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第18話 許すという刃

 戦の後始末は、戦そのものより不快だった。


 槍を合わせている間は、まだ分かりやすい。


 前から敵が来る。


 受ける。


 押す。


 退く。


 叫ぶ。


 倒れる。


 勝つ。


 負ける。


 血が流れる。


 そのすべてが嫌なほど単純になる。


 だが、勝った後は違う。


 死んだ者には名がある。


 怪我をした者には家がある。


 逃げた者には言い訳がある。


 捕らえた者には命乞いがある。


 そして負けた者にも、面目がある。


 面目。


 厄介な言葉だ。


 人は飯で動く。


 道で動く。


 銭で動く。


 だが、最後の最後で面目に縛られる。


 面目を潰せば恨みになる。


 面目を立てすぎれば、また増長する。


 どちらへ振れても火種になる。


 戦場で勝った後、俺はその火種の山の前に立たされた。


 稲生の野には、まだ血の匂いが残っていた。


 陽が高くなるにつれ、鉄と汗と草の匂いが重くなっていく。


 長秀が名を書き取っている。


 恒興が捕らえた者を分けている。


 犬千代は怪我人を運ぶ兵に声をかけていた。


 あいつにしては妙に静かだった。


 戦の熱が冷めて、初めて見えたのだろう。


 敵も味方も、倒れれば同じように呻く。


 その当たり前が、若い武士には時々遅れて刺さる。


「若様」


 長秀が帳面を持ってきた。


 その顔は土と汗で汚れている。


 だが、目だけはいつも通りだった。


「こちらの討死、負傷者、ひとまず分かる範囲でまとめました」


「向こうは」


「捕らえた者は別に。逃げた者も多くおります。柴田殿は兵をまとめて退かれました。林美作守様の行方はまだ確かではありません」


「柴田は見事だったな」


「敵としては、厄介でした」


「味方なら」


「得難いかと」


 長秀は、そう言ってから少し黙った。


 俺が何を考えているか察したのだろう。


 柴田勝家をどうするか。


 斬るのか。


 許すのか。


 降すのか。


 遠ざけるのか。


 どれも正しく、どれも危うい。


「若様」


「何だ」


「柴田殿を討てなかったことを悔いる者もおります」


「だろうな」


「一方で、討たなかったことで安堵している者もおります」


「それも、だろうな」


 俺は稲生の野を見渡した。


 戦は終わった。


 だが、兵たちの目はまだ戦場の目をしている。


 勝った熱が残っている者。


 友を失って呆然としている者。


 敵を憎み足りない者。


 殺しすぎずに済んで安堵している者。


 それぞれが、俺の次の言葉を待っている。


 勝った大将が何をするか。


 それを見ている。


 俺は、負けた者をすぐ斬ることもできる。


 その方が分かりやすい。


 反乱を起こした者は処罰する。


 名を騙り、兵を集め、織田を割った者は斬る。


 武士たちには納得しやすい。


 町にも伝わりやすい。


 だが、それをすれば織田家の中に血の溝が残る。


 今日は勝った。


 だが明日、今川が来た時、その溝が開く。


 俺が斬った者の親類、縁者、旧臣、恩を受けた者たち。


 そいつらが槍を持ちながら腹の底で何を思う。


 信長は、いずれ我らも斬る。


 そう思う。


 思われれば、兵は動かない。


 かといって許しすぎれば、信長は甘いと思われる。


 もう一度やれば、また許される。


 そう思う者が出る。


 許す。


 その言葉は、やわらかく聞こえる。


 だが、実際には刃だ。


 どこへ当てるかで、人を生かしも殺しもする。


「捕らえた者を集めろ」


 俺は言った。


「ただし、縛りすぎるな。逃げる気のある者は、今逃げればよい」


 長秀が少し目を見開いた。


「よろしいのですか」


「逃げる者は、後でまた顔を見せる。その時に分かる」


「逃げ得になりませんか」


「逃げた者は、自分の足で面目を落とす」


 長秀は少し考え、頷いた。


「分かりました」


 捕らえた者たちは、怯えた顔で並べられた。


 若い者もいた。


 年配の者もいた。


 昨日まで城の廊下ですれ違っていた顔もある。


 俺を見ると、皆が一斉に頭を下げた。


 深い。


 だが、その深さは忠義ではない。


 恐怖だ。


