熱田の荷場と火の見回りについて、ずいぶん細かく聞いていたそうです」
俺は少し黙った。
駿河。
その二文字だけで、部屋の空気が少し変わる。
恒興が顔を上げた。
信勝も、文を読んでいた手を止めた。
「今川か」
俺が言うと、長秀は頷いた。
「断定はできません。商人かもしれません。ですが、聞き方が商いだけではないと」
「何を聞いた」
「熱田の油が、清洲から那古野を通って来たのか。誰が控えを持つのか。荷を止める権は誰にあるのか。道普請は誰の命で行われたのか。清洲と那古野は、本当に同じ控えを見ているのか」
「それは商人の聞き方ではないな」
「はい」
商人が荷の値や量を聞くなら分かる。
道の安全を聞くのも分かる。
だが、誰が控えを持つのか、誰が止める権を持つのか、清洲と那古野が同じ帳面を見ているのか。
それは、尾張がどれだけ動けるかを測る問いだ。
荷の話をしているようで、兵の話をしている。
火の話をしているようで、指揮の話をしている。
今川の目だ。
まだ影かもしれない。
だが、影は光があるからできる。
こちらの道と火が少し見え始めたから、外の目にも映ったのだ。
「若様」
信勝が静かに言った。
「今川は、尾張の内がまだ割れているかを見ていますね」
「ああ」
「稲生の後、兄上が柴田殿を生かし、清洲と道をつなぎ、熱田の火を分けた。それが、外からどう見えるか」
「まとまり始めたように見える」
「だから、確かめに来た」
信勝の見立ては正しい。
今川にとって、尾張が割れているなら都合がいい。
信長と信勝。
清洲と那古野。
守護家と織田家。
寺社と商人。
道と荷。
そのどこかが詰まれば、今川はそこを見て動ける。
逆に、尾張の道がつながり始めれば、今川にとっては厄介になる。
兵は、腹が減れば動けない。
荷が動けば、兵も動く。
今川ほど大きな家が、それを見ないはずがない。
「宗次はどうした」
「直接答えすぎないようにしたそうです。ただ、相手は熱田の火の話を褒めていたと」
「褒める?」
「はい。祈りと荷場の火を分けるとは面白い、と」
俺は少し笑った。
嫌な褒め方だ。
相手の腹を探る時、人はまず褒める。
褒められた者は、気分がよくなって余計なことを話す。
宗次は、そこまで馬鹿ではない。
だが、油断はできない。
「宗次に伝えろ。駿河の商人を追い払うな。だが、一人で話すな。清洲から来た者にも同じことを伝えろ」
「はい」
「長秀」
「はい」
「こちらも見る」
「商人を?」
「商人を見ている者をだ」
長秀の目が少し鋭くなった。
「今川の目が一人とは限らぬ」
「はい」
「熱田だけではない。清洲にも、守山にも、那古野にもいるかもしれない」
「道がつながれば、目も通ります」
「そういうことだ」
道をつなぐ。
それは、味方の荷を通すことだ。
同時に、敵の目が入りやすくなることでもある。
閉じた国は弱い。
だが、開いた道には影も入る。
それを忘れていたわけではない。
忘れていたわけではないが、火を守ることで少し目が内側に寄っていた。
今川が、それを外から見た。
その事実が、俺の背中を冷やした。
「柴田を呼べ」
俺は言った。
「兵を動かすのですか」
信勝が問う。
「動かさない。見せる」
「見せる?」
「道と荷を整えているなら、兵も整えているところを見せる。隠しすぎれば、相手は隠れて探る。見せるものを選ぶ」
長秀が頷いた。
「清洲の時と同じですね」
「同じだ。見せる傷と隠す傷を選ぶ」
柴田勝家は、すぐに来た。
近頃の柴田は、以前より少し顔つきが落ち着いている。
稲生で敵だった男が、今は兵を組み直す役をしている。
その姿自体が、家中に一つの意味を持っていた。
「若君」
「今川の目が熱田に入った」
俺が言うと、柴田の顔が変わった。
武の顔だ。
「商人に紛れて、ですか」
「おそらくな」
「捕らえますか」
「まだ捕らえぬ」
「なぜ」
「一人捕らえても、目は別の形で来る。まず何を見たいのか見る」
柴田は少し考えた。
「今川が見たいのは、尾張が割れているかどうか」
「それと、道が使えるか」
「兵糧の流れ」
「ああ」
「なら、こちらの兵の立て直しも見せる?」
柴田の理解は早かった。
「一部だけな」
「承知しました」
「稲生で敵味方に分かれた兵が、同じ隊で訓練しているところを見せる。ただし、数は見せすぎるな。兵糧の蔵は見せるな」
「見せるものと隠すもの」
「そうだ」
柴田は口元を少し動かした。
「若君は、戦場以外でも陣を敷かれるようになりましたな」
「褒めているか」
「かなり」
長秀が横で少し笑いそうになった。
俺は見なかったことにした。
数日後、熱田にまた駿河訛りの商人が現れた。
名は、駿河屋宗右衛門と名乗った。
もちろん、本名かどうかは分からない。
油と塩を扱うと言う。
