第21話 清洲へ向かう目
尾張を一つにする。
口にするのは簡単だった。
だが、口にした翌朝から、尾張はまるで俺を試すように、あちらこちらで軋みを聞かせてきた。
米屋は米屋で、偽の御用印を恐れる。
馬借は馬借で、どの道なら安全かを見極めようとする。
寺は寺で、昔からの権利を簡単には手放さない。
家臣は家臣で、稲生の勝ち負けを胸のどこへ置くべきか迷っている。
信勝は、母上のそばで静かにしている。
柴田は兵を鍛え直している。
林美作守は、屋敷に出入りしていた者たちの名を書き出している。
長秀は帳面に埋もれかけている。
帰蝶は、俺が飯を抜こうとすると、どこからともなく現れる。
そして俺は、父上の文箱と政秀の書状を前にして、朝からため息をついていた。
「尾張は狭いはずなのにな」
思わず呟く。
隣にいた恒興が、困ったように笑った。
「若様が見すぎるから、広くなるのでは?」
「見なければ狭くなるか」
「たぶん、見えないだけでございます」
「それは困る」
「でしょうね」
恒興も最近、遠慮が減った。
よいことだ。
たぶん。
俺は父上の書付をめくった。
清洲。
その名が何度も出てくる。
尾張の中で、清洲はただの城ではない。
道が集まる。
商いが集まる。
守護の権威がある。
古い家格がある。
人の目が集まる。
那古野に座っているだけでは、尾張を握ったことにはならない。
稲生で勝っても同じだ。
弟を許しても、柴田を使っても、林を縛っても、それはまだ織田家の内側をどうにかしただけだ。
尾張そのものの心臓は、まだこちらを向いていない。
清洲を見る必要があった。
「若様」
長秀が帳面を抱えて入ってきた。
顔が眠そうだ。
「寝たか」
「少し」
「少しとは、どれくらいだ」
「目を閉じた記憶はあります」
「それは寝たとは言わぬ」
「若様に言われると不思議な気分です」
「俺は最近、寝るように言われているからな」
「帰蝶様のおかげですね」
「皆、帰蝶を頼りすぎではないか」
「頼れる方ですので」
否定できない。
俺は少し嫌な顔をしたらしい。
長秀が、笑いをこらえるように目を伏せた。
「それで、清洲か」
「はい」
長秀は帳面を開いた。
「清洲方面の荷の流れですが、稲生以後、やや慎重になっています。表向きは、織田家中の乱れが落ち着くまで様子見ということです」
「表向きは、か」
「はい」
「裏は」
「清洲の者たちが、こちらの触れをどう扱うか測っているようです」
俺は頷いた。
当然だ。
俺と信勝の名を並べた触れは、那古野周辺や守山道では効き始めている。
だが、清洲は違う。
清洲には清洲の顔がある。
こちらの触れをそのまま受け入れれば、俺の権威を認めることになる。
かといって無視すれば、道と荷に混乱が出る。
清洲の者たちは、その間で損得を測っている。
「清洲の商人は、何と言っている」
「直接はまだ。ただ、馬借の仁助から話が」
「仁助か」
「清洲へ向かう荷で、こちらの御用印を示したところ、『那古野の触れは清洲でも通るのか』と揉めたそうです」
「誰が言った」
「清洲方の下役です」
「下役に言わせたか」
「おそらく」
長秀も同じ見方らしい。
上の者が直接言えば角が立つ。
だから下に言わせる。
揉めれば、下の者の不手際で済ませる。
うまい手ではない。
だが、よくある手だ。
「清洲は俺を試している」
「はい」
「こちらが怒って兵を出せば、那古野のうつけはまた内で荒れると言える」
「逆に黙れば、清洲では触れが通らぬと見られます」
「面倒だな」
「はい」
長秀がためらいなく頷いた。
清洲は面倒だ。
だが、面倒だからこそ取らねばならない。
尾張を組み直すなら、避けて通れない。
「佐久間を呼べ。柴田も。あと、勘十郎にも来てもらう」
恒興が少し驚いた。
「信勝様も、でございますか」
「ああ」
「清洲の話に?」
「そうだ」
長秀は俺の顔を見た。
「若様、それは」
「危ういか」
「はい」
「だが必要だ」
清洲へ向けて動く時、信勝を隠しておくのは簡単だ。
だが、隠せばまた誰かが言う。
信勝様は遠ざけられている。
信勝様ならもっと穏やかに清洲と話せる。
信勝様を立てれば、古い家中の面目も保てる。
そういう声は必ず出る。
ならば、最初から見える場所へ座らせる。
ただし、飾りにしない。
言葉を持たせる。
