第32話 道普請の噂
弥三郎と岩室主計が、道普請に回された。
その話は、思ったより早く広がった。
清洲で荷を止めた者。
守護家の名を掲げた者。
御奥の心などという曖昧な言葉で、道を曇らせた者。
その二人が、今度は実際に泥の中へ入り、橋板を運び、水を逃がす溝を掘ることになった。
斬られたわけではない。
牢に閉じ込められたわけでもない。
追放されたわけでもない。
道を止めた者が、道を直す。
ただ、それだけだ。
だが、人は「ただそれだけ」をよく食う。
噂というものは、味付け次第でいくらでも膨れる。
「若様」
朝から恒興が妙な顔でやって来た。
「何だ」
「町で妙な歌が出ています」
「歌?」
「はい」
恒興は言いづらそうに口を動かした。
「守護の名で荷止めたら、鍬持たされて泥を掘る、というような」
「それは歌か」
「節がついております」
「誰が歌っている」
「馬借と子供です」
「最悪の組み合わせだな」
馬借は道を歩く。
子供は遠慮を知らない。
この二つが歌い出したら、噂はあっという間に広がる。
「長秀は聞いたか」
「聞いて、顔を覆っておりました」
「なぜ長秀が」
「帳面様も歌に入っているので」
俺は嫌な予感がした。
「どんな」
恒興は本当に申し訳なさそうに言った。
「帳面様が名を書けば、偉い御名も泥まみれ……と」
俺はしばらく黙った。
それから、少し笑ってしまった。
「長秀には悪いが、よくできている」
「若様」
「いや、悪いとは思っている」
「顔が」
「言うな」
噂は、止めようとすると増える。
歌ならなおさらだ。
無理に禁じれば、今度は隠れて歌われる。
隠れて歌われるものほど、妙な力を持つ。
ならば、どこまで放っておくかが問題だった。
「歌うのを止めますか」
恒興が聞く。
「止めぬ」
「長秀殿が泣きませんか」
「あいつは泣かない。たぶん」
「たぶん」
「ただ、歌詞が変な方向へ行ったら止める」
「変な方向とは」
「守護家そのものを笑う形だ」
恒興は頷いた。
弥三郎や岩室を笑うだけなら、まだよい。
いや、よくはないが、噂として流せる。
だが、守護家の名そのものを笑う歌になれば、清洲の古い顔が黙っていない。
こちらが望んでいるのは、名を曇らせた者を実務へ落とすことだ。
守護家そのものを侮ることではない。
そこを間違えると、せっかく少し開いた扉がまた閉まる。
「長秀を呼べ」
「はい」
ほどなく、長秀が来た。
いつも通り帳面を抱えている。
だが、顔が少し疲れていた。
仕事の疲れだけではない。
歌の疲れだろう。
「帳面様」
「若様」
すごく嫌そうな声だった。
「歌になったらしいな」
「存じております」
「怒っているか」
「怒るより先に、どう止めればよいか考えておりました」
「止めるな」
長秀は顔を上げた。
「よろしいのですか」
「今のところは」
「守護家を笑う流れになれば」
「止める」
「同じ見立てです」
「ならよい」
長秀は少し安心したように息を吐いた。
「ただ、弥三郎と岩室の耳にも届きましょう」
「届くだろうな」
「二人が逆恨みすれば」
「その時は、その時だ」
俺は少し考えた。
「いや、違うな」
「違いますか」
「二人の様子を見たい」
「道普請の場へ行かれますか」
「行く」
長秀の顔が、あからさまに「やはり」と言った。
「何だ」
「そうおっしゃると思いました」
「俺はそんなに分かりやすいか」
「最近は」
「帰蝶のせいだな」
「違うと思います」
長秀は珍しく即答した。
失礼な。
いや、たぶん正しい。
道普請の現場は、清洲と那古野の間にある小さな橋の近くだった。
以前、守山道で見たぬかるみほどではない。
だが、雨が降れば水が溜まり、荷車の輪が沈む。
荷を通す者は避けたい。
しかし避ければ遠回りになる。
そういう場所だ。
弥三郎と岩室は、そこで人夫たちとともに働いていた。
もちろん、ただの人夫にしたわけではない。
清洲側の監督がつき、那古野側からも長秀の者が記録を取る。
どの場所を直し、誰が働き、どれだけ銭が出て、どこから材が来たか。
そこまで残す。
道普請そのものが、一つの前例になる。
俺が現場に着くと、空気が一瞬止まった。
人夫たちが手を止める。
馬借が目を丸くする。
