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『うつけと呼ばれた俺は、天下を壊したかったわけではない ――織田信長、乱世を組み直す』魔王ではない。 革命児でもない。 ただ、乱れた世を放っておけなかった。  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第2話 父の城、父ではない俺

 父上の部屋を出ると、廊下の空気が変わった。


 薬の匂いと沈香の匂いが背後へ遠ざかり、代わりに、武士たちの汗と畳に染みついた古い緊張が鼻についた。


 人は、息を潜めている時ほどよく喋る。


 声を出さずとも分かる。


 誰がこちらを見ているか。


 誰が目を逸らしたか。


 誰が俺の乱れた髪を見たか。


 誰が俺の足元の泥を見たか。


 誰が、俺ではなく俺の背後にある父上の部屋を見たか。


 城とは便利なものだ。


 石垣も、門も、櫓も、人を守るためにある。


 だが同時に、人の腹の内を隠すためにもある。


 町は正直だ。


 腹が減れば腹が鳴る。


 銭がなければ店先で足が止まる。


 道が悪ければ荷車が詰まる。


 城は違う。


 腹が減っていても武士は姿勢を正す。


 恐れていても顎を引く。


 裏切るつもりでも、忠義らしい顔をする。


 だから、町より城の方がよほど面倒だ。


「若」


 平手政秀が、俺の横に並んだ。


 いつもなら二歩後ろに控える男だ。


 今日は違う。


 俺を見張っているのだろう。


 いや、支えようとしているのかもしれぬ。


 どちらでも同じことだ。


「父上は、眠られた」


「はい」


「医師は何と」


「今宵が山であろうと」


「そうか」


 短く答えたつもりだった。


 だが、自分の声が思ったより乾いていることに気づいた。


 政秀も気づいただろう。


 何も言わなかった。


 この男は小言が多いくせに、本当に言うべき時には言葉を選ぶ。


 そこが腹立たしくもあり、ありがたくもある。


「家中の者を集めております」


「早いな」


「遅いくらいでございます」


「俺が父上の顔を見る前にか」


「お屋形様の御容態がここまで悪くなられた以上、家中を整えねばなりません」


「整える、か」


 俺は廊下の先を見た。


 すでに何人かの重臣が広間へ向かっている。


 林秀貞。


 林美作守。


 佐久間信盛。


 柴田勝家の姿もある。


 柴田は俺を見ると、目礼だけして通り過ぎた。


 体の大きな男だ。


 歩くだけで廊下が狭くなる。


 あの男は強い。


 そして、分かりやすい。


 分かりやすい者は嫌いではない。


 ただし、分かりやすい者ほど、誰に担がれるかで厄介になる。


「勘十郎は」


 俺は問うた。


 政秀の顔がわずかに固くなる。


「すでに広間に」


「早いな」


「……若」


「褒めている」


 政秀は黙った。


 褒めているのは本当だ。


 弟、勘十郎信勝。


 俺より若く、俺より整っている。


 立ち居振る舞いは美しい。


 言葉は穏やか。


 家臣には礼を尽くす。


 父上の前では嫡男の俺より、よほど出来た息子に見えるだろう。


 そして今、家中の者たちはそれを見たい。


 父が倒れた時、乱れた髪で町から戻ってきた兄と、先に広間に座っていた弟。


 どちらが織田家の未来にふさわしいか。


 考えるまでもない。


 考えるまでもないからこそ、考えた者から間違える。


「政秀」


「はい」


「俺は着替えた方がよいか」


 政秀は一瞬、ほっとした顔をした。


 だがすぐに、俺の目を見て警戒した。


 俺が素直なことを言うと、たいてい裏があると思っている。


 人聞きが悪い。


 おおむね当たっているが。


「できることなら」


「なら、着替えぬ」


「若」


「今さら整えても遅い。町から戻ったこの姿を、もう皆が見た」


「それでも、広間では」


「取り繕えば、父上の部屋から出た途端に飾ったと思われる。ならば、このままでよい」


「その理屈は、分かります。分かりますが、納得はできませぬ」


「爺はいつもそうだ」


 俺は歩き出した。


 政秀もついてくる。


