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第33話 清洲からの小さな招き

道普請の歌が町に流れ始めてから、清洲の空気が少し変わった。


 大きく変わったわけではない。


 城が動いたわけでもない。


 守護家がこちらへ頭を下げたわけでもない。


 清洲の古い顔たちが、急に俺を認めたわけでもない。


 ただ、荷を止めた者が道を直している。


 その噂が、清洲の中でも那古野の中でも、少しずつ別の意味を持ち始めた。


 最初は笑いだった。


 守護の名で荷を止めたら、鍬を持たされ泥を掘る。


 馬借たちは、面白がって歌った。


 子供たちは、意味も分からず節を真似た。


 長秀は頭を抱えた。


 だが、数日経つと、歌に別の言葉が混じり始めた。


 道を直せば名も直る。


 名を使うなら責も持て。


 帳面様が見てござる。


 最後の一節だけは、長秀のために削ってやりたい気もしたが、もう遅かった。


 噂は一度走り出すと、主より足が速い。


 そして、足が速いものは、時に道を作る。


 その日の朝、清洲から文が届いた。


 河尻左衛門尉の名だった。


 だが、文の中身はこれまでと少し違った。


 難しい言葉でこちらを試す文ではない。


 守護家の名を盾にしたものでもない。


 清洲で近く小さな市と社前の祭礼がある。


 その折、先日の試し荷で扱った油の一部を灯明に用い、道普請に関わった者たちも含めて、荷と道の安全を祈る場を設けたい。


 ついては、那古野よりも人を遣わされたい。


 文面は丁寧だった。


 丁寧すぎるほどではない。


 その加減に、俺はしばらく目を留めた。


「招きか」


 長秀が横で言った。


「小さな、ですが」


「小さいな」


「はい」


「だが、清洲から呼んだ」


「そこが大きいです」


 長秀は帳面を閉じた。


 今日の長秀は、少しだけ機嫌がよさそうだった。


 いや、機嫌がよいというより、疲れすぎて怒る元気が薄いのかもしれない。


「若様、どうされますか」


「行く」


 答えると、長秀はやはりという顔をした。


「ご自身で?」


「ああ」


「清洲は、それを望んでいるでしょうか」


「望んでいないかもしれぬ」


「なら」


「だが、来るなとも書いていない」


 長秀は少し眉を寄せた。


「それは、若様がそう読みたいだけでは?」


「半分は」


「残り半分は」


「清洲がどう出るか見たい」


 長秀は深く息を吐いた。


「危ういです」


「分かっている」


「清洲の市と祭礼です。武の場ではなく、商いと祈りの場です。若様が出れば、意味が大きくなります」


「だから出る」


 長秀は黙った。


 俺は文をもう一度見た。


 清洲は、小さく扉を開けた。


 そこへ誰を立たせるか。


 佐久間を遣わせれば無難だ。


 長秀を遣わせれば実務の続きになる。


 信勝を遣わせれば清洲は喜ぶだろうが、また信勝の名が一人歩きする。


 俺が行けば、場は少し重くなる。


 だが、俺が直接「祈りも商いも軽んじない」と見せる意味はある。


 この小さな招きを、単なる清洲の顔立てで終わらせるか。


 尾張の道をつなぐ次の前例にするか。


 そこが問題だった。


「信勝を呼べ」


 俺は言った。


 しばらくして、信勝が来た。


 文を読ませると、弟は少しだけ目を細めた。


「清洲が、こちらを招いたのですね」


「ああ」


「兄上は行くおつもりですね」


「顔に出たか」


「出ていません。ですが、兄上なら行くと思いました」


「皆、俺のことが分かりすぎではないか」


「分かりやすくなったのかもしれません」


 長秀が横で頷きそうになったので、俺は見ないふりをした。


「お前はどう見る」


 信勝は文を置き、少し考えた。


「行くなら、兄上お一人ではなく、私も共に行くべきかと」


「理由は」


「清洲の者は、兄上が祭礼を政に使うのではないかと警戒します。私がいれば、熱田での言葉とつながります」


「お前を立てようとする者も出る」


「はい」


「怖くないか」


「怖いです」


 信勝は正直に言った。


「ですが、私が隠れていれば、また誰かが私の名を勝手に運びます。なら、私もその場にいて、自分の言葉で置きます」


 よい。


 よくなっている。


 あまりによくなっていて、少し怖い。


「では、共に行く」


「はい」


 長秀が口を開いた。


「若様、信勝様、お二人が行かれるなら、供は絞るべきです」


