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『うつけと呼ばれた俺は、天下を壊したかったわけではない ――織田信長、乱世を組み直す』魔王ではない。 革命児でもない。 ただ、乱れた世を放っておけなかった。  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第1話 うつけと呼ばれるには、理由がある

 俺は、うつけと呼ばれている。


 尾張の城下でその名を知らぬ者はいない。


 織田弾正忠家の嫡男、織田三郎信長。


 父は信秀。


 尾張の虎とも呼ばれた男だ。


 その嫡男である俺は、朝から髪をまともに結わず、湯帷子をだらしなく肩にかけ、腰には長めの太刀を差し、町をぶらついている。


 人はそれを見て笑う。


 武家の若君らしくない。


 嫡男らしくない。


 父上の器に遠く及ばぬ。


 尾張は終わりだ。


 好きに言えばいい。


 人は、己に分からぬものを笑う。


 笑うことで、分かった気になる。


 ならば、笑わせておけばよい。


「若様、またそんな格好で……」


 背後から、呆れた声が飛んできた。


 振り返らずとも分かる。


 池田恒興だ。


 俺と同じく若いが、俺よりはずっと世間というものを気にする男である。


「そんな格好とは、どんな格好だ」


「どんなって……人に説明させますか、それを」


「説明できぬなら、たいした問題ではない」


「いや、問題しかありません。町人がみんな見てます」


「見せている」


 俺は歩きながら答えた。


 恒興が数歩遅れてついてくる。足音が不満げだった。


「見せているって、誰にですか」


「町にだ」


「町に?」


「俺がこうして歩けば、町は俺を見る。俺を見る町を、俺が見る」


「……若様。たまに言っていることが禅問答みたいになりますよね」


「禅は嫌いではない」


「そういう話ではなく」


 恒興がため息をついた。


 こいつは昔からそうだ。


 口では呆れるが、結局ついてくる。


 ありがたい男である。


 だが、ありがたいと言えば調子に乗るので言わない。


 俺は城下の道をゆっくり歩いた。


 泥の乾き具合を見る。


 荷車の轍を見る。


 馬の糞の量を見る。


 店先に並ぶ米俵の数を見る。


 軒下に座る老人の目を見る。


 子供の腹を見る。


 腹の膨れた子が多い町は、豊かとは限らない。


 飢えでも腹は膨れる。


 武家の屋敷で地図を眺めているだけでは、こういうことは分からぬ。


「恒興」


「はい」


「あの米屋、昨日より俵が少ない」


「……よく見てますね」


「東から入る米が減っている」


「天候ですか?」


「違う。関だ」


「関?」


「道に余計な口が増えた。米が動けば、米に手を突っ込む者がいる。銭が動けば、銭に手を突っ込む者がいる。人が動けば、人の足を止めて銭を取る者がいる」


「それはまあ、昔からそういうものでは?」


「昔からそうだから、国が強くなるのか?」


 恒興は答えなかった。


 答えられぬのではない。


 そういう問いを、そもそも考えたことがないのだ。


 多くの武士は、戦とは槍と馬と首だと思っている。


 いや、間違ってはいない。


 戦場では槍がいる。


 馬もいる。


 敵の首を取れば褒められる。


 だが、それだけで戦はできぬ。


 腹の減った兵は走れない。


 米のない城は守れない。


 道の死んだ国は、兵を動かせない。


 商人が怯えれば銭が止まる。


 銭が止まれば鍛冶が止まる。


 鍛冶が止まれば槍も刀も増えぬ。


 戦は、戦場で始まるのではない。


 米が蔵に入る前から始まっている。


 銭が手から手へ移る前から始まっている。


 道を誰が握るか。


 水を誰が握るか。


 港を誰が握るか。


 そこを見ずに勇ましいことばかり言う武士は、たいてい真っ先に腹を空かせる。


「あ、若様」


 恒興が小声で言った。


 前方に、町人たちが集まっている。


 何か揉めているらしい。


