第31話 清洲の奥にいる者
長秀が清洲から戻ったのは、翌日の昼過ぎだった。
雨は夜のうちに止んでいたが、道はまだ湿っていた。
馬の脚にも、長秀の裾にも、泥が跳ねている。
それでも長秀は、いつも通り帳面を抱えていた。
あの男は、戦場で槍を落としても帳面だけは抱えて戻ってくるのではないかと思う。
試したくはないが。
「戻ったか」
「はい」
「飯は」
俺が聞くと、長秀は一瞬固まった。
「若様が、それを私にお聞きになるのですか」
「俺も聞かれる側だからな」
「清洲で少し」
「少しか」
「道が悪く、戻りを急ぎましたので」
横にいた帰蝶が静かに言った。
「では、まず食べてください」
長秀が、珍しく助けを求めるように俺を見た。
残念ながら無理だ。
帰蝶がそう言ったなら、食うしかない。
「食え」
「若様まで」
「食ってから話せ。倒れられると困る」
長秀は観念したように頭を下げた。
「承知しました」
長秀が飯を食っている間、俺は清洲から持ち帰った書付を見た。
河尻左衛門尉の名で出された正式な報告。
弥三郎は荷場の役を外され、守護家に関わる取次からも遠ざけられる。
今後は橋と道の修繕方へ回す。
岩室主計については、守護家周辺の文書を扱う立場を一時停止し、取り調べを続ける。
清洲としても、守護家の名を曖昧に使うことは認めない。
文面は整っていた。
面目を保ちつつ、こちらの言い分も受けている。
河尻らしい。
だが、俺は最後の一文で手を止めた。
――なお、此度の件、守護家御内の御心を騒がせたこと、清洲としても遺憾に存じ候。
守護家御内。
そこに、何かが隠れている。
守護家そのものではない。
守護家の内側。
奥。
名の陰。
古い幕の向こう。
そういう匂いがした。
長秀が飯を終え、戻ってきた。
茶を飲む前に帳面を開こうとしたので、帰蝶が無言で茶碗を差し出した。
長秀は逆らわなかった。
この城では、帰蝶に逆らわない者が増えている。
よいことなのか、怖いことなのか。
半分ずつだ。
「さて」
俺は書付を置いた。
「清洲の奥で、何が見えた」
長秀は茶碗を置き、少し考えた。
「弥三郎は、小者です」
「だろうな」
「ただし、ただの小者ではありません。古い名の近くに立っている自分を、特別な者だと思っている小者です」
「厄介だな」
「はい」
長秀は帳面を開いた。
「弥三郎は、守護家の名を守るつもりで荷を止めた。これは本人の中では本当です。ですが、その考えを形にしたのは岩室主計です」
「岩室は何と言った」
「まだ直接は多くを語っていません。ですが、河尻殿の取り調べで、いくつか分かりました」
「言え」
「岩室は守護家の周辺で文書を扱う小吏です。正式な裁可を出せる立場ではありません。ですが、古い書付、印、取次の言葉をよく知っています」
「名の匂いをまとえる男か」
「まさに」
長秀は頷いた。
「弥三郎のような者には、岩室の言葉が守護家の声に聞こえる」
「岩室自身は、守護家のためと言ったか」
「言ったそうです。ただし、河尻殿が『誰から命じられた』と問うと、『御奥のご心配を汲んだ』と」
「御奥」
俺はその言葉を繰り返した。
部屋の空気が少し重くなった。
信勝も同席していた。
その顔が静かに強張る。
「守護家の奥にいる誰かか」
「それが一人なのか、複数なのか、あるいは岩室が勝手にそう呼んでいるだけなのか、まだ分かりません」
長秀は言った。
「ですが、清洲には『奥の御心』という曖昧な言葉があるようです」
「便利だな」
「はい。誰の命でもない。けれど、誰か偉い方の意に沿っているように聞こえる」
俺は思わず笑った。
笑ったが、面白いわけではない。
腹が立ちすぎると、人は笑うことがある。
「つまり、名を盗むよりさらに奥か」
「はい」
「名を盗んだ者に、名を渡した者がいる。その渡した者は、自分が誰の名を持っているか曖昧にする」
「そして、曖昧なまま人を動かします」
長秀の声は低かった。
「若様。これは、弥三郎だけの話ではありません」
「分かっている」
守護家の名。
御奥の心。
清洲の作法。
そういう曖昧な言葉を使えば、誰も責を取らずに人を動かせる。
動いた者だけが表に出る。
奥にいる者は、御心を汲んだだけだ、と言って隠れる。
これは厄介だ。
敵が見えないからではない。
敵と呼べるほど単純ではないからだ。
そこにいるのは、守護家を本気で案じる者かもしれない。
清洲の格式を守りたい老女かもしれない。
昔からの取次で飯を食う者かもしれない。
あるいは、その全部かもしれない。
悪党一人を見つけて斬れば済む話ではない。
