第23話 帳面様、清洲を歩く
丹羽長秀は、自分がいつの間にか妙な名で呼ばれていることを、まだ完全には受け入れていなかった。
帳面様。
最初に誰が言い出したのかは分からない。
馬借の仁助あたりが悪ふざけで広げたのだろう、と長秀は疑っている。
しかし、疑ったところで証拠はない。
証拠がなければ帳面には書けない。
帳面に書けない怒りは、処理に困る。
「丹羽殿」
横を歩く柴田勝家が、低く声をかけてきた。
「何でしょう」
「清洲に入ってから、町人たちがそなたを見ておりますな」
「柴田殿も見られております」
「私を見る目とは違う」
「どう違いますか」
「私を見る時は、怖いものを見る目だ。そなたを見る時は、面倒なものを見る目だ」
長秀は少しだけ眉を下げた。
「それは、褒めておられますか」
「半分は」
「その言い方、織田家中で流行っておりますね」
「若君のせいであろう」
「それは間違いありません」
二人は清洲の町を歩いていた。
正使という形ではない。
正式な協議の前に、清洲側から案内役を出す、という名目で町と道を見ている。
こちらからは柴田勝家と丹羽長秀。
武の重みと、実務の目。
清洲側からは、守護代家に近い家臣の一人と、町方を取りまとめる年寄り、そして寺社方に顔の利く男がついていた。
どの者も、丁寧だった。
丁寧すぎた。
長秀は、丁寧すぎる者をあまり信用しない。
無礼な者の方が、まだ腹の位置が見えやすい。
丁寧な者は、言葉の中に綿を詰める。
刺さった時に、こちらがすぐ痛みに気づかないように。
「丹羽様」
清洲方の案内役、坂井孫八郎が微笑んだ。
年は三十を少し越えたくらいか。
身なりは整っている。
声も柔らかい。
だが、目は柔らかくない。
「このあたりが清洲でも荷の往来の多い筋にございます。ご覧の通り、昔からの扱いでよく整っております」
「たしかに、人も荷も多い」
長秀は頷いた。
道は広い。
荷車も通る。
馬借もいる。
店も並び、人の声も多い。
那古野の町とは違う活気がある。
古い秩序の上に、商いが積もっている感じがした。
ただし、整っているからといって、詰まりがないとは限らない。
よく整った水路ほど、蓋の下で泥が溜まる。
「こちらでは、御用の荷はどのように通されるのですか」
長秀が問うと、孫八郎は待っていましたという顔をした。
「従来通り、清洲の印と名を示せば通ります。急な改めは、町人たちをかえって迷わせましょう」
「従来通り」
「はい。長く続いた作法には、続いた理由がございます」
「それは、その通りです」
長秀は素直に頷いた。
孫八郎の顔に、少しだけ意外そうな色が出た。
反論されると思っていたのだろう。
「続いた理由を知るために、今日は歩いております」
長秀がそう言うと、孫八郎はすぐ微笑を戻した。
「それはご熱心なことで」
「帳面様ですので」
長秀が自分から言うと、清洲方の案内役たちが一瞬言葉を失った。
柴田が横で低く笑った。
「丹羽殿、自分で言われるようになったか」
「先に言えば、相手に言われる分が減ります」
「なるほど。戦の先手のようなものか」
「たぶん違います」
二人のやり取りに、清洲の町年寄りが少しだけ頬を緩めた。
名を津田屋久右衛門という。
この男は、さきほどからほとんど口を出さない。
だが、店先の様子、人の動き、荷の流れを見る目は鋭い。
おそらく、清洲の商いの腹を知っているのは、孫八郎よりこの男だ。
長秀は久右衛門へ顔を向けた。
「津田屋殿」
「はい」
「この道で荷が止まることはありますか」
「ございます」
即答だった。
孫八郎がわずかに眉を動かした。
久右衛門は構わず続ける。
「雨で道が悪くなる。馬が倒れる。荷主と受け取り手の名が違う。印が古い。人夫が足りない。止まる理由はいくらでもございます」
「人が意図して止めることは」
「それもございます」
孫八郎が咳払いをした。
「津田屋殿、言葉が」
「荷は止まります」
久右衛門は淡々と言った。
「止まるものを、止まらぬと言えば、道を扱う者として嘘になります」
長秀は内心で、この男は使えると思った。
