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第35話 火を守る者たち

冷たい文は、火を消さなかった。


 だが、火の周りにいる者たちの手を、一度は止めた。


 それは確かだった。


 清洲の市で灯った火。


 試し荷の油で灯された、小さな灯明。


 あれを見た者たちは、少なくともその瞬間だけは、同じものを見ていた。


 清洲の者も、那古野の者も、社の者も、商人も、馬借も、子供も。


 同じ火を見て、同じように黙った。


 たったそれだけだ。


 だが、たったそれだけのことを嫌う者がいる。


 人が同じものを見ると、古い境目が少し薄くなる。


 薄くなった境目で飯を食ってきた者は、それを嫌う。


 だから、奥から文が届いた。


 若き御方は急ぎすぎる。


 人の心は帳面と触れだけでは改められない。


 御自重あられたく候。


 きれいな言葉だった。


 そして、冷たい言葉だった。


 あの文が届いてから、清洲の動きは一度鈍った。


 次の荷の相談が、少し止まる。


 熱田からの返事も、慎重になる。


 馬借たちは歌う声を少し下げる。


 長秀の帳面には「様子を見る」という言葉が増えた。


 俺は、その言葉が嫌いだ。


 様子を見る。


 それは必要な時もある。


 だが、誰も責を取らずに足を止める時にも使われる。


 厄介な言葉だ。


「若様」


 長秀が帳面を広げた。


 もう、その所作が自然になりすぎている。


「清洲の町方から、次の荷を一日遅らせたいとの申し出が来ています」


「理由は」


「表向きは、雨後の道の確認です」


「表向きは、か」


「はい」


「裏は、奥の文だな」


「おそらく」


 俺は庭の方を見た。


 雨は降っていない。


 道はまだ少し湿っているだろうが、荷を止めるほどではない。


 つまり、道ではなく心が湿っている。


 厄介だ。


「無理に急がせるな」


 俺が言うと、長秀は少し意外そうな顔をした。


「よろしいのですか」


「人の心を置き去りにするな、と信勝が言った」


「はい」


「だが、人の心を理由に道を止めるな、とも言った」


「では」


「一日だけなら待つ。二日目には理由を出させる。三日目ならこちらから人を出す」


 長秀は筆を動かした。


「一日、二日、三日。分かりやすいですね」


「分かりやすくしないと、曖昧に逃げられる」


「承知しました」


「信勝にも伝えろ。あいつの言葉を使う」


「はい」


 長秀が下がると、今度は信勝が来た。


 呼ぶ前に来た。


 最近、弟は自分から動くことが増えた。


 よいことだ。


 怖いことでもある。


「兄上」


「清洲の荷か」


「はい。遅らせたいとの話を聞きました」


「一日は待つ」


「よろしいと思います」


「お前なら、そう言うと思った」


「ですが、二日目には理由を」


「それも同じだ」


 信勝は少しだけ笑った。


「兄上と、同じことを考えたのですね」


「嫌か」


「いいえ。少し不思議です」


 俺も少し不思議だった。


 少し前なら、俺と信勝は同じものを違う向きから見ていた。


 今も違う。


 だが、時々、違う入口から同じ場所へ出る。


 それが、少しおかしい。


 そして、少し心強い。


「信勝」


「はい」


「お前、清洲へ文を出せ」


「私が?」


「ああ」


「兄上の文ではなく?」


「俺の文はすでに出した。今度は、お前の言葉で火を守れ」


 信勝は、膝の上で手を握った。


 怖がっている。


 だが、逃げない。


「何と書けばよろしいでしょう」


「それを俺に聞くのか」


「……そうですね」


 信勝は目を伏せた。


 しばらく黙る。


 俺は待った。


 待つのも、少しは覚えた。


 やがて、信勝は言った。


「清洲の火を急がせるつもりはない。けれど、火は囲いすぎれば息が詰まる。道を通すことと、祈りを守ることは、どちらか一方ではない。次の荷が一日遅れるなら、その一日で道と人の心を整えてほしい……と」


