第29話 古い扉を閉める者
扉というものは、一度開いたからといって、そのまま開いているとは限らない。
むしろ、少し開いた瞬間こそ、閉めようとする手が出てくる。
清洲、那古野、熱田。
油と布の試し荷は、滞りなく通った。
たったそれだけのことだ。
城は落ちていない。
誰も首を取っていない。
大軍が動いたわけでもない。
だが、清洲の商人が出した荷が、那古野で確認され、熱田で受け取られた。
しかも、その控えが三方に残った。
これは、小さい。
小さいが、古い者たちにとっては嫌な小ささだったのだろう。
大きな動きなら、面目を立てて反対できる。
若造が無礼だ。
那古野が清洲を踏みにじった。
信長がまた乱暴をした。
そう言える。
だが、小さな荷は厄介だ。
油と布が通っただけ。
道が少し整っただけ。
銭の名目を分けただけ。
それに正面から反対すれば、反対する方が荷を止める者に見える。
だから、古い扉を閉める者たちは、正面からは来なかった。
来たのは、紙だった。
試し荷が通ってから四日後の朝、清洲寄りの荷場で二つ目の荷が止められた。
米と炭。
次に試す予定だった荷だ。
清洲の商人から出て、那古野の確認を経て、熱田方面へ流すはずだった。
止めた者は、清洲の下役ではない。
守護家の名を持ち出した小者だった。
その者は、こう言ったという。
――尾張守護家の御意なき荷改めは、古き作法を乱すものである。清洲・那古野・熱田の勝手な取り決めにて、守護家に関わる道を通すことまかりならぬ。
報せを聞いた時、俺は朝の膳を前にしていた。
箸は持っていた。
飯も口へ入れるところだった。
だが、そこで恒興が飛び込んできた。
「若様」
「飯を食っている」
「急ぎです」
「言え」
聞き終えた俺は、箸を置いた。
帰蝶が、すぐにこちらを見た。
「食べ終わっていません」
「今それを言うか」
「今だからです」
恒興が気まずそうに視線を逸らす。
俺は椀の飯を見た。
たしかに、残っている。
父上なら食えと言う。
政秀も言う。
帰蝶は言っている。
腹が立つが、正しい。
俺は残りを口に入れた。
味はしなかった。
「食った」
「飲み込んでください」
「……飲み込んだ」
「では、どうぞ」
帰蝶は平然としている。
この女は、戦の使者が来ても飯を食わせるのではないかと思う。
いや、食わせる。
間違いなく。
俺は立ち上がった。
「長秀を呼べ。佐久間も。信勝にも知らせろ。柴田は兵を動かすな。まだだ」
恒興が頷く。
「承知しました」
「止めた者は捕らえたか」
「荷場の者が押さえています。ただ、守護家の名を出しているため、扱いに困っていると」
「殺すな。逃がすな。喋らせすぎるな」
「はい」
恒興が走る。
帰蝶は俺の横で静かに言った。
「閉めに来ましたね」
「ああ」
「しかも、守護の名で」
「古い扉には古い鍵があるらしい」
「その鍵、本物でしょうか」
「さあな」
俺は少し笑った。
「本物でも偽物でも、面倒だ」
ほどなくして、評定の間に人が集まった。
長秀は帳面を抱えている。
佐久間はすでに顔が慎重だ。
信勝は少し遅れて来たが、衣は整っていた。
柴田も来た。
呼んではいないが、来るだろうとは思っていた。
犬千代は、なぜか槍を持って来ようとして恒興に止められたらしい。
不満そうに座っている。
「守護家の名ですか」
信勝が報せを聞き、静かに言った。
「ああ」
「厄介ですね」
「便利な名だ。古く、重く、誰も雑には扱えぬ」
長秀が控えの紙を広げた。
止めた者が持っていたという書付の写しだ。
まだ原本はこちらへ来ていない。
先に急ぎで写しだけが届いた。
「文言は整っています。ただ、妙に急ごしらえの匂いがします」
「匂い?」
犬千代が顔を上げた。
「長秀殿、紙の匂いで分かるのですか」
「比喩です」
「そうですか」
少し残念そうにするな。
長秀は続けた。
「守護家の御意としながら、誰が取り次いだかが曖昧です。正式なものなら、もう少し筋が見えるはずです」
「偽物か」
柴田が低く言う。
「完全な偽物とは言い切れません」
佐久間が口を開いた。
「守護家の周辺にいる誰かが、名だけを借りた可能性があります。あるいは、守護家の内の一部が勝手に出したか」
「どちらにせよ、守護の名を使った」
俺は写しを見た。
古い名。
清洲の面目。
守護家。
それらを混ぜて、荷を止めた。
やり方としては分かる。
