第25話 尾張の道をつなぐ
清洲の古い顔と向き合ってから、俺の仕事は増えた。
戦に勝つと、仕事が減ると思っている者がいるなら、それは大きな間違いだ。
戦は、道に転がった大きな石をどかすようなものだ。
どかした瞬間は、皆が声を上げる。
勝った、道が開いた、と。
だが、その石の下には泥がある。
虫もいる。
水の流れも変わっている。
踏めば足を取られる。
どかした後こそ、人を置き、土を固め、水を流し、また荷を通さねばならない。
稲生が終わり、清洲の扉が細く開いた今、俺の前にあるのは、その泥だった。
「若様」
朝から長秀が帳面を抱えて来た。
もう顔を見るだけで分かる。
面倒な話だ。
「言え、帳面様」
「その呼び名を朝一番で使うのはおやめください」
「眠気が覚めるだろう」
「怒りで覚めます」
「効いているな」
「そういう効き方は望んでおりません」
長秀はそう言いながらも、きちんと帳面を開いた。
この男の偉いところは、愚痴を言っても手を止めないところだ。
「清洲との取り決めを受け、まず三つの道で試すのがよいかと」
「三つ?」
「はい。那古野から清洲へ向かう道。守山を抜ける道。熱田へ荷を流す道。この三つで、印と名、荷の記録を合わせます」
「全部一度にやらぬのか」
「やれば混乱します」
「だろうな」
「ですので、まず三つです」
長秀は地図を広げた。
清洲、那古野、守山、熱田。
線で結べば簡単に見える。
だが、実際の道は線ではない。
橋がある。
ぬかるみがある。
寺社の関がある。
顔役がいる。
村があり、田があり、季節で水が変わる。
道は、ただ土が踏み固められた場所ではない。
人の都合が重なったものだ。
「まず、那古野と清洲の間」
長秀が指で示す。
「ここは清洲の目が強いです。こちらが強く出すぎると、清洲が警戒します」
「だから柴田ではなく佐久間か」
「はい。佐久間殿が表に立ち、私の者が記録を取ります」
「お前は」
「私は、守山道を見ます。以前の火種がありますので」
「危なくないか」
「危ないです」
長秀は即答した。
「ですが、私が行かぬと町の者が『帳面様は遠くから書くだけだ』と申すでしょう」
「言われたのか」
「すでに少し」
「町は口が早いな」
「若様も、それを楽しんでおられるでしょう」
「半分は」
「やはり」
長秀は呆れたように息を吐いた。
「熱田への道は」
「信勝様にも関わっていただくのがよいかと」
俺は長秀を見た。
「理由は」
「熱田方面は商いと信仰が絡みます。信勝様の穏やかな物腰は、寺社や商人に効きます」
「俺では効かぬか」
「効き方が違います」
「それは優しい言い方だな」
「はい」
「本音は」
「若様が行くと、相手が身構えます」
「正直でよい」
熱田。
そこもまた重要だ。
湊、商い、信仰。
尾張を動かすものが集まる。
信勝をそこに関わらせるのは、危うい。
だが、長秀の言う通り、効く。
信勝は人の面目を整えることができる。
寺社や商人相手には、俺の鋭さより弟の柔らかさが役に立つ。
それを認めるのに、以前より時間がかからなくなった。
悔しくないと言えば嘘になる。
だが、悔しさを理由に使わないのは愚かだ。
「勘十郎を呼ぶ」
「はい」
信勝はすぐに来た。
以前より少し痩せた顔はしているが、目は落ち着いている。
許された直後の揺れは、まだ残っている。
しかし、その揺れを隠すのではなく、抱えたまま座れるようになりつつあった。
「熱田への道を見てもらう」
俺が言うと、信勝は静かに聞いていた。
「私が、ですか」
「ああ」
「兄上ではなく」
「俺では相手が身構える」
信勝が少しだけ目を瞬かせた。
「それを兄上がご自分でおっしゃるのですね」
「長秀に言われた」
「なるほど」
「納得するな」
「ですが、事実かと」
「お前も遠慮が減ったな」
「兄上の周りにいると、そうなるようです」
長秀が隣で小さく頷いた。
頷くな。
「熱田は商いと信仰が絡む。寺社の面目を潰さず、しかし御用の名を騙らせない。その線を見たい」
「私にできるでしょうか」
「できるかどうかではない。やってもらう」
「兄上らしい」
「嫌か」
「怖いです」
信勝は正直に言った。
「ですが、やります」
「お前の名で誰かが動こうとしたら」
「止めます。止まらなければ、兄上に知らせます」
「よい」
信勝は少しだけ苦笑した。
「こうして兄上に一つずつ確認されると、私は子供のようですね」