 命が俺の手にある。


 それを知っている頭の下げ方だ。


 俺はしばらく何も言わなかった。


 沈黙に耐えられず、一人が震え始める。


 その震えが隣へ伝わる。


 人の恐怖は、噂よりも早く広がる。


「顔を上げろ」


 誰も上げない。


「顔を上げよと言った」


 ようやく何人かが顔を上げた。


 目が合うと、すぐ逸らす。


 見ろ。


 俺は心の中で言った。


 俺を見ろ。


 お前たちが殺そうとした男の顔だ。


 そして、俺も見る。


 俺が殺すかもしれない者たちの顔だ。


「お前たちは、なぜ向こうへついた」


 誰も答えない。


 当たり前だ。


 正直に言えば殺されると思っている。


 嘘を言えば、もっとまずいと思っている。


 だから沈黙する。


 俺は一人を指した。


「お前」


「は、はい」


「名は」


 男は答えた。


 守山道の件で名が出ていた小者の縁者だった。


「なぜ向こうへ」


 男は唇を震わせた。


「林様に……」


「林に命じられたか」


「い、いえ。林様が直接では。ただ、信勝様を支えねば織田は乱れると」


「お前はそう思ったのか」


「思いました」


 男は泣きそうな顔で言った。


「若様は、恐ろしゅうございました。町の帳面を集め、道の銭までお調べになり、守山の件でも……我らのような者まで、いつ裁かれるかと」


 正直な声だった。


 俺は黙った。


 そうか。


 恐れたか。


 俺が名を正そうとしたこと。


 道を詰まらせぬようにしたこと。


 帳面を集めたこと。


 それは町の一部には安心になった。


 だが、別の者には恐怖になった。


 自分の小さな利が見つかる。


 名を騙っていたことが見つかる。


 古い慣れが裁かれる。


 そう思った者たちが、勘十郎の「安心」に逃げた。


 俺は、それを見ていたつもりで、十分には見ていなかった。


「若様」


 恒興が小声で言った。


 怒っているのか、と聞きたい顔だった。


 怒っている。


 だが、今怒る相手はこの男だけではない。


 俺自身にも少し腹が立つ。


「他には」


 俺は別の者を見た。


 その男は少し年上だった。


「父上の頃の織田がよかった、と聞いたので」


「誰から」


「美作守様の周りの者から」


「お前もそう思ったか」


「……はい」


「父上の頃を知っているのか」


「いえ。私はまだ若く」


「なら、何を知っている」


 男は答えられなかった。


 俺はため息を吐きそうになり、こらえた。


 父上の頃。


 便利な言葉だ。


 人は、今が不安になると、過去を綺麗にする。


 父上の頃も問題はいくらでもあった。


 父上の文箱を見れば分かる。


 貸し借り、米、寺社、土豪、今川への警戒、家中の火種。


 何もかもあった。


 ただ父上がそれを力で押さえていただけだ。


 だが、下の者から見れば、父上の頃はまとまっていたように見える。


 今の俺は、まだそのまとまりを作れていない。


 それもまた事実だった。


「聞け」


 俺は捕らえた者たちに言った。


「父上の頃の織田など、最初から美しくまとまっていたわけではない。父上が押さえ、見て、叱り、許し、罰し、飯を食わせていたから保っていた」


 誰も動かない。


「俺は父上ではない。勘十郎も父上ではない。父上の頃へ戻ることはできぬ」


 風が吹いた。


 血の匂いが少し流れる。


「だが、織田を残すことはできる」


 俺は言った。


「そのために、今日お前たちを全員斬ることはしない」


 ざわめきが走った。


 恐怖の中に、安堵が混じる。


 だが、安堵しきらせてはならない。


「勘違いするな。許したのではない。織田の名で道を止め、米を奪い、兵を動かした者の名は残す。長秀の帳面に残す。次に同じことをすれば、今度はその名で斬る」


 捕らえた者たちの顔が引き締まった。


「今日、生きて帰る者は、言え。信長は甘いから助かったのではない。織田を外へ食わせぬために、生かされたのだと」


 俺は一人ずつ見た。


「生かされた者は、次にどう生きるかで己の名を決めろ」


 沈黙の後、何人かが深く頭を下げた。


 今度の頭は、さきほどとは少し違った。


 恐怖だけではない。


 戸惑いがある。


 戸惑いでよい。


 簡単に感謝されても困る。


 感謝は腐ると、また恨みに変わる。


