第26話 熱田の火と祈り
熱田へ向かう話は、信勝の文から始まった。
稲生の前なら、俺はたぶん、文を最後まで読む前に自分で出向いていた。
見なければ分からぬ。
そう言って、馬を出しただろう。
今も、その癖が消えたわけではない。
だが、少しだけ変わった。
見なければ分からぬ。
それは正しい。
けれど、誰の目で見るかも大事だった。
信勝の文には、熱田で揉めている銭の話が書かれていた。
社への奉納。
祭礼の費え。
橋や道の維持。
荷を改める手間賃。
それらが、いつの間にか一つの銭袋に入れられている。
社の者は、祈りと祭礼を軽んじられたくない。
商人は、同じ荷で何度も取られるのを嫌がる。
馬借は、どの銭が本当に必要なのか分からず文句を言う。
そして、その曖昧さの中で、余計な銭を抜く者がいる。
信勝は、それをこう書いていた。
――祈りを値切るのではなく、祈りの名を曇らせぬため、祭礼の銭と荷の銭を分けるべきかと存じます。
俺は、その一文で少し黙った。
よい。
実によい。
俺なら、たぶん最初に「荷を止めるな」と言う。
長秀なら「名目を記せ」と言う。
柴田なら「余計に取る者を締め上げろ」と言うかもしれない。
信勝は違った。
祈りの名を曇らせるな。
その言い方は、熱田の社の者にも届くだろう。
こいつは、俺と違う入口を持っている。
それを認めることに、以前ほど抵抗はなかった。
少し悔しいだけだ。
少しだ。
たぶん。
「兄上」
その信勝は、俺の前に座っていた。
文を出した翌々日の朝である。
すぐ熱田へ向かわなかったのは、向こうの顔ぶれと、道中の段取りを整えるためだ。
急いで行けば、相手は身構える。
遅すぎれば、こちらが迷っていると見られる。
その間を取る。
面倒なことに、こういう間合いは戦場より難しい。
「私も参りますか」
「ああ」
俺が言うと、信勝は少しだけ目を伏せた。
「兄上がご自身で行かれるなら、私は不要では」
「お前が見たものを、俺も見る。俺が見たものを、お前も見る。それでいい」
「横に、ですか」
「そうだ」
信勝は小さく頷いた。
横に立つ。
口で言うほど簡単ではない。
横に立たせれば、また誰かが比べる。
信長様は荒い。
信勝様は穏やかだ。
信勝様なら社も商人も安心する。
そんな声が出る。
必ず出る。
だが、隠せばもっと出る。
なら、見えるところで言わせる。
そして、信勝自身に否定させる。
これもまた、名を盗ませぬための仕事だった。
「長秀は置いていく」
俺が言うと、信勝は少し驚いた。
「長秀殿を?」
「あいつは清洲と守山で働きすぎた。倒れられると困る」
「兄上が、それをおっしゃるのですね」
「皆、俺を何だと思っている」
「働かせすぎる方かと」
「お前まで」
否定できないのが腹立たしい。
今回は、長秀の代わりに若い記録役を二人つける。
もちろん、後で長秀のところへ帳面が山ほど行く。
休ませているのか増やしているのか、自分でも少し分からない。
それを帰蝶に言うと、彼女は「増やしています」と即答した。
ひどい。
いや、正しい。
出立は翌朝にした。
那古野から熱田までは、無理をすればすぐ行ける距離だ。
だが、今回は戦ではない。
朝に出て、昼前に着き、社と町を見て、夕方までには戻れる。
それくらいの動きにした。
大げさに兵を連れず、しかし軽くも見えぬようにする。
供は恒興、津々木、犬千代、記録役二人。
柴田は城に残して兵の立て直しを続けさせた。
佐久間は那古野と清洲の文の調整。
長秀は寝かせる。
寝るかどうかは知らない。
帰蝶は出立前に俺を見て、まず言った。
「食べましたか」
「食べた」
「本当に?」
「本当だ」
「信勝様は?」
信勝が少し笑って答えた。
「私もいただきました」
「ならば安心です」
「俺だけ疑いが深くないか」
「日頃の積み重ねです」
恒興が横で肩を震わせていた。
俺は見なかったことにした。
熱田へ向かう道は、朝の湿り気を含んでいた。
荷を運ぶ者たちと何度かすれ違う。
魚の匂いが少しずつ混じり始める。
湊が近い空気だ。
熱田は、ただの社ではない。
祈りがある。
商いがある。
湊がある。
古い名がある。
草薙の剣の名が、人の口に乗る場所でもある。