「俺も帰蝶に飯を食ったか毎日確認されている」
「なら、お互い様ですね」
その言葉に、長秀がかすかに笑った。
部屋の空気が少しだけ緩んだ。
だが、信勝の顔はすぐに真面目へ戻る。
「兄上」
「何だ」
「私が熱田へ行けば、また私を立てようとする者が出るかもしれません」
「出るだろうな」
「それでも?」
「隠しても出る。なら、見える場所でお前自身に言わせる」
「私自身に」
「信勝の名で道を割らぬ。そう言え」
信勝は静かに頷いた。
「分かりました」
こうして、尾張の道をつなぐ最初の仕事が始まった。
華々しいものではない。
敵の城を攻めるわけでもない。
首を取るわけでもない。
ただ、道に人を出し、荷の名を聞き、印を照らし、銭の名目を調べ、橋の修繕を誰が担うか決める。
物語なら退屈なところかもしれない。
だが、国を持つというのは、たぶんこういう退屈を積み上げることだ。
退屈を嫌った主は、派手な戦で死ぬ。
あるいは、勝っても後ろから国が腐る。
俺は派手な戦が嫌いではない。
嫌いではないからこそ、退屈を見なければならない。
そう思えるようになっただけ、俺は少し変わったのだろう。
政秀に言わせれば、まだ足りぬ、だろうが。
数日後、俺は守山道へ出た。
長秀も一緒だ。
正確には、長秀が行くところへ俺がついていった。
そのせいで長秀は朝から少し嫌な顔をしていた。
「若様がお越しになると、相手が身構えます」
「なら、身構えた顔を見る」
「そういうところです」
「どういうところだ」
「いえ」
恒興と犬千代も連れている。
犬千代は最近、耳で戦う修行だと言われると露骨に嫌な顔をするようになった。
今日は槍を持っていない。
それだけで少し不満そうだ。
「犬千代」
「はい」
「今日は斬るな」
「最初からそのご命令ですか」
「念のためだ」
「私は、そんなに斬りそうに見えますか」
恒興が横で言った。
「見える」
「恒興」
「俺だけじゃない。たぶん皆思ってる」
犬千代は悔しそうだった。
だが、否定しきれない顔でもあった。
守山道には、以前とは少し違う空気があった。
荷は通っている。
だが、馬借たちの目が慎重だ。
清洲との取り決めが始まったことで、彼らもこちらを測っている。
何が変わるのか。
銭は減るのか。
手間だけ増えるのか。
名を言えば守られるのか。
言えば逆に睨まれるのか。
そういう不安だ。
仁助が、こちらへやって来た。
「若様、帳面様、今日は揃ってお出ましで」
「帳面様は俺ではない」
「存じてます」
仁助は悪びれない。
長秀は少し諦めた顔をした。
「仁助、荷は動いているか」
「動いちゃいます。ただ、印を見せろ、名を書けってのが増えたんで、急ぐ荷は文句言ってます」
「止まるほどか」
「今はまだ。でも、雨が降って道が悪くなった時に同じことをやったら、詰まりますね」
長秀がすぐに書いた。
「雨天時の扱い」
「そこで書くんですね」
「書きます」
「さすが帳面様」
「その名は」
「町で通ってるんで諦めた方がいいですよ」
長秀は返事をしなかった。
筆で返事をするように、帳面へ書き込む。
「雨の日はどうすればよい」
俺が聞くと、仁助は頭をかいた。
「全部の荷を同じに扱うのが無理なんです。米と魚と炭と鉄じゃ急ぎ方が違う。魚は止めたら腐る。米は濡れたら困る。炭は濡れたら値が落ちる。鉄は重いから道が悪いと動けない」
「なら、荷の種類で扱いを分ける」
「そうです。でも、そうすると今度は『これは急ぎの荷だ』って嘘をつく奴が出ます」
「出るだろうな」
「だから、荷主の名と受け手の名が要る」
仁助が先に言った。
長秀が顔を上げる。
「分かっているではありませんか」
「分かってますよ。面倒なだけで」
「面倒でも、必要です」
「だから文句を言いながら従ってるんです」
町の者は正直だ。
ありがたいが、時々刺さる。
文句を言いながら従う。
それで十分な時がある。
皆が喜んで従う政など、たぶん嘘だ。
嫌々でも従い、従った方がまだ得だと思わせる。
そこから始めるしかない。
「仁助」
「へい」
「雨の日に詰まる場所を案内しろ」
「今からですか」
「今からだ」
「若様、こういう時は本当に早いですね」
「遅い方がいいか」
「いや、早い方がいいんですが、こっちの心の準備が」
「道は心の準備を待たぬ」
「それはそうで」
仁助は苦笑しながら歩き出した。
守山道の途中、低くなった場所があった。