供は二人。
荷は少ない。
商いというより、顔つなぎのような動きだった。
俺は直接会わなかった。
会えば、相手に大きな意味を与えてしまう。
代わりに、宗次、久右衛門、そして信勝が一度顔を合わせることにした。
信勝を出すかどうかは迷った。
だが、信勝の柔らかさは、こういう相手に効く。
相手が信勝を甘く見るなら、それも見たい。
俺は那古野に残り、報告を待った。
待つのは苦手だ。
しかし、待つことを覚えない主は、たいてい余計なところへ足を突っ込む。
熱田での顔合わせは、昼前から始まった。
場所は油屋宗次の店の奥ではなく、荷場に近い開いた座敷だった。
密談に見えない場所。
だが、町の喧騒から少し離れ、話はできる場所。
そこを選んだのは宗次だという。
悪くない。
駿河屋宗右衛門は、物腰の柔らかい男だったらしい。
年は四十前後。
商人らしく笑う。
だが、目は値だけを見ていなかった。
後で信勝が言った。
「商人としての目と、誰かに報告する目が、別にありました」
俺は少し笑った。
弟も人の目を見るようになった。
信勝は宗右衛門にこう聞かれたという。
「信勝様のお言葉、熱田でも清洲でも評判でございますな。祈りの名を曇らせぬため、とは、まことにお優しい」
いきなりそこか。
相手は信勝を褒めに来た。
褒めて、信勝の位置を測りに来た。
信勝は、そこで笑った。
柔らかく。
「私一人の言葉ではありません」
そう答えた。
「熱田の社の方、商人、馬借、兄上、それぞれの言葉があって出たものです。私の言葉だけが評判になると、かえって曇ります」
宗右衛門は少し意外そうな顔をしたらしい。
信勝は続けた。
「言葉も荷と同じです。どこから出て、どこを通り、誰が受け取るかが大事です」
その言葉を聞いた時、俺は報告の場で思わず笑った。
「お前、長秀みたいなことを言うようになったな」
信勝は困ったような顔をした。
「褒めておられますか」
「かなり」
長秀は横で複雑そうだった。
熱田で、宗右衛門はさらに聞いた。
「清洲と那古野は、いま同じ道を見ておられるのですか」
信勝は答えた。
「同じ道を見ようとしています。まだ同じものが見えているとは言えません」
上手い。
尾張が完全にまとまったとは言わない。
だが、割れているとも言わせない。
「見ようとしている」という言葉は、弱いようで強い。
動き続けていることを示すからだ。
宗右衛門は、そこで少し話題を変えた。
「柴田様も、いまは信長様のもとで兵を鍛えておられるとか」
来た。
稲生の傷を見る問いだ。
信勝は、ここでも逃げなかった。
「柴田殿は、織田のために兵を鍛えておられます」
「信長様のためではなく?」
「織田のためです。今の尾張で織田の兵を整えることは、兄上の政を支えることでもあります」
この返しもよい。
柴田本人が言った「織田のため」を使いながら、信長の政から切り離さない。
宗右衛門は、たぶんその場で少し困っただろう。
信勝を持ち上げても、柴田をつついても、簡単には割れ目を見せない。
だが、まだ相手は諦めなかった。
「尾張は、これから大きく変わりますかな」
信勝は、少し黙ったという。
その間を、宗次も久右衛門も見ていた。
信勝は言った。
「大きく変えるために、小さく直しています」
俺はその報告を聞いて、また黙った。
いい言葉だ。
本当にいい。
悔しいくらいに。
そして、今の尾張をよく言い表していた。
大きく変えるために、小さく直す。
道も火も名も責も、すべてそうだ。
信勝は、それを自分の言葉で言った。
宗右衛門は、そこで初めて少し表情を固くしたらしい。
その後、宗右衛門は荷場を見たいと言った。
宗次は、見せる場所だけを見せた。
油の控え。
火の分け方。
荷場の見回り。
ただし、蔵の奥は見せない。
長秀の帳面の写しも、一部だけ。
宗右衛門は、さりげなく那古野の確認所の場所を聞いたが、宗次は「必要な荷なら通せば分かります」と笑って流した。
宗次も、なかなかやる。
熱田の報告は夕方に那古野へ届いた。
俺は信勝、長秀、柴田、佐久間、帰蝶とともに聞いた。
帰蝶は同席している。
今川の影が出た以上、美濃の目を持つ帰蝶の見方は要る。
「宗右衛門は、今川の者でしょうか」
信勝が言った。
「商人ではあるだろう」
帰蝶が答えた。
「ただし、商人であることと、誰かの目であることは両立します」
「父上の国にも?」
「もちろんです」
帰蝶はさらりと言った。
美濃も同じ。
今川も同じ。
尾張も、いずれ同じことをする。
いや、すでにしている。
商人、僧、馬借、旅人。
道を歩く者は、みな目にも耳にもなる。
「宗右衛門を捕らえるべきでは」
柴田が言った。
「まだだ」
俺は答えた。
「相手が見たいものを見せた。見せた上で、どこへ戻るか見る」