「俺の言うことを分かって、それでも怒る」


「怒られるようなことをなさるからです」


「怒る相手がいて、俺は幸せ者だな」


「そう思われるなら、少しは改めてください」


「改めるべきところは改める」


「どこを」


「これから考える」


「若」


 政秀の声が低くなった。


 俺は笑いそうになった。


 この声を聞くと、幼い頃の自分に戻りそうになる。


 木に登って降りられなくなった時。


 馬で遠駆けして泥だらけになった時。


 父上の大事な客人の前で、退屈だと言って寝転がった時。


 いつもこの声だった。


 この男は、俺を叱ってきた。


 俺が織田家の嫡男として恥ずかしくないように。


 俺が父上の跡を継げるように。


 だが、たぶん。


 政秀の望む織田家の嫡男と、俺がならねばならぬものは違う。


 それが、互いに分かり始めている。


 だから痛い。


 広間の前に着いた。


 中から声はしない。


 だが、人の気配が詰まっている。


 俺が襖を開ける前に、中の者たちは俺の足音を聞いているだろう。


 誰が来たかも分かっているはずだ。


 俺は少しだけ息を吐き、襖に手をかけた。


 開ける。


 視線が集まった。


 城の広間には、父上の家臣たちが並んでいた。


 皆、神妙な顔をしている。


 立派なものだ。


 まるで一枚岩の家中に見える。


 俺は内心で笑った。


 一枚岩など、川に投げれば沈むだけだ。


 織田家は一枚岩ではない。


 父上がそう言った。


 その通りだ。


 割れている。


 欠けている。


 ひびが入っている。


 だが、ひびの入った器でも、水を注ぐことはできる。


 問題は、どこを押さえれば漏れぬかだ。


 上座の近くに、勘十郎がいた。


 きちんと髪を結い、衣も乱れず、背筋を伸ばして座っている。


 俺と目が合うと、静かに頭を下げた。


「兄上」


「勘十郎」


 俺も座った。


 俺が座る場所を、何人かが見ていた。


 父上が健在なら、誰も迷わぬ。


 だが今は違う。


 父上の座は空いている。


 俺はまだそこに座れない。


 座れば早すぎる。


 座らねば弱すぎる。


 こういう時、正しい位置というものはない。


 だから俺は、父上の座より少し下、しかし勘十郎より上に座った。


 広間の空気がほんの少し動く。


 小さい。


 だが分かる。


 人は、畳一枚で国の行方を測る。


 くだらぬ。


 だが、くだらぬものを無視する者は政治に負ける。


 政秀が俺の後ろに控えた。


 林秀貞が口を開く。


「若君。お屋形様の御容態、いかがでございましょう」


 若君。


 その呼び方に、俺は少しだけ眉を動かした。


 まだ俺をお屋形とは呼ばぬ。


 当然だ。


 父上はまだ息をしている。


 だが、それだけではない。


 林秀貞は慎重な男だ。


 慎重な男は、言葉を橋にする。


 渡るためではない。


 いつでも戻れるようにするためだ。


「眠っておられる」


「左様でございますか」


「医師は今宵が山と言った」


 広間の何人かが目を伏せた。


 嘘の悲しみではないだろう。


 父上は大きな男だった。


 良くも悪くも、皆がその影の中で生きてきた。


 その影が消えようとしている。


 怖くないはずがない。


「かような時こそ、家中一同、心を一つにせねばなりませぬ」


 佐久間信盛が言った。


 声は落ち着いている。


 この男は、場を荒らさぬことを知っている。


 俺は頷いた。


「そうだな」


「つきましては、若君にも、しばらくは御身を慎まれ……」


「慎むとは」


 俺が聞くと、信盛は一瞬言葉を止めた。


「その、町を歩かれることや、奇異な御振る舞いを」


「父上が死にかけている時に、嫡男が町を歩くのはおかしいか」


「おかしいとまでは」


「では、何だ」


「家中の不安を招きます」


「家中は、俺が城にいても不安になる」


 広間が静まった。


 俺は続けた。


「俺が黙って座れば、何を考えているか分からぬと言う。俺が町に出れば、嫡男らしくないと言う。俺が笑えば軽いと言い、俺が怒れば危ういと言う。結局、お前たちは俺ではなく、父上の影を探しているだけだ」