雨が降ると水が溜まるらしい。
近くに小さな橋がある。
橋と呼ぶには頼りない。
板が渡され、土が盛られているだけだ。
ここで荷車が詰まる。
馬が嫌がる。
人夫が増える。
そのたびに余計な銭が動く。
「誰が直す」
俺が聞くと、仁助は肩をすくめた。
「誰も直したがりません」
「なぜ」
「清洲側の道とも言えるし、那古野側の荷も通るし、近くの寺の関も絡む。皆、自分だけが金を出すのは嫌だって顔をする」
実に分かりやすい。
そして腹立たしい。
皆が使う道ほど、誰も責任を取りたがらない。
「長秀」
「はい」
「ここを直すには」
「板と土だけでなく、横の水を逃がす溝が必要です。費用は……」
長秀が地面を見ながら考える。
こういう時、長秀は本当に頼りになる。
戦場で大声を上げるより、泥の深さを見ている方が似合う武士というのも珍しい。
「費用は、那古野、清洲、寺、荷を通す商人で分ける」
俺が言うと、仁助が目を丸くした。
「そんなうまくいきますかね」
「いかぬだろうな」
「ですよね」
「だから、誰がいくら得をしているか書く」
長秀が頷いた。
「荷の通行量、止まった時の損、修繕費。比べれば、出さぬ方が損だと示せます」
「帳面様、怖いですね」
「その名はもういいです」
長秀がとうとう少しだけ諦めた。
「仁助、この場所で荷が止まった記録を取れ。過去のことは分かる範囲でいい」
「俺が?」
「馬借の頭だろう」
「頭ってほどでも」
「なら違うのか」
「……やります」
仁助は観念した。
俺は犬千代を見た。
「お前も見たか」
「はい」
「何が見えた」
犬千代は真剣に地面を見た。
「ここで敵に襲われたら、荷が邪魔で動けません」
「戦に戻すな」
「すみません」
しかし、悪い見方ではない。
道の詰まりは、戦でも弱点になる。
荷が詰まる場所は、兵も詰まる。
兵が詰まる場所は、敵が狙う。
「いや、それも書け」
長秀が筆を動かした。
犬千代が驚く。
「私の言葉も帳面に?」
「役に立つなら書く」
長秀が答える。
犬千代は妙に嬉しそうだった。
単純だ。
だが、その単純さも使える。
次に向かったのは、寺社の関がある場所だった。
小さな堂があり、その横で銭を受け取る者がいる。
名目は橋の守りと旅の安全の祈祷。
悪いことではない。
橋は守らねばならない。
旅の安全を祈る者もいる。
だが、問題は銭の重なり方だ。
ここで取り、少し先でも取り、さらに清洲寄りでも取る。
荷主からすれば、どれが本当に必要な銭か分からない。
分からないものは、不満になる。
不満は噂になる。
噂は火種になる。
覚円坊から聞いた名がここにもあった。
堂を預かる僧が、俺たちを見て顔を強張らせる。
「若君」
「銭の名目を聞きに来た」
俺が言うと、僧はさらに強張った。
「決して、不正などは」
「不正だとは言っていない」
「では」
「正しいなら、書ける」
僧は言葉に詰まった。
長秀が横で帳面を開く。
僧は、その帳面をまるで刀のように見た。
「橋の修繕、旅の祈祷、堂の維持。それぞれいくらだ」
「それは、その時々で」
「その時々か」
俺は堂の横にある橋を見た。
古い。
だが、直していないわけではない。
板の一部は新しい。
つまり銭がまったく使われていないわけではない。
だが、どれだけ入り、どれだけ出たかが見えない。
見えないから疑われる。
「僧」
「はい」
「橋を直したことは認める」
僧の顔に、少し安堵が浮かぶ。
「だが、どの銭で直したのか分からぬなら、次に取る銭も疑われる」
「……」
「祈りを疑われたいか」
僧は、はっとした顔をした。
そこを突かれるとは思っていなかったのだろう。
「祈りの名で取る銭が曇れば、祈りまで曇る。俺はそれを望まぬ」
これは本心だった。
寺社を軽く見るつもりはない。
軽いなら、焼けば済むという極端な話になる。
だが、寺社は重い。
人の心にも、道にも、土地にも絡んでいる。
だからこそ、曇らせたまま放れない。
「長秀」
「はい」
「ここも、まず三つに分けろ。橋、祈祷、堂の維持。細かい内訳までは今は問わぬ。だが、名目を分ける」
「承知しました」
僧は少し考え、深く頭を下げた。
「若君のお言葉、覚円坊様にもお伝えいたします」
「伝えろ。ただし、俺が寺を疑っているのではない。曇った銭が祈りを疑わせる、と伝えろ」
「はい」
帰り道、長秀が言った。
「若様、寺社への言い方が以前より柔らかくなりました」
