第1話 うつけと呼ばれるには、理由がある
俺は、うつけと呼ばれている。
尾張の城下でその名を知らぬ者はいない。
織田弾正忠家の嫡男、織田三郎信長。
父は信秀。
尾張の虎とも呼ばれた男だ。
その嫡男である俺は、朝から髪をまともに結わず、湯帷子をだらしなく肩にかけ、腰には長めの太刀を差し、町をぶらついている。
人はそれを見て笑う。
武家の若君らしくない。
嫡男らしくない。
父上の器に遠く及ばぬ。
尾張は終わりだ。
好きに言えばいい。
人は、己に分からぬものを笑う。
笑うことで、分かった気になる。
ならば、笑わせておけばよい。
「若様、またそんな格好で……」
背後から、呆れた声が飛んできた。
振り返らずとも分かる。
池田恒興だ。
俺と同じく若いが、俺よりはずっと世間というものを気にする男である。
「そんな格好とは、どんな格好だ」
「どんなって……人に説明させますか、それを」
「説明できぬなら、たいした問題ではない」
「いや、問題しかありません。町人がみんな見てます」
「見せている」
俺は歩きながら答えた。
恒興が数歩遅れてついてくる。足音が不満げだった。
「見せているって、誰にですか」
「町にだ」
「町に?」
「俺がこうして歩けば、町は俺を見る。俺を見る町を、俺が見る」
「……若様。たまに言っていることが禅問答みたいになりますよね」
「禅は嫌いではない」
「そういう話ではなく」
恒興がため息をついた。
こいつは昔からそうだ。
口では呆れるが、結局ついてくる。
ありがたい男である。
だが、ありがたいと言えば調子に乗るので言わない。
俺は城下の道をゆっくり歩いた。
泥の乾き具合を見る。
荷車の轍を見る。
馬の糞の量を見る。
店先に並ぶ米俵の数を見る。
軒下に座る老人の目を見る。
子供の腹を見る。
腹の膨れた子が多い町は、豊かとは限らない。
飢えでも腹は膨れる。
武家の屋敷で地図を眺めているだけでは、こういうことは分からぬ。
「恒興」
「はい」
「あの米屋、昨日より俵が少ない」
「……よく見てますね」
「東から入る米が減っている」
「天候ですか?」
「違う。関だ」
「関?」
「道に余計な口が増えた。米が動けば、米に手を突っ込む者がいる。銭が動けば、銭に手を突っ込む者がいる。人が動けば、人の足を止めて銭を取る者がいる」
「それはまあ、昔からそういうものでは?」
「昔からそうだから、国が強くなるのか?」
恒興は答えなかった。
答えられぬのではない。
そういう問いを、そもそも考えたことがないのだ。
多くの武士は、戦とは槍と馬と首だと思っている。
いや、間違ってはいない。
戦場では槍がいる。
馬もいる。
敵の首を取れば褒められる。
だが、それだけで戦はできぬ。
腹の減った兵は走れない。
米のない城は守れない。
道の死んだ国は、兵を動かせない。
商人が怯えれば銭が止まる。
銭が止まれば鍛冶が止まる。
鍛冶が止まれば槍も刀も増えぬ。
戦は、戦場で始まるのではない。
米が蔵に入る前から始まっている。
銭が手から手へ移る前から始まっている。
道を誰が握るか。
水を誰が握るか。
港を誰が握るか。
そこを見ずに勇ましいことばかり言う武士は、たいてい真っ先に腹を空かせる。
「あ、若様」
恒興が小声で言った。
前方に、町人たちが集まっている。
何か揉めているらしい。
大きな声を出しているのは、侍崩れのような男だった。腰には刀。だが、立ち方が悪い。鍛えた足ではない。威張るために刀を差している類だ。
相手は干物を売る女。
その後ろに、小さな子供が二人隠れている。
「だから言っておるだろうが。ここで商いをするなら、場所代を払え」
「昨日も払いました」
「昨日は昨日だ。今日は今日だ」
「そんな……」
「嫌なら退け。ここは俺たちが見ている道だ」
俺は足を止めた。
恒興が少し慌てる。
「若様、面倒事です」
「面倒事だから見る」
「いや、見るだけですよね?」
「俺が見るだけで済んだことがあるか?」
「ないから言ってるんです!」
俺は男の前に出た。
男がこちらを見た。
一瞬、俺の顔を見て眉をひそめる。
次に、俺の格好を見て口元を歪めた。
「なんだ、お前」
「通りすがりのうつけだ」
町人たちの間に、ざわりとした空気が広がった。
誰かが小さく言う。
「織田の若様だ」
男の顔色が変わった。
だが、すぐに取り繕う。
「こ、これは若様。いや、これはですね、町の決まりでして」
「誰の決まりだ」
「それは……この辺りを守る者たちの」