 何人かの顔色が変わった。


 政秀が後ろで息を詰めた気配がした。


 言いすぎたか。


 いや、足りぬくらいだ。


「兄上」


 勘十郎が静かに声をかけてきた。


 その声は柔らかかった。


 柔らかい声は、時に刀より鋭い。


「皆、兄上を案じているのです」


「そうだろうな」


「父上の御身にもしものことがあれば、織田家は大きく揺れます。だからこそ、兄上には皆の前で安心できるお姿を見せていただきたいのです」


 見事な言い方だった。


 俺を責めず、家中を立て、自分を前に出さず、だが俺の不足を広間全体に知らせる。


 勘十郎。


 お前は本当に、きれいに座る。


 父上の言う「姿に人が従う」という意味では、こいつの方が俺より上だ。


「安心できる姿とは何だ」


 俺は聞いた。


「礼を尽くし、家臣の言葉を聞き、父上より受け継ぐものを守る姿です」


「守る、か」


「はい」


「何を守る」


「織田家を」


「織田家とは何だ」


 勘十郎が初めて、わずかに眉を動かした。


「兄上」


「家名か。城か。家臣か。領地か。父上のやり方か。古い約束か。誰かの面子か。何を守れば、織田家を守ったことになる」


「それは、すべてでございます」


「すべてを守ろうとする者は、たいてい何も守れぬ」


 俺の声は、思ったより冷たく響いた。


 勘十郎の目が細くなる。


 怒ったのではない。


 傷ついたのだ。


 俺はそれを見て、胸の奥が少し痛んだ。


 弟を傷つけたいわけではない。


 だが、言葉を丸めれば、場が丸くなる。


 場が丸くなれば、皆が安心する。


 安心した者は、次の危機を見ない。


「兄上は、父上の築かれたものを変えるおつもりですか」


「変えねば残らぬものは、変える」


「家中が割れます」


「もう割れている」


 広間に、目に見えぬ亀裂が走った。


 誰も言わなかったことを、俺が言ったからだ。


 言わなければ無いことにできる。


 そう思いたい者は多い。


 だが、割れた器を割れていないと言い張る者は、そこから水が漏れていることにも気づかない。


「若君」


 林秀貞が声を低くした。


「そのようなことを軽々しく口にされては」


「軽く言ったつもりはない」


「ならばなおさらです。今はお屋形様の御平癒を祈り、家中を静める時」


「静めるだけでよいなら、俺でなくともよい」


 俺は広間を見渡した。


「俺が父上の跡を継ぐなら、父上と同じことはできぬ」


 誰も動かない。


 俺は続ける。


「父上の武名は俺にはない。父上の積んだ貸しも、俺の貸しではない。父上を恐れて従った者は、俺を恐れるとは限らぬ。父上に恩ある者が、俺に恩を感じるとも限らぬ」


 それは、俺自身を低く見る言葉だった。


 だが、不思議と広間の空気は緩まなかった。


 むしろ、張り詰めた。


 人は、自分を分かっていない者より、自分を分かっている者を恐れる。


 俺はまだ弱い。


 それを俺自身が知っている。


 ならば、強がり方を間違えてはならない。


「だから、俺は見る。城だけでなく、町を。家臣だけでなく、百姓を。槍だけでなく、米と銭を。父上の敵だけでなく、父上の味方を」


 信盛が目を伏せた。


 柴田勝家は黙って俺を見ていた。


 林秀貞は表情を変えぬ。


 勘十郎は、静かに膝の上で手を握っている。


 俺は言った。


「俺は父上ではない」


 その言葉は、広間の柱にまで染み込むように響いた。


「父上の真似をしても、俺は父上にはなれぬ。ならば、俺は俺のやり方で織田を握る」


「兄上のやり方で、皆がついてくると?」


 勘十郎が問うた。


 静かな声だった。


 俺は弟を見た。


「ついてくるかどうかは、皆が決めることだ」


「では、兄上は」


「俺は、勝つ形を作る」


 広間の空気が、また動いた。


 勝つ。


 この言葉だけは、武士に届く。


 どれほど美しい礼を語っても、どれほど立派な血筋を語っても、最後に残るのは勝った者だ。


 嫌な世だ。


 だが、この世に生まれた以上、嫌だと言って済むものではない。


「勝つ形とは、どのような」


 柴田勝家が初めて口を開いた。


 低く太い声だった。


 この男が喋ると、広間の床が少し沈むような気がする。


「腹の減らぬ兵を作る」


 俺は答えた。


 勝家の眉が動く。


「兵に飯を食わせるのは当然にござる」


「当然のことができぬ軍は多い」


「兵は気合で動きまする」


「一日ならな」


 俺は勝家を見返した。


「二日目は米で動く。三日目は塩で動く。四日目は帰る道で動く。五日目には、勝てると思わせる何かがなければ逃げる」


 勝家は黙った。


 怒ったようにも見える。


 だが、目は逸らさなかった。


