第30話 名を盗む者、名を守る者
丹羽長秀が弥三郎を連れて清洲へ向かった朝、空は低かった。
雨になるか、ならぬか。
その境目のような雲が、尾張の上に垂れていた。
こういう日の道は厄介だ。
まだ降っていなくても、空を見た馬借が急ぐ。
急げば荷が揺れる。
荷が揺れれば、馬が嫌がる。
馬が嫌がれば、道の端で止まる。
そして止まった荷を見た者が、不安になる。
空模様一つで、人の心まで湿る。
以前の俺なら、そこまで考えなかった。
雨が降るなら降る。
道が悪いなら悪い。
それだけだった。
だが、今は違う。
道が悪くなれば、荷が遅れる。
荷が遅れれば、誰かが余計な銭を取る口実にする。
銭が曇れば、名が曇る。
名が曇れば、また誰かが守護だの清洲だの那古野だのを持ち出す。
空まで政に絡んでくる。
まったく、主というものは面倒な仕事だ。
「若様」
恒興が横に来た。
「長秀殿、そろそろ清洲へ着く頃かと」
「ああ」
「ご心配ですか」
「心配ではない」
「顔が」
「言うな」
恒興は笑いをこらえた。
最近、俺の周りは俺の顔を読みすぎる。
帰蝶のせいだ。
たぶん。
「長秀なら、無茶はしない」
「はい」
「だから心配している」
「矛盾していませんか」
「無茶をしない男は、無茶をさせられた時に困る」
恒興は少し真面目な顔になった。
「清洲が、長秀殿を?」
「清洲が、というより、清洲の古い顔がだ」
弥三郎。
守護家の名を持ち出して荷を止めた男。
その身柄を清洲へ引き渡す。
ただし、那古野から長秀が立ち会う。
これは、清洲の面目を立てながら、闇に戻さないための手だった。
だが、当然、清洲は面白くない。
自分たちの古い名の内側へ、那古野の帳面様が入り込むのだから。
河尻左衛門尉は、表では受け入れるだろう。
あの老臣は、そういう筋を外さない。
問題は、その周りにいる者たちだ。
名に住みつく者。
名の陰で飯を食う者。
名を守っているつもりで、実は名を曇らせている者。
そういう者たちは、弥三郎をどう扱うか。
それを見るために、長秀を送った。
兵ではない。
槍でもない。
帳面だ。
思えば妙な話だ。
少し前なら、俺は兵を出す方が早いと思っただろう。
だが今は、兵を出せば見えなくなるものがあると知っている。
斬れば話は終わる。
終わるが、何がそこにあったのか分からなくなる。
俺は、それを見たい。
見た上で斬るか、許すか、縛るか決めたい。
厄介なことを覚えてしまった。
政秀め。
死んでからも人を面倒にする。
清洲では、その頃、長秀が河尻左衛門尉の屋敷に通されていた。
ここから先は、後で長秀から聞いた話だ。
ただ、長秀の話し方は妙に細かいので、聞いているうちに俺もその場にいたような気分になった。
河尻の屋敷は、古かったという。
傷んでいるわけではない。
むしろ、手入れは行き届いている。
だが、新しさで人を圧する場所ではなかった。
古い柱。
黒く光る廊下。
手入れされた庭。
派手な飾りは少ない。
かわりに、長く使われてきたものの重みがある。
清洲の古い顔が住むには、似合いすぎる場所だったらしい。
「丹羽殿」
河尻左衛門尉は、長秀を見ると深く頭を下げた。
「遠路、御足労いただいた」
「弥三郎の件、若君より立ち会いを命じられております」
「承知しております」
河尻の声は穏やかだった。
だが、周囲の者の目は穏やかではなかった。
清洲の古参。
守護家の周辺にいる者。
寺社に顔の利く者。
直接の名は出さずとも、どの顔にも「なぜ那古野の若い家臣がここに座るのか」と書いてあった。
長秀はそれを見て、帳面を開く前に一礼した。
「本日は、清洲を責めるために参ったのではありません」
河尻の目が少し動いた。
「では、何を」
「名の筋を見に参りました」
その言葉で、場が静まったという。
名の筋。
誰が誰の名を預かり、どこで使い、どこから盗んだのか。
それをたどる。
これは、首を取るより面倒な話だ。