人は、見えないものにも値をつける。
その値を軽く見ると、痛い目を見る。
俺はそれを、稲生の前後で嫌というほど知った。
「兄上」
道中、信勝が馬を寄せてきた。
「熱田では、まず社へ参られますか」
「ああ」
「兄上が、そう即答されるとは」
「俺を何だと思っている」
「社より先に荷場へ向かわれるかと」
少し前なら、当たっていたかもしれない。
いや、かなり当たっていた。
「祈りの場へ来て、先に銭の話をしたら、お前が困るだろう」
「私が?」
「お前の文を使う。祈りの名を曇らせぬため、と」
信勝は少しだけ頬を緩めた。
「読んでくださったのですね」
「読まなければ呼ばぬ」
「兄上らしいです」
「褒めているのか」
「かなり」
「お前もそれを言うようになったか」
信勝は小さく笑った。
こういう笑いが道中にあるだけで、供の者たちの顔も少し緩む。
兄弟が並んでいる。
それだけで、周囲はいろいろな意味を読む。
ならば、せめて悪い意味ばかりではないようにしておく。
熱田に着いたのは、日が高くなりきる少し前だった。
社の前には、すでに迎えがいた。
社家の千秋右近。
年は四十前後か。
細面で、衣は清潔に整っている。
ただ、目には警戒がある。
俺を見る警戒。
信勝を見る期待。
その両方が一瞬で分かった。
顔に出すな。
そう思ったが、俺も最近、顔に出るらしいので人のことは言えない。
「織田信長にございます」
俺は先に名乗った。
右近は頭を下げる。
「熱田社家、千秋右近にございます。若君、信勝様、ようこそお越しくださいました」
信勝の方へ向ける声が、少しだけ柔らかい。
やはりな。
俺は腹を立てなかった。
腹は立つ。
だが、立てなかったことにする。
「まず、社へ参る」
俺が言うと、右近は少しだけ意外そうな顔をした。
「かしこまりました」
境内へ入ると、空気が変わった。
人の声はある。
商いの気配も遠くにある。
だが、木々の陰、砂利の音、古い柱の匂いが、町のそれとは違う静けさを作っている。
信仰とは、人の思いが長く積もったものだ。
それが善いか悪いかだけでは測れない。
人は、見えないものに頭を下げることで、ようやく見えるものを扱える時がある。
俺は社の前で頭を下げた。
祈る言葉は、うまく出てこない。
父上のこと。
政秀のこと。
稲生の死者。
信勝。
尾張。
熱田の道。
いろいろなものが頭をよぎったが、どれも祈りという形にはならなかった。
ただ、頭を下げた。
それで十分かどうかは分からない。
分からないまま、頭を上げた。
信勝は、俺より長く頭を下げていた。
その姿は、場に合っている。
俺は合っているのか。
たぶん、半分だ。
参拝の後、右近が灯明の火を案内した。
小さな火が、風を避けるように守られている。
熱田の火。
それは戦場の火とも、鍛冶場の火とも違う。
燃え上がるためではなく、消えぬためにある火だった。
「この火も、油も、人も、祭礼も、すべて銭なくしては守れませぬ」
右近が言った。
静かな声だったが、そこには芯がある。
「若君が銭の名目を分けよと仰せになるお気持ちは分かります。されど、祈りは帳面だけで守れるものではございません」
長秀がいたら、少し嫌な顔をしたかもしれない。
俺は火を見たまま言った。
「帳面だけで守れぬものはある」
右近がこちらを見る。
「だが、帳面がないせいで疑われる祈りもある」
「疑う者が悪いとは」
「言わぬ」
俺は火から目を離した。
「人は腹が減れば疑う。荷を止められれば疑う。同じ名で何度も銭を取られれば疑う。疑うなと言うだけでは、疑いは消えぬ」
右近は黙った。
信勝が静かに続けた。
「祈りを値切るためではありません。祈りの銭と、荷の銭と、道の銭を分けるためです。混ざれば、祈りまで恨まれます」
右近の表情が少し変わった。
やはり、信勝の言葉は届き方が違う。
悔しい。
だが、今はそれでいい。
「信勝様は、そうお考えで」
「はい」
信勝はまっすぐ答えた。
「私は、社の面目を潰したいのではありません。けれど、商人や馬借が不満を抱えたままでは、いずれ社の名で争いが起きます」
「社の名で争い」
「それを避けたいのです」
右近は、信勝をしばらく見ていた。