自分の名を自分で扱わせる。
それが、今の俺たちに必要なことだった。
「勘十郎は嫌がるでしょうか」
恒興が言う。
「嫌がるだろうな」
「では」
「嫌でも来てもらう」
「兄弟仲が悪く見えます」
「仲良しを見せるために呼ぶのではない」
俺は父上の書付を閉じた。
「尾張を一つにするなら、俺と勘十郎が同じ部屋で清洲の名を口にできるところを、家臣に見せる必要がある」
長秀が静かに頷いた。
「承知しました」
ほどなくして、小さな評定が開かれた。
大きくしすぎると話が漏れる。
小さすぎると、また密議と見られる。
だから、必要な者だけを呼んだ。
佐久間信盛。
柴田勝家。
丹羽長秀。
池田恒興。
そして、信勝。
帰蝶は同席していない。
だが、後で必ず聞きに来る。
いや、聞きに来る前に半分は知っている気もする。
信勝は、いつも通り整っていた。
ただし、稲生前とは少し違う。
以前の整い方は、見る者を安心させるためのものだった。
今は、自分を崩さないために整えているように見える。
敗れて許された男の、静かな踏ん張り。
それを隠そうとしている。
隠しきれてはいない。
だが、そこがよかった。
「清洲のことですか」
信勝は座るなり言った。
「話が早いな」
「私のところにも、少し声が届いています」
「何と」
「清洲は、兄上が稲生の勢いで押してくるのではないかと警戒している、と」
「お前はどう見る」
信勝は少し黙った。
周囲の家臣たちが、こちらを見ている。
信勝が何を言うか。
俺がどう受けるか。
皆、測っている。
「兵で押すのは、今は早いと思います」
信勝は言った。
はっきりと。
「理由は」
「稲生で血が流れたばかりです。今すぐ清洲へ兵の気配を見せれば、家中の者たちは、兄上が次々と敵を作っているように見ます」
「敵ではないと言えば」
「言葉より、兵の足音が早く届きます」
よい答えだった。
俺は頷いた。
「俺もそう思う」
信勝は少しだけ目を見開いた。
反論されると思っていたのだろう。
「だが、黙るのも違う」
「はい」
「清洲の下役が、こちらの触れを試した。これを放れば、清洲では那古野の名が通らぬと見られる」
佐久間が静かに口を開いた。
「ならば、まずは書状でしょう」
「誰宛てに」
「清洲方の重臣へ。ただし、抗議ではなく確認として」
「確認?」
「はい。那古野より出した触れは、尾張の道と荷を守るためのものであり、清洲を侮るためではない。清洲においても偽印・偽御用が出ぬよう、互いに印と名の扱いを整えたい。そういう形にすれば、相手も無碍にはしにくい」
佐久間らしい。
慎重で、角を丸める。
ただし、丸めすぎると相手に飲まれる。
柴田が腕を組んで言った。
「書状だけでは弱い」
「では、兵か」
佐久間が見る。
柴田は首を振った。
「兵ではない。だが、こちらが本気だと示す者を送るべきだ」
「誰を」
俺が聞くと、柴田は俺を見た。
「私が」
部屋が少し動いた。
柴田勝家。
稲生で信勝側に立ち、今は俺に許されて兵を鍛えている男。
その柴田を清洲との話に出す。
意味は大きい。
清洲から見れば、稲生後の織田家が、少なくとも表向きは柴田まで使えていると分かる。
家中へも示せる。
信長は柴田を斬らず、使っている。
許しが形になっている。
だが、危うい。
柴田が清洲でどう見られるか。
向こうが柴田をどう揺さぶるか。
柴田自身がどう受けるか。
「お前を出せば、清洲はどう見ると思う」
俺が問うと、柴田は即答した。
「稲生後も、柴田勝家は織田のために働いていると見ます」
「俺のためではなく?」
「織田のために」
そこを譲らないか。
悪くない。
むしろ、今はその方がよい。
信長個人への忠義ではなく、織田への働き。
柴田にとっても受け入れやすい。
家中にも通りやすい。
「勘十郎」
俺は弟を見た。
「お前はどう見る」
信勝は、柴田を見た。
柴田も信勝を見た。
稲生で同じ側にいた二人。
今は俺の評定の場で向かい合っている。
この光景そのものが、尾張の今を表していた。
「柴田殿が行くのは、よいと思います」
信勝は言った。
「ですが、柴田殿だけでは、清洲は武の圧と見るかもしれません」
「なら誰を添える」
「長秀殿を」
長秀が目を瞬かせた。
「私でございますか」