だが、ここでそれを見なければ、次も同じことが起きる。
弥三郎は、別室にいた。
連れてこられた時、顔は青かったが、ただ怯えているだけではなかったらしい。
怒りもあった。
悔しさもあった。
そして、自分は間違っていないという固さもあった。
これが一番厄介だ。
「弥三郎」
河尻が呼ぶ。
「はっ」
弥三郎は頭を下げた。
だが、長秀には、その頭が清洲へ下げているのか、守護家へ下げているのか、自分の正しさへ下げているのか分からなかったという。
「守護家の御意と称して荷を止めたな」
河尻の声は低い。
弥三郎は答えた。
「称したのではございません。守護家の御名を守るためにございます」
「誰から預かった」
「誰から、とは」
「守護家の御名を掲げるなら、誰からその名を預かった」
弥三郎は口を閉じた。
長秀は、その沈黙を書いた。
沈黙まで書くのかと、清洲の者の一人が顔をしかめたらしい。
長秀は気づかないふりをした。
もちろん、気づいていた。
「弥三郎」
今度は長秀が口を開いた。
「あなたは、守護家の名を守ろうとしたと言いましたね」
「左様でございます」
「では、その名が曇らぬよう、筋を明らかにしてください」
「筋など」
「守る名なら、筋があります。預かった名なら、預けた方がいる。届ける相手がいる。使う場所がある」
弥三郎は顔を上げた。
「那古野の方は、何でも帳面に書けば正しくなると思っておられる」
挑発だった。
周囲の空気が少し揺れる。
長秀は怒らなかった。
「いいえ」
静かに答えた。
「帳面に書いても、嘘は嘘です」
弥三郎が言葉に詰まる。
「だから、嘘を書かぬために聞いています」
河尻が、ほんの少し目を伏せた。
おそらく、この時点で河尻は長秀を少し認めたのだろう。
若造の使いではない。
名を扱う者として来ている、と。
「私は」
弥三郎はしばらくして言った。
「清洲の古き作法が軽んじられるのを見ておれなかったのです」
「誰に聞いた」
河尻が問う。
「町で」
「町の誰だ」
「荷場で、皆が申しておりました。那古野の帳面に名を取られれば、次は守護家の御用まで那古野に改められる、と」
長秀は筆を動かした。
噂。
まず噂だ。
弥三郎は続ける。
「熱田の触れもそうです。祈りを曇らせぬなどと言いながら、社の銭を分ける。次は清洲の銭を分ける。次は守護家の名を分ける。そうなれば、清洲は清洲でなくなります」
その言葉には、嘘がなかったという。
少なくとも、弥三郎本人はそう信じていた。
ここが難しい。
悪事としてやったのなら、処しやすい。
誰かに命じられ、銭を受け取って動いたなら、筋も追いやすい。
だが、噂を聞き、恐れ、自分が守らねばと思い込んだ者は、自分で火種になる。
しかも、周囲はそれを利用する。
「文は誰が書いた」
長秀が問う。
弥三郎は目を伏せた。
「私が」
「あなたの字ではありませんね」
長秀は原本の写しを出した。
「あなたの署名とは筆が違います」
弥三郎の顔が強張った。
清洲の者たちも少し動く。
長秀は続けた。
「誰が書いたのですか」
「……代筆を」
「誰に」
「名は、出せませぬ」
「なぜ」
「その方は、私の思いを形にしてくださっただけです」
長秀は筆を止めた。
弥三郎は、名を守っている。
自分が守護家の名を守ったつもりでいるように、今度は代筆した者の名を守っている。
だが、それは本当に守っているのか。
それとも、また盗ませているのか。
長秀は、信勝の言葉を思い出したという。
預かっていない名を掲げることは、守ることではなく盗むことである。
「弥三郎殿」
長秀は、あえて丁寧に呼んだ。
「あなたは、その代筆した方の名を預かりましたか」
「え」
「名を出さぬよう頼まれたのですか」
「それは」
「頼まれていないのなら、あなたは今、その方の名を勝手に守っているつもりになっているだけです」
弥三郎の顔が赤くなった。
「勝手に、とは」
「守護家の名も同じです」