「兄上」
信勝が口を開いた。
「その『御奥』という言葉は、私の周りでも起こり得ます」
「お前の周り?」
「はい。『信勝様のお心を汲んで』と言えば、私が言っていないことでも私の意のように動かせます」
その通りだった。
稲生の前、まさにそれが起きかけた。
いや、起きた。
信勝本人が望んでいなくても、信勝様のため、信勝様のお心を思って、と言って人は動く。
名だけではない。
心まで盗まれる。
「名を盗むだけではなく、心を盗むか」
俺が言うと、信勝は静かに頷いた。
「はい」
「嫌な話だな」
「とても」
信勝の声には、実感があった。
自分の名を使われた者の声だ。
「では、どうする」
俺は信勝に聞いた。
弟は少し考えた。
「まず、言葉をはっきりさせるべきかと」
「何の言葉を」
「『御奥の心』という曖昧な言葉は、正式な命ではない。誰かの心を汲むなら、誰の、どの言葉を汲んだのか明らかにせよ、と」
長秀の筆が動いた。
信勝は続ける。
「ただし、守護家の奥を辱めるように問えば、清洲は閉じます」
「なら」
「守護家の御名と御心を曇らせぬため、と」
俺は笑った。
「お前、その言い方が板についてきたな」
「兄上が使うので」
「俺のせいか」
「半分は」
言い返しまで上達している。
腹立たしいが、よい。
「佐久間」
俺が呼ぶと、控えていた佐久間が頭を下げた。
「はっ」
「清洲への文を作る。岩室の件について、こちらは清洲の処分を尊重する。ただし、今後『御奥の心』や『誰それ様の御意』という曖昧な言葉で荷や道を止めることを避けるため、正式な命と私的な心配を分けたい、と」
「承知しました」
「信勝の言葉も入れろ。守護家の御名と御心を曇らせぬため、と」
「はい」
「長秀」
「はい」
「お前は清洲で聞いた『御奥』に関わる言葉を全部整理しろ。ただし、誰かをすぐ名指しするな」
「名指ししないのですか」
「今はまだ早い。清洲の内で、誰がどこまで自分から出てくるか見る」
長秀は頷いた。
「承知しました」
「柴田は」
俺は恒興を見た。
「兵の訓練です」
「そのまま続けさせろ。だが、清洲方面の小競り合いには乗るなと伝えろ」
「はい」
兵を動かしたくなる場面は、これから増える。
相手は、こちらが怒るのを待っている時がある。
怒った方が悪く見えるように、先に小さく刺す。
それを何度もやられると、腹が立つ。
だが、腹が立った時こそ、相手が何を望んでいるか見なければならない。
面倒だ。
実に面倒だ。
その日の夕方、岩室主計についてさらに報せが来た。
清洲で、岩室が取り調べを受けた後に倒れたという。
病ではない。
気を失ったらしい。
その際、岩室の懐から、小さな紙片が見つかった。
そこには、こうあった。
――那古野の帳面、いずれ守護家の奥に及ぶ。今のうちに道を止め、清洲の作法を示すべし。
署名はない。
筆跡も岩室のものではないらしい。
「差出人不明の紙か」
俺は報せを読み、低く言った。
「奥にいる者が紙を使ったか」
帰蝶が横で聞いていた。
「あるいは、奥にいる者のふりをした者かもしれません」
「そうだな」
清洲の奥。
そのさらに奥に、本当に誰かがいるのか。
それとも、奥という言葉そのものが化け物のように人を動かしているのか。
どちらにしても、厄介だ。
「信長様」
「何だ」
「奥にいる者を、すぐ引きずり出したくなっていませんか」
「なっている」
「でしょうね」
「顔か」
「はい」
「便利だな、俺の顔は」
「危ないとも言います」
帰蝶は容赦がない。
「今、無理に奥を暴けば、清洲は守護家を守るために閉じます」
「分かっている」
「ですが、放ればまた動きます」
「だから、紙を表へ出す」
帰蝶が目を細めた。
「表へ?」
「差出人不明の紙で、守護家の奥が疑われた。これは守護家の名を最も曇らせる。だから清洲自身に、そういう紙を許さぬと言わせる」
「清洲に自浄を求めるのですね」
「そうだ」
「拒まれたら」
「拒む理由がない。守護家の名を守るためだ」
帰蝶は少しだけ笑った。
「嫌な手を覚えられましたね」
「お前の父と河尻のせいだ」
「私も少しは?」
「かなり」
「光栄です」
翌日、清洲へ送る文が整った。
守護家の名を曇らせぬため、差出人不明の紙により御奥の名が取り沙汰されることを避けるべきである。
今後、守護家の御意、御奥の御心などの言葉を用いて荷や道を止める場合は、正式な取次と名を明らかにすること。
曖昧な紙や口伝で道を止める者は、清洲と那古野の双方で名を盗む者として扱うこと。
強い文だった。