 大きな声を出しているのは、侍崩れのような男だった。腰には刀。だが、立ち方が悪い。鍛えた足ではない。威張るために刀を差している類だ。


 相手は干物を売る女。


 その後ろに、小さな子供が二人隠れている。


「だから言っておるだろうが。ここで商いをするなら、場所代を払え」


「昨日も払いました」


「昨日は昨日だ。今日は今日だ」


「そんな……」


「嫌なら退け。ここは俺たちが見ている道だ」


 俺は足を止めた。


 恒興が少し慌てる。


「若様、面倒事です」


「面倒事だから見る」


「いや、見るだけですよね?」


「俺が見るだけで済んだことがあるか?」


「ないから言ってるんです!」


 俺は男の前に出た。


 男がこちらを見た。


 一瞬、俺の顔を見て眉をひそめる。


 次に、俺の格好を見て口元を歪めた。


「なんだ、お前」


「通りすがりのうつけだ」


 町人たちの間に、ざわりとした空気が広がった。


 誰かが小さく言う。


「織田の若様だ」


 男の顔色が変わった。


 だが、すぐに取り繕う。


「こ、これは若様。いや、これはですね、町の決まりでして」


「誰の決まりだ」


「それは……この辺りを守る者たちの」


「守る?」


 俺は辺りを見た。


 干物売りの女は怯えている。


 子供は腹を空かせた目で魚を見ている。


 通りの者たちは、関わりたくないという顔をしている。


 なるほど。


 よく守られている。


 悪い意味で。


「お前の名は」


「は、林田……」


「どこの者だ」


「その、清洲の……」


「清洲の誰の下だ」


 男は黙った。


 俺は笑った。


「言えぬか。ならば、言えぬ者の名を使って銭を取っているわけだ」


「いえ、そういうわけでは」


「昨日も取ったと言ったな」


 俺は干物売りの女を見た。


 女は震えながら頷いた。


「いくらだ」


「……三十文でございます」


「今日は?」


「五十文と」


 俺は男を見た。


「値が上がった理由は」


「そ、それは……道の警固が」


「警固していた者はどこだ」


「……」


「俺は今、ここで揉め事を見ている。お前の言う警固はどこにいる」


 男は汗を浮かべた。


 恒興が横で小さく呟く。


「若様、顔が怖いです」


「怖がらせている」


「でしょうね」


 俺は腰の刀に手をかけなかった。


 抜くほどの相手ではない。


 刀は抜けば場を決める。


 決める必要のない場で抜くのは、ただの下手だ。


「林田」


「は、はい」


「今日取った銭を返せ」


「は?」


「昨日の分もだ」


「しかし」


「返せ」


 声を荒げたつもりはない。


 だが、男は腰の袋を慌てて探り、銭を女に渡した。


 女は受け取ってよいものか迷っている。


「受け取れ」


「で、ですが」


「お前が払った銭だ」


 女は両手で銭を握りしめ、深く頭を下げた。


「ありがとうございます、若様」


「礼はいい。魚は売れ」


「はい」


 俺は男の方へ向き直った。


「お前は帰って、誰の名で銭を取っていたのか、その者に伝えろ」


「な、何をでございますか」


「織田三郎が聞きたがっていた、と」


 男の膝がわずかに揺れた。


「それだけでよい」


 男は何度も頭を下げ、逃げるように去っていった。


 恒興が肩を落とす。


「また敵を増やしましたね」


「名も知らぬ敵など、敵のうちに入らぬ」


「その名も知らぬ敵が、たくさんいるから困るんです」


「ならば名を知ればよい」


 恒興が口を閉じた。


 俺は通りの奥を見た。


 今の男一人の問題ではない。


 ああいう者が道に湧く。


 湧いた者を、別の者が使う。


 使う者の背後に、さらに別の者がいる。


 誰もが少しずつ銭を抜く。


 誰もが少しずつ人の流れを止める。


 そして国全体が鈍る。


 鈍った国は、強い敵に食われる。


 武士たちは、城の石垣や槍の長さばかり気にする。


 だが国を殺すのは、もっと小さな詰まりだ。


 道の詰まり。


 銭の詰まり。


 人の心の詰まり。


 そういうものを、俺は見ている。