「柔らかいか」
「はい」
「帰蝶と河尻のせいだ」
「平手様もでしょう」
「うるさいのが増えたな」
「よいことです」
「お前までうるさくなるなよ」
「もう手遅れかと」
長秀が平然と言うので、俺は少し笑った。
守山道の視察を終えて城へ戻ると、信勝から使いが来ていた。
熱田への道で、商人と社の者の話し合いが難航しているらしい。
信勝は、俺の判断を仰ぐのではなく、まず自分の見立てを書いて寄越した。
社の面目を潰せば商人が安心しても信仰の側が反発する。
商人の負担を軽くしなければ荷が遠回りする。
よって、祭礼に関わる銭と、荷の通行に関わる銭を分けて扱いたい。
そう書かれていた。
俺は読みながら、少しだけ笑った。
「兄上、どうされますか、ではないのですね」
横にいた帰蝶が言った。
「そうだな」
「信勝様は、ご自分の目で見ようとなさっている」
「ああ」
「嬉しそうですね」
「そう見えるか」
「顔に出ています」
「俺の顔は本当に働きすぎだ」
信勝の見立ては悪くない。
いや、かなりよい。
信仰と商いを分ける。
祭礼の銭と荷の銭を分ける。
これもまた、名目を整えることだ。
俺と違う場所で、弟も同じものを見始めている。
それが嬉しい。
そして、少し怖い。
信勝が成長すればするほど、また担ぎたい者も出る。
だが、成長しないよう閉じ込めるのはもっと悪い。
横に立つと言ったのだ。
ならば、横に立てるだけの仕事を渡さねばならない。
「返事を書きますか」
帰蝶が聞く。
「書く」
「何と」
「その見立てで進めろ。ただし、銭の名目を分けた後、誰が見ても分かる形に書かせろ、と」
「よいと思います」
「お前がそう言うなら、半分は大丈夫だ」
「半分ですか」
「全部と言うと油断する」
帰蝶は目元を緩めた。
その夜、小さな評定で三つの道の報告をまとめた。
那古野と清洲の道。
守山道。
熱田への道。
それぞれに違う問題があった。
清洲は面目。
守山は詰まり。
熱田は信仰と商い。
一つの決まりで全部を縛れば、どこかが破れる。
だから、根は同じにし、扱いを変える。
名を騙らせない。
銭の理由を分ける。
荷の流れを止めない。
この三つを根にして、それぞれの場所へ合わせる。
「面倒ですね」
恒興が呟いた。
「そうだな」
「でも、少し道が見えた気がします」
「お前にも見えるか」
「はい。若様が何を見ようとしているのか、前よりは」
「全部か」
「半分くらいです」
「上等だ」
俺は地図を見た。
三つの道に、小さな印が増えている。
ここは雨で詰まる。
ここは寺社の銭を分ける。
ここは清洲と那古野の印を照合する。
ここは馬借に記録を取らせる。
地味だ。
とてつもなく地味だ。
だが、この地味な印が増えるほど、尾張の道は少しずつ見える。
見えるものは扱える。
扱えるものは、つなげられる。
俺は、ようやく少し分かった。
尾張を一つにするとは、城を一つ取ることではない。
人の名と、道と、荷と、銭と、祈りと、面目を、少しずつ結び直すことだ。
その結び目を握る者が、尾張を握る。
父上は、それを力と勘でやっていた。
俺は、そこに帳面を入れる。
町の声を入れる。
信勝の柔らかさを入れる。
柴田の武を入れる。
佐久間の慎重さを入れる。
帰蝶の目を入れる。
全部使う。
うつけと呼びたい者は、呼べばいい。
俺はその間に、道をつなぐ。
評定が終わった後、俺は一人で地図を見ていた。
そこへ帰蝶が来た。
「またお顔が働いています」
「今日はよく働いた」
「顔ではなく、あなたが休んでください」
「分かっている」
「本当に?」
「たぶん」
「では、まず食べてください」
「またか」
「道をつなぐにも、腹が減っていてはできません」
父上と同じことを言う。
政秀とも同じだ。
俺は苦笑し、立ち上がった。
「食う」
「はい」
帰蝶が少し満足そうに頷く。
外では夜風が吹いていた。
尾張の道は、まだ詰まりだらけだ。
だが、今日、いくつかの詰まりの名が分かった。
名が分かれば、次に触れられる。
触れられれば、動かせる。
動かせれば、つながる。
まだ細い。
まだ弱い。
だが、道は一本ずつつながり始めている。
尾張はまだ一つではない。
けれど、道は嘘をつかない。
つながった道の先には、いつか人も、米も、兵も、噂も、そして俺の名も流れていく。
ならば、その流れを見失うな。
俺はそう自分に言い聞かせながら、粥の椀を受け取った。