その目には、さきほどの期待とは少し違うものが浮かんでいた。
ただ穏やかな若君として見ているのではない。
考えている相手として見始めている。
よい。
信勝の名は、こう使わせる。
誰かに担がせるのではなく、本人の言葉で場を動かす。
灯明の火を見た後、俺たちは荷場へ向かった。
熱田の荷場は匂いが濃い。
魚。
塩。
油。
木材。
酒。
人の汗。
それに、どこか火の匂いが混じる。
魚を焼く煙ではない。
鍛冶場ほど強くもない。
船や荷を扱う者たちが使う火、社の灯明、町の煮炊き。
小さな火が町のあちこちにあり、それが熱田という場所を動かしている。
商人たちは、こちらを見ると一斉に頭を下げた。
その中から、油屋宗次という男が進み出た。
油を扱う商人らしく、衣に薄く匂いが残っている。
「若君、信勝様。本日はようこそ」
「困っていることを言え」
俺が言うと、宗次は一瞬固まった。
信勝が横で小さく息を吐いた。
またやったか。
だが、宗次はすぐに立て直した。
「では、遠慮なく。困っております」
「正直でよい」
「社への奉納は惜しみませぬ。祭礼も大事にございます。されど、荷を通すたびに、これは奉納、これは道、これは改め、これは火の守りと、名を変えて銭が重なります。どれを払わねばならぬのか、払わずともよいのか、分かりませぬ」
右近の顔が少し硬くなる。
宗次は構わず続けた。
「分からぬ銭は、店の者にも説明できませぬ。説明できぬ銭は、いずれ不満になります」
商人らしい言い方だ。
実に分かりやすい。
「火の守りとは」
俺が聞くと、宗次が答える。
「社の灯明、祭礼の火、また夜の荷場で使う火の見回りなど、いくつかの名が混ざっております」
「混ざっているのが問題か」
「はい」
信勝が右近を見た。
「千秋殿。社の灯明や祭礼の火は、社として守るべき火ですね」
「もちろんにございます」
「荷場の夜の火の見回りは、商人や荷を扱う者にも関わる火です」
「そうなります」
「ならば、名を分けましょう」
右近は眉を寄せた。
「分ける、とは」
「社へ納めるものは奉納として残す。荷場の見回りや道の火は、荷場の費えとして別に扱う。商人側も負担する代わりに、どの火に使われるかを知る」
宗次が即座に頷いた。
「それなら、店の者にも説明できます」
右近は慎重だった。
「奉納と、荷場の費えを分ければ、奉納が減ると受け取る者もおりましょう」
「減らす話ではありません」
信勝は穏やかに言った。
「祈りの火を、荷場の不満から守る話です」
右近の目が動いた。
また届いた。
俺は横で黙っていた。
ここで俺が口を挟みすぎると、信勝の言葉が俺の命令に見える。
それでは意味がない。
信勝が話し、俺が聞く。
その形が必要だった。
ただ、黙っているのは性に合わない。
少しだけ苦しい。
政秀なら、若、そこで我慢でございます、と言っただろう。
うるさい。
分かっている。
「若君は」
右近が俺に視線を向けた。
「いかがお考えで」
来た。
俺は火の匂いが混じる荷場を見た。
「火は、混ぜると大きくなる」
自分でも妙な言い方だと思った。
だが、続けた。
「社の灯明、祭礼の火、荷場の火、鍛冶の火。全部を一つの火として扱えば、どこで燃えすぎたのか分からぬ。火事になってから、誰の火だったか争うことになる」
右近も、宗次も黙っている。
「火を消したいのではない。燃える場所を分けたい」
信勝が少しこちらを見た。
その目に、意外そうな色があった。
「祈りの火は祈りとして守れ。荷場の火は荷場の者が責を持て。道の火は道を使う者が見る。混ぜるな」
宗次が深く頭を下げた。
「それなら、商人も納得しやすうございます」
右近は、まだ少し難しい顔をしていた。
だが、拒みはしなかった。
「社内で、異を唱える者は出ましょう」
「出るだろうな」
「若君は、それを力で押されますか」
「押さぬ」
右近が少し驚いた。
「まず、名を分ける。奉納、祭礼、荷場、道。分けたものを見せる。見せてもなお祈りが軽んじられると言う者があれば、その時に話す」
「話して済まぬ時は」
「その時考える」
右近は一瞬、何か言いたげだった。
だが、信勝が先に微笑した。