「柴田は置く」


「賢明です」


「犬千代は?」


「置いてください」


 即答だった。


 ちょうど廊下の外にいたらしい犬千代が、ひどく悲しそうな顔で覗いた。


「長秀殿、私は何も言っておりません」


「顔が言っております」


「皆、顔を読みすぎでは」


 それは俺の台詞だ。


「犬千代」


「はっ」


「今回は置く」


「なぜでございますか」


「清洲の祭礼で、槍を振るう場面はない」


「振るいませぬ」


「振るいそうに見える」


 犬千代は少し傷ついた顔をした。


 だが、恒興が横から言った。


「俺もそう思う」


「恒興まで」


 犬千代には悪いが、今回は本当に置く。


 清洲の市と祭礼に、武の気配を強く持ち込みたくない。


 代わりに、恒興と少数の供。


 長秀。


 佐久間は城に残す。


 信勝の側には津々木をつける。


 柴田は那古野で兵を見る。


 帰蝶はどうするか。


 考えていると、ちょうど帰蝶が来た。


 もう耳があるどころではない。


 城そのものとつながっているのではないか。


「清洲へ行かれるのですね」


「聞いたか」


「廊下が」


「耳を持つ、か」


「はい」


 帰蝶は文を受け取り、静かに読んだ。


「これは、よい招きですね」


「かなりか」


「かなり。ただし、罠でもあります」


「だろうな」


「清洲は、あなたが祭礼の場でどのように振る舞うかを見ます。祈りを軽んじれば閉じる。商人ばかり見れば社が警戒する。社ばかり立てれば商人が不満を持つ」


「難しいな」


「だから、食べてから考えてください」


「今か」


「今です」


 結局、俺は飯を食わされた。


 信勝も一緒に。


 長秀まで食わされた。


 清洲行きの前に、帰蝶の膳を断れる者はこの城にいないらしい。


 出立は翌朝にした。


 那古野から清洲までは、朝に出れば昼前には着ける。


 市と祭礼は昼過ぎから始まるという。


 時間としては自然だ。


 大げさな行列にしない。


 だが、清洲に対して礼を失わないだけの支度はする。


 その加減がまた面倒だった。


 翌朝、空は晴れていた。


 雨上がりの湿り気がまだ少し地面に残っているが、道はそこまで悪くない。


 昨日のうちに馬借から道の具合を聞いておいた。


 仁助が「今日は馬も文句を言いません」と言ったので、たぶん大丈夫だ。


 俺と信勝は、並んで馬を進めた。


 前ほど、その並びに皆がざわつかなくなった。


 それはよいことだ。


 同時に、慣れられる怖さもある。


 慣れたものほど、人は意味を見落とす。


「兄上」


 道中、信勝が声をかけてきた。


「何だ」


「清洲では、まず誰に声をかけられるおつもりですか」


「河尻だろうな」


「久右衛門殿ではなく?」


「招きの文は河尻の名だ。古い顔を先に立てる」


「その後で町方を」


「ああ」


「社は?」


「祭礼の場で」


 信勝は少し頷いた。


「兄上が、順番を気にしておられる」


「俺だって少しは学ぶ」


「すみません。少し感心してしまいました」


「感心の仕方が腹立たしいな」


 信勝は小さく笑った。


 その笑いが、道中の空気を軽くする。


 弟とこうして清洲へ向かう日が来るとは、稲生の前には思わなかった。


 いや、稲生の直後にも思えなかった。


 人は変わる。


 ただし、変わった分だけ別の危うさを持つ。


 それを忘れてはならない。


 清洲へ入ると、町はいつもより人が多かった。


 市が立っている。


 布、米、油、魚、木材、鍛冶道具、小物。


 声が飛び交う。


 社前へ向かう道には、祭礼の支度が見えた。


 派手すぎない。


 だが、清洲らしい古さと整いがある。


 俺たちを迎えたのは、河尻左衛門尉だった。


 そして、その少し後ろに津田屋久右衛門、坂井孫八郎、覚円坊が並んでいる。


 前に見た清洲の顔ぶれだ。


 ただし、今日は雰囲気が少し違う。


 こちらを試す目はある。


 だが、閉じ切ってはいない。


「若君、信勝様。ようこそ清洲へ」


 河尻が頭を下げた。


「招き、受けた」


 俺も軽く頭を下げる。


「此度の道普請の件、那古野にもご理解いただき、清洲としても助かりました」


「道を止めた者が道を直す。悪い処分ではなかった」


「そう言っていただけると、弥三郎も岩室も救われましょう」


「救われるかどうかは、働き次第だ」


 河尻の口元が少し動いた。


「その通りでございますな」


