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第34話 奥から届く冷たい文

清洲の火は、消えなかった。


 それだけで十分だと思った。


 いや、正確には、十分ではない。


 尾張を一つにするには、あまりにも小さい。


 清洲の市で灯った小さな火。


 試し荷の油。


 清洲、那古野、熱田を通った控え。


 信勝の言葉。


 河尻の小さな頷き。


 久右衛門の笑い。


 覚円坊の沈黙。


 村井新七が見た道の泥。


 どれも、小さい。


 だが、小さいから残った。


 大きすぎる火は、人を集める前に人を焼く。


 小さな火は、手をかざす時間を与える。


 清洲は、少なくとも一度、同じ火を見た。


 それで十分だと、自分に言い聞かせていた。


 その翌々日、奥から文が来た。


 差出人は、はっきりしない。


 清洲守護家の奥向きから、という形だった。


 正式な御意ではない。


 しかし、ただの噂でもない。


 文は、白い紙に丁寧な字で書かれていた。


 筆跡は女手にも見えるが、断定はできない。


 言葉は柔らかい。


 だが、柔らかい言葉ほど、冷たい時がある。


 ――近頃、那古野よりの御触れ、道、荷、銭、祈りの名目にまで及び候由、奥にても聞き及び候。尾張の安寧を願うこと、まことに結構に候。されど、古き御家の御名、神仏への祈り、人々の心の置き所は、帳面と触れのみをもって改めがたきものに候。若き御方の御志、尊くは候えど、急ぎ過ぎれば、人の心は離れ候。御自重あられたく候。


 署名はない。


 ただ、末尾に小さく「奥より」とあった。


 俺は読み終えて、しばらく黙った。


 長秀も黙っている。


 佐久間は目を伏せた。


 信勝は、少し顔を強張らせていた。


 帰蝶は文を一読しただけで、静かに茶を置いた。


 誰も最初に口を開かなかった。


 部屋に置かれた文は、薄い紙一枚だ。


 だが、その紙は清洲の奥から冷たい水を運んできた。


「御自重、か」


 俺はようやく言った。


「ずいぶん上品に止めてきたな」


 長秀が慎重に口を開いた。


「表立った拒絶ではありません」


「むしろ褒めている」


「はい。尾張の安寧を願うことは結構、と」


「その後で、自重せよ」


 佐久間が言った。


「若君、これは厄介です」


「分かっている」


「強く返せば、奥向きを脅したと取られます。無視すれば、奥の言葉を軽んじたことになる。従えば、清洲の扉はまた閉じます」


「三方塞がりだな」


「はい」


 俺は文をもう一度見た。


 急ぎ過ぎれば、人の心は離れる。


 その言葉だけは、完全な嘘ではない。


 信勝も似たことを言った。


 祈りは急に形を変えると、信じる者の心が置いていかれる。


 同じような言葉だ。


 だが、違う。


 信勝の言葉は、進めるために速度を問うものだった。


 この文は、止めるために心を持ち出している。


 似ているから、余計に厄介だった。


「兄上」


 信勝が静かに言った。


「この文は、私の言葉を使っています」


「ああ」


「私の言ったことに、似せています」


「そうだな」


 信勝の顔に、悔しさが浮かんだ。


 自分の言葉が、別の形で使われた。


 それが分かったのだろう。


 名だけではない。


 言葉も盗まれる。


 しかも、似せられる。


「私の言葉は、止めるためのものではありません」


「分かっている」


「ですが、清洲ではそう読ませようとする者が出ます」


「出る」


 信勝は膝の上で手を握った。


「兄上。返事に、私の言葉も入れてください」


「何と言う」


 信勝は少し考えた。


 以前より考える時間が短くなった。


 言葉を持ち始めているのだ。


「人の心を置き去りにしてはならない。けれど、人の心を理由に道を止めてもならない」


 長秀の筆が動いた。


 佐久間が静かに頷く。


「よい」


 俺は言った。


「採る」


 信勝は、少しだけ息を吐いた。


「怖いですね」


「何が」


「言葉は、すぐ盗まれます」


「ああ」


「だから、また言わなければならない」


「そういうことだ」


 帰蝶が文を見つめたまま言った。


「これは奥からの文であって、奥の総意とは限りません」


「分かるか」


「はい。奥向きの名を借りた誰かかもしれません。あるいは、本当に奥の誰かが案じているのかもしれません」


「どちらが厄介だ」


「どちらも」


「だろうな」


 帰蝶は俺を見た。


「ただ、この文に怒れば負けます」


「怒っているように見えるか」


「はい」


「顔か」


「はい」


 まったく、俺の顔は本当に働きすぎる。


「怒っている」


 俺は認めた。


「だが、怒って返すつもりはない」


「それなら、大丈夫です」


「半分は?」


「半分は」


 帰蝶は小さく頷いた。


 俺は佐久間を見た。


「返書を作る」


「はい」


「清洲の奥向きへ直接返す形にはしない。河尻宛てだ」


「奥へは?」


「河尻から伝えさせる。こちらは奥を直接責めぬ」


「承知しました」


「文の筋はこうだ。奥よりのご心配、ありがたく受け止める。古き名、祈り、人の心を帳面だけで改めるつもりはない。だが、帳面にも触れにも残さぬまま名が使われれば、かえって古き名と祈りが曇る」