 悪くない。


 こういう男は、納得するまで噛みつく。


 噛みつくが、腹に落ちれば強い。


「槍を持つ者だけが兵ではない。米を運ぶ者、道を直す者、馬を替える者、矢を作る者、傷を洗う者。そういう者が動いて、初めて戦ができる」


 俺は、自分の言葉が広間に馴染んでいないことを感じていた。


 武士たちは、もっと分かりやすい言葉を好む。


 忠義。


 武勇。


 家名。


 面目。


 そういう言葉は美しい。


 美しい言葉は、血の匂いを隠す。


 だが、隠しても血は流れる。


「父上は、強かった」


 俺は言った。


「だが、父上の強さだけで尾張は残らぬ。父上が倒れれば、それが分かる」


 誰も反論しなかった。


 できなかったのだろう。


 その時、廊下から足音がした。


 慌ただしい。


 広間の空気が一瞬で変わる。


 襖の向こうで声がした。


「失礼いたします」


「入れ」


 俺が言うと、若い家臣が入ってきた。


 顔が蒼白だった。


 俺の方を見る。


 次に勘十郎を見る。


 どちらへ告げるべきか、一瞬迷った。


 その一瞬を、俺は見逃さなかった。


 広間の者たちも見たはずだ。


 家臣はまだ、俺に告げることを当然としていない。


 父上の城で、父上が倒れ、嫡男である俺が座っている。


 それでも迷う。


 それが今の俺の位置だ。


「申せ」


 俺は静かに言った。


 家臣は畳に手をついた。


「お屋形様が、お目覚めに……若君を、もう一度お呼びでございます」


 広間が息を呑んだ。


 俺は立ち上がった。


 その時、勘十郎もわずかに腰を浮かせた。


 俺は弟を見た。


 勘十郎はすぐに座り直した。


「兄上」


「何だ」


「父上に……どうか、安らかなお言葉を」


 その言葉に、俺は少しだけ困った。


 安らかな言葉。


 俺はそういうものが苦手だ。


 きれいな言葉を並べれば、人は安心する。


 だが父上に、嘘は言いたくない。


「言えるものがあればな」


 そう返すと、勘十郎の顔が曇った。


 政秀が小さく息を吐く。


 まただ。


 また俺は、言わなくてよいことを言う。


 だが、言わずにいられない。


 俺は広間を出た。


 政秀がついてくる。


 廊下を歩きながら、政秀が低く言った。


「若。先ほどの広間でのお言葉、あれでは敵を作ります」


「もういる」


「増えます」


「数えやすくなる」


「若」


「爺」


 俺は足を止めずに言った。


「俺が何を言っても敵になる者はいる。ならば、早いうちに敵の顔を見ておいた方がよい」


「味方まで遠ざけては意味がありませぬ」


「味方とは何だ」


「若を支える者です」


「支えるつもりで縛る者もいる」


 政秀は黙った。


 言いすぎた。


 分かっている。


 今の言葉は、政秀に刺さった。


 だが取り消さなかった。


 取り消せば優しくはなる。


 優しいだけで、この先を越えられるとは思えない。


 父上の部屋に戻ると、さきほどより匂いが濃くなっていた。


 死が近い部屋の匂いは、隠せない。


 香を焚いても、薬を置いても、人の体が少しずつ遠ざかっていく匂いは残る。


 父上は目を開けていた。


 焦点は少し合っていない。


 だが、俺が近づくと、瞳がわずかに動いた。


「三郎」


「はい」


「広間で、何を申した」


「父上の真似はできぬと」


「そうか」


「俺は俺のやり方で織田を握ると」


「……そうか」


 父上は、それだけ言って黙った。


 怒られるかと思った。


 笑われるかと思った。


 どちらでもなかった。


「父上」


「うむ」


「俺は、まだ何も持っておりませぬ」


 口にしてから、自分でも驚いた。


 こんなことを言うつもりはなかった。


 だが、父上の目を見ていると、言葉が出た。


「父上のような武名も、人望も、恐れも、貸しも、何もありませぬ。城の者は俺を見ているようで、父上の影を見ております。勘十郎の方が、よほど嫡男らしい」


「うむ」


「俺は……」


 言葉が詰まった。


 情けない。


 広間ではあれほど偉そうに言えたのに、父の前では舌が重い。


「俺は、本当に継げるのでしょうか」


 部屋の隅で、政秀が息を呑んだ。


 父上はしばらく黙っていた。


 やがて、掠れた声で言った。


「継げるかどうかではない」


「では」


「継いだ後で、継いだことにするのだ」


 俺は意味を考えた。


 父上は続ける。


「家督など、座った日に完成するものではない。皆が認めたから主になるのではない。主として振る舞い、勝ち、負け、赦し、罰し、飯を食わせ、道を開き、敵を退ける。その後で、皆がようやく思うのだ」