 だから町を歩く。


 だから笑われる。


 笑われる程度で国が見えるなら、安いものだ。


「若様」


 今度は別の声がした。


 振り向くと、年若い小姓が息を切らして走ってきた。


 城からの使いだ。


 顔が白い。


 よい知らせではない。


「何事だ」


「お、お屋形様が……」


 胸の奥が、わずかに冷えた。


 お屋形様。


 つまり父上だ。


「父上がどうした」


「お加減が、急に……平手様が、すぐ戻られよと」


 町の音が、遠くなった。


 魚を売る声。


 荷車の軋む音。


 子供の泣き声。


 どこかの家で飯を炊く匂い。


 それらが一瞬、俺の外側へ退いた。


 父上の病が重いことは知っていた。


 知らぬふりをしていただけだ。


 いや、違う。


 知っていて、見る順を後に回していた。


 国を見る。


 道を見る。


 米を見る。


 銭を見る。


 だが、その国の真ん中に座っている父が崩れれば、すべてが変わる。


 織田信秀。


 あの男がいるから、尾張の者たちはまだ織田を恐れている。


 あの男がいるから、敵はすぐには踏み込んでこない。


 あの男がいるから、俺はまだ「うつけ」でいられる。


 父上が死ねば。


 俺は、うつけでは済まなくなる。


「若様」


 恒興の声が、今度は静かだった。


 俺は頷いた。


「戻る」


 歩き出そうとして、ふと足を止めた。


 干物売りの女が、まだこちらを見ている。


 怯えと感謝が混じった目。


 その横で、子供が干物を一つ握っていた。


 腹が減っている目だった。


 俺は懐から銭を出し、恒興に放った。


「買え」


「え?」


「そこの干物を全部だ」


「全部?」


「城に持って帰る」


「若様、今はそれどころでは」


「それどころだ」


 俺は恒興を見た。


「人は飯を食わねば動けぬ。父上の病が重かろうが、家中が割れようが、明日戦になろうが、腹は減る」


 恒興は何か言いたそうにしたが、やめた。


 女から干物を買い取る。


 女はまた頭を下げた。


 俺は今度こそ城へ向かって歩き出した。


 背中に町の視線が刺さる。


 うつけ。


 奇妙な若君。


 何を考えているか分からぬ男。


 それでいい。


 分からせる必要はない。


 分からぬまま見ていろ。


 俺はお前たちを見ている。


 お前たちの米を。


 お前たちの道を。


 お前たちの不安を。


 お前たちが笑いながら見落としている、この国のほころびを。


 城へ近づくにつれ、空気が変わった。


 町のざわめきが薄れ、武家屋敷の硬い沈黙が増える。


 門番たちは俺の姿を見ると、慌てて頭を下げた。


 その目には、いつもの呆れがない。


 代わりにあるのは、恐れだ。


 父上の病が、城全体に広がっている。


 人は病を恐れるのではない。


 病の先にある空白を恐れる。


 誰が次に座るのか。


 誰に従えばよいのか。


 誰が勝つのか。


 誰が消えるのか。


 城の者たちは、もうそれを考え始めている。


 俺がまだ父上の顔を見ていないうちからだ。


「若」


 廊下の先に、平手政秀が立っていた。


 俺の傅役。


 小言の塊のような男。


 だが、その顔はいつものように怒っていなかった。


 それが、かえって悪い。


「爺」


「お急ぎを」


「父上は」


「お待ちです」


 待っている。


 その言葉が、妙に重かった。


 父は俺を待っている。


 織田信秀が、俺を。


 俺は政秀の前を通り過ぎようとした。


 その時、政秀が低い声で言った。


「若」


「何だ」


「その格好で、お会いになりますか」


 俺は自分の姿を見下ろした。


 乱れた髪。


 だらしない湯帷子。


 町の土で汚れた足元。


 なるほど。


 父の死に目に会う嫡男の姿ではない。


 普通なら。


「着替えている間に、父上が死んだらどうする」


 政秀は息を呑んだ。


 俺は続けた。


「整った姿を見せるために、間に合わぬ方が孝か」


