第22話 清洲からの返答
清洲へ遣わした柴田と長秀が戻るまで、城の中は落ち着かなかった。
いや、正確に言えば、落ち着いているふりをしていた。
人は不安な時ほど、よく働くふりをする。
廊下を歩く足音が少し早くなる。
声は低くなる。
目だけが動く。
誰がどこへ行ったか。
誰が誰と話したか。
誰が何を言わなかったか。
そういうものばかりが、城の空気の中に浮いていた。
俺は父上の文箱を開いていた。
清洲に関する書付を、もう一度読み返す。
守護代。
守護。
古い家格。
商い。
湊へ続く道。
寺社との関わり。
清洲は、ただ城を取ればよい場所ではない。
そこに集まる目をどう扱うかが問題だった。
力で押せば、城は落ちるかもしれない。
だが、清洲の目がこちらを主と認めなければ、尾張の半分は腹の中でそっぽを向いたままになる。
それでは意味がない。
「若様」
恒興が声をかけてきた。
「何だ」
「同じ書付を、もう三度お読みです」
「四度目だ」
「増えましたね」
「読むたび腹が立つ」
「なら、読まなければよろしいのでは」
「腹が立つものほど読んでおかねばならぬ」
恒興は、分かったような分からないような顔をした。
「清洲は、それほど面倒ですか」
「面倒だ」
「若様が即答なさると、本当に面倒なのだと分かります」
「那古野で俺が勝っただけでは、尾張は動かぬ。稲生で勝っても同じだ。清洲がこちらをどう扱うかで、周りの見方が変わる」
「柴田殿と長秀殿なら、うまくやるのでは」
「やるだろうな」
「なら」
「相手もうまくやる」
恒興は口を閉じた。
そういうことだ。
こちらが一手打てば、相手も一手打つ。
柴田と長秀を出した。
武と実務。
稲生後も織田家中が機能していることを見せるためだ。
だが清洲の者たちは、それをただ受け取るだけではない。
柴田を見て、稲生の敗将を使う信長の器と見る者もいる。
逆に、柴田を前に出さねばならぬほど信長の家中はまだ不安定だと見る者もいる。
長秀を見て、帳面で道と荷を正そうとする実務の目と見る者もいる。
逆に、町人まがいの細かいことに武家が首を突っ込むと軽く見る者もいる。
人は、見たいように見る。
だから、こちらも見なければならない。
「飯を食べましたか」
背後から声がした。
帰蝶だった。
最近、本当に気配を消すのがうまい。
美濃の姫というより、忍びに近いのではないかと思う時がある。
「食った」
「いつです」
「朝」
「今は昼を過ぎています」
「朝に食ったことは事実だ」
「事実の使い方が悪いです」
帰蝶は膳を持たせていた。
俺は少し抵抗する顔をした。
帰蝶は何も言わず、ただ見た。
負けた。
俺は箸を取った。
「清洲が気になるのですか」
「気にならぬ方がおかしい」
「柴田殿と長秀殿を信じていない?」
「信じている」
「では」
「信じている者を出しても、相手があることは不安だ」
帰蝶は少しだけ目を細めた。
「素直ですね」
「最近、皆にそれを言われる」
「よいことです」
「そうか?」
「はい。少なくとも、食べながら話せるくらいには」
俺は粥を口に入れた。
温かい。
腹に入ると、少しだけ頭の熱が下がる。
腹が空いている時の考えは、たいてい尖りすぎる。
父上の小言は、死んでなお役に立つ。
それがまた少し腹立たしい。
「清洲から戻ったら、次はどうなさるのですか」
「返答次第だ」
「受け入れてきたら?」
「清洲の面目を立てながら、印と名の取り決めを形にする」
「拒まれたら?」
「拒み方を見る」
「曖昧なら?」
「一番面倒だ」
帰蝶は静かに頷いた。
「おそらく、曖昧でしょうね」
「お前もそう思うか」
「はい。清洲は、あなたを完全には拒めません。けれど、簡単に認めることもできません」
「つまり、返答は半分か」
「また半分です」
「世は半分ばかりだな」
俺は箸を置いた。
