第27話 信勝の言葉
熱田から戻った翌朝、信勝の言葉は、もう城の中を歩き始めていた。
――祈りの名を曇らせぬため。
誰かが廊下で口にした。
誰かが台所の端で真似た。
誰かが馬屋の前で、少し感心したように頷いた。
言葉というものは、火に似ている。
強く燃える言葉もあれば、煙だけ出して消える言葉もある。
だが、信勝の言葉は違った。
派手ではない。
叫びにもならない。
けれど、消えずに残る。
人の胸の内で、じわりと明るくなる。
俺の言葉は、時々、人を動かす前に身構えさせる。
長秀の言葉は、人を納得させる前に帳面の気配を感じさせる。
柴田の言葉は、槍の柄で地面を叩くように響く。
信勝の言葉は、火鉢の火のようだった。
近づけば温かい。
だが、扱いを誤れば、そこに人が集まりすぎる。
俺はそれを分かっていた。
分かっていたつもりだった。
だが、実際にその言葉が広がるのを見ると、思ったより胸の奥がざわついた。
「若様」
朝餉の後、長秀が帳面を持って来た。
顔はいつも通りだったが、目の下が少し濃い。
「寝たか」
「寝ました」
「どれくらい」
「昨日よりは」
「それは答えになっていない」
「若様も似たような答えをなさいます」
「俺の悪いところを真似るな」
「では、信勝様を見習います」
「それはそれで少し腹が立つ」
長秀は小さく笑った。
冗談を言う余裕があるなら、まだ倒れはしないだろう。
たぶん。
「熱田の件ですが」
「ああ」
「信勝様のお言葉が、かなり効いております」
「かなりか」
「はい。社家、商人、馬借、それぞれが使いやすい言葉です。『祈りを曇らせない』という言い方なら、社の面目を潰さずに、銭の名目を分ける話へ移れます」
「つまり、お前の帳面が入りやすくなる」
「はい」
「よかったな、帳面様」
「若様」
長秀はいつものように抗議しようとして、途中で諦めた。
最近、この男は抗議の前に諦めることがある。
少し面白くない。
「ただし」
長秀は帳面を開いた。
「信勝様のお言葉を、信勝様だけのものとして持ち上げようとする者も出ています」
「だろうな」
「熱田では、『やはり信勝様は社の心が分かる』という声がありました。商人の中にも、『若様は線を引くが、信勝様は心を拾う』と」
「それは正しいな」
長秀が俺を見る。
「よろしいのですか」
「よくはない。だが、間違ってもいない」
「若様」
「俺は心を拾わぬわけではない」
「はい」
「だが、拾い方が荒い」
長秀は少し困った顔をした。
「そこまで自分で言われると、こちらが返しに困ります」
「最近、皆が俺を正直者にする」
「よいことかと」
「半分はな」
俺は信勝の文をもう一度手に取った。
文字も整っている。
俺の字より素直だ。
こういうところまで、あいつは人に安心を与える。
腹が立つ。
少しだけ。
「信勝を呼べ」
「はい」
「いや、待て」
長秀が顔を上げる。
「呼ぶ前に、こちらで触れの草案を作る。信勝に言葉を直させる」
「信勝様に、ですか」
「あいつの言葉だ。俺たちが勝手に飾れば、また他人の名を使うことになる」
長秀は、ゆっくり頷いた。
「承知しました」
信勝が来たのは、昼前だった。
熱田から戻った疲れはまだ顔に残っているが、身なりは整っている。
その整い方が、以前より少し柔らかい。
自分を守る鎧というより、人前に立つための支度に見えた。
それは良い変化なのか、危うい変化なのか。
たぶん両方だ。
「兄上」
「座れ」
信勝は俺の前に座った。
長秀も控えている。
恒興は少し離れたところにいる。
帰蝶はいない。
いないが、どうせ後で聞く。
「熱田の言葉を触れに使う」
俺が言うと、信勝は少し目を開いた。
「私の言葉を、ですか」
「ああ」
「よろしいのですか」
「お前が言った言葉だ。お前がよいなら使う」
「兄上が、私に確認を」
「意外か」
「少し」
「俺も少し意外だ」
信勝が小さく笑った。