「帳面のことを説明できる方が必要です。清洲へ出したいのは戦の気配ではなく、道と荷を整える話でしょう」
弟が、長秀の帳面を認めた。
これは小さいようで大きい。
長秀もそれを感じたのだろう。
少しだけ姿勢を正した。
「たしかに、清洲側との実務の話なら、私が伺うのがよいかと」
「帳面様だからな」
「若様」
評定の空気が少しだけ緩んだ。
こういう緩みは悪くない。
ただし、緩みすぎてはいけない。
「柴田と長秀を送る」
俺は言った。
「ただし、まだ使者だ。清洲を従わせるためではない。道と荷の名を整えるためだ」
佐久間が頷く。
「書状の文言は、私が下案を」
「頼む」
俺は信勝を見た。
「勘十郎、お前の名も入れる」
信勝は少し息を呑んだ。
「私の名も」
「ああ」
「また、兄上と並べるのですね」
「嫌か」
「怖いです」
「俺もだ」
正直に言うと、信勝は少しだけ笑った。
「兄上でも怖いのですか」
「怖いものだらけだ」
「そうは見えません」
「見せないようにしている」
言ってから、周囲の家臣たちが少し驚いた顔をしているのに気づいた。
また正直すぎたか。
いや、今はこれでいい。
俺が恐れをまったく見せない主だと思われれば、周囲は俺を止めにくくなる。
恐れている。
だが、動く。
それくらいが今の俺には合っている。
「お前の名を入れるのは、清洲に見せるためだけではない」
俺は信勝に言った。
「お前の周りにも見せるためだ。お前は俺に隠されているのではない。だが、お前の名を勝手に使うことも許されない」
「はい」
「自分の名で出る触れだ。文言はお前も見ろ」
「分かりました」
評定はそこで一応まとまった。
柴田と長秀を清洲へ遣わす。
佐久間が文を整える。
俺と信勝の名を並べる。
目的は、道と荷の御用印を互いに確認し、偽印と偽御用を取り締まるため。
表向きは実務。
中身は、清洲への一手。
評定が終わった後、信勝が残った。
「兄上」
「何だ」
「清洲を見るのですね」
「ああ」
「稲生の次は清洲。そう見られるでしょう」
「見られるだろうな」
「それでも」
「見る」
信勝は静かに息を吐いた。
「兄上は、止まりませんね」
「止まるようにはなった」
「少しだけ」
「少しだけだな」
信勝は庭の方を見た。
「私は、まだ怖いです。兄上の速さが」
「お前はお前の速さで見ろと言っただろう」
「はい。ですが、兄上が速く進めば、私も立っている場所を変えねばなりません」
「それが嫌か」
「嫌ではありません。ただ、疲れます」
正直な言葉だった。
俺は頷いた。
「疲れたら飯を食え」
信勝が目を丸くした。
「兄上」
「俺も言われている」
「帰蝶様に?」
「皆にだ」
信勝は、少し笑った。
以前より弱い笑いだ。
だが、確かに笑った。
「では、食べます」
「そうしろ」
信勝が去った後、入れ替わるように帰蝶が来た。
やはり来た。
「評定は終わりましたか」
「終わった」
「清洲へ、柴田殿と長秀殿を?」
「知っているのか」
「廊下は耳を持ちます」
「その耳、いつか切るぞ」
「切る前に、どこにあるか見つけてください」
「難しいな」
「はい」
帰蝶は俺の前に座った。
「よい手だと思います」
「半分は?」
「今回は、かなり」
「珍しい」
「ただし、危ういです」
「やはり半分か」
「清洲は、あなたを試すでしょう。柴田殿を揺さぶり、長秀殿を軽く見て、信勝様の名を利用しようとするかもしれません」
「だろうな」
「そして、あなたがどう反応するかを見ます」
「怒れば負けか」
「怒り方次第です」
帰蝶は静かに言った。
「怒ってはならないのではありません。何に怒るかを選ばねばなりません」
俺は少し黙った。
何に怒るかを選ぶ。
それは政秀も言いそうな言葉だった。
いや、政秀ならもっと小言が長い。
「お前は、時々爺みたいなことを言う」
「光栄です」
「本気で言っているな」
「はい」
帰蝶は少しだけ目元を緩めた。
「清洲は、尾張の心臓に近い場所です。そこを見ずに尾張を一つにすることはできません」
「道三なら何と言う」
「火を清洲へ向けるなら、風を読め、と」
「嫌な父だ」
「はい」
帰蝶は、あっさり頷いた。
俺は思わず笑った。
「否定しないのか」
「父は嫌な人です」
「娘が言うと重いな」
「ですが、嫌な人だからこそ見えるものがあります」
「それは俺にも当てはまるか」