だが、守護家を責めていない。
むしろ守護家の名を守るための文だ。
清洲がこれを拒むなら、清洲自身が曖昧な紙を守ることになる。
佐久間は文を読み終え、静かに言った。
「若君、この文は清洲の奥へ刺さります」
「刺すためだ」
「深く刺されば、反発もございます」
「浅く刺せば、抜かれる」
「では、抜きにくい深さで」
「頼む」
佐久間は少しだけ笑った。
この男も、随分と俺のやり方に慣れてきた。
慎重なまま、少しだけ踏み込む。
よい。
文を出した後、俺は信勝と短く話した。
弟は、自分の言葉がまた文に入ったことを、怖がっていた。
だが、逃げなかった。
「兄上」
「何だ」
「御奥という言葉は、怖いですね」
「ああ」
「誰もいないようで、誰かがいる。誰かがいるようで、誰も責を取らない」
「お前の周りにもあった」
「はい」
信勝は膝の上で手を握った。
「私の名だけでなく、私の心まで盗まれないようにしなければなりません」
「そのためには、自分で言葉を持て」
「はい」
「ただし、言葉を持ちすぎると、今度は言葉に縛られる」
「難しいですね」
「難しい」
「兄上でも?」
「俺だから難しい」
信勝は小さく笑った。
その笑いには、以前より少し兄弟らしさがあった。
完全に安心できるものではない。
だが、悪くない。
数日後、清洲から返答が来た。
河尻左衛門尉と、坂井孫八郎の連名だった。
差出人不明の紙をもって守護家御奥の名を騒がせることは、清洲としても看過しない。
今後、守護家の御意を称する場合は正式な取次を明らかにする。
荷や道に関わるものは、清洲と那古野で取り決めた筋を乱さぬようにする。
岩室主計は文書方から外され、弥三郎と同じく一定期間、橋と道の修繕に関わらせる。
俺は読み終え、息を吐いた。
「二人とも道か」
長秀が頷いた。
「清洲は、こちらの処分の筋を採りました」
「河尻の案だろうな」
「はい。ですが、坂井孫八郎の名も入っています」
「清洲の実務も乗ったか」
「少なくとも表向きは」
信勝が文を読み、静かに言った。
「少し、扉が開いたままになりましたね」
「閉める手を一本、道普請へ回しただけだ」
「それでも、大きいです」
「そうだな」
大きい。
たしかに大きい。
弥三郎も岩室も、死んではいない。
だが、古い名の近くから外され、道を直す役へ回された。
名を曇らせた者が、実際の道を直す。
これは清洲にとっても那古野にとっても、一つの前例になる。
名の陰で動いた者を、名の陰に隠したままにしない。
ただ斬るのでもない。
実務へ落とす。
これもまた、尾張を組み直すやり方の一つだ。
その夜、俺は一人で父上の文箱を開いた。
清洲に関する古い書付を読み返す。
父上は、守護家を軽んじるなと書いていた。
だが、守護家の名に食われるなとも書いていた。
この二つは矛盾しない。
重い名は、扱いを誤ると人を食う。
だから軽んじてはいけない。
だから飲まれてもいけない。
俺はようやく、その意味を少し分かり始めていた。
清洲の奥にいる者。
それは一人の黒幕ではなかった。
いや、どこかに黒幕めいた者もいるのかもしれない。
だが、それだけではない。
古い名に寄りかかる者。
曖昧な心を御意に変える者。
誰かのためと言って、自分の不安を道へ置く者。
そういう者たち全体が、清洲の奥にいる。
ならば、相手は一人ではない。
だから、こちらも一人では足りない。
長秀の帳面。
信勝の言葉。
佐久間の文。
柴田の兵。
帰蝶の目。
犬千代の我慢。
恒興の足。
全部要る。
まったく、面倒な話だ。
だが、面倒なものほど、後で効く。
俺は文箱を閉じた。
外では、雨上がりの風が吹いていた。
道は、少しずつ乾くだろう。
乾いた道には、また荷が通る。
その道を誰が直したか。
誰が止めたか。
誰が名を使ったか。
誰が名を守ったか。
全部、いずれ人の口に残る。
ならば、こちらも残す。
帳面に。
触れに。
人の記憶に。
織田の名に。
清洲の奥にいる者たちは、まだこちらを見ている。
こちらも見る。
見て、名を問う。
御奥などという曖昧な影ではなく、誰が、何を、なぜしたのか。
そこまで聞く。
尾張を組み直すには、まず影に名をつけねばならない。
その夜の飯は、帰蝶に言われる前に食った。
すると彼女は少し驚いた顔をした。
「今日は素直ですね」
「道が少し乾いたからな」
「どういう意味ですか」
「俺にも分からん」
帰蝶は小さく笑った。
俺も笑った。
清洲の奥は、まだ深い。
けれど、奥の前に置かれた古い扉は、少しずつ軋みながら開いている。