長秀は言った。
「預かっていない名を守ることはできません。守るつもりで掲げれば、それは盗んだのと同じになります」
場が静まった。
これは、信勝の言葉だった。
だが、長秀の口から出ると、帳面の重さが乗った。
柔らかくはない。
逃げ道を塞ぐ言葉だった。
弥三郎は、しばらく何も言えなかった。
やがて、ぽつりと名を言った。
「岩室主計」
その名が出た時、河尻の顔がかすかに変わったという。
長秀は見逃さなかった。
岩室主計。
守護家の周辺に出入りする小吏。
清洲の古い文書や取次に関わる者。
大物ではない。
だが、古い名の近くにいる。
近くにいるから、名の匂いを少し身にまとえる。
そういう男だ。
「岩室主計が文を書いたのか」
河尻が聞く。
弥三郎は、ようやく小さく頷いた。
「はい。ただ、主計殿は……私の言葉を整えてくださっただけで」
「それを、人は焚きつけたと言うこともある」
河尻の声が少し冷えた。
長秀はその声を聞いて、清洲側も岩室を庇いきるつもりはないと見た。
ただし、どこまで切るかは別だ。
大きく切れば、守護家周辺の者たちが騒ぐ。
小さく切れば、那古野は納得しない。
ここからが本当の話だった。
休憩を挟んだ後、長秀と河尻は別室で向き合った。
弥三郎はいったん下げられた。
外は、とうとう雨が降り始めていたらしい。
細い雨だ。
庭の石を濡らすだけの雨。
だが、道には悪い。
「丹羽殿」
河尻が言った。
「此度のこと、清洲の内で処します」
「弥三郎だけですか」
「岩室主計も取り調べます」
「取り調べた結果を、那古野へも知らせていただきたい」
「承知している」
「書面で」
河尻は、少しだけ苦笑した。
「さすが帳面様でございますな」
「その名は不本意です」
「しかし、よく似合っておられる」
「まったく嬉しくありません」
河尻は小さく笑った。
その笑いは、前より少し柔らかかったという。
「丹羽殿。正直に申しましょう」
「はい」
「清洲には、那古野の触れを快く思わぬ者が多い」
「でしょうね」
「守護家の名、寺社の権、古い作法。それらの陰で生きてきた者は、帳面を嫌う」
「はい」
「だが、弥三郎のような者が守護家の名を持ち出して荷を止めれば、守護家の名そのものが軽くなる」
長秀は頷いた。
「若君も、そこを見ています」
「信長様は、守護家の名を軽んじてはおられぬのか」
「軽いなら、問わずに斬ります」
河尻は黙った。
長秀は続けた。
「重いから、筋を問うています」
「なるほど」
河尻は庭の雨を見た。
「重いものほど、扱いを誤れば人を潰します」
「はい」
「清洲の古い者たちは、それを自分たちだけが知っていると思っておりました」
「違いますか」
「違う、と今日少し思いました」
これは大きな言葉だった。
清洲の古い顔が、那古野の若い政を少し認めた。
いや、認めたとまではいかない。
見直した、くらいだろう。
だが、それで十分だ。
大きな扉は、いつも小さな音を立てて動く。
「弥三郎はどう処しますか」
長秀が聞いた。
河尻は少し考えた。
「死罪にはしません」
「理由は」
「守護家の正式な御意を偽ったわけではなく、曖昧な名を掲げて荷を止めた。罪はある。だが、斬れば守護家の名を守って死んだ者として語る者が出る」
長秀は、内心で頷いた。
信長と同じ見方だ。
「では」
「清洲の荷場から外します。守護家に関わる取次からも遠ざける。しばらくは寺社の修繕方に回し、橋や道の実務を見せる」
「道へ?」
「名を掲げて道を止めた者には、道を直させるのがよいかと」
長秀は初めて、はっきり河尻を見た。
面白い。
この老臣、古いだけではない。
「よい処分だと思います」
「那古野は納得されますか」
「私は、そう報告します」
「若君は」
「おそらく、悪くないと」
「おそらく?」
「若君は時々、こちらの予想と違うところを見られますので」
河尻は少し笑った。
「うつけ殿、と呼ばれた方ですからな」