長秀が横で筆を用意する。
俺は草案を読み上げた。
熱田において、奉納、祭礼、荷場の火、道と橋に関わる銭を分けること。
祈りの名を曇らせぬため、社の面目を守りつつ、荷を扱う者の不満を減らすこと。
火の扱いをそれぞれ明らかにすること。
社、商人、馬借、織田方の者で確認すること。
信勝は黙って聞いていた。
読み終えると、少し考える。
「兄上」
「何だ」
「『不満を減らす』では、社の者には弱く聞こえるかもしれません」
「では」
「『疑いを生まぬよう』ではいかがでしょう」
長秀が筆を止めた。
「なるほど」
信勝は続けた。
「不満と言えば、商人や馬借の都合に寄って聞こえます。疑いと言えば、社の祈りを守る意味にもなります」
俺は長秀を見た。
長秀も頷く。
「よい」
俺は言った。
「採る」
信勝は少し安心した顔をした。
だが、それだけでは終わらなかった。
「それから、『火の扱いを明らかにする』というところですが」
「そこもか」
「はい。兄上の言葉はよいのですが、少し強い」
「俺の言葉はだいたい強い」
「はい」
即答するな。
信勝は、申し訳なさそうに続けた。
「『火を分けて守る』ではどうでしょう。明らかにする、よりも、守るという響きが入ります」
長秀がまた頷いた。
「社にも荷場にも通りやすい言葉です」
「俺の言葉は、通りにくいか」
「通ります」
信勝が答える。
「ただ、少し痛い」
「お前まで容赦なくなったな」
「兄上が、言えとおっしゃったので」
「言ったな」
言った。
間違いなく言った。
なら、受けるしかない。
俺は少しだけ息を吐いた。
「よい。そこも変えろ」
長秀の筆が動く。
信勝の言葉が、俺の言葉に重なっていく。
不思議な気分だった。
俺の触れなのに、俺だけの言葉ではない。
長秀の実務の目。
信勝の柔らかい言い方。
熱田の社家の面目。
商人の不満。
馬借の現実。
それらが混ざって、一つの文になっていく。
以前の俺なら、面倒だと切り捨てたかもしれない。
今も面倒だ。
だが、この面倒の中に、尾張を組み直す糸がある。
「兄上」
信勝が少し声を落とした。
「この触れに、私の名も入るのですね」
「ああ」
「熱田で、私を立てようとする者が出るでしょう」
「出る」
「では、文の終わりに入れてください」
「何を」
信勝は、まっすぐ俺を見た。
「信勝の言葉は、信長の政を割るためのものではなく、尾張の道と祈りをともに守るためのものである、と」
長秀の筆が止まった。
恒興も顔を上げた。
部屋の空気が少し変わる。
俺は弟を見た。
こいつは、自分の言葉が広がる危うさを分かっている。
分かった上で、自分から釘を刺した。
よい。
本当によい。
そして、少し怖い。
「入れる」
俺は言った。
信勝は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼を言うところか」
「はい。私の名を、私のまま使わせてくださるので」
言われて、少し言葉に詰まった。
俺はこれまで、信勝の名をどう扱ってきただろう。
火種。
危うい旗。
守るべき弟。
使うべき柔らかさ。
横に置く存在。
いろいろな形で見てきた。
だが、信勝の名は信勝のものだ。
当たり前のことを、俺は時々忘れかける。
名を盗ませぬと言いながら、俺自身が弟の名を道具として見すぎることがある。
危ない。
実に危ない。
「勘十郎」
「はい」
「俺が、お前の名を使いすぎた時は言え」
信勝は目を見開いた。
「兄上が?」
「俺も間違える」
「……はい」
「ただし、言う時は早めに言え。後になって怒るな」
「それは兄上も同じです」
「そうだな」
長秀が小さく笑った。
「何だ」
「いえ。よいご兄弟になってきたと思いまして」
「気味の悪いことを言うな」
「失礼しました」
だが、長秀の顔は少し柔らかかった。
触れの文は、その日のうちに整えられた。