「よい」


 俺はすぐ言った。


 信勝は苦笑した。


「兄上は、最近すぐ採りますね」


「よいものは使う」


「私の言葉でも」


「お前の言葉だから使う」


 信勝は少しだけ頬を緩めた。


「では、書きます」


「ああ」


「ただ、兄上」


「何だ」


「この文は、私から清洲へ出しますが、兄上にも見ていただきたい」


「もちろん見る」


「違います。許しを得るためではなく、私の言葉が兄上と割れていないかを見るためです」


 俺は弟を見た。


 成長している。


 本当に、よくなっている。


 自分の言葉を持つ。


 だが、勝手に走らせない。


 俺の横に立つための言葉として置こうとしている。


「見る」


 俺は言った。


「お前も、俺の文を見ろ」


「はい」


 その日の夕方、信勝の文は清洲へ送られた。


 文面は柔らかかった。


 だが、足を止める者に都合のよい柔らかさではなかった。


 火は囲いすぎれば息が詰まる。


 この一文は、後で町の者たちの口にも残った。


 もちろん、誰かがまた節をつけようとして長秀が止めた。


 長秀は最近、歌の気配に敏くなっている。


 翌日、清洲から返事が来た。


 河尻ではない。


 覚円坊からだった。


 意外だった。


 覚円坊は、これまで口数少なく、社や寺の権を守る側に立っていた男だ。


 その男が、信勝の文に返した。


 ――火を囲いすぎれば息が詰まるとのお言葉、まことにその通りに候。祈りの場も、人の息にて保たれ候。明日の荷、予定通り進められたく候。ただし、火の扱いについては、清洲社寺方より一人、熱田へ見学に出したく候。


 俺はその文を読み、少し笑った。


「出てきたな」


 長秀が頷いた。


「覚円坊が動きました」


「祈りの側からか」


「はい。奥の文で冷えた火を、社寺方が自分たちで守る形です」


「悪くない」


「かなり」


 長秀が言った。


 俺は思わず見た。


「お前まで、かなりと言うようになったか」


「うつりました」


「俺のせいか」


「半分は」


 まったく。


 だが、悪くない。


 覚円坊が動いた意味は大きい。


 清洲の社寺方が、熱田を見に行く。


 祈りを値切られるのではないかと警戒していた側が、火の分け方を見に出る。


 これは、扉が少し開いただけではない。


 中から誰かが、外の風を入れてみようとしている。


 その日、俺は熱田へ使いを出した。


 千秋右近に、清洲社寺方の者を受け入れるよう伝える。


 油屋宗次にも、荷場の火の見回りを見せる準備をさせる。


 長秀には、見せる帳面を選ばせた。


 ただし、全部は見せない。


 信仰と商いの境目をどう分けたか、その部分だけだ。


「全部見せないのですね」


 信勝が言った。


「全部見せれば、相手は逃げ場を失う」


「逃げ場も必要ですか」


「必要な時もある。逃げ場がない者は、壁を壊す」


 信勝は少し考え、頷いた。


「兄上、本当に変わられましたね」


「前なら全部ぶつけたか」


「はい」


「お前も容赦がない」


「事実です」


 事実だ。


 だから言い返せない。


 数日後、清洲から覚円坊の弟子にあたる若い僧、実円が熱田へ向かった。


 那古野を通る。


 俺は直接会わなかった。


 会えば意味が大きくなりすぎる。


 代わりに、信勝が短く会った。


 あとで報告を聞いた。


 実円は、若く、真面目で、少し頑なな僧だったという。


 信勝に対しても、最初は堅かった。


「那古野の触れにより、祈りの形が乱されるのではと案じております」


 実円はそう言ったらしい。


 信勝は怒らなかった。


 静かに答えた。


「案じることは、悪くありません。ですが、案じたまま相手を見ないと、案じたものが恐れになります。熱田を見てください。見た上で、違うと思うなら私にも兄にも言ってください」