「……言葉が過ぎます」


「知っている」


「知っていて、なぜ」


「今は、それを直している暇がない」


 政秀の眉が震えた。


 怒りか。


 悲しみか。


 おそらく、両方だ。


 この男は俺を愛している。


 だから俺を叱る。


 俺もそれを知っている。


 知っているが、従えるとは限らない。


 俺は奥へ進んだ。


 父上の部屋の前で、足が止まりかけた。


 止まるな。


 止まれば、いろいろなものが追いついてくる。


 恐れ。


 後悔。


 子供の頃の記憶。


 父の大きな手。


 叱られた声。


 褒められなかった寂しさ。


 認められたいと思ったこと。


 認められたら困ると思ったこと。


 全部、今はいらない。


 襖を開けた。


 薬の匂いがした。


 湿った布の匂い。


 沈香の薄い匂い。


 人が死に近づく部屋の、重い匂い。


 父上は横になっていた。


 記憶の中の父より、小さかった。


 あれほど大きく見えた男が、布団の中で骨ばっている。


 だが目だけは、まだ織田信秀だった。


「三郎」


 掠れた声。


 俺は膝をついた。


「父上」


「町に、出ておったか」


「はい」


「また、笑われたか」


「いつものことにございます」


 父上の口元が、わずかに動いた。


 笑ったのだと思う。


「うつけめ」


「よく言われます」


「言わせておけ」


 俺は顔を上げた。


 父上は天井を見ていた。


「笑う者は、笑うことで安心する。安心した者は、足が遅くなる」


「……はい」


「だがな、三郎」


 父上の目が、俺を向いた。


「笑われることに慣れすぎるな」


 胸の奥を突かれた気がした。


「笑われるのを武器にするのはよい。だが、笑われる己に酔えば、本物のうつけになる」


 返す言葉がなかった。


 父上は、俺の奇行を知らぬわけではない。


 むしろ誰より知っている。


 その上で放っていた。


 信じていたのか。


 諦めていたのか。


 今でも分からない。


「尾張は、一枚ではない」


 父上は続けた。


「弾正忠家の名だけで従う者もおる。銭で動く者もおる。恐れで膝をつく者もおる。お前を嫌い、勘十郎を担ぐ者も出る」


 勘十郎。


 弟、信勝のことだ。


 父上の口からその名が出た瞬間、部屋の空気が変わった気がした。


「父上」


「家を継ぐとは、座ることではない」


 父上は、ゆっくりと言った。


「割れたものを、割れたまま握ることだ」


 割れたものを、割れたまま。


 俺はその言葉を胸の中で繰り返した。


「一つにしようと焦れば、砕ける。放っておけば、散る。握れば、手が切れる」


「では、どうすれば」


「血を流しながら、握れ」


 父上の声は弱い。


 だが、その言葉だけは妙にはっきりしていた。


「それが、国を持つということだ」


 俺は黙っていた。


 父上は目を細める。


「三郎。お前は、何を見ている」


「町を」


「町の何を」


「道を。米を。銭を。人の腹を。顔を。怯えを」


「城は見ぬか」


「城だけ見ていては、国は分かりませぬ」


 父上はまた、わずかに笑った。


「ならば、よい」


 その一言で、胸の奥が熱くなった。


 褒められたのか。


 認められたのか。


 分からない。


 だが、俺はその一言を、たぶん死ぬまで忘れない。


「三郎」


「はい」


「お前は、わしとは違う」


「……はい」


「違うから、よい」


 俺は息を止めた。


 父上は、少し苦しそうに息をした。


 側にいた者が慌てて薬湯を用意しようとする。


 父上は手で制した。


「わしの真似をするな」


「はい」


「わしの敵を、そのまま敵と思うな」


「はい」


「わしの味方を、そのまま味方と思うな」


 その言葉は、冷たかった。


 だが真実だった。


 父上が死ねば、父上の味方は父上の味方ではなくなる。


 次に誰へつくかを考える者になる。


「お前を見ている者は多い」


「承知しております」


「違う」


 父上はわずかに首を振った。