佐久間にも確認させた。
佐久間は読み終えると、いつもの慎重な顔で言った。
「よい文かと。ただ、少し新しい」
「新しいのは悪いか」
「悪くはございません。ですが、古い者は一度眉をひそめます」
「ひそめさせろ」
「その後で、読ませる」
「はい」
佐久間は頷いた。
「信勝様の一文が効きます。信勝様のお言葉を利用しようとする者には、先に縄をかける形になります」
「許しと同じだな」
「はい。柔らかい縄です」
柔らかい縄。
なるほど。
信勝の言葉は、柔らかい。
だが、柔らかいから縛れないわけではない。
むしろ、相手に抵抗されずに巻きつくこともある。
俺の言葉は、刃になりやすい。
信勝の言葉は、縄になりやすい。
どちらも使い方を誤れば、人を傷つける。
その日の夕方、触れはまず熱田へ送られた。
次に清洲、那古野の町、守山道の関係者へ写しを回す。
全部一度に広げすぎると、言葉が薄くなる。
まず熱田で受け止めさせる。
そこから、火を分けるという言い方を道の話へ広げる。
長秀はそう提案した。
俺は採った。
帳面様は、もう単に書くだけの男ではない。
言葉の流れまで見始めている。
その夜、帰蝶に触れを見せた。
彼女は読みながら、何度か目を止めた。
「信勝様の言葉が、よく残っていますね」
「ああ」
「信長様の言葉も、強すぎずに残っています」
「それは褒めているか」
「かなり」
「今回は半分ではないのか」
「今回は、かなりです」
珍しい。
少し嬉しかった。
顔に出たらしい。
帰蝶が小さく笑った。
「嬉しそうです」
「顔が働いたか」
「はい」
「本当に困るな」
帰蝶は文を置いた。
「信勝様は、ご自分の言葉を持ち始めました」
「ああ」
「怖くありませんか」
「怖い」
俺は即答した。
「だが、自分の言葉を持たぬ勘十郎の方がもっと怖い。他人の言葉で動くからな」
「そうですね」
「信勝が自分の言葉を持てば、担ごうとする者は簡単には使えない」
「ただし、信勝様自身の考えが強くなります」
「それでいい」
「本当に?」
「半分は怖い。半分は、必要だと思っている」
帰蝶は頷いた。
「それならよいと思います」
「なぜ」
「怖くないと言われたら、危ういので」
まったくだ。
怖いものを怖くないと言い始めたら、人は見落とす。
俺は信勝が怖い。
信勝の言葉が広がることが怖い。
だが、怖いから閉じ込めるのは、もっと怖い。
だから見える場所へ置く。
横に立たせる。
そして、互いに言わせる。
言葉で先に傷をつけておけば、槍で傷をつけるところまで行かずに済むかもしれない。
かもしれない、だ。
確かではない。
だが、今はそれで進むしかない。
翌日、熱田から最初の返答が来た。
千秋右近からだった。
触れの文言について、社の者の中には異を唱える者もいる。
しかし、「祈りの名を曇らせぬため」という言葉により、表立って反対しづらくなっている。
奉納、祭礼、荷場の火、道の費えを分ける試みを、次の市の日から始めたい。
油屋宗次も協力を申し出ている。
そのような内容だった。
俺は読み終え、信勝へ写しを送らせた。
すると、その日のうちに信勝から返事が来た。
――兄上。まずは熱田で火を分けること、うまく始まりそうで安堵いたしました。ただし、社の中に反発があるなら、急がせすぎぬ方がよろしいかと存じます。祈りは急に形を変えると、信じる者の心が置いていかれます。
俺は、その一文でまた少し黙った。
祈りは急に形を変えると、信じる者の心が置いていかれる。
言えるか、俺に。
たぶん言えない。
悔しい。
だが、使える。
いや、使えるだけではない。
必要だ。
「恒興」
「はい」
「信勝の文を、長秀と佐久間にも見せろ」
「写しますか」
「写せ。ただし、文の全部を広げるな。必要な一文だけだ」
「承知しました」
「あと、勘十郎へ返す。急がせぬ。だが止めぬ、と」
「はい」
恒興が下がる。