信長なら顔に出すなと言うだろう。
長秀は表情を変えなかった。
「止まった時、誰が責を負いますか」
「荷によります」
「御用の名を騙った場合は」
久右衛門は、少しだけ黙った。
ここからが本題だと分かったのだろう。
「それが本物か偽物か、町人にはすぐ分かりません」
「だから印と名を整えたい」
「お気持ちは分かります」
「お気持ちでは困ります」
長秀は穏やかに言った。
穏やかすぎて、周囲が逆に静まった。
「荷が止まれば銭が詰まる。銭が詰まれば米が動かぬ。米が動かねば兵が食えぬ。兵が食えなければ、清洲も那古野も守れません」
久右衛門の目が少し細くなった。
孫八郎は表情を保っている。
柴田は腕を組み、黙って聞いていた。
長秀は帳面を開いた。
「守山道で止まった荷の記録です。米三俵、炭二荷、鉄材少々。小さく見えましょう」
「小さい、とは申しませんが」
孫八郎が言う。
「小さいのです」
長秀は言い切った。
「一つ一つは。ですが、それが十、二十、三十と重なれば、鍛冶場の火が弱る。馬借が道を避ける。米屋が蔵を締める。町人が不安になり、武士が疑い、家中が荒れる」
「稲生のことをおっしゃっているので?」
孫八郎の声は柔らかい。
だが、刃が入った。
柴田の気配が変わる。
稲生。
その名はまだ生傷だ。
清洲の者がそこを突いてきた。
長秀は、柴田が怒る前に口を開いた。
「稲生も、そうした詰まりの一つとして見ております」
孫八郎の目がわずかに揺れた。
「戦を、荷の詰まりと同じに?」
「同じではありません。ですが、いきなり大きな戦になったわけでもありません。名を騙る者、道を止める者、米を抱える者、面目を失う者、不安を煽る者。小さな詰まりが重なり、最後に槍が出ました」
長秀は帳面を閉じた。
「だから、槍が出る前に詰まりを見たいのです」
場が静まった。
柴田が低く言った。
「丹羽殿」
「はい」
「若君のようなことを言うようになったな」
「それは、褒めておられますか」
「かなり」
「複雑です」
清洲の町年寄り、久右衛門が小さく笑った。
孫八郎は笑わなかった。
寺社方に顔の利く男、覚円坊は、それまでほとんど黙っていたが、ここで初めて口を開いた。
「丹羽殿のお話は、道を正すには理がございます。しかし、寺社の関や古くからの銭には、祈祷、修繕、警固、それぞれ理由がございます」
「理由があることは分かっています」
「では、そこへ帳面を入れると?」
「入れます」
長秀は即答した。
覚円坊の目が、初めて冷たくなった。
柴田が、ほんの少し身構える。
長秀は、あえて穏やかなまま続けた。
「ただし、奪うためではありません。理由を残すためです」
「理由を」
「はい。どこで、誰が、何のために銭を取るのか。それを明らかにする。理由があるなら書けるはずです。書けぬ銭は、後で必ず争いになります」
覚円坊は少し黙った。
「信長様は、寺社の権を軽く見ておられるのですか」
「軽く見ていたら、わざわざ帳面に残しません」
長秀は答えた。
「軽いものなら、斬れば済みます。重いから、書いて残します」
柴田が長秀を見た。
今の言葉は、柴田にも届いたらしい。
許された者の重み。
名を残すことの重み。
長秀自身も、その重みを背負い始めていた。
帳面様などと笑われているが、帳面とは笑いだけで扱えるものではない。
名を書くとは、相手の命の端を持つことだ。
長秀は最近、それをよく知っている。
一行書くだけで、人の面目が揺れる。
一行残すだけで、誰かが斬られずに済むこともある。
だから、字を間違えない。
軽く書かない。
「なるほど」
久右衛門が呟いた。
「帳面様とは、思ったより怖いお役目ですな」
「私はその名を好んでいません」
「しかし、町には覚えやすい」
「それが困ります」
久右衛門はまた少し笑った。
この男は、清洲の商人たちへ話を流すだろう。
帳面様は面倒だ。
だが、話は分かる。
そう流れれば、半分は勝ちだ。
残り半分は、清洲の上にいる者たちがどう受け取るかだった。
一行は、清洲の荷場を見た。
米俵が積まれている。
炭の束がある。
塩、魚、布、鉄材、酒。