俺が怒って兵を出せば、信長は守護を軽んじる男になる。
黙れば、守護の名で荷を止められる前例になる。
清洲の町方は困る。
熱田の取り決めも曇る。
信勝の言葉も、守護の名の前で薄められる。
よく考えている。
だから腹が立つ。
「兄上」
信勝が言った。
「ここで私の名も使われるかもしれません」
「どういう意味だ」
「守護家の名を重んじる者は、私をそちらへ寄せようとするでしょう。信勝様なら古い作法をお分かりになる、と」
「もう言われたか」
「まだです。ですが、言われます」
信勝は、以前より自分の名の使われ方に敏くなっている。
これはよい。
そして、痛ましい。
自分の名を他人に使われる怖さを、弟は稲生で知った。
「なら、先に言う」
俺は言った。
「何をでしょう」
「守護の名を軽んじぬ。だが、守護の名で荷を止めるなら、その名を出した筋を明らかにせよ、と」
佐久間が頷いた。
「よろしいかと。守護家そのものを責めず、名の使われ方を問う形です」
「勘十郎」
「はい」
「お前の言葉も要る」
「私の」
「古い名を重んじることと、古い名を盗ませることは違う。そう言えるか」
信勝は少し考えた。
言葉を探している。
俺が急がせることはしなかった。
やがて、信勝は静かに言った。
「守護家の名は尾張を守るためにあるのであって、尾張の道を曇らせるためにあるのではない」
長秀の筆が動いた。
佐久間が小さく息を吐く。
「よいですね」
俺も頷いた。
「採る」
信勝は、少し不思議そうな顔をした。
「兄上は、本当にすぐ採られますね」
「よい言葉なら使う」
「私の言葉でも?」
「お前の言葉だから使う」
弟は黙った。
少しだけ、何かを飲み込むような顔をした。
その顔を見て、俺は思う。
信勝は、言葉を持ち始めている。
だが、まだその重さに慣れていない。
慣れすぎても困る。
言葉を軽く扱う者になってほしくない。
「若君」
柴田が言った。
「荷場へ兵を出しますか」
「出さぬ」
「相手が守護の名を使っております。押さえた小者を奪いに来る者があるかもしれません」
「それでも兵は出さぬ。だが、護衛は出す」
「私が」
「お前が行くと重すぎる」
柴田が少し不満そうな顔をした。
よい顔だ。
だが、今回は違う。
「犬千代」
「はっ!」
さっきまで不満げだった犬千代が、急に背筋を伸ばす。
「行け。ただし、斬るな」
「また最初にそれですか」
「最初に言わないと危ない」
「承知しました」
「荷と押さえた者を守れ。守護の名を叫ぶ者がいても、まず聞け。手を出されたら押さえろ。斬るな」
「三度言われました」
「四度でもよい。斬るな」
「はい!」
柴田が横で低く笑った。
「前田にはよい役でしょう」
「なぜでございますか」
犬千代が聞く。
「斬らずに我慢する稽古だ」
「柴田殿まで」
犬千代は不満そうだったが、目は真剣だった。
こういう場を任せるのも育てることだ。
ただ戦場で槍を振らせるだけでは、この先使えない。
「恒興、お前もつけ」
「承知しました」
「長秀、原本を見ろ。紙、印、文言、持っていた者の名、全部だ」
「はい」
「佐久間は返書を整える。信勝の言葉を入れる。守護を責めるな。名の筋を問え」
「承知いたしました」
評定はそこで動き始めた。
俺はすぐに馬を出さなかった。
出したい気持ちはあった。
かなりあった。
だが、ここで俺が荷場へ向かえば、相手は喜ぶ。
信長が守護の名に怒って出てきた。
そう言える。
だから、俺は動かない。
動かないのも主の役目だと、政秀は言った。
死んでまで面倒なことを残す爺だ。
昼過ぎ、長秀が原本を持って戻った。
犬千代と恒興も一緒だ。
犬千代は少し泥をかぶっている。
顔に不満と達成感が混じっていた。
「斬らなかったか」
「斬りませんでした」
「よくやった」
「ただ、殴りました」
「誰を」
「荷を奪おうとした者を」
「斬ってはいないな」
「はい」
恒興が横から補った。
「相手が小刀に手をかけましたので、犬千代が槍の柄で転ばせました。怪我は軽いです」
「よし」
犬千代は胸を張りかけた。
「調子に乗るな」
「はい」
長秀は原本を広げた。
紙は上等ではない。
印はそれらしく押されているが、少し滲んでいる。
文言は古めかしい。
しかし、どこか噛み合わない。
「どう見る」
俺が問うと、長秀は答えた。
「守護家の正式な文ではないと思われます」