 戸惑いの方が、しばらく考える。


「連れていけ。傷のある者は手当てを。逃げぬよう見張れ。だが、飯は食わせろ」


 恒興が頷く。


「はい」


 捕らえた者たちが下げられる。


 俺は少し息を吐いた。


 勝った後の一つ目の刃は、これで振った。


 次はもっと重い。


 柴田。


 林。


 そして勘十郎。


 昼過ぎ、柴田勝家から使者が来た。


 降る、とは書かれていなかった。


 だが、兵をこれ以上動かさないとあった。


 信勝様の御身を案じる、とも。


 そして、若君が御処断を下されるなら、柴田勝家、逃げ隠れはせぬ、と。


 まったく、あの男らしい。


 負けても、頭の下げ方が硬い。


 首を差し出すなら差し出す。


 だが、媚びはしない。


 そういう文だった。


「どうされますか」


 長秀が聞いた。


「会う」


 俺は答えた。


「ここへ呼びますか」


「いや。俺が行く」


 恒興がぎょっとした。


「若様」


「逃げ隠れしないと書いた男のところへ、こちらが兵で囲んで呼ぶのは下策だ」


「ですが危険です」


「危険だな」


「では」


「だから行く」


 恒興は頭を抱えた。


 犬千代が言った。


「私がお供します」


「お前は黙っていられるか」


「努力します」


「長秀」


「はい」


「犬千代の横にいろ。喋りそうになったら止めろ」


「私の役目がまた増えました」


「よい役だ」


 柴田は、退いた先の陣で待っていた。


 負けた男の陣にしては、乱れていなかった。


 兵たちは疲れている。


 だが、崩れてはいない。


 柴田の力だ。


 こういう男を斬るのは簡単だ。


 斬れば、反抗の芽を摘んだことになる。


 だが、同時に織田の大きな柱を折ることにもなる。


 俺が陣へ入ると、柴田は甲冑のまま座っていた。


 俺を見ると、深く頭を下げた。


「柴田勝家、敗れましてござる」


 言い訳がない。


 潔い。


 潔すぎて腹が立つ。


「よく退いたな」


 俺が言うと、柴田は顔を上げた。


「負け戦でございますれば」


「怒りで突っ込んでくるかと思った」


「それをすれば、信勝様の兵をさらに死なせます」


「そうか」


 俺は柴田の前に座った。


 周りの者たちが緊張する。


 柴田は俺をまっすぐ見た。


「若君」


「何だ」


「この首、必要ならばお取りくだされ」


 陣が静まり返る。


 犬千代が息を呑んだ。


 俺は柴田を見た。


 この男は、本気だ。


 命乞いではない。


 むしろ逆。


 自分の敗戦の責を首で払おうとしている。


 武士としては分かりやすい。


 だが、俺はもう、分かりやすさだけに乗る気はない。


「いらぬ」


 柴田の眉がわずかに動いた。


「いらぬ、でございますか」


「お前の首で、道は開くか」


「……」


「お前の首で、米は動くか」


「若君」


「お前の首で、勘十郎の周りにいる者たちの不安は消えるか。今川が尾張を見なくなるか。林の者たちが納得するか」


 柴田は黙った。


「お前の首は重い。だが、今ここで取れば、俺の手柄にはなっても織田の得にはならぬ」


「されど、私は若君に弓を引き申した」


「そうだ」


 俺ははっきり言った。


「忘れぬ」


 柴田の目が少し鋭くなる。


「許されぬと」


「許す」


 柴田が、今度こそ驚いた顔をした。


「許すが、忘れぬ」


 俺は続けた。


「お前は勘十郎を支えた。父上の名を守るつもりだったかもしれん。家中を案じたのかもしれん。俺のうつけぶりが許せなかったのかもしれん。それは分かる」


「では」


「だが、お前は俺を討つ側に立った。それもまた事実だ」


 柴田は深く頭を下げた。


「その通りにございます」


「だから、今後お前には余計に働いてもらう」


 柴田が顔を上げる。


「働く?」


「首で払うな。働いて払え」


 俺は柴田を見据えた。


「織田のために働け。勘十郎のためでも、俺のためでもない。織田のためだ。俺が間違えば、言え。だが、兵を集める前に言え」


 柴田の顔が変わった。


 怒りでも、驚きでもない。


 何かを噛みしめる顔だった。


「若君は、私を信じられるのですか」


「今は信じぬ」


 柴田の口元がわずかに動いた。


「正直ですな」


「だが、使う」


「それも正直でござる」