清洲側の監督が慌てて頭を下げる。
弥三郎は鍬を持ったまま固まった。
岩室主計は、泥のついた袖を隠すように一歩下がった。
「手を止めるな」
俺は言った。
「見るために来た。止めるためではない」
人夫たちは戸惑いながらも作業を再開した。
泥を掘る音。
板を運ぶ音。
水を逃がす溝へ土を寄せる音。
道を直す音は、戦場の音より地味だ。
だが、耳に残る。
「弥三郎」
俺が呼ぶと、弥三郎は青ざめた顔でこちらへ来た。
泥が膝まで跳ねている。
以前のような強い目はない。
だが、完全に折れたわけでもない。
「若君」
「働いているか」
「……はい」
「守護家の名を守るより、泥を掘る方が楽か」
弥三郎は顔をこわばらせた。
少しきつい言い方だった。
だが、ここで優しくしすぎてもいけない。
「楽では、ございませぬ」
「だろうな」
「私は、守護家を汚すつもりなど」
「知っている」
弥三郎が顔を上げた。
「知っている。お前は守るつもりだった。だから厄介だった」
「厄介……」
「悪事のつもりなら斬りやすい。守るつもりで道を止める者は、斬れば美談にされる」
弥三郎の顔が歪んだ。
悔しいのだろう。
自分が浅かったと分かり始めているが、まだ完全には認めたくない。
その顔だった。
「道を見ろ」
俺は言った。
「お前が止めたのは、紙の上の道ではない。こういう泥の道だ。荷を運ぶ者がいて、馬がいて、橋があり、水が溜まる。ここが詰まれば、米も炭も油も遅れる」
弥三郎は黙っていた。
「守護家の名を守りたいなら、この道がどう使われているか見ろ。名だけ見て道を見ぬ者は、また同じことをする」
「……はい」
小さな返事だった。
だが、嘘ではなさそうだった。
次に岩室主計を呼んだ。
こちらは弥三郎より顔色が悪い。
文書方だった男が、泥の中で働かされている。
屈辱だろう。
その屈辱をどう受け止めるかで、今後が変わる。
「岩室」
「はっ」
「筆より鍬は重いか」
岩室は唇を震わせた。
「重うございます」
「そうか」
「私は、ただ……清洲の作法が乱れることを」
「お前は、誰の名で文を書いた」
岩室は黙った。
「御奥の心か」
「……はい」
「その御奥は、今ここにいるか」
岩室は答えられなかった。
「いない者の心を勝手に背負うな。背負ったつもりになって、人を動かすな」
俺の声は、自分で思ったより低くなった。
「お前が背負ったのは御奥の心ではない。お前自身の不安だ」
岩室の肩が震えた。
図星だったのだろう。
古い作法が崩れる不安。
自分の役が軽くなる不安。
那古野の帳面が清洲の奥へ入ってくる不安。
それを、御奥の心と呼んだ。
そうすれば、自分の不安が立派なものに見える。
「不安なら不安と言え」
俺は続けた。
「面目が傷つくなら、面目が傷つくと言え。銭の流れが変わって困るなら、困ると言え。御奥などと曖昧な影を出すな」
岩室は泥の上に手をついた。
「申し訳、ございませぬ」
「謝る相手は俺だけではない」
「はい」
「清洲にも、守護家にも、この道を使う者にもだ」
「はい」
俺は少し息を吐いた。
ここまで言っても、人は簡単に変わらない。
弥三郎も岩室も、今日の言葉で生まれ変わるわけではない。
だが、泥の重さは体に残る。
鍬の重さも残る。
歌われた悔しさも残る。
それが毒になるか、薬になるかは、まだ分からない。
「若様」
横にいた長秀が小声で言った。
「少し人が集まっております」
見ると、道の脇に人が増えていた。
馬借。
近くの百姓。
清洲の下役。
那古野から来た者。
皆、見ている。
信長が泥の道で弥三郎と岩室に何を言ったのか。
この話は、また噂になる。
ならば、噂になる言葉を置いておくべきだった。
「聞け」
俺は少し声を張った。
人々が静まる。
「この二人は、道を止めた。守護家の名、御奥の心という曖昧な言葉で荷を止めた。だから、今ここで道を直している」
ざわめきが起きる。
「だが、これは守護家を笑うためではない。清洲を辱めるためでもない」
人々が黙った。
「守護家の名は重い。重いからこそ、勝手に持ち出してはならぬ。祈りの名も同じだ。信勝が言った通り、曇らせてはならぬ。名を守るなら、まずその名をどこで預かったのか明らかにせよ」