「理由は」
「印の扱いが雑です。文の末に取り次ぎの名がありません。何より、守護家の御意を示すにしては、荷場の具体に踏み込みすぎています」
「つまり」
「守護家の周辺に出入りする者が、守護の名を借り、清洲の古い作法を守るという名目で止めた可能性が高いかと」
「持っていた者は」
「名は弥三郎。清洲の古い下役筋につながる者です。河尻左衛門尉の家にも出入りはありますが、直接の命かは不明」
河尻。
あの古い顔が直接やったとは限らない。
むしろ、直接ではないだろう。
古い顔の周りにいる者が、古い名を使って勝手に扉を閉めようとした。
あるいは、誰かがそうさせた。
ここで河尻を責めれば、古い顔全体を敵に回す。
弥三郎だけを斬れば、尻尾切りで終わる。
ではどうするか。
「弥三郎は何と言っている」
「守護家のため、清洲のため、古い作法のため、と繰り返しています」
「誰に命じられたかは」
「言いません」
「言わぬのではなく、知らぬかもしれんな」
長秀は頷いた。
「はい。自分が正しいと思い込んでいる可能性も」
厄介だ。
誰かに銭を握らされて動く者より、自分が正しいと思っている小者の方が厄介な時がある。
後ろにいる者の顔が見えにくい。
しかも、斬れば殉じたような話にされる。
「信勝」
俺は弟を見た。
「お前なら、弥三郎に何を言う」
信勝は驚いた顔をした。
「私が、ですか」
「ああ」
「兄上が聞くのですか」
「聞く」
信勝は少し考えた。
「守護家の名を守りたいなら、守護家の名を誰から預かったのか明らかにせよ、と」
「よい」
「そして、預かっていないなら、それは守ったのではなく盗んだのだ、と」
広間が静まった。
強い言葉だった。
信勝自身も、それを言ってから少し驚いたような顔をした。
自分の中から、思ったより鋭い言葉が出たのだろう。
「採る」
俺は言った。
「兄上」
「今のはよい」
「強すぎませんか」
「強い。だが、正しい」
長秀が筆を走らせる。
佐久間が頷く。
「文に入れるなら、少し整えます」
「頼む」
信勝は膝の上の手を見た。
自分の言葉がまた文になる。
その怖さを感じているのだろう。
だが、逃げない。
よい。
その日のうちに、清洲へ返書を出した。
内容は明確にした。
守護家の名は重んじる。
だからこそ、守護家の名をもって荷を止めた者について、その筋を明らかにしてほしい。
守護家の正式な御意であるなら、正式な取り次ぎの名を示されたい。
そうでないなら、守護家の名を盗んだ者として扱う。
信勝の言葉も入れた。
守護家の名は尾張を守るためにあるのであって、尾張の道を曇らせるためにあるのではない。
預かっていない名を掲げることは、守ることではなく盗むことである。
強い。
かなり強い。
だが、守護家そのものは責めていない。
名を使った者を問うている。
そこが肝だった。
返書を出した後、俺はしばらく庭にいた。
信勝も残っていた。
風が少し冷たい。
「兄上」
「何だ」
「私の言葉は、強すぎたでしょうか」
「強かった」
「では」
「必要だった」
信勝は黙った。
「柔らかい言葉だけでは、縄になっても切れぬものがある。今日の言葉は、少し刃だった」
「私の言葉が、刃に」
「嫌か」
「怖いです」
「怖がっておけ」
俺は庭の木を見た。
「怖がらずに刃を持つ者は、いずれ自分を切る」
信勝は小さく頷いた。
「兄上は、いつも怖がっておられますか」
「忘れる時もある」
「その時は」
「止めろ」
「はい」
信勝は少しだけ笑った。
「兄上は、最近それをよくおっしゃいます」
「止める者がいないと走りすぎる」
「平手殿の代わりですか」
「爺の代わりは無理だ」
「そうですね」
信勝は目を伏せた。
「ですが、少しずつ、皆で止めればよいのかもしれません」
俺は弟を見た。
よいことを言う。
本当に、よいことを言う。
悔しいくらいに。
「そうだな」
俺は言った。
「一人の爺に押しつけすぎた」
口にしてから、胸が痛んだ。
政秀の死は、まだ痛む。
だが、その痛みは少しずつ形を変えている。
責める痛みから、思い出させる痛みへ。
夕方、清洲から急ぎの返答が来た。
早い。
早すぎる。
つまり、向こうも慌てた。
返答は河尻左衛門尉の名で届いた。
守護家の正式な御意ではない。
弥三郎なる者が、古き作法を守るとの思いから行き過ぎた振る舞いをした。