「兄上は、以前より一拍置かれるようになりました」
「余計なことを言うな」
「大事なことかと」
宗次が小さく笑い、右近も少しだけ口元を緩めた。
こういう緩みは助かる。
信勝は、場を壊さずに人を笑わせる。
俺には難しい芸当だ。
話し合いは、荷場の一角でしばらく続いた。
奉納は奉納として残す。
ただし、荷の通行時に取る銭とは名を分ける。
祭礼に関わる銭は、年ごとにおおまかな額を社と商人の代表で確認する。
夜の荷場で火を扱う者を決め、その費えは荷場側で記す。
道や橋に関わる銭は、熱田だけでなく那古野、清洲の取り決めとも合わせる。
記録役たちは必死に書いていた。
あとで長秀に見せたら、赤を入れられるだろう。
その顔が目に浮かんだ。
夕方前、社の奥で簡単な茶が出た。
右近、宗次、信勝、俺。
少し離れて恒興と津々木が控える。
犬千代は外で荷場の者たちと何か話している。
斬るなと言ってあるから、たぶん大丈夫だ。
たぶん。
「信勝様」
右近が茶碗を置いて言った。
「本日のお言葉、社の者にも伝えましょう」
「ありがとうございます」
「ただ、あなた様の名を立てたいと考える者も、熱田にはおります」
空気が少し変わった。
宗次が目を伏せる。
津々木の気配が硬くなる。
信勝は、少しだけ目を閉じた。
それから、きちんと右近を見た。
「私の名を、兄上から離すために使わないでください」
静かな声だった。
だが、揺れなかった。
「私は兄上のすべてに賛成しているわけではありません。今日も、兄上と私は違う入口から熱田を見ています」
俺は黙って聞いた。
「けれど、違う入口から同じ尾張を見ることはできます」
右近が、じっと信勝を見ている。
「私の名で尾張を割るなら、それは私を立てることではなく、私を傷つけることです」
見事だった。
俺が言えば脅しになる。
信勝が言えば、願いになる。
しかも弱くない。
右近は深く頭を下げた。
「心得ました」
どこまで本当に心得たかは分からない。
だが、言葉は置かれた。
それでいい。
置かれた言葉は、後で効く。
帰路についたのは、日が傾き始めた頃だった。
熱田から那古野へ戻る道は、朝より少し涼しかった。
供の者たちも疲れている。
犬千代は、なぜか荷場の火の見回りについて熱心に語っていた。
「火は怖いですね」
「今さらか」
俺が言うと、犬千代は真面目に頷いた。
「戦場の火は敵に向ければよいですが、荷場の火は味方も焼きます」
「よいことを言う」
「帳面に書きますか」
「長秀に言え」
「はい」
犬千代は少し嬉しそうだった。
こいつも、いつの間にか帳面に書かれることを手柄のように思い始めている。
妙な変化だ。
悪くない。
信勝は、しばらく黙って馬を進めていた。
「疲れたか」
俺が聞くと、弟は正直に頷いた。
「はい」
「飯を食え」
「兄上がそれを言うのですね」
「今日は言う」
「では、戻ったら食べます」
少し間を置いて、信勝は言った。
「兄上」
「何だ」
「今日は、私の言葉を待ってくださったのですね」
「ああ」
「以前なら、先に言われた気がします」
「俺もそう思う」
「なぜ待ってくださったのですか」
「お前の言葉の方が届く場だった」
信勝は黙った。
それから、小さく言った。
「悔しくありませんか」
「悔しい」
即答すると、信勝が驚いた顔をした。
「ですが、使う」
「兄上らしいです」
「悔しさで使わぬ方が愚かだ」
「それも、兄上らしい」
信勝は少し笑った。
「私も、兄上のようには言えません。火を分けるという言葉は、私には出ませんでした」
「出なくてよい。俺の言葉だ」
「はい」
「お前の言葉は、祈りの名を曇らせるな、だ」
信勝は、少し照れたように目を伏せた。
「それは、私の言葉ですか」
「そうだ」
「なら、大事にします」
その言葉を聞いて、俺は少し安心した。
信勝が、自分の言葉を持ち始めている。
それは危うい。
だが、必要だ。
自分の言葉を持たぬ者は、他人の言葉に乗せられる。
もう、あいつを旗にされるのは御免だ。
那古野へ戻ると、帰蝶が待っていた。
やはり偶然ではない。
「お帰りなさいませ」
「戻った」
「食事を」
「分かっている」
俺が先に言うと、帰蝶は少し驚いた。