信勝の名を出した。
これは意図していた。
この言葉がまた広がる。
信勝の言葉は、守護家の名を辱めるためではなく、名を曇らせぬためにある。
そう流れてほしい。
完全に思い通りにはならないだろう。
だが、置く。
「そして、道を使う者も聞け」
俺は馬借たちの方を見た。
「銭を払う時、何の銭か聞け。荷を止められた時、誰の名で止めるのか聞け。ただし、勝手に争うな。名を聞き、筋を聞き、こちらへ知らせろ」
仁助が、いつの間にか人垣の中にいた。
なぜいる。
いや、こういう時にはだいたいいる。
「若様、知らせれば帳面様が来ますか」
誰かが笑いそうになる。
長秀が少し嫌な顔をした。
「来る」
俺が答えると、今度は本当に笑いが漏れた。
「ただし、嘘を知らせれば、お前の名も残る」
笑いが引っ込んだ。
それでいい。
笑いだけでは軽くなる。
少し冷やしておく。
「道は皆が使う。だから誰のものでもない、では困る。皆が使うなら、皆で守る。名を出す者は責も出せ。銭を取る者は理由も出せ。荷を止める者は筋を出せ」
俺は弥三郎と岩室を見た。
「道を止めた者が道を直す。これは見せしめではない。責の置き場だ」
その言葉は、自分でも少し気に入った。
責の置き場。
帰ったら佐久間に文にしてもらおう。
いや、帰蝶に顔を読まれそうだ。
長秀はもう書いている。
仕方ない。
使える言葉は使う。
道普請の現場を見た後、俺は近くの仮小屋で清洲側の監督と話した。
監督は若い男だった。
名を村井新七という。
清洲の古い家ではない。
実務で上がってきた者らしい。
目がよく動く。
こちらを恐れてはいるが、道そのものにも関心がある顔だった。
「この道は、どれくらいで直る」
俺が聞くと、新七はすぐ答えた。
「今日明日で水を逃がす溝は通せます。橋板の入れ替えは三日ほど。ただ、土を固めるには荷を急に通しすぎぬ方がよろしいかと」
「通しすぎると」
「また沈みます」
「では、荷の通し方も決める必要があるな」
「はい。重い荷は一日置いてから。軽い荷は明日夕方には」
長秀がすぐ書く。
新七はその筆を見て、少し怯えた。
「何か」
「いえ、帳面様に書かれると緊張します」
「その名はやめてください」
「すみません」
長秀は本気で困っていた。
だが、もう手遅れだろう。
「新七」
俺は言った。
「お前、道を見る目があるな」
新七は驚いた顔をした。
「私が、でございますか」
「ああ。誰の面目で道が動くかではなく、土がどう沈むかを見ている」
「父が、道普請の者でしたので」
「そうか」
清洲にもこういう者がいる。
古い顔だけではない。
名の奥で飯を食う者だけでもない。
土を見て、橋を見る者もいる。
こういう者を拾えるかどうかで、政は変わる。
「長秀」
「はい」
「新七の名も残せ」
新七がぎょっとした。
「私の名を、ですか」
「悪い意味ではない」
「しかし、名が残るのは」
「怖いか」
「はい」
「怖いなら、よい仕事をしろ。名は悪事だけで残すものではない」
新七は、しばらく俺を見ていた。
それから、深く頭を下げた。
「励みます」
帰り道、長秀が言った。
「若様、村井新七を使うおつもりですか」
「まだ分からぬ」
「顔は使う気でした」
「顔を見るな」
「帰蝶様ほどではありません」
「皆、俺の顔を何だと思っている」
「働き者です」
俺は少し笑った。
だが、新七のことは頭に残った。
清洲の中にも、実務を見る者がいる。
そういう者をつなげば、清洲の古い扉の内側にも別の道ができる。
武で城を取るより時間はかかる。
だが、取った後に使える。
もちろん、そこまでうまくいく保証はない。
実務の者も、いつか名を得れば変わるかもしれない。
それでも、見つけたなら覚えておくべきだ。
那古野へ戻ったのは夕方だった。
移動距離としては無理のない一日だ。
ただ、泥の現場を歩いたせいで足が重い。
犬千代は妙に元気だった。
「道普請も、なかなか戦でございますね」
「何でも戦にするな」
「しかし、土が相手です。押せば崩れるし、水を逃がせば弱くなる。敵の陣に似ています」
長秀が少し感心した顔をした。
「その見方は使えますね」
「帳面に書きますか」
「書きます」
犬千代が嬉しそうにした。