「半分は」
「今日は半分が多いな」
「いつもです」
その夜、佐久間が書状の下案を持ってきた。
実に佐久間らしい文だった。
角を立てず、しかしこちらの意図は通す。
清洲の面目を潰さず、那古野の触れを軽くもさせない。
うまい。
うますぎて、少し丸い。
「ここを変えろ」
俺は一箇所を指した。
「どこでございますか」
「『御相談申し上げたく』では弱い。『相互に定め置きたく』にしろ」
「やや強くなります」
「それでよい」
「清洲が嫌がるかもしれません」
「相談だけなら無視される。定める話なら返事がいる」
佐久間は少し考え、頷いた。
「承知いたしました」
「あと、最後に入れろ。偽印・偽御用により道が乱れれば、尾張全体の損となる、と」
「尾張全体」
「清洲だけでも那古野だけでもない。尾張全体だ」
佐久間が静かに俺を見た。
「若君は、本当に尾張全体を見始めておられるのですね」
「まだ見始めただけだ」
「それでも、以前とは違います」
「以前は何を見ていた」
「見たいものを見ておられました」
痛いことを言う。
佐久間も、遠慮が減った。
「今は?」
「見たくないものも、少しは見ておられます」
「少しか」
「かなり、と申し上げたいところですが、まだ少しです」
「厳しいな」
「平手様ほどでは」
政秀の名が出た。
以前ほど胸は刺されなかった。
痛む。
だが、立っていられる痛みになった。
「爺なら、まだ足りぬと言う」
「でしょうな」
「だから続ける」
佐久間は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
翌朝、柴田と長秀が清洲へ向けて出立した。
兵は少ない。
供も絞った。
武で押す姿にはしない。
だが、軽く見られる姿にもできない。
柴田はそのためにいる。
長秀は帳面を持っている。
なかなか奇妙な組み合わせだ。
武の柴田。
帳面の長秀。
清洲がどう見るか。
楽しみではない。
だが、見たい。
「若様」
出立前、柴田が頭を下げた。
「清洲にて、余計な挑発があっても乗るな」
「承知」
「本当に?」
「若君に信じられておらぬのは承知しております」
「信じていないのではない。見ている」
「では、よく見ていただきましょう」
柴田は少し笑った。
長秀は横で帳面を抱えている。
「長秀」
「はい」
「清洲で何か言われても、帳面で殴るな」
「殴りません」
「言葉で殴るな」
「それは場合によります」
「強くなったな」
「若様のせいです」
恒興が吹き出した。
柴田まで少し笑った。
出立する二人の背を見送りながら、俺は思った。
尾張はまだ一つではない。
だが、以前とは違う。
稲生で敵味方に分かれた者たちが、今は同じ目的で清洲へ向かっている。
これは小さな変化だ。
小さい。
しかし、小さい変化を積まねば、大きな変化はただの破壊になる。
俺は城門の前に立っていた。
風が吹く。
道の先に清洲がある。
その向こうに、まだ見ぬ尾張がある。
さらに遠くに、今川がいる。
美濃がいる。
京がある。
だが、今は清洲だ。
遠くを見すぎるな。
足元を見ろ。
けれど、足元だけを見るな。
政秀の小言が、今日も頭の中でうるさい。
「若様」
恒興が声をかけた。
「何だ」
「また平手様の声ですか」
「顔に出たか」
「少し」
「帰蝶だけでなく、お前まで」
「長くお仕えしていますので」
俺は少し笑った。
「なら、聞いておけ。爺はたぶん、今こう言っている」
「何と」
「若、清洲を見るなら、まず飯を食ってからにしなされ、と」
恒興は声を出して笑った。
俺も少し笑った。
そこへ、背後から声がした。
「では、召し上がってください」
振り返ると、帰蝶がいた。
偶然のはずがない。
「本当に出たな」
「顔に出ていました」
「俺の顔は最近、働きすぎだ」
「その分、お腹も働かせてください」
城門の前で飯の話をする主と妻。
絵にはならない。
だが、悪くない。
俺は清洲へ続く道をもう一度見た。
次の火種が、あの道の先にある。
燃やすか。
消すか。
それとも、使うか。
まだ分からない。
だから見る。
見て、止まり、決める。
俺は踵を返した。
「食う」
そう言うと、帰蝶は満足そうに頷いた。
尾張はまだ一つではない。
だが、清洲へ向かう目は、もう逸らさない。