「追わせますか」
「恒興」
「はい」
「熱田から駿河屋宗右衛門がどの道を使うか見ろ。だが近づきすぎるな。馬借に聞け。寺にも聞け。直接追うな」
「承知しました」
「長秀」
「はい」
「宗右衛門が聞いたことを全部整理しろ。何を見たかったか、順に並べる」
「はい」
「信勝」
「はい」
「今日の言葉を文に残せ」
「私の?」
「ああ。大きく変えるために、小さく直す。これは使う」
信勝は苦笑した。
「また使われますね」
「嫌か」
「怖いです」
「怖いままでいい」
「はい」
帰蝶が静かに言った。
「その言葉は、外にも届きます」
「届かせるために使う」
「今川にも?」
「もちろん」
俺は地図を見た。
尾張の道。
清洲。
那古野。
熱田。
その先に三河。
さらに駿河。
今川の影は、まだ遠い。
だが、道はつながっている。
道がつながるということは、いずれ敵も来るということだ。
その時、尾張が割れたままなら食われる。
だが、閉じこもれば、こちらも腐る。
だから、つなぐ。
つないだ上で、見せるものと隠すものを選ぶ。
戦は、もう始まっている。
槍がぶつかる前から。
荷場で。
火の前で。
商人の笑みの奥で。
信勝の言葉への褒め言葉の中で。
今川の影は、尾張の道を見た。
ならば、こちらも影の足跡を見る。
その夜、恒興から報せが来た。
宗右衛門は熱田を出た後、すぐ駿河へ戻ったのではない。
清洲へ寄った。
そして、久右衛門の店ではなく、清洲の外れにある小さな寺へ入ったという。
その寺は、以前から三河方面の旅僧が出入りする場所だった。
「三河か」
俺は低く言った。
今川の影が、三河を通して尾張を見る。
当然の流れだ。
三河は今川の手の中にある。
そして尾張へ入る道でもある。
「若様」
恒興が言った。
「寺へ踏み込みますか」
「踏み込まぬ」
「では」
「寺に出入りする荷と人を見ろ。清洲にも伝える。ただし、今川の間者だと決めつけるな」
「はい」
「帰蝶」
俺は妻を見る。
「美濃にも、こういう寺や商人を通す目があるな」
「あります」
「道三ならどうする」
「踏み込みません。まず、その寺を使う者が何を欲しがっているか見ます」
「同じか」
「はい」
「嫌な親子だな」
「褒め言葉として受け取ります」
帰蝶は少し笑った。
俺も笑った。
だが、胸の奥は冷えていた。
今川。
三河。
寺。
商人。
道。
尾張の内ばかり見ていれば、外の影に足をすくわれる。
だが、外ばかり見れば、内がまた割れる。
火を守る者たちは増えた。
だが、火の周りには影も寄る。
光が強くなれば、影も濃くなる。
それは仕方ない。
だからこそ、影を見る目がいる。
翌朝、俺は小さな触れを出した。
表向きは、道と荷の確認をさらに整えるためのものだ。
清洲、那古野、熱田を通る荷について、出し手と受け手だけでなく、途中で宿を取る場所、寺社で荷を預ける場合の名も記す。
旅僧や商人を疑うものではない。
ただし、道を使う者は、道の名を明らかにする。
敵の影を名指しはしない。
だが、影が歩きにくくなるようにする。
長秀はその触れを見て言った。
「また帳面が増えます」
「出世だ」
「それはもう聞きました」
「では、尾張のためだ」
「それも聞きました」
「なら、俺のためだ」
長秀は少し驚いた顔をした。
俺も、言ってから少し驚いた。
「若様のため、ですか」
「ああ」
「珍しい言い方です」
「たまにはいいだろう」
長秀は、少しだけ笑った。
「承知しました。若様のために、帳面を増やします」
「ほどほどにな」
「それは無理です」
即答か。
まったく。
信勝は、その触れに一文を添えた。
――道を明らかにすることは、旅人を疑うためではなく、旅人が疑われずに済むためでもある。
またよい言葉だ。
俺は採った。
今川の影が、尾張の道を見ている。
だが、こちらもただ見られているだけではない。
見られることで、見せ方を覚える。
影が入ることで、道の明かりを増やす。
大きく変えるために、小さく直す。
信勝の言葉が、今日も使える。
夜、俺は地図に三河方面への線を少し太く引いた。
その線の先に、今川と書くことはしなかった。
まだ早い。
だが、心の中でははっきり見ていた。
いつか、この影は軍勢になる。
商人の笑みではなく、旗と槍で来る。
その時、尾張の道が詰まっていれば負ける。
火が消えていれば、人は動かない。
名が曇っていれば、家中は割れる。
だから今、小さく直す。
地味だ。
実に地味だ。
だが、地味なことを積んだ国だけが、大きな戦に耐えられる。
俺は灯火を見た。
火は揺れている。
その向こうに影がある。
影を消すことはできない。
ならば、火を守り、影の形を見る。
今川の影は、尾張の道を見た。
こちらも、ようやく外を見る時が来たのだ。