那古野とは違う物の集まり方だ。
清洲は古い。
古いということは、便利な道があり、便利な顔役がいて、便利な抜け道もあるということだ。
長秀は、道の脇で馬借たちに声をかけた。
清洲方の案内役たちは、少し嫌な顔をした。
だが、止めはしない。
ここで止めれば、何か隠しているように見えるからだ。
「御用の荷で困ったことは」
長秀が聞くと、馬借の一人が柴田の顔を見て口を閉じた。
柴田は眉をひそめる。
「私を見るな。丹羽殿に答えよ」
声が重い。
馬借は飛び上がりそうになった。
長秀は少し頭が痛くなった。
「柴田殿、もう少し柔らかく」
「柔らかく言ったつもりだ」
「そうですか」
本人に悪気はない。
それが一番困る。
長秀は馬借へ向き直った。
「困ったことは」
馬借は恐る恐る言った。
「印より、言う人で変わります」
「どういうことですか」
「同じ印でも、強い方の家の者なら通る。弱い方の使いなら止められる。名があっても、後ろに誰がいるかで扱いが変わるんです」
孫八郎が渋い顔をした。
だが、否定はしなかった。
事実なのだろう。
長秀は帳面に書いた。
「名より後ろ盾がものを言う」
馬借は、字を覗き込んでぎょっとした。
「そ、そこまで書くんで?」
「書きます」
「俺が言ったと?」
「必要なら伏せます」
「ならお願いします」
馬借は慌てて頭を下げた。
柴田が不思議そうに聞いた。
「名を残すのに、伏せるのか」
「すべて表に出せば、次に誰も話しません」
「なるほど」
柴田は少し考えた。
「戦場の物見と似ているな」
「似ていますか」
「物見の名をすべて敵に知らせる者はおらぬ」
「たしかに」
意外なところで柴田と話が合った。
長秀は少しだけ面白かった。
清洲方の者たちは、面白くなさそうだった。
その後も歩きながら、長秀は聞いた。
荷が止まる場所。
銭を取る場所。
寺社への支払い。
清洲の印と、那古野の印。
古くからの作法。
新しい不満。
商人たちは、最初は警戒していた。
だが、柴田が意外と黙って立っていること、長秀が怒鳴らずに書くこと、そして久右衛門が時々「それは言ってもよい」と目で促すことで、少しずつ口が開いた。
やはり、清洲にも詰まりはある。
ただ、長く続いた詰まりは、詰まりと呼ばれなくなる。
慣例。
作法。
古例。
そういう立派な名をつけられ、道の真ん中に置かれている。
長秀は、それを一つずつ帳面に拾った。
昼を過ぎた頃、孫八郎が言った。
「丹羽殿、ずいぶん多くをお書きになりますな」
「忘れますので」
「それほど忘れますか」
「人は、自分に都合の悪いことから忘れます」
孫八郎の笑みが少し固まった。
「それは、我ら清洲へ向けたお言葉で?」
「私自身にもです」
長秀はそう答えた。
これは本心だった。
帳面は相手を縛るだけではない。
自分も縛る。
あとで都合よく言い換えようとしても、書いた字が残る。
信長はそれを分かっている。
だからこそ、長秀に帳面を持たせた。
たぶん。
いや、最初はそこまで考えていなかったかもしれない。
若様は時々、勘で手を伸ばし、後から理屈が追いつく。
それが怖い。
そして、少し羨ましい。
「柴田殿」
孫八郎が今度は柴田へ話を向けた。
「稲生では、たいへんな御働きだったとか」
「敗れた働きを褒められても困る」
柴田はぶっきらぼうに答えた。
孫八郎は微笑んだままだ。
「敗れてなお、信長様に重く用いられておられる。清洲でも、そのご器量に感服する声がございます」
長秀は内心で、来たと思った。
柴田を揺らしに来た。
信長に許された柴田。
その誇りと痛みを撫でる言葉だ。
柴田はしばらく孫八郎を見た。
そして言った。
「私は、織田のために働いている」
「無論でございます」
「織田のために働くとは、今は若君の命に従うことだ」
孫八郎の笑みが、ほんの少し薄くなった。
柴田は続けた。
「不満があれば、私は若君に言う。清洲の道端で言うことではない」
長秀は、思わず柴田を見た。
よい返しだ。
柴田勝家は、たしかに変わっている。
いや、変わったというより、許された命の置き場を決めつつある。