 父上の声は細い。


 だが、言葉は重かった。


「この男が主だったのだ、と」


 俺は拳を握った。


「最初から主である者など、おらぬ」


 父上は俺を見た。


「わしも、そうだった」


 それは意外だった。


 俺から見れば、父上は最初から父上だった。


 大きく、強く、怖く、遠い。


 だがこの男にも、俺のような時があったのか。


 誰かに測られ、侮られ、試され、夜に眠れぬ時があったのか。


「三郎」


「はい」


「お前は、弱い」


「はい」


「人より多くを見ようとする者は、迷う。迷う者は、遅れる。遅れれば、斬られる」


「はい」


「だが、見ぬ者はもっと早く死ぬ」


 父上の手が、布団の上でわずかに動いた。


 俺は思わず、その手を取った。


 熱がない。


 あの大きな手が、驚くほど冷たかった。


「見ろ」


 父上は言った。


「見て、決めろ」


「はい」


「決めたら、背負え」


「はい」


「背負えぬものを、人のせいにするな」


 俺は頷いた。


 声が出なかった。


「三郎」


「はい」


「勘十郎を、侮るな」


 胸がざわついた。


「侮ってはおりませぬ」


「ならばよい。あれも、わしの子だ」


「はい」


「お前とは違う」


「……はい」


「違うから、人はあれを担ぐ」


 父上は、すべて分かっている。


 家中が割れることも。


 俺と勘十郎が比べられることも。


 いつか、その違いが刃になることも。


「父上」


「うむ」


「俺は、勘十郎を」


 守れるのか。


 そう言おうとした。


 だが、言えなかった。


 父上は答えを知っている顔をしていた。


 いや、違う。


 答えなどないと知っている顔だった。


「三郎」


「はい」


「甘くなれとは言わぬ」


「はい」


「だが、冷たくなるために冷たくなるな」


 俺は黙った。


「人を斬る時は、必要だから斬れ。腹が立ったから斬るな。怖いから斬るな。強く見せたいから斬るな」


 父上の手が、わずかに俺の指を握った。


「必要なら、泣いても斬れ」


 その言葉は、あまりにも重かった。


 まるで、先のことを告げられたようだった。


 俺は何も言えなかった。


 父上はゆっくり息を吐いた。


「三郎」


「はい」


「腹は」


「減っておりませぬ」


「嘘をつけ」


 俺は、泣きそうになった。


 なぜこの人は、こんな時にそんなことを言うのだ。


 俺が腹を空かせているかなど、どうでもよいだろう。


 だが、どうでもよくないのだ。


 父とは、そういうものなのかもしれぬ。


 国の話をし、家の話をし、血の話をし、最後に子の腹を気にする。


「少しだけ」


「食え」


「はい」


「国を持つ者が、腹を空かせた顔をするな」


「はい」


「腹の減った顔は、人を不安にする」


 俺は笑ってしまった。


 少しだけ。


 父上も、かすかに笑った。


 それが、俺が見た最後の父上の笑いだった。


 しばらくして、父上は眠った。


 今度は、深く。


 俺は手を握ったまま、動かなかった。


 政秀が何度か声をかけようとして、やめた。


 部屋の外では、城が待っている。


 家臣が待っている。


 勘十郎が待っている。


 尾張が待っている。


 だが俺は、その時だけはただの息子だった。


 織田三郎信長ではなく。


 うつけでもなく。