「守る?」
俺は辺りを見た。
干物売りの女は怯えている。
子供は腹を空かせた目で魚を見ている。
通りの者たちは、関わりたくないという顔をしている。
なるほど。
よく守られている。
悪い意味で。
「お前の名は」
「は、林田……」
「どこの者だ」
「その、清洲の……」
「清洲の誰の下だ」
男は黙った。
俺は笑った。
「言えぬか。ならば、言えぬ者の名を使って銭を取っているわけだ」
「いえ、そういうわけでは」
「昨日も取ったと言ったな」
俺は干物売りの女を見た。
女は震えながら頷いた。
「いくらだ」
「……三十文でございます」
「今日は?」
「五十文と」
俺は男を見た。
「値が上がった理由は」
「そ、それは……道の警固が」
「警固していた者はどこだ」
「……」
「俺は今、ここで揉め事を見ている。お前の言う警固はどこにいる」
男は汗を浮かべた。
恒興が横で小さく呟く。
「若様、顔が怖いです」
「怖がらせている」
「でしょうね」
俺は腰の刀に手をかけなかった。
抜くほどの相手ではない。
刀は抜けば場を決める。
決める必要のない場で抜くのは、ただの下手だ。
「林田」
「は、はい」
「今日取った銭を返せ」
「は?」
「昨日の分もだ」
「しかし」
「返せ」
声を荒げたつもりはない。
だが、男は腰の袋を慌てて探り、銭を女に渡した。
女は受け取ってよいものか迷っている。
「受け取れ」
「で、ですが」
「お前が払った銭だ」
女は両手で銭を握りしめ、深く頭を下げた。
「ありがとうございます、若様」
「礼はいい。魚は売れ」
「はい」
俺は男の方へ向き直った。
「お前は帰って、誰の名で銭を取っていたのか、その者に伝えろ」
「な、何をでございますか」
「織田三郎が聞きたがっていた、と」
男の膝がわずかに揺れた。
「それだけでよい」
男は何度も頭を下げ、逃げるように去っていった。
恒興が肩を落とす。
「また敵を増やしましたね」
「名も知らぬ敵など、敵のうちに入らぬ」
「その名も知らぬ敵が、たくさんいるから困るんです」
「ならば名を知ればよい」
恒興が口を閉じた。
俺は通りの奥を見た。
今の男一人の問題ではない。
ああいう者が道に湧く。
湧いた者を、別の者が使う。
使う者の背後に、さらに別の者がいる。
誰もが少しずつ銭を抜く。
誰もが少しずつ人の流れを止める。
そして国全体が鈍る。
鈍った国は、強い敵に食われる。
武士たちは、城の石垣や槍の長さばかり気にする。
だが国を殺すのは、もっと小さな詰まりだ。
道の詰まり。
銭の詰まり。
人の心の詰まり。
そういうものを、俺は見ている。
だから町を歩く。
だから笑われる。
笑われる程度で国が見えるなら、安いものだ。
「若様」
今度は別の声がした。
振り向くと、年若い小姓が息を切らして走ってきた。
城からの使いだ。
顔が白い。
よい知らせではない。
「何事だ」
「お、お屋形様が……」
胸の奥が、わずかに冷えた。
お屋形様。
つまり父上だ。
「父上がどうした」
「お加減が、急に……平手様が、すぐ戻られよと」
町の音が、遠くなった。
魚を売る声。
荷車の軋む音。
子供の泣き声。
どこかの家で飯を炊く匂い。
それらが一瞬、俺の外側へ退いた。
父上の病が重いことは知っていた。
知らぬふりをしていただけだ。
いや、違う。
知っていて、見る順を後に回していた。
国を見る。
道を見る。
米を見る。
銭を見る。
だが、その国の真ん中に座っている父が崩れれば、すべてが変わる。
織田信秀。
あの男がいるから、尾張の者たちはまだ織田を恐れている。
あの男がいるから、敵はすぐには踏み込んでこない。
あの男がいるから、俺はまだ「うつけ」でいられる。
父上が死ねば。
俺は、うつけでは済まなくなる。
「若様」
恒興の声が、今度は静かだった。
俺は頷いた。
「戻る」
歩き出そうとして、ふと足を止めた。
干物売りの女が、まだこちらを見ている。
怯えと感謝が混じった目。
その横で、子供が干物を一つ握っていた。
腹が減っている目だった。
俺は懐から銭を出し、恒興に放った。
「買え」
「え?」
「そこの干物を全部だ」
「全部?」
「城に持って帰る」
「若様、今はそれどころでは」
「それどころだ」
俺は恒興を見た。
「人は飯を食わねば動けぬ。父上の病が重かろうが、家中が割れようが、明日戦になろうが、腹は減る」
恒興は何か言いたそうにしたが、やめた。
女から干物を買い取る。