孫八郎は深く頭を下げた。
「失礼いたしました」
「失礼ではない。試しただけであろう」
柴田はあっさり言った。
「次は、もう少しうまく試せ」
清洲側の空気が凍った。
長秀は頭を抱えそうになった。
「柴田殿」
「何だ」
「それは少し強すぎます」
「そうか」
「はい」
「では、半分ほどにしておこう」
「もう言った後です」
久右衛門が声を出して笑った。
覚円坊ですら、口元をわずかに動かした。
孫八郎だけが、笑みを保ったまま目を笑わせていなかった。
いい。
これで清洲は分かったはずだ。
柴田は揺さぶれるが、簡単には割れない。
長秀は軽く見えるが、帳面で名を拾う。
那古野は稲生の後、完全には割れていない。
それを示すだけでも、今日の意味はあった。
夕方、清洲側の用意した一室で、簡単な話し合いが行われた。
正式な協議ではない。
だが、実質的には前哨戦だった。
清洲側は、那古野からも清洲からも人を出し、印と名の扱いを確認することには同意した。
ただし、清洲の古い作法を急に改めないこと。
寺社の関については別途話し合うこと。
守護家に関わる荷は、従来の筋を尊重すること。
いくつもの但し書きがついた。
長秀はすべて帳面に書いた。
「丹羽殿」
孫八郎が言った。
「そこまで書かずとも、後ほど文にまとめます」
「文にまとめる前の言葉も大事です」
「言葉は揺れるものです」
「だから書きます」
「帳面様は手厳しい」
「その名は好んでおりません」
「清洲でも、すでに通じ始めております」
「非常に困ります」
孫八郎は今度、少しだけ本当に笑った。
「ですが、覚えました」
「何を」
「那古野には、名を残す者がいると」
長秀は静かに頷いた。
「清洲にも、名を残すべき者が多いと分かりました」
孫八郎は、また笑みを固めた。
話し合いが終わった頃、空は赤くなっていた。
清洲の町は夕方の匂いを出し始めている。
炊煙。
魚。
馬。
水。
那古野とは違うが、同じ尾張の匂いだ。
長秀は少し歩みを緩めた。
柴田が隣で言う。
「疲れたか」
「はい」
「戦より疲れるか」
「種類が違います」
「私は、今日の方が疲れた」
柴田が真顔で言ったので、長秀は少し笑った。
「耳で戦いましたからね」
「犬千代の気持ちが分かった」
「それはよいことです」
清洲を出る前、久右衛門が長秀へ近づいてきた。
「丹羽殿」
「何でしょう」
「帳面に、ひとつ書かれぬことを申し上げても?」
「書かぬ方がよい話ですか」
「今は」
長秀は少しだけ周囲を見た。
柴田が自然に少し離れ、しかし見える位置に立つ。
用心の仕方がうまい。
久右衛門は声を低くした。
「清洲の中にも、那古野と争いたくない者はおります。道が乱れれば、損をするのはこちらも同じです」
「でしょうね」
「しかし、古い顔の方々は、簡単には頷きません」
「古い顔」
「守護家、守護代家、寺社、古くからの家臣。そして、その周りで古い名を使って飯を食う者たちです」
「名を使って飯を食う」
「はい」
久右衛門の目は真剣だった。
「信長様は、名を盗ませぬとおっしゃっているとか。ならば、清洲ではもっと大きな名を相手にすることになります」
「守護の名、ですか」
「それも一つ」
長秀は頷いた。
「これは書いても?」
「私の名は伏せていただければ」
「分かりました」
久右衛門は頭を下げ、去っていった。
長秀は、帳面を閉じた。
清洲は古い。
古い名がある。
名を使う者がいる。
那古野で起きたことより、もっと大きな形でそれがある。
若様が聞けば、きっと目を細めるだろう。
使える、と顔に出しかけて、帰蝶様に見抜かれるに違いない。
そんなことを思い、長秀は少しだけ笑った。
その夜、柴田と長秀は那古野へ戻った。
信長は広間で待っていた。
いつものように、何かを読んでいる。
だが、こちらが入るとすぐ顔を上げた。
「どうだった」
長秀は膝をつき、帳面を前に置いた。
「清洲は、歩くほど面倒です」
「それはよい報告だ」
「よいのですか」
「面倒だと分かったなら、見えたということだ」
柴田が低く笑った。