帰蝶がすぐ目を細める。
「残っています」
「少し休ませろ」
「箸を休ませる必要はありません」
「厳しいな」
「平手様ほどでは」
政秀の名が出る。
胸の奥が少しだけ痛む。
だが、その痛みはもう俺の足を止めすぎない。
むしろ、座り直させる。
俺は残りを食った。
帰蝶は満足そうに頷いた。
その日の夕方近く、柴田と長秀が戻った。
城門の方で動きがあったと聞いた時、俺は立ち上がりかけた。
だが、途中で止まった。
ここで出迎えに走る必要はない。
報告は報告として受ける。
動きたい時ほど、一拍置く。
政秀の死が俺に残した、厄介な癖だ。
広間で待つ。
柴田が先に入ってきた。
顔に疲れはあるが、怒りはない。
長秀は帳面を抱えている。
抱え方が、出立前より少し重い。
嫌な予感がする。
「戻ったか」
「はっ」
柴田が頭を下げる。
長秀も続いた。
「清洲はどうだった」
長秀が顔を上げた。
「返答は、ございます」
「曖昧か」
長秀は一瞬だけ驚いた。
「お察しの通りです」
帰蝶の読み通りか。
嬉しくない当たりだ。
「読め」
長秀は清洲から預かった書状を開いた。
文は整っていた。
整いすぎていた。
こちらの触れの意図は理解した。
偽印、偽御用によって道が乱れることは清洲としても本意ではない。
尾張全体の安寧を願う心は同じである。
ただし、清洲には清洲の古くからの作法がある。
御用の印、荷の通し方、守護家との関わりについては、急な改めは混乱を招く。
よって、まずは双方の使者を立て、今後協議したい。
そういう文だった。
きれいだ。
実にきれいだ。
そして、ほとんど何も約束していない。
「見事に半分だな」
俺が言うと、柴田が低く笑った。
「まことに」
「柴田。清洲の場はどうだった」
柴田は少し考えてから答えた。
「表は丁重でした。ですが、こちらを試す目が多うございました」
「お前をどう見た」
「稲生で敗れた柴田が、信長様の使いとして来た。そこに驚きはあったようです」
「揺さぶられたか」
「多少」
「何を言われた」
「信勝様のことを」
広間の空気が少し重くなる。
「続けろ」
「清洲の者の一人が、遠回しに申しました。稲生では不幸な行き違いがあったが、信勝様の御器量を惜しむ声は清洲にもある、と」
恒興が顔をしかめた。
俺は黙って聞いた。
「お前は何と返した」
「信勝様は織田の大事なお方である。されど、信勝様の名を勝手に使う者は、信勝様ご自身が望まれぬと」
「よい返しだ」
柴田は少しだけ頭を下げた。
「長秀が先にそう言っておりましたので」
俺は長秀を見た。
長秀は無表情を保とうとしているが、少し疲れている。
「帳面様、やるな」
「若様、その呼び名は清洲でも言われました」
「広がっているな」
「まったく嬉しくありません」
「何と言われた」
長秀は少し眉を寄せた。
「丹羽殿は、町の者の訴えを帳面に拾っておられるそうだが、武家の政は帳面だけでは動きますまい、と」
「侮られたか」
「半分は」
「もう半分は」
「恐れです」
長秀の目が少し鋭くなった。
「帳面に名が残ることを、清洲の者たちは嫌がっています。偽印や偽御用の話になると、誰がどの名で荷を通したか記す必要が出ますから」
「つまり、効いている」
「はい。ただし、嫌われてもいます」
「それは仕方ない」
「若様は、そう言われると思いました」
長秀は帳面を開いた。
「清洲の下役、商人、寺社に近い者、それぞれが別の反応を示しました。清洲の重臣たちは面目を気にし、商人たちは道の安全を気にし、下役は責任が自分に降りかかることを恐れています」
「寺は」
「静かでした」
「静かすぎるか」
「はい」
長秀は頷いた。
「清洲の寺社は、まだ様子見です。こちらの触れが寺社の関や銭に及ぶと見れば、動くでしょう」
「動く前に見る必要があるな」