「お前も俺を信じなくてよい。働きを見ろ。俺もお前の働きを見る」


 柴田はしばらく黙った。


 それから、ゆっくり頭を下げた。


「承知いたしました」


「それと」


「はっ」


「次に俺を討つ時は、今日よりうまくやれ」


 周囲が凍った。


 柴田も一瞬固まった。


 それから、低く笑った。


「その時は、若君も今日より手強くなっておられましょう」


「当たり前だ」


 柴田は、もう一度深く頭を下げた。


「この柴田勝家、首の代わりに働きにて償いまする」


「覚えておく」


「私も、覚えておきます」


 柴田の陣を出ると、犬千代が我慢できない顔で言った。


「若様」


「何だ」


「柴田殿を斬らぬのですか」


「斬らぬ」


「強い敵を残すのは危なくございませんか」


「危ない」


「ではなぜ」


「強い敵は、強い味方にもなる」


 犬千代は難しい顔をした。


「私には、まだ難しいです」


「覚えなくてもよい。今日は見ておけ」


「はい」


 長秀が静かに言った。


「柴田殿は、これで若様を見る目を変えるでしょう」


「良い方にか」


「半分は」


「皆、その言い方が好きだな」


 次は林美作守だった。


 これは柴田より面倒だ。


 柴田は前に出て戦った。


 林美作守は、火種の周りにいた。


 名を騙る者を止めず、守山の件で傷を残し、今回も信勝を支えるという名目で兵を集めた。


 だが、あの男だけを斬れば済む話ではない。


 林一門がある。


 林秀貞がいる。


 古くからの織田家中の重みがある。


 ここで斬れば、家中の古い層が恐れる。


 許せば、また陰で動くかもしれない。


 俺は林美作守を呼び出した。


 美作守は青ざめた顔で現れた。


 戦の疲れだけではない。


 死を覚悟している顔だ。


「美作守」


「はっ」


「お前は、二度俺の前に出た」


「……はい」


「守山で名を騙る者を止めず、今日も勘十郎を旗に兵を集めた」


「申し開きもございませぬ」


「なら、首を出すか」


 美作守は震えた。


 柴田のように潔くはなかった。


 それが悪いとは言わない。


 死にたくないという気持ちは、自然だ。


 むしろ、すぐに首を差し出す者ばかりの方が世は危うい。


「私は」


「死にたくないか」


 美作守の顔が歪んだ。


「……はい」


 正直だった。


 俺は少し意外だった。


 もっと言い訳を並べるかと思った。


「なら、生きて恥をかけ」


 美作守が顔を上げた。


「え」


「死ねば楽だ。生きれば、今日の負けを背負うことになる」


 俺は言った。


「お前から守山道に関わる権をさらに取り上げる。しばらく城内での発言も制限する。林秀貞の監督下に置く。勝手に兵を集めれば、今度は斬る」


 美作守は震えながら頭を下げた。


「はっ」


「勘違いするな。許したのではない。お前の命を使う」


 美作守は声もなく頭を下げた。


 その姿は美しくなかった。


 だが、今日必要なのは美しさではない。


 生かして縛る。


 それが、今回の刃だ。


 最後に残ったのは、勘十郎だった。


 弟は、母のところにいた。


 土田御前が俺を呼んだのは、夕方だった。


 戦場の後始末を終え、城へ戻った直後だ。


 帰蝶が出迎えた。


 何も言わず、まず俺の顔を見た。


「戻った」


 俺が言うと、帰蝶は小さく頷いた。


「はい」


「飯は後で食う」


「すぐです」


「後で」


「すぐです」


「……分かった」


 恒興が横で少し笑った。


 俺は軽く睨んだが、帰蝶には逆らえなかった。


 少しだけ飯を腹に入れてから、母のもとへ向かった。


 廊下がやけに長い。


 戦場より長く感じた。


 弟と会う方が、柴田と向き合うより重いとは思わなかった。


 部屋に入ると、母が座っていた。


 その横に勘十郎がいた。


 衣は乱れていない。


 だが、顔は白い。


 目の下に疲れがある。


 負けた大将の顔ではない。


 兄に敗れた弟の顔だった。


 俺が座ると、母が静かに言った。


「信長」


「はい」


「勘十郎を、許してやってください」


 母はまっすぐだった。


 遠回しに言わない。


 夫を亡くし、傅役を失い、今度は息子同士の戦を見せられた女の言葉だった。


「母上」


「この子は、あなたを殺したかったのではありません」


「分かっています」