「お前を見て、己の得を量っている者が多い」


 俺は唇を噛んだ。


 笑われているだけではない。


 測られている。


 値踏みされている。


 使えるか。


 潰せるか。


 担げるか。


 捨てるべきか。


 その目が城中にある。


 町にもある。


 他国にもある。


「三郎」


「はい」


「うつけでいるなら、最後までうつけでいろ」


「最後まで、でございますか」


「中途半端なうつけは、ただの愚か者だ」


 父上の言葉に、俺は思わず笑いそうになった。


 笑える場ではない。


 それでも、喉の奥が震えた。


「肝に銘じます」


「……よい返事だ」


 父上は目を閉じた。


 俺はしばらく、その顔を見ていた。


 部屋の外では、誰かが息を潜めている。


 平手政秀。


 重臣たち。


 家臣たち。


 皆、待っている。


 父の言葉を。


 俺の顔を。


 この先の織田家の形を。


 俺は、まだ何も持っていない。


 父上ほどの武名もない。


 家臣の信頼も薄い。


 弟の方が行儀はよい。


 俺は笑われている。


 うつけと呼ばれている。


 だが、父上は言った。


 違うから、よい。


 ならば俺は、俺のまま行くしかない。


 どれほど笑われようと。


 どれほど嫌われようと。


 この尾張という割れた器を、血を流しながら握るしかない。


 父上が再び目を開けた。


「三郎」


「はい」


「腹は、減っておらぬか」


 俺は一瞬、何を言われたのか分からなかった。


 だがすぐに、町で買った干物のことを思い出した。


「干物を買ってきました」


「この時にか」


「この時だからです」


 父上は、今度こそはっきり笑った。


 弱い笑いだった。


 だが、父の笑いだった。


「やはり、うつけだ」


「よく言われます」


「……食え」


「父上も」


「わしはよい」


「では、俺が食います」


「そうしろ」


 俺は部屋の外に命じ、干物を持ってこさせた。


 政秀が渋い顔をしていた。


 父の病室で干物。


 たしかに、まともな嫡男のすることではない。


 だが父上は、何も言わなかった。


 俺は干物を一口食った。


 塩辛い。


 少し硬い。


 町の味がした。


 父上が目を細めて、それを見ている。


 その目が、だんだん遠くなっていくような気がした。


 俺は干物を噛みしめた。


 泣くな。


 まだ泣くな。


 泣けば、部屋の外にいる者たちが見る。


 信長は泣いたと見る。


 弱いと見る。


 幼いと見る。


 弟を担ごうとする者たちが、笑う。


 笑わせておけばよい。


 そう思ってきた。


 だが今だけは、笑われるわけにはいかない。


 父上が目を閉じた。


 呼吸はまだある。


 だが、細い。


 俺は干物を飲み込んだ。


 喉が痛かった。


 塩のせいではない。


 たぶん。


 俺は、うつけと呼ばれている。


 その名は、まだ俺を守っている。


 だが父上がいなくなれば、その名は俺を守らない。


 俺を縛る。


 俺を試す。


 俺を殺しにくる。


 尾張は、まだ俺のものではない。


 織田家も、まだ俺のものではない。


 父の城にいる俺は、父ではない。


 ただの、うつけと呼ばれる若造だ。


 それでも。


 俺は膝の上で拳を握った。


 笑え。


 今のうちに笑っておけ。


 俺もまだ、自分が何者になるのか知らぬ。


 天下など知らぬ。


 京など遠い。


 将軍など霧の向こうだ。


 今の俺に見えているのは、尾張だけ。


 父の息。


 干物の塩。


 廊下の向こうに潜む家臣たちの気配。


 そして、この国のあちこちで詰まり始めている道と米と銭。


 うつけと呼ばれるには、理由がある。


 ならば俺は、その理由を使ってやる。


 誰にも分からぬ顔で笑いながら。


 誰よりも、この乱れた世を見てやる。

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