俺は書状を受け取った。
何度か目を通す。
文の中に、こちらを拒む言葉はない。
だが、従う言葉もない。
清洲は、返事をしながら時間を稼いでいる。
その間にこちらの内を測り、信勝の扱いを見て、柴田の立場を見て、町の反応を見て、場合によっては今川や美濃の動きも測るつもりだろう。
正しい。
相手としては実に正しい。
だから腹が立つ。
「若君」
佐久間が静かに言った。
「清洲は、協議という形を求めております。これは、こちらを完全に拒んだわけではございませぬ」
「だが、認めたわけでもない」
「はい」
「こちらが強く出れば」
「清洲は面目を盾にします」
「弱く出れば」
「那古野の触れは清洲では通らぬと見られます」
「ならば」
俺は書状を置いた。
「協議を受ける」
佐久間がわずかに安堵した顔をした。
だが、俺は続けた。
「ただし、清洲へこちらからだけ人を出すのではない。清洲からも那古野へ人を来させる」
佐久間の顔が引き締まる。
「相互に、でございますか」
「そうだ。清洲の作法があるというなら、こちらの道と荷の実情も見てもらう。清洲の者を那古野へ呼び、町の帳面を見せる」
長秀が少し驚いた。
「帳面を見せるのですか」
「全部ではない」
「でしょうね」
「だが、見せるものは見せる。米屋、馬借、鍛冶、湊。清洲の者に、名を騙ることがどれだけ道を詰まらせるか見せる」
柴田が腕を組んだ。
「清洲の者が、素直に見ますか」
「見ないだろうな」
「では」
「見るふりでもよい。見たという事実が残る」
長秀が頷いた。
「なるほど。清洲の者が一度那古野の実情を見れば、後から知らなかったとは言いにくくなります」
「そういうことだ、帳面様」
「若様」
俺は少し笑った。
そして、信勝を呼ぶよう命じた。
しばらくして、信勝が来た。
清洲の返答が来たと聞いていたのだろう。
顔は静かだが、目に緊張がある。
「兄上」
「清洲の返答だ」
俺は書状を渡した。
信勝は丁寧に受け取り、読む。
読み終えるまで、誰も口を挟まなかった。
信勝は文を返し、静かに言った。
「きれいな文ですね」
「何も約束していないがな」
「はい」
弟も分かったらしい。
「清洲は、兄上を試しています」
「お前もそう見るか」
「はい。そして、私も見ています」
「お前を?」
「はい」
信勝は自分の膝の上に置いた手を見た。
「清洲は、私を兄上から離せるかどうかも見ているのでしょう」
その通りだ。
清洲は信勝を直接担ぐわけではない。
だが、信勝の名を使えば、那古野の内側へ手を入れられる。
稲生で一度割れた傷は、まだ塞がりきっていない。
そこへ指を入れれば痛む。
「清洲から、信勝様の器量を惜しむ声があると言われた」
柴田が言った。
信勝は顔を上げた。
少しだけ傷ついた顔をした。
自分の名がまた使われる。
その重さを、もう知っている顔だった。
「兄上」
「何だ」
「協議に、私の名も入れるのですね」
「ああ」
「ならば、文言に一つ入れてください」
「何を」
信勝は少し息を吸った。
「信勝の名をもって清洲と那古野を隔てることを望まぬ、と」
広間が静まった。
弟は続けた。
「私の名を使う者がいるなら、私の名で拒みます」
俺は信勝を見た。
やはり、こいつは間違っていない。
そして、成長している。
負けて許された男が、自分の名を自分で扱おうとしている。
それは危うい。
だが、必要だ。
「入れる」
俺は言った。
「ただし、言葉は少し整える」
「兄上が整えるのですか」
「佐久間が」
「安心しました」
「おい」
場に小さな笑いが生まれた。
信勝まで少し笑った。
こういう笑いがあるうちは、まだ完全には割れていない。
だが、この笑いだけで油断してはいけない。
「佐久間」
「はっ」