 実円は、少し驚いた顔をしたという。


 信勝は続けた。


「祈りを守る方の目で、熱田を見てほしいのです。商人の目だけでは見えないものがあります」


 この言葉もよい。


 本当によい。


 悔しいくらいに。


 信勝は、自分の役を分かり始めている。


 俺の言葉では相手が身構える場所に、信勝の言葉は入っていく。


 ただし、それは信勝を甘く見る者にも使われる。


 そこだけは、忘れてはならない。


 実円が熱田へ行っている間、清洲では別の動きがあった。


 奥からの文に近い者たちが、今度は河尻を責め始めたらしい。


 若き信長に寄りすぎている。


 那古野の帳面を清洲の内へ入れすぎている。


 清洲の古い柱を、少しずつ削っている。


 そういう声だ。


 河尻は表向き動かなかった。


 だが、久右衛門から密かに知らせが来た。


 清洲の奥は、河尻を冷やしにかかっている、と。


「冷やす、か」


 俺は久右衛門の文を読んで呟いた。


「火の次は冷やす話ばかりだな」


 長秀が言った。


「河尻殿を助けますか」


「助けると、河尻が那古野側に見える」


「助けなければ」


「清洲の中で孤立するかもしれぬ」


「難しいですね」


「だから、直接は助けぬ」


 俺は文を置いた。


「道普請の進みを褒める文を、清洲全体に出す。河尻個人ではなく、清洲がよく処したと」


「河尻殿の顔を立てつつ、清洲全体の成果にする」


「そうだ」


「奥も反対しにくい」


「清洲を褒めているからな」


 長秀は頷いた。


「よいと思います」


「かなりか」


「かなり」


 その文は、佐久間に整えさせた。


 内容は、道普請が進んでいることへの礼。


 弥三郎、岩室をただ罰するのではなく、道のために働かせる清洲の処し方は、尾張の安寧にかなうということ。


 今後も、清洲、那古野、熱田で道と火を守りたいということ。


 河尻の名は出さない。


 だが、読めば河尻の処分を褒めていると分かる。


 この文が清洲に届いた翌日、河尻から短い返事が来た。


 ――ありがたく。古き柱も、湿れば風を要するものに候。


 俺はその文を見て笑った。


「河尻は、まだ倒れぬな」


 帰蝶が横から覗き込んだ。


「よい返しですね」


「年寄りのくせに、しゃれたことを言う」


「年寄りだから言えるのでしょう」


「政秀も、こういう返しをしただろうか」


「きっと、もっと小言が長かったでしょう」


「違いない」


 俺は少しだけ笑った。


 その夜、実円が熱田から戻ったとの報が来た。


 実円は、熱田で見たことを清洲へ戻って報告した。


 社の灯明の油。


 荷場の火。


 祭礼の火。


 それぞれの名目を分けても、祈りそのものが軽くなるわけではない。


 むしろ、商人たちが納得して油を出すようになれば、灯明は消えにくくなる。


 ただし、帳面の入れ方が荒ければ、社の者は反発する。


 そういう報告だったらしい。


 覚円坊はそれを聞き、清洲社寺方として、次の市でも試しの灯明を続けることに同意した。


 これも、小さい。


 だが、大きい。


 清洲の奥から冷たい文が来た後、火を守ったのは俺だけではなかった。


 信勝の文。


 覚円坊の返答。


 実円の見学。


 熱田の受け入れ。


 久右衛門の知らせ。


 河尻への遠回しな支え。


 長秀の帳面。


 佐久間の文。


 それぞれが、小さな火囲いになった。


 火を守る者たち。


 その言葉が、俺の中で形になった。


「信長様」


 帰蝶が言った。


「嬉しそうなお顔です」


「また顔か」


「はい」


「少し嬉しい」


「なぜですか」


「俺が動かなくても、少し動いた」


 帰蝶は静かに頷いた。


「それは、よい政の形かもしれませんね」