 久右衛門が一歩前へ出た。


「若君、試し荷の件も、商人たちの間で少しずつ話が進んでおります」


「歌にもなったらしいな」


「清洲でも歌われております。帳面様の名入りで」


 長秀が目を閉じた。


「その件は、できれば」


「諦めろ」


 俺が言うと、久右衛門が笑った。


 長秀には悪いが、場は緩んだ。


 緩みすぎない程度に。


 祭礼は社前の小さな場で行われた。


 大きな儀式ではない。


 熱田のような重みとも違う。


 清洲の市に合わせた、道と荷の無事を願う場だった。


 灯明には、試し荷で通した油の一部が使われる。


 小さな火だ。


 だが、その火が清洲、那古野、熱田を通った荷から来ていると思うと、ただの火ではなく見える。


 覚円坊が低く祝詞を唱えた。


 人々が頭を下げる。


 俺も下げた。


 信勝も隣で下げる。


 商人も、馬借も、清洲の下役も、少し離れて見ている子供たちも、それぞれの仕方で火を見ていた。


 祈りを政治に使う。


 その言い方をすれば、今日の場はたしかにそうだった。


 俺は、その危うさを感じていた。


 祈りは人を集める。


 人を集めるものは、政に使える。


 だが、使いすぎれば祈りが曇る。


 熱田で信勝が言った言葉が、胸に残る。


 祈りの名を曇らせぬため。


 今日は、それを試されている。


 儀式が終わると、河尻が静かに言った。


「若君。一言、皆にお言葉をいただけますか」


 来た。


 言葉を求められる。


 祭礼の場で、清洲の人々の前で。


 これは招きであり、試しでもある。


 何を言うか。


 守護家を立てるか。


 清洲を褒めるか。


 那古野の政を語るか。


 商いを語るか。


 少し考えた。


 長く語れば重い。


 短すぎれば軽い。


 俺は火を見た。


 小さな灯明。


 油の火。


 荷の火。


 祈りの火。


 そして言った。


「この火は、小さい」


 人々が少し顔を上げた。


「だが、清洲から那古野を通り、熱田へ届いた荷の油で灯っている。小さいが、道を通ってここにある」


 久右衛門が静かに聞いている。


 覚円坊の目もこちらを見ている。


「道が詰まれば、火は届かぬ。名が曇れば、荷は止まる。銭の理由が分からねば、人は疑う。疑いが積もれば、祈りまで曇る」


 俺は言葉を切った。


「だから、名を明らかにする。銭の理由を分ける。道を直す。これは清洲を軽んじるためではない。熱田を値切るためでも、那古野が威張るためでもない」


 少し風が吹いた。


 火が揺れる。


 だが、消えない。


「尾張の火を消さぬためだ」


 その言葉は、思ったより静かに場へ落ちた。


 大きな声は上がらなかった。


 だが、人々が火を見た。


 それでよかった。


 信勝が一歩前へ出た。


 予定していたわけではない。


 だが、俺は止めなかった。


「私からも、一言だけ」


 信勝の声は、俺より柔らかい。


「祈りは、急に形を変えられると、人の心が置いていかれます。けれど、道が詰まったままでも、人の心は荒みます」


 清洲の者たちが、信勝を見る。


「ですから、少しずつでよいと思います。火を分け、名を分け、責を明らかにしながら、同じ火を見られる場を残していく。それが、今日のような場なのだと思います」


 弟よ。


 またよいことを言う。


 俺は少し悔しく、そして少し嬉しかった。


 場に静かなざわめきが広がった。


 悪いざわめきではない。


 人が、言葉を自分の中で置き直している音だった。


 河尻が深く頭を下げた。


「ありがたきお言葉にございます」


 久右衛門も頭を下げる。


 覚円坊は、火を見たまま小さく頷いた。


 祭礼の後、市を歩いた。


 これも招きの一部だった。


 清洲の商人たちは、こちらに声をかけてくる。


 露骨に近づく者もいる。


 遠巻きに見る者もいる。


 子供が「帳面様だ」と長秀を指差し、母親に慌てて口を押さえられる場面もあった。


 長秀は真顔で耐えていた。


「長秀」


「はい」


「人気者だな」


「若様、今は本当に」


「すまん」


「謝られると、余計に複雑です」


 久右衛門が横で笑っている。


 その途中、村井新七に会った。


 道普請の現場で土を見ていた男だ。


 今日は清洲側の荷場の手伝いに出ているらしい。


「若君」


「道はどうだ」


「昨日の雨では沈みませんでした。弥三郎殿と岩室殿も、朝から見に行っております」


「逃げていないか」