「本当に分かっておられる顔ですね」
「顔で判断するな」
「顔に出ますので」
信勝が横で小さく笑った。
「帰蝶様、私もいただきます」
「もちろんです」
「兄上に言われましたので」
「それはよいことです」
俺は少し居心地が悪くなった。
なぜ俺が褒められる側のようになっているのか。
いや、悪い気はしない。
少しだけ。
その夜、熱田で決めたことを整理した。
長秀は、休ませていたはずなのに、結局帳面を開いていた。
俺が睨むと、長秀は平然と言った。
「休んだので働けます」
「どれくらい休んだ」
「目を閉じました」
「またか」
だが、熱田の話を聞いた長秀の目は、すぐ仕事の目になった。
奉納、祭礼、荷場、道。
火の名目を分ける。
これは使える、と顔に出ていた。
俺が言う前に、帰蝶が言った。
「長秀殿、顔に出ています」
長秀が固まった。
俺は笑った。
「俺だけではないな」
「若様の周囲では、顔が働きすぎるようです」
長秀は観念したように言った。
評定では、熱田の取り決めを三つの道の試みに組み込むことにした。
清洲には、熱田での整理を報せる。
ただし、押しつけではなく、実例として。
守山道の橋と水抜きの件とも合わせる。
火、橋、荷。
それぞれ違う話に見えて、根は同じだった。
誰が何のために銭を出し、誰が責任を持ち、誰が名を騙らないようにするか。
そこを分ける。
明らかにする。
曇らせない。
「熱田は、よい火を置いてくれたな」
俺が言うと、長秀が頷いた。
「はい。火を分ける、という言い方は、町にも社にも伝わりやすいかと」
「信勝の言葉も入れろ」
「祈りの名を曇らせぬため、ですね」
「ああ」
信勝は少しだけ恥ずかしそうにしていた。
だが、逃げなかった。
それでよい。
帰蝶は静かに言った。
「信勝様の言葉と、信長様の言葉を並べるのですね」
「そうだ」
「よいと思います」
「半分は?」
「今回は、かなり」
「珍しいな」
「熱田では、うまく並ばれたようですので」
帰蝶にそう言われると、少し胸の奥が軽くなる。
不思議だ。
以前なら、見透かされたようで腹が立っただろう。
今も少し立つ。
だが、それだけではない。
見てくれている者がいる。
そう思えるようになった。
これも変化か。
政秀が見たら、何と言うだろう。
若、ようやく少しは夫婦らしくなられましたな。
そう言いそうだ。
それはそれで腹が立つ。
熱田の火は、燃え上がる火ではなかった。
消えぬよう守る火だった。
俺の中には、燃え上がりたがる火がある。
柴田にも、犬千代にも、きっとある。
信勝には、静かに灯る火がある。
帰蝶には、火の向きを読む目がある。
長秀は、その火をどこで誰が持っているか書き留める。
尾張を組み直すとは、火を消すことではない。
燃える場所を分けることだ。
祈りの火。
商いの火。
戦の火。
怒りの火。
名を守る火。
それらを全部一つに混ぜれば、国は燃える。
分けすぎれば、寒くなる。
難しい。
実に面倒だ。
だが、今日、熱田で一つ言葉を得た。
火を分ける。
祈りを曇らせない。
この二つは、これから使える。
使えるものは、使う。
ただし、使い潰さない。
それも最近、少しだけ覚えた。
食事の席で、帰蝶が言った。
「今日は、少しよい顔をされています」
「そうか」
「はい。疲れてはいますが」
「信勝がよく話した」
「聞きました」
「もう?」
「廊下は耳を持ちますので」
「その耳、本当にどこにある」
「探してみますか」
「やめておく」
帰蝶は小さく笑った。
俺も笑った。
信勝も、少し離れた席で粥を食っていた。
箸は、止まっていない。
それを見て、俺は少し安心した。
熱田の火と祈り。
それは、ただ社の中にあるものではなかった。
尾張の中にある、消してはならないものだった。
そして、燃え広がらせてもならないものだった。
俺は椀を持ち上げた。
腹が温まる。
火も、飯も、国も、扱いを間違えれば人を焼く。
だが、正しく扱えば人を生かす。
ならば、まずは扱い方を覚えるしかない。
うつけと呼ばれた俺には、ずいぶん地味で、面倒で、似合わない仕事だ。
けれど、その似合わなさこそ、今はちょうどいいのかもしれない。