「俺がいらぬということか」


「違います」


「では」


「あなたが一人で火を抱えているのではなく、周りに火を守る者が増えたということです」


 俺は黙った。


 それは、思ったより胸に来た。


 父上は、一人で火を抱えているように見えた。


 政秀は、その火で焼けるように死んだ。


 いや、そう言うと政秀は怒るだろう。


 若、そのような格好よい話ではございませぬ、と。


 だが、俺にはそう見えていた。


 俺も、いつか一人で火を抱えるのだと思っていた。


 抱えきれなければ、全部燃える。


 そう思っていた。


 だが、違うのかもしれない。


 火は、一人で抱えるものではない。


 火を守る者を増やす。


 それもまた、主の仕事なのかもしれない。


「帰蝶」


「はい」


「お前も火を守っているのか」


「私は、あなたが火に顔を突っ込みそうな時に袖を引く役でしょうか」


「ひどい言い方だ」


「よく突っ込もうとなさいますので」


「否定しきれないな」


「はい」


 帰蝶は少し笑った。


「食事にしましょう。火を守るにも、腹が空いていてはできません」


「そこへ戻るのか」


「大事ですので」


 俺は笑いながら膳の前に座った。


 その後、熱田と清洲をつなぐ荷は、予定通り二度目も通った。


 今回は油だけではなく、祭礼用の小さな布も加わった。


 清洲の社寺方から実円が見届け、熱田の千秋右近が受け、油屋宗次が荷場の火の分を確認し、長秀の者が控えを取った。


 大きな騒ぎはない。


 小さな文句はあった。


 書くことが多い。


 時間がかかる。


 誰がどの控えを持つのか分かりにくい。


 それらは全部、長秀の帳面に入った。


 悪いことではない。


 文句が具体になれば、直せる。


 曖昧な不満が一番悪い。


 夕方、長秀が報告に来た。


「二度目の荷、通りました」


「よし」


「ただし、控えの書き方で清洲と熱田に違いがありました」


「また増えるな」


「はい」


「嬉しそうだな」


「そんな顔をしていましたか」


「していた」


 長秀は少し困った。


「顔が働くのは、若様だけではないようです」


「うつったな」


「困ります」


「諦めろ」


 長秀は帳面を閉じた。


「若様」


「何だ」


「火を守る者が、増えましたね」


 俺は少し驚いた。


 同じ言葉を、長秀も思っていたのか。


「そうだな」


「ただ、火を守る者が増えれば、火の扱いも増えます」


「ああ」


「次は、誰が火の前に立つかで揉めるかもしれません」


「そこまで見たか」


「帳面様ですので」


 自分で言った。


 今度は、少し誇らしそうだった。


 俺は笑った。


「頼もしいな、帳面様」


「……今だけは、否定しません」


 否定しないのか。


 本当に変わったものだ。


 その夜、俺は地図の清洲、那古野、熱田を結ぶ線の横に、小さく「火」と書いた。


 道。


 名。


 責。


 火。


 地図の上に、物騒ではない言葉が増えていく。


 だが、それらは戦に関わる。


 火が消えれば人は不安になる。


 道が詰まれば兵は動けない。


 名が曇れば家中が割れる。


 責が逃げればまた誰かが荷を止める。


 戦とは、槍がぶつかる時だけに起こるのではない。


 槍がぶつかる前に、道や火や名の中で始まっている。


 それを見られるようになっただけ、俺は少し変わった。


 まだ足りぬ、と政秀は言うだろう。


 分かっている。


 だが、今日だけは少し進んだと言わせてもらう。


 火を守る者たちがいる。


 それは、一人で進むよりずっと面倒で、ずっと心強いことだった。

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