「逃げておりません」


「そうか」


 新七は少し迷った後、言った。


「弥三郎殿は、まだ不満そうです。ですが、水の流れは見るようになりました」


「岩室は」


「泥が嫌そうです」


「正直でよい」


「ただ、橋板の数を数えるのは早いです。もともと文書方ですので」


「使えるか」


 新七は一瞬驚き、それから真剣に答えた。


「使い方次第かと」


「よい答えだ」


 俺は長秀を見た。


「新七の名を、また残せ」


「すでに残しています」


「仕事が早い」


「帳面様ですので」


 自分で言った。


 ついに諦めたらしい。


 いや、少し誇っているのかもしれない。


 言わないでおいた。


 市の端で、俺は河尻と短く話した。


 人混みから少し離れた場所だった。


「今日の招き、清洲の総意か」


 俺が聞くと、河尻は少し笑った。


「総意など、清洲にはなかなかございません」


「尾張にもない」


「でしょうな」


「では、誰の意だ」


「まずは町方。次に、道を止められて困った者たち。そして、古い名が曇ることを嫌った者たち」


「お前は?」


「私は、扉を少し開けておいた方が、風通しがよいと思いました」


「古い屋敷は、風を嫌うものではないのか」


「湿気がこもれば、柱が腐ります」


 よい返しだった。


 俺は少し笑った。


「河尻」


「はい」


「清洲の奥は、まだ湿っているか」


 河尻の目が細くなる。


「若君は、なかなか嫌なところを突かれる」


「答えは」


「湿っております」


「誰が乾かす」


「一人では無理でございましょう」


「だろうな」


 河尻は市の方を見た。


「今日のような小さな火と、小さな風を、何度も入れるしかありますまい」


「清洲の老臣が、そんなことを言ってよいのか」


「年寄りは、ときどき勝手なことを言うものです」


「政秀みたいだな」


「平手殿のことは存じております。厳しい方だったとか」


「うるさい爺だった」


「よい爺だったのでしょうな」


 俺はすぐには答えなかった。


 しばらくして、言った。


「ああ」


 短い返事だった。


 だが、河尻はそれ以上聞かなかった。


 帰り道、信勝は少し疲れていた。


 人前で言葉を置くのは、体以上に疲れる。


 俺もそうだ。


 ただ、俺は疲れた顔を見せまいとして、逆に顔が働きすぎるらしい。


「兄上」


「何だ」


「今日は、うまくいったのでしょうか」


「半分は」


「もう半分は」


「これからだ」


「そうですね」


 信勝は清洲の方を振り返った。


「でも、火は消えませんでした」


「ああ」


「清洲の人々が、同じ火を見ました」


「それだけでも、今日はよい」


 信勝は小さく頷いた。


「兄上」


「まだあるか」


「私は今日、兄上の横に立っていた気がします」


 俺は弟を見た。


 信勝は少し照れたように前を向く。


「下でも、上でもなく」


「そうか」


「はい」


「なら、次も立て」


「怖いです」


「俺もだ」


「でも、立ちます」


「それでいい」


 那古野に戻ったのは、夕暮れ前だった。


 無理のない行程だ。


 城へ入ると、帰蝶が待っていた。


「お帰りなさいませ」


「戻った」


「火は」


「消えなかった」


 帰蝶は少しだけ目元を緩めた。


「それは、何よりです」


「飯は」


「もちろん」


「今日は食う」


「よいことです」


 俺は苦笑した。


 清洲からの小さな招きは、大きな勝利ではなかった。


 だが、清洲の市で、那古野の俺と信勝が並び、熱田へ通った油の火を見た。


 清洲の古い顔も、商人も、社の者も、馬借も、子供も見た。


 それは一つの光景になった。


 人は、言葉だけでは動かない。


 光景で動くことがある。


 今日の火が、どこまで残るかは分からない。


 明日にはまた、誰かが扉を閉めようとするかもしれない。


 それでも、清洲は一度こちらを招いた。


 こちらは、それに応じた。


 小さい。


 だが、道は小さい足跡から固まる。


 俺は、その夜の灯火を見ながら思った。


 尾張はまだ一つではない。


 けれど今日、清洲の側から小さな火が差し出された。


 ならば、こちらもその火を消さぬようにする。


 燃やしすぎず。


 曇らせず。


 次の道へ運ぶために。

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