 嫡男でもなく。


 ただ、父の手を離せぬ息子だった。


 どれほど時間が過ぎたのか分からぬ。


 やがて医師が父上の脈を取り、深く頭を下げた。


 部屋の空気が止まった。


 政秀が畳に手をついた。


 誰かが小さく泣いた。


 俺は、父上の手を見ていた。


 冷たい。


 もう握り返してこない。


 この手が尾張を掴んでいた。


 この手が敵を退けた。


 この手が俺の頭を叩いた。


 この手が、今は何も握っていない。


 ならば。


 次は俺が握るしかない。


 割れたものを、割れたまま。


 血を流しながら。


「若」


 政秀の声が震えていた。


「お屋形様は……」


「分かっている」


 俺は立ち上がった。


 膝が少し痺れていた。


 情けないことに、足元が揺れた。


 だが倒れなかった。


 倒れれば、誰かが支えに来る。


 今は支えられてはならない。


 俺は父上の顔をもう一度見た。


「父上」


 声に出すつもりはなかった。


 だが、出た。


「俺は、父上にはなれませぬ」


 静かな部屋に、自分の声が落ちる。


「ですが、織田を終わらせませぬ」


 それだけ言って、俺は背を向けた。


 涙は出なかった。


 出なかったのではない。


 出す場所を、後へ回した。


 広間へ戻るまでの廊下は、やけに長かった。


 すれ違う者たちが、俺の顔を見てすぐに頭を下げる。


 誰も何も聞かなかった。


 聞くまでもないのだろう。


 父上が死んだ。


 その事実は、声より早く城を走る。


 広間に戻ると、皆が一斉にこちらを見た。


 勘十郎も立ち上がっていた。


 俺は上座を見た。


 父上の座。


 そこは、まだ空いている。


 俺はその前まで歩いた。


 座るか。


 座らぬか。


 畳一枚のことで、人はまた国の行方を測る。


 俺は、父上の座には座らなかった。


 その一歩手前に座った。


 広間が、息を呑んだ。


 俺は言った。


「父上が、逝かれた」


 誰かが嗚咽した。


 誰かが深く頭を下げた。


 勘十郎は目を閉じた。


 長い沈黙の後、俺は続けた。


「喪に服す。葬儀の支度をせよ」


 声は、思ったより落ち着いていた。


 その落ち着きが、自分でも怖かった。


 林秀貞が頭を下げる。


「はっ」


 政秀が俺の後ろで震えている気配がした。


 俺は広間の者たちを見渡した。


 父上の死を悲しむ顔。


 次の主を測る顔。


 勘十郎を気にする顔。


 俺の乱れた姿に失望する顔。


 すべて見た。


 すべて覚えた。


 この城は父上の城だった。


 まだ俺の城ではない。


 父上の家臣たちは、まだ俺の家臣ではない。


 父上の尾張は、まだ俺の尾張ではない。


 だが、今日から俺はそれを奪いにいく。


 継いだから主になるのではない。


 主として振る舞い、勝ち、負け、赦し、罰し、飯を食わせ、道を開き、敵を退ける。


 その後で、皆がようやく思う。


 この男が主だったのだ、と。


 ならば、そこまで行くしかない。


 俺は、うつけと呼ばれている。


 今はそれでいい。


 だが、笑っていられる時は終わった。


 父の城に、父はいない。


 残ったのは、父ではない俺だけだ。

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