「清洲への返書を作れ。協議を受ける。ただし相互に人を出すこと。清洲の作法を聞く代わりに、那古野の道と荷の実情を見せること。偽印・偽御用は尾張全体の損であること。信勝の名を使って清洲と那古野を隔てることを望まぬこと」
「承知いたしました」
「長秀」
「はい」
「見せる帳面を選べ。見せてよいもの、隠すものを分けろ」
「分ける作業だけで一日かかります」
「なら一日かけろ」
「はい」
「柴田」
「はっ」
「清洲が次に誰を寄越すか、お前はどう見る」
柴田は少し考えた。
「武だけの者は寄越さぬでしょう。こちらが柴田と丹羽を出した以上、向こうも面目と実務を兼ねる者を出すかと」
「そうだな」
「ただ、信勝様へ含みを持たせる者を混ぜるかもしれませぬ」
「そこを見る」
「承知」
評定が終わると、柴田と長秀は下がった。
信勝は少し残った。
「兄上」
「何だ」
「清洲は、私を使おうとしますね」
「する」
「私は、また揺れるかもしれません」
「揺れろ」
信勝が驚いた顔をした。
「揺れてもよい。揺れない人間などいない。問題は、揺れた時に誰へ先に言うかだ」
「兄上に?」
「俺でも、母上でも、帰蝶でも、津々木でもよい。だが、自分の周りだけで固めるな」
信勝は少し考え、頷いた。
「分かりました」
「俺も揺れる」
「兄上も?」
「清洲へ兵を出したくなる時が来るかもしれぬ」
「その時は」
「止めろ」
信勝は、今度は少し真剣に頷いた。
「はい」
信勝が下がった後、俺は一人で清洲の書状を見た。
きれいな文だ。
何も決めていない。
だが、何も拒んでいない。
これは返答であると同時に、挑戦だった。
那古野の若造よ。
稲生に勝ったからといって、尾張を握ったつもりになるな。
清洲には清洲の作法がある。
古い権威がある。
道がある。
目がある。
それを扱えるか。
そう言われている気がした。
「扱うさ」
俺は小さく呟いた。
その日の夜、帰蝶に報告した。
彼女は静かに聞き、最後に言った。
「清洲は、あなたを尾張の内側へ引き戻そうとしていますね」
「引き戻す?」
「はい。あなたが今川や京へ目を向ける前に、尾張の古い作法で足を取ろうとしている」
「まだ京へは向いていない」
「見ていないとは言わないのでしょう」
「お前の父と同じことを言うな」
「親子ですので」
帰蝶は少しだけ笑った。
「ですが、悪いことではありません。清洲を扱えぬ者が、京を語れば笑われます」
「その通りだ」
「まず清洲。次に尾張。その先は、その時です」
「飯は?」
「もちろん、今です」
「流れるように戻したな」
「大事ですので」
俺は笑って、膳に向かった。
清洲からの返答は半分だった。
受け入れ半分、拒み半分。
礼半分、挑発半分。
面目半分、実利半分。
世は半分ばかりだ。
だが、半分だからこそ、こちらが残り半分を取りにいける。
清洲が協議と言うなら、協議の場をこちらの目で満たす。
道を見せる。
荷を見せる。
帳面を見せる。
そして、信勝の名を勝手に使わせない。
尾張はまだ一つではない。
清洲は、その事実を改めて突きつけてきた。
ならば、こちらも突き返す。
尾張全体の損。
その言葉を、清洲に飲ませる。
俺は飯を食いながら、清洲の地図を頭に浮かべていた。
帰蝶が呆れたように言う。
「食べる時くらい、少しは休んでください」
「休んでいる」
「顔が働いています」
「顔まで働くなと言われても困る」
「では、せめて噛んでください」
俺は粥を噛む必要があるのか少し考えたが、言うと怒られそうなので黙った。
清洲からの返答は、戦ではなかった。
だが、戦より難しいものの始まりだった。
槍ではなく、文で。
首ではなく、名で。
血ではなく、道と荷で。
尾張の心臓へ、少しずつ手を伸ばす。
焦るな。
止まれ。
見ろ。
それから決めろ。
政秀の声が、また聞こえた気がした。
うるさい爺だ。
だが、今夜は少しだけ感謝してやってもよい。