女はまた頭を下げた。
俺は今度こそ城へ向かって歩き出した。
背中に町の視線が刺さる。
うつけ。
奇妙な若君。
何を考えているか分からぬ男。
それでいい。
分からせる必要はない。
分からぬまま見ていろ。
俺はお前たちを見ている。
お前たちの米を。
お前たちの道を。
お前たちの不安を。
お前たちが笑いながら見落としている、この国のほころびを。
城へ近づくにつれ、空気が変わった。
町のざわめきが薄れ、武家屋敷の硬い沈黙が増える。
門番たちは俺の姿を見ると、慌てて頭を下げた。
その目には、いつもの呆れがない。
代わりにあるのは、恐れだ。
父上の病が、城全体に広がっている。
人は病を恐れるのではない。
病の先にある空白を恐れる。
誰が次に座るのか。
誰に従えばよいのか。
誰が勝つのか。
誰が消えるのか。
城の者たちは、もうそれを考え始めている。
俺がまだ父上の顔を見ていないうちからだ。
「若」
廊下の先に、平手政秀が立っていた。
俺の傅役。
小言の塊のような男。
だが、その顔はいつものように怒っていなかった。
それが、かえって悪い。
「爺」
「お急ぎを」
「父上は」
「お待ちです」
待っている。
その言葉が、妙に重かった。
父は俺を待っている。
織田信秀が、俺を。
俺は政秀の前を通り過ぎようとした。
その時、政秀が低い声で言った。
「若」
「何だ」
「その格好で、お会いになりますか」
俺は自分の姿を見下ろした。
乱れた髪。
だらしない湯帷子。
町の土で汚れた足元。
なるほど。
父の死に目に会う嫡男の姿ではない。
普通なら。
「着替えている間に、父上が死んだらどうする」
政秀は息を呑んだ。
俺は続けた。
「整った姿を見せるために、間に合わぬ方が孝か」
「……言葉が過ぎます」
「知っている」
「知っていて、なぜ」
「今は、それを直している暇がない」
政秀の眉が震えた。
怒りか。
悲しみか。
おそらく、両方だ。
この男は俺を愛している。
だから俺を叱る。
俺もそれを知っている。
知っているが、従えるとは限らない。
俺は奥へ進んだ。
父上の部屋の前で、足が止まりかけた。
止まるな。
止まれば、いろいろなものが追いついてくる。
恐れ。
後悔。
子供の頃の記憶。
父の大きな手。
叱られた声。
褒められなかった寂しさ。
認められたいと思ったこと。
認められたら困ると思ったこと。
全部、今はいらない。
襖を開けた。
薬の匂いがした。
湿った布の匂い。
沈香の薄い匂い。
人が死に近づく部屋の、重い匂い。
父上は横になっていた。
記憶の中の父より、小さかった。
あれほど大きく見えた男が、布団の中で骨ばっている。
だが目だけは、まだ織田信秀だった。
「三郎」
掠れた声。
俺は膝をついた。
「父上」
「町に、出ておったか」
「はい」
「また、笑われたか」
「いつものことにございます」
父上の口元が、わずかに動いた。
笑ったのだと思う。
「うつけめ」
「よく言われます」
「言わせておけ」
俺は顔を上げた。
父上は天井を見ていた。
「笑う者は、笑うことで安心する。安心した者は、足が遅くなる」
「……はい」
「だがな、三郎」
父上の目が、俺を向いた。
「笑われることに慣れすぎるな」
胸の奥を突かれた気がした。
「笑われるのを武器にするのはよい。だが、笑われる己に酔えば、本物のうつけになる」
返す言葉がなかった。
父上は、俺の奇行を知らぬわけではない。
むしろ誰より知っている。
その上で放っていた。
信じていたのか。
諦めていたのか。
今でも分からない。
「尾張は、一枚ではない」
父上は続けた。
「弾正忠家の名だけで従う者もおる。銭で動く者もおる。恐れで膝をつく者もおる。お前を嫌い、勘十郎を担ぐ者も出る」
勘十郎。
弟、信勝のことだ。
父上の口からその名が出た瞬間、部屋の空気が変わった気がした。
「父上」
「家を継ぐとは、座ることではない」
父上は、ゆっくりと言った。
「割れたものを、割れたまま握ることだ」
割れたものを、割れたまま。
俺はその言葉を胸の中で繰り返した。
「一つにしようと焦れば、砕ける。放っておけば、散る。握れば、手が切れる」
「では、どうすれば」
「血を流しながら、握れ」
父上の声は弱い。
だが、その言葉だけは妙にはっきりしていた。
「それが、国を持つということだ」
俺は黙っていた。
父上は目を細める。
「三郎。お前は、何を見ている」
「町を」
「町の何を」
「道を。米を。銭を。人の腹を。顔を。怯えを」