「ただのうつけではありません」
「それは、清洲でも少しずつ知られ始めました」
そう言って、河尻は目を伏せた。
この会話を、長秀はそのまま帳面には書かなかった。
だが、覚えていた。
書かぬ方がよい言葉もある。
それを長秀も少しずつ学んでいる。
夕方近く、長秀から急使が来た。
雨は弱く、道はまだ悪くなりきっていなかったので、使いは思ったより早く那古野へ着いた。
報告は短かった。
弥三郎は岩室主計の名を出した。
河尻は清洲の内で岩室も取り調べる意向。
弥三郎は死罪ではなく、荷場と守護家取次から外し、道と橋の修繕方へ回す案。
正式な文は明日、長秀が持ち帰る。
俺は読み終え、少し笑った。
「道を止めた者に、道を直させるか」
横にいた信勝が言った。
「よい処分ですね」
「ああ」
「兄上が考えそうです」
「俺より河尻の方が先だった」
「悔しいですか」
「少し」
信勝が小さく笑った。
最近、弟も俺をからかうようになった。
悪くない。
いや、少し腹立たしい。
「この処分なら、弥三郎は生きて責を負う」
信勝は言った。
「守護家の名も、清洲の面目も、完全には傷つけない」
「岩室主計をどうするかが次だ」
「はい」
「弥三郎だけなら小者。岩室まで行けば、名の近くにいる者へ届く」
「さらに奥は?」
「まだ見る」
信勝は頷いた。
「兄上は、本当にすぐには斬らなくなりましたね」
「斬りたくないわけではないぞ」
「そこでそう言うのが兄上です」
「事実だ」
「ですが、斬る前に見る」
「ああ」
信勝は少しだけ目を伏せた。
「私も、今日の言葉がどこまで届いたのか、怖いです」
「届いたぞ」
「よい方に?」
「半分は」
「もう半分は」
「これからだ」
その夜、帰蝶に報告すると、彼女は静かに頷いた。
「清洲の古い顔が、少しこちらのやり方を使いましたね」
「ああ。道を止めた者に道を直させる」
「名を盗んだ者に、名ではなく実務を背負わせる」
「悪くない」
「かなり」
「お前がかなりと言うなら、本当に悪くないのだろう」
帰蝶は目元を緩めた。
「信長様」
「何だ」
「一つ、気をつけることがあります」
「言え」
「清洲の中で、河尻殿のようにこちらと折り合う者が出れば、今度は清洲の内側で河尻殿を疎む者も出ます」
「だろうな」
「扉を閉める手は、弥三郎だけではありません」
「次は岩室か」
「あるいは、その奥です」
俺は庭の方を見た。
雨はもう止んでいた。
夜の空気が湿っている。
雨の後の道は、乾くまで少し時間がかかる。
急げば足を取られる。
だが、待ちすぎればまた誰かが石を置く。
「明日、長秀が戻る」
「はい」
「その報告を聞いて、次を決める」
「まずは食事を」
「今それを言うか」
「今だからです」
帰蝶は本当にぶれない。
俺は少し笑って、膳の前に座った。
名を盗む者。
名を守る者。
その違いは、思ったより細い。
本人は守っているつもりでも、預かっていない名を掲げれば盗みになる。
逆に、名を使わず責を背負う者こそ、名を守ることもある。
弥三郎は、名を守るつもりで盗んだ。
河尻は、古い名を守るために、古い名へ寄りかかる者を切り離そうとしている。
信勝は、自分の名と言葉が他人に盗まれぬよう、自分で言葉を持ち始めた。
長秀は、名を帳面に残すことで、名が曖昧に使われるのを防ごうとしている。
俺は。
俺は、織田の名をどう扱う。
父上から預かった名。
勘十郎と分け合い、時に争った名。
家臣が背負い、町人が恐れ、敵が測る名。
その名を、俺はまだ完全には扱えていない。
だが、見え始めた。
名は、掲げるものではなく、預かるものだ。
預かった以上、曇らせてはならない。
そのためには、時に人を許し、時に縛り、時に切る。
そして時に、道を直させる。
尾張の扉は、また少し軋んだ。
閉めようとする手が出た。
だが、こちらもその手を見た。
見たなら、次は掴める。
俺は箸を取った。
今夜の飯は、少しだけ味がした。