「若君らしい」
長秀は帳面を開いた。
清洲の道。
荷場。
馬借の声。
商人の反応。
寺社の関。
偽印への不安。
孫八郎の揺さぶり。
久右衛門の助言。
古い名を使う者たち。
すべてを話した。
信長は途中でほとんど口を挟まなかった。
ただ、目だけが動いていた。
時々、何かを拾うように指が畳を叩く。
報告を聞き終えると、信長はしばらく黙った。
「清洲は、尾張の古い名が集まる場所だな」
「はい」
「那古野で名を盗む者を止めたら、次は清洲で名に住みつく者を相手にすることになる」
長秀は、その言い方に少し背筋が冷えた。
名に住みつく者。
久右衛門の言葉を、信長は一段鋭く言い換えた。
「守護の名、寺社の名、古い家の名。そこに食いついている者たちを、いきなり剥がせば血が出る」
信長は小さく息を吐いた。
「だが、放れば道が詰まる」
「はい」
「面倒だな」
「はい」
長秀は即答した。
信長は少し笑った。
「よく歩いた、帳面様」
「若様、その名は本当に」
「清洲でも広がったのだろう」
「非常に不本意です」
「だが、効いている」
長秀は反論できなかった。
効いている。
それは確かだった。
「柴田」
「はっ」
「揺さぶられたか」
「多少」
「どうだった」
「腹が立ちました」
「乗らなかったな」
「乗れば、若君に笑われると思いまして」
「笑わぬ。叱る」
「では、なおさら乗らずに済みました」
柴田は少しだけ口元を緩めた。
信長も笑った。
その笑いは、以前より少し自然だった。
「清洲から人を呼ぶ準備をする」
信長は言った。
「長秀、見せる帳面を整えろ。柴田、清洲の者が来た時、兵の立て直しも見せる。稲生で割れた者たちが同じ場所で訓練しているところをな」
「見せるのでございますか」
「ああ。こちらは割れていない、と口で言うより早い」
「まだ完全には」
「完全でなくてよい。組み直しているところを見せる」
長秀は頷いた。
完成した姿ではなく、組み直している姿を見せる。
それは危うい。
だが、信長らしい。
隠しきれない傷なら、治そうとしているところを見せる。
それで相手の見方を揺らす。
「若君」
柴田が言った。
「清洲は、こちらの傷も見ます」
「見せる傷と隠す傷を選ぶ」
「なるほど」
「全部隠せるほど、尾張は整っていない」
信長はそう言い、清洲の方角へ視線を向けた。
もちろん、広間から清洲は見えない。
だが、見ている。
長秀には、そう分かった。
その夜、長秀は自室に戻っても、しばらく帳面を閉じられなかった。
清洲で拾った声を整理する。
名を伏せるもの。
伏せてはならないもの。
清洲側に見せるもの。
信長にだけ見せるもの。
柴田と共有するもの。
信勝にも伝えるべきもの。
分けるだけで、頭が痛い。
帳面様などと呼ばれるのは不本意だ。
だが、もしこの帳面がなければ、今日聞いた声は明日には形を変える。
誰かが都合よく語り直す。
誰かが忘れる。
誰かが利用する。
それを防ぐために、長秀は筆を取った。
書きながら、ふと思った。
自分はいつから、こんな役になったのだろう。
槍を持たぬわけではない。
戦ができぬわけでもない。
だが今、自分の手には槍より帳面が馴染んでいる。
悪くない。
そう思ってしまったことに、少し驚いた。
清洲を歩いたことで、見えたものがある。
信長が言う「道」と「名」は、ただの言葉ではない。
人が飯を食い、荷を運び、祈り、商い、面目を保ち、時に嘘をつく、そのすべてに絡んでいる。
尾張を一つにするとは、城を一つ取ることではない。
道に置かれた石をどかし、古い名に絡んだ縄をほどき、必要なら切り、切りすぎたところを結び直すことだ。
面倒すぎる。
長秀は筆を止め、深く息を吐いた。
「若様は、とんでもないことを始められた」
誰もいない部屋で呟く。
しかし、その声には呆れだけではなかった。
少しだけ、熱があった。
帳面様。
まったく不本意な名だ。
だが、清洲でその名が効いたのなら、しばらく使われてもよいかもしれない。
ほんの少しだけ。
もちろん、信長には言わない。
言えば、間違いなく笑われる。