こいつも変わってきた。
変な方向へだが。
城へ戻ると、帰蝶が俺の足元を見た。
「泥だらけですね」
「道普請を見てきた」
「見ただけですか」
「少し歩いた」
「少し?」
「かなり」
「湯を用意させます」
「飯は」
「その後です」
「順番が変わったな」
「泥のまま座られると困ります」
もっともだった。
湯で泥を落とすと、少し体が軽くなった。
だが、頭はまだ道普請の現場にいた。
弥三郎の顔。
岩室の震えた声。
村井新七の土を見る目。
馬借たちの歌。
子供たちの笑い。
そして、俺が口にした言葉。
責の置き場。
それを帰蝶に話すと、彼女は少し考えてから言った。
「よい言葉ですね」
「かなりか」
「かなり」
「本当に?」
「はい。責を罰としてだけでなく、置く場所として見せられます」
「使えるか」
「使えます。ただし、使いすぎると軽くなります」
「分かっている」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは相変わらずですね」
帰蝶は小さく笑った。
その夜、佐久間に道普請の触れの下書きを命じた。
内容は簡潔にした。
守護家の名を騙り荷を止めた者たちは、死罪ではなく道と橋の修繕へ回されたこと。
これは清洲を辱めるためではなく、名を曇らせた責を、実際の道を直すことで負わせるためであること。
今後、荷を止める者は、誰の名で、何のために、どの筋で止めるのか明らかにすること。
道を使う者は、筋の見えぬ名に従う前に届けること。
そして最後に、信勝の言葉を少し変えて入れた。
――名を守るとは、名の陰に隠れることではない。名を曇らせぬよう、責を明らかにすることである。
これは、俺の言葉か、信勝の言葉か、長秀の帳面の言葉か、河尻の処分の言葉か。
たぶん全部だ。
一人の言葉ではなくなっている。
それが少し面白かった。
翌日、その触れが町に出ると、例の歌は少し変わった。
守護の名で荷止めたら、鍬持たされ泥を掘る。
そこまでは同じ。
だが、その後に誰かが付け足した。
道を直せば名も直る、帳面様が見てござる。
長秀は本当に頭を抱えた。
俺は笑った。
笑った後で、少しだけ考えた。
道を直せば名も直る。
民の歌は、時々こちらより先に本質を拾う。
もちろん、乱暴だ。
正確ではない。
だが、届く。
これをどう扱うか。
禁じるのではなく、流れを見守る。
それが今はよい。
長秀には悪いが。
「若様」
長秀が疲れた顔で言った。
「せめて帳面様の部分だけ」
「諦めろ」
「若様」
「道が通るためだ」
「私の名が通りすぎています」
「よいことだ」
「本当にそう思っておられますか」
「半分は」
長秀は深くため息を吐いた。
だが、その顔には完全な嫌悪だけではなかった。
自分の名が町に流れる怖さ。
それを、長秀も少し知り始めている。
信勝と同じだ。
名を持つ者は、名を使われる。
ならば、自分でその名をどう扱うか決めなければならない。
帳面様。
不本意な名だろう。
だが、その名が町人に「名を残される」という感覚を植えつけている。
それは武器になる。
刃ではない。
縄でもない。
目だ。
見られているという目。
それが、道を少し正す。
夜、俺は地図に新しい印を入れた。
道普請の場所。
弥三郎と岩室が働く場所。
村井新七の名。
雨の日の水の流れ。
そこに、小さく「責の置き場」と書いた。
自分で書いて、少し笑った。
政秀なら、また難しいことを書き始めたと小言を言うだろう。
父上なら、よいから実際に直ったか見ろと言うだろう。
帰蝶なら、顔が働いていると言う。
信勝なら、道を直す者の心も置き去りにするなと言うかもしれない。
うるさい者が増えた。
だが、悪くない。
道普請の噂は、尾張の中を流れ始めた。
笑いとして。
警告として。
少しの安心として。
少しの恐れとして。
名を盗めば、泥を掘る。
だが、泥を掘れば、名も少し直るかもしれない。
その噂が本当になるかどうかは、これからだ。
俺は灯火を見た。
熱田の火とは違う、小さな灯り。
その下で、地図の道は細く伸びている。
尾張はまだ一つではない。
けれど、道を直す者の噂が流れるくらいには、少しずつつながり始めている。