清洲としても、守護家の名が曖昧に使われることは望まぬ。
弥三郎の身柄については、清洲へ引き渡されたい。
清洲にて取り調べ、処分する。
そう書いてあった。
「引き渡せ、か」
俺は文を置いた。
長秀が言う。
「清洲は、こちらが弥三郎を裁くことを嫌がっています」
「当然だ。那古野が守護家の名を騙った者を裁けば、清洲の古い面目に傷がつく」
佐久間が慎重に言った。
「引き渡すのも一手です」
「だが、ただ渡せば、清洲の内で消される」
「はい」
「なら、条件をつける」
俺はすぐに決めた。
「弥三郎は清洲へ渡す。ただし、取り調べには那古野からも立ち会いを出す。長秀、お前が行け」
「私ですか」
「帳面様だからな」
「若様」
「名を使った筋を記す。清洲の面目は立てる。だが、闇には戻さぬ」
長秀は少し考え、頷いた。
「承知しました」
「信勝」
「はい」
「お前の名も添える。守護家の名を曇らせぬため、清洲にて明らかにされたい、と」
「分かりました」
清洲への再返書は、その夜のうちに出した。
古い扉を閉めようとした手は、いったん引っ込んだ。
だが、扉の向こうにはまだ何人もいる。
弥三郎一人で終わる話ではない。
守護家の名。
清洲の古い作法。
その周りで飯を食う者たち。
彼らはまた、別の形で扉を閉めようとするだろう。
その夜、帰蝶に一連の話をした。
彼女は、静かに聞き終えると、言った。
「よく、兵を出されませんでしたね」
「出したかった」
「でしょうね」
「顔に出ていたか」
「今、出ています」
「遅いな」
「まだ残っています」
俺は苦笑した。
「古い扉は、手で押さえられている」
「はい」
「蹴破りたい時もある」
「蹴破れば、中にいる者ごと潰れます」
「分かっている」
「だから、鍵を探すのですね」
「今回は、名の筋だ」
「信勝様の言葉が効きました」
「ああ」
帰蝶は少し目を細めた。
「信勝様の言葉が、柔らかい縄だけでなく、刃にもなり始めましたね」
「怖いな」
「怖いと思っているなら、大丈夫です」
「本当に?」
「半分は」
「また半分か」
帰蝶は小さく笑った。
「残り半分は、これからです」
まったく、その通りだった。
古い扉を閉める者は、これからも出る。
名を盗む者。
名に隠れる者。
守るつもりで曇らせる者。
自分が正しいと信じて道を止める者。
全員を斬るわけにはいかない。
全員を許すわけにもいかない。
名の筋を明らかにし、責の置き場を決め、面目を残しながら逃げ道を塞ぐ。
面倒だ。
だが、これが尾張を組み直すということなのだろう。
翌朝、弥三郎は清洲へ送られた。
長秀が同行する。
出立前、長秀は帳面を抱えて俺の前に立った。
「若様」
「何だ」
「また清洲です」
「出世だな」
「最近、出世という言葉が少し嫌いになってきました」
「よい傾向だ」
「そうでしょうか」
「役が重いと知る者は、軽くは転ばぬ」
長秀は少し驚いた顔をした。
それから、静かに頭を下げた。
「行ってまいります」
「頼む」
「弥三郎をどう見ればよろしいですか」
「小者として見るな」
長秀が顔を上げる。
「名を使えば、小者でも道を止められる。そこを見ろ」
「承知しました」
長秀が去る。
俺はその背を見送った。
古い扉は、少し開き、また閉められかけた。
だが、完全には閉じなかった。
こちらが手を入れたからだ。
その手は、まだ挟まれたままだ。
痛い。
だが、抜かない。
抜けば扉は閉まる。
閉まれば、また外から蹴破るしかなくなる。
それは避けたい。
俺は清洲の方角を見た。
空は曇っていた。
雨になりそうな気配がある。
道がぬかるむ前に、長秀が着けばよいが。
そんなことを思った自分に、少し笑った。
少し前の俺なら、雨で道がぬかるむことなど気にしなかったかもしれない。
今は気になる。
道が気になる。
荷が気になる。
人の名の使われ方が気になる。
面倒なものばかり増えた。
だが、その面倒の分だけ、尾張の形が少し見えてきた。
古い扉を閉める者がいるなら、開ける者もいる。
油と布を通した商人。
祈りの名を曇らせぬと言った信勝。
帳面を抱えて清洲へ向かう長秀。
斬らずに荷を守った犬千代。
兵を出さずに耐えた俺。
それら全部で、少しずつ扉を押さえる。
一人では足りない。
尾張を組み直すには、一人では足りないのだ。
それを認めるのは、まだ少し腹立たしい。
だが、悪くない。