「城は見ぬか」
「城だけ見ていては、国は分かりませぬ」
父上はまた、わずかに笑った。
「ならば、よい」
その一言で、胸の奥が熱くなった。
褒められたのか。
認められたのか。
分からない。
だが、俺はその一言を、たぶん死ぬまで忘れない。
「三郎」
「はい」
「お前は、わしとは違う」
「……はい」
「違うから、よい」
俺は息を止めた。
父上は、少し苦しそうに息をした。
側にいた者が慌てて薬湯を用意しようとする。
父上は手で制した。
「わしの真似をするな」
「はい」
「わしの敵を、そのまま敵と思うな」
「はい」
「わしの味方を、そのまま味方と思うな」
その言葉は、冷たかった。
だが真実だった。
父上が死ねば、父上の味方は父上の味方ではなくなる。
次に誰へつくかを考える者になる。
「お前を見ている者は多い」
「承知しております」
「違う」
父上はわずかに首を振った。
「お前を見て、己の得を量っている者が多い」
俺は唇を噛んだ。
笑われているだけではない。
測られている。
値踏みされている。
使えるか。
潰せるか。
担げるか。
捨てるべきか。
その目が城中にある。
町にもある。
他国にもある。
「三郎」
「はい」
「うつけでいるなら、最後までうつけでいろ」
「最後まで、でございますか」
「中途半端なうつけは、ただの愚か者だ」
父上の言葉に、俺は思わず笑いそうになった。
笑える場ではない。
それでも、喉の奥が震えた。
「肝に銘じます」
「……よい返事だ」
父上は目を閉じた。
俺はしばらく、その顔を見ていた。
部屋の外では、誰かが息を潜めている。
平手政秀。
重臣たち。
家臣たち。
皆、待っている。
父の言葉を。
俺の顔を。
この先の織田家の形を。
俺は、まだ何も持っていない。
父上ほどの武名もない。
家臣の信頼も薄い。
弟の方が行儀はよい。
俺は笑われている。
うつけと呼ばれている。
だが、父上は言った。
違うから、よい。
ならば俺は、俺のまま行くしかない。
どれほど笑われようと。
どれほど嫌われようと。
この尾張という割れた器を、血を流しながら握るしかない。
父上が再び目を開けた。
「三郎」
「はい」
「腹は、減っておらぬか」
俺は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
だがすぐに、町で買った干物のことを思い出した。
「干物を買ってきました」
「この時にか」
「この時だからです」
父上は、今度こそはっきり笑った。
弱い笑いだった。
だが、父の笑いだった。
「やはり、うつけだ」
「よく言われます」
「……食え」
「父上も」
「わしはよい」
「では、俺が食います」
「そうしろ」
俺は部屋の外に命じ、干物を持ってこさせた。
政秀が渋い顔をしていた。
父の病室で干物。
たしかに、まともな嫡男のすることではない。
だが父上は、何も言わなかった。
俺は干物を一口食った。
塩辛い。
少し硬い。
町の味がした。
父上が目を細めて、それを見ている。
その目が、だんだん遠くなっていくような気がした。
俺は干物を噛みしめた。
泣くな。
まだ泣くな。
泣けば、部屋の外にいる者たちが見る。
信長は泣いたと見る。
弱いと見る。
幼いと見る。
弟を担ごうとする者たちが、笑う。
笑わせておけばよい。
そう思ってきた。
だが今だけは、笑われるわけにはいかない。
父上が目を閉じた。
呼吸はまだある。
だが、細い。
俺は干物を飲み込んだ。
喉が痛かった。
塩のせいではない。
たぶん。
俺は、うつけと呼ばれている。
その名は、まだ俺を守っている。
だが父上がいなくなれば、その名は俺を守らない。
俺を縛る。
俺を試す。
俺を殺しにくる。
尾張は、まだ俺のものではない。
織田家も、まだ俺のものではない。
父の城にいる俺は、父ではない。
ただの、うつけと呼ばれる若造だ。
それでも。
俺は膝の上で拳を握った。
笑え。
今のうちに笑っておけ。
俺もまだ、自分が何者になるのか知らぬ。
天下など知らぬ。
京など遠い。
将軍など霧の向こうだ。
今の俺に見えているのは、尾張だけ。
父の息。
干物の塩。
廊下の向こうに潜む家臣たちの気配。
そして、この国のあちこちで詰まり始めている道と米と銭。
うつけと呼ばれるには、理由がある。
ならば俺は、その理由を使ってやる。
誰にも分からぬ顔で笑いながら。
誰よりも、この乱れた世を見てやる。