俺は庭へ出た。
風が少し冷たい。
季節がまた一つ動いている。
政は待ってくれないが、季節も待ってくれない。
何もかもが勝手に動く。
主というものは、その勝手に動くものへ、手を伸ばし続ける役なのかもしれない。
全部は掴めない。
掴んだつもりのものも、手の中で形を変える。
信勝の言葉もそうだ。
俺が使おうと思えば、言葉の方が俺を変える。
それが少し面白い。
少し怖い。
庭の向こうで、犬千代が恒興と言い合っていた。
どうやら熱田の荷場で聞いた火の見回りを、自分なりに兵の夜番へ応用できると言っているらしい。
恒興は笑いながら聞いている。
犬千代も、ただ突っ込むだけの若武者では少しずつなくなっている。
熱田の火は、意外なところへも移った。
燃え広がっているのではない。
火種として、別の場所で役に立ち始めている。
よいことだ。
たぶん。
その日の夜、信勝と短く会った。
用件は熱田の返答についてだったが、話は少し横へ逸れた。
「兄上」
「何だ」
「私の言葉が、少し広がっていると聞きました」
「ああ」
「怖いですね」
「そうだな」
「自分の言葉なのに、自分から離れていくようです」
「言葉とはそういうものだ」
「兄上は、いつもそういう怖さと一緒におられるのですか」
俺は少し考えた。
「いつもではない。時々忘れる」
「忘れる?」
「俺の言葉がどう使われるかを、忘れて言うことがある。そのたびに後で面倒になる」
「兄上でも」
「だから気をつけろ。言葉は便利だが、放した後で戻ってこない」
信勝は静かに頷いた。
「はい」
「だが、怖がって黙るな」
「黙っていても、誰かが私の名を使うからですね」
「そうだ」
「なら、自分で言うしかない」
「そういうことだ」
信勝は、少しだけ笑った。
疲れた笑みだったが、弱くはなかった。
「兄上」
「何だ」
「私は、兄上のようにはなれません」
「ならなくてよい」
「ですが、兄上の横に立つなら、私の言葉を持たねばならない」
「ああ」
「今日、それが少し分かりました」
俺は頷いた。
「遅いくらいだ」
「兄上」
「冗談だ」
「半分は本気ですね」
「分かるようになったな」
信勝は少しだけ目元を緩めた。
「兄上の横にいると、分かるようになります」
「いいのか悪いのか」
「半分ずつです」
俺たちは、少し笑った。
この笑いがいつまで続くかは分からない。
だが、今はある。
それでよい。
その夜、俺は政秀の書状を取り出さなかった。
珍しいことだった。
代わりに、信勝の文を机の端に置いた。
祈りは急に形を変えると、信じる者の心が置いていかれる。
言葉の種類が違う。
政秀の言葉は、俺を止める。
父上の言葉は、俺に背負わせる。
帰蝶の言葉は、俺の顔を覗く。
信勝の言葉は、人の心の遅れを教える。
俺一人では、見えないものが多すぎる。
昔なら、それを腹立たしく思った。
今も少し思う。
だが、それだけではなくなった。
見えないなら、見える者を使えばよい。
ただし、使う者の心を置いていくな。
また一つ、面倒が増えた。
だが、尾張を組み直すとは、面倒を増やすことなのかもしれない。
俺は灯火を見た。
熱田の火ほど神妙ではない。
ただの部屋の灯りだ。
それでも、消えれば困る。
火は、どこにあっても扱いがいる。
言葉も同じだ。
信勝の言葉は、今夜もどこかで小さく燃えている。
それを誰かに奪われぬよう、見ていなければならない。
そして、俺自身もその火で少し照らされている。
そう思うと、ほんの少しだけ笑えてきた。
弟に照らされる兄。
うつけと呼ばれた俺には、なかなか似合いの悪い話だ。
だが、似合いが悪いものほど、案外使える。
明日は、この言葉を清洲へも回す。
清洲の古い顔が、どう読むか。
熱田の社が、どう受け止めるか。
町人が、どう噂にするか。
全部見る。
言葉は放った。
あとは、その火の行き先を追うだけだ。