 長秀が書く。


「続けて、信勝の言葉を入れる。人の心を置き去りにしてはならぬ。だが、人の心を理由に道を止めてもならぬ」


「はい」


「最後に、清洲の市と祭礼で灯った火を、こちらは大切に思っている、と」


 佐久間が顔を上げた。


「火を」


「ああ。あの火を消すつもりはない。燃やし広げるつもりもない。守りながら、道をつなぐ。そう書け」


「承知しました」


 文は、その場で形になり始めた。


 俺の言葉。


 信勝の言葉。


 佐久間の整え。


 長秀の記録。


 帰蝶の目。


 いろいろなものが混ざる。


 以前なら、俺一人で荒く書いたかもしれない。


 今は違う。


 違うことが、よいのか悪いのか。


 たぶん半分ずつだ。


 だが、今日のような文には、一人の言葉だけでは足りない。


 奥から来た文は、一人の名を隠している。


 ならば、こちらは複数の目で受ける。


 それもまた、一つの答えだ。


 返書を出す前に、俺は河尻へ別の短い使いも出した。


 文ではない。


 口上だ。


 ――奥よりのご心配、軽んじぬ。されど、奥の名をもって清洲の火が消えることも望まぬ。河尻殿には、火の前にいた者として、よく見ていただきたい。


 河尻を巻き込む。


 清洲の奥と清洲の表を、同じ清洲の中で向き合わせる。


 嫌な手だ。


 だが、必要だった。


 その日の午後、思ったより早く河尻から返事が来た。


 短い文だった。


 ――承知。火は見申した。奥にも、見たままを申す。


 それだけだった。


 だが、十分だった。


「河尻は、こちらの火を消す側には回らぬ」


 俺が言うと、長秀が頷いた。


「少なくとも、今は」


「今は、か」


「はい」


 慎重だ。


 それでいい。


 信じ切るには早い。


 疑いすぎても進まない。


 また半分だ。


 夕方、信勝が一人で訪ねてきた。


 珍しいことだった。


 津々木も控えにはいたが、部屋には入らなかった。


「兄上」


「どうした」


「少し、話を」


「座れ」


 信勝は座った。


 いつもより疲れている。


 いや、疲れというより、言葉に傷ついた顔だった。


「私の言葉が、あの文に使われたようで」


「ああ」


「悔しいです」


「だろうな」


「そして、怖いです」


「それも、だろうな」


「兄上は、ずっとこういうものと向き合っていたのですね」


「俺は、あまり気づいていなかった」


「え?」


「自分の言葉がどう使われるか、考えずに放ったことも多い。抹香もそうだ」


 信勝は黙った。


「あれは、俺の怒りであり、悲しみであり、計算でもあった。だが、周りは好きな意味を取った。うつけ。父への反抗。奇行。あるいは覚悟。俺の手から離れた」


「言葉だけではなく、行いも」


「ああ」


「では、どうすればよいのでしょう」


「言うしかない」


「また」


「そうだ。盗まれたなら、また言う。曲げられたなら、曲げられたと言う。黙れば、曲げた者の勝ちだ」


 信勝は目を伏せた。


「私は、何度も言えるでしょうか」


「言えるようになれ」


「兄上は厳しい」


「お前が横に立つと言った」


「言いました」


「なら、言え」


 少しきつくなった。


 信勝は傷ついた顔をしなかった。


 むしろ、背筋を伸ばした。


「はい」


 その返事を聞いて、俺は少し安心した。


 信勝は弱いわけではない。


 ただ、傷つき方が俺と違うだけだ。


「勘十郎」


「はい」


「あの文は、お前を利用している。だが、奥の心配自体をすべて悪とは見るな」


「分かっています」


「本当に?」


「はい。急ぎすぎれば、人の心は離れる。それは本当です」


「なら、どうする」


「止まるのではなく、歩幅を測る」


 俺は少し笑った。


「またよいことを言う」


「兄上に使われますか」


「使う」


「では、私も覚悟して言います」


 信勝も少し笑った。


 その笑いは、以前より強かった。


 夜、帰蝶にその話をすると、彼女は満足そうに頷いた。


「信勝様は、ご自分の言葉が盗まれる痛みを知りましたね」


「痛みを知るのがよいことか」


「痛みだけなら悪いことです。ですが、そこから自分の言葉をもう一度持つなら、必要な痛みです」


「お前は時々、医者みたいなことを言う」


「美濃では、痛みを見ないと毒も薬も扱えませんので」


「物騒だな」


「父の国ですから」


 否定できない。


 その夜、奥からの冷たい文は、城の中でも静かに噂になった。


 奥が信長を止めたらしい。


 いや、信勝様の言葉を使って諫めたらしい。


 いやいや、信長様は怒らず返したらしい。


 河尻様も火を見たと言ったらしい。


 噂は、またいくつにも分かれた。


 俺は止めなかった。


 ただ、信勝の言葉だけは、触れの形で残すことにした。


 ――人の心を置き去りにしてはならぬ。されど、人の心を理由に道を止めてもならぬ。


 短い。


 だが、効く。


 翌日、その言葉は清洲にも那古野にも流れた。


 馬借たちはすぐ節をつけようとしたが、長秀が本気で止めた。


 帳面様の名がまた入るのを恐れたのだろう。


 珍しく必死だった。


 俺は笑わないでおいた。


 少しだけ。


 奥から届いた冷たい文は、清洲の火を消しに来た。


 だが、完全には消えなかった。


 むしろ、火の周りにいる者の顔を照らした。


 河尻。


 久右衛門。


 覚円坊。


 信勝。


 長秀。


 佐久間。


 帰蝶。


 そして俺。


 誰が火を守り、誰が冷やし、誰が見ているだけなのか。


 少し見えた。


 それだけでも、文を受けた意味はある。


 清洲の奥は、まだ深い。


 そして、こちらの言葉はまだ簡単に盗まれる。


 ならば、何度でも置き直す。


 名も。


 責も。


 火も。


 道も。


 尾張はまだ一つではない。


 だが、冷たい文一枚で消えるほど、今日の火は弱くない。

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