「家を守りたかったのです」


「分かっています」


「それでも、兵を動かしました」


「分かっています」


 母の声が少し震えた。


「ならば」


 俺は勘十郎を見た。


 弟は頭を下げている。


 深く。


 俺より美しく座る男が、今は畳に額を近づけている。


「勘十郎」


「はい」


「顔を上げろ」


 弟はゆっくり顔を上げた。


 目が赤い。


 泣いたのかもしれない。


「俺の文を読んだな」


「はい」


「止めようとしたか」


「しました」


「止められなかったか」


「はい」


 短い答え。


 言い訳をしない。


 それが余計に重い。


「兵を進めると決めたのは誰だ」


 勘十郎は少し黙った。


「最後に決めたのは、私です」


 母が息を呑んだ。


 勘十郎は続けた。


「周りに押されました。家中が乱れると言われました。兄上ではついていけぬ者が多いと言われました。ですが、最後に頷いたのは私です」


 俺は弟を見た。


 この答えを聞いて、胸の奥が痛んだ。


 逃げようと思えば逃げられる。


 周囲が勝手にした。


 止められなかった。


 そう言えばよかった。


 それでも十分、事実に近い。


 だが、勘十郎は最後の責を自分に置いた。


 こいつは、やはり父上の子だ。


「私を、処罰してください」


 勘十郎が言った。


 声は静かだった。


「私が立てば、また周りが動きます。兄上が私を許せば、兄上は甘いと言われるでしょう。私を斬れば、兄上は恐れられるでしょうが、家中はまとまるかもしれません」


 母の顔が青ざめた。


「勘十郎」


「母上、私は」


「黙りなさい」


 母の声は震えていたが、強かった。


 勘十郎は口を閉じた。


 俺は、弟の顔を見続けた。


「俺に斬られたいか」


 勘十郎は答えなかった。


「死にたいのか」


「……死にたくは、ありません」


「なら、軽々しく斬れと言うな」


 弟の目が揺れた。


「兄上」


「首を差し出せば、責を取った気になる。死ねば、そこでお前の苦しみは終わる」


 俺は声を抑えた。


「だが、残った者はどうする。母上は。お前を担いだ者たちは。お前を本当に案じた者たちは。俺は」


 勘十郎の目に涙が浮かんだ。


「兄上も、苦しまれるのですか」


「当たり前だ」


 母が目を伏せた。


「お前は俺を何だと思っている」


「兄上は、いつも遠くを見ておられるので」


「遠くを見る目にも、近くのものは刺さる」


 言ってから、自分で少し驚いた。


 こんな言葉が出るようになったのは、誰のせいだ。


 政秀か。


 帰蝶か。


 勘十郎自身か。


 きっと全部だ。


「勘十郎」


「はい」


「許す」


 母が息を止めた。


 勘十郎は、何かを聞き間違えたような顔をした。


「ただし、忘れぬ」


 俺は続けた。


「お前は兵を動かした。俺に背いた。織田を割りかけた。それは忘れぬ。お前も忘れるな」


「はい」


「お前の周りにいた者たちも忘れぬ。柴田も美作守も、それぞれに処した」


「柴田殿は」


「生かした」


 勘十郎の表情が変わった。


 安堵と驚きが混じっている。


「美作守も生かす。ただし縛る」


「そうですか」


「お前も生きて縛られろ」


「縛られる」


「そうだ。お前はこれから、俺の横に立つ。ただし、勝手に旗になるな」


 勘十郎は黙った。


「誰かがお前を旗にしようとしたら、折れ。自分で折れぬなら、俺を呼べ」


「兄上を」


「ああ」


「呼べば、兄上は」


「必要なら斬る」


 勘十郎は目を伏せた。


「だが、お前を斬らぬために行く」


 その言葉で、弟の顔が崩れた。


 静かに涙が落ちた。


 美しく座る男が、初めて少しだけ崩れた。


 母が袖で目を押さえた。


「兄上」


「何だ」


「私は、兄上を憎みたくありません」


「前にも聞いた」


「今も、そう思っています」


「俺もだ」


「けれど、また間違えるかもしれません」


「その時は止める」


「兄上も、間違えます」


「その時は止めろ」


 勘十郎は泣きながら、少しだけ笑った。


「兄上は、止まってくださいますか」


「たぶん」


「そこは、はいと言ってください」


「努力する」


「それも怪しいです」


 母が泣きながら少し笑った。


 その笑いで、部屋の空気が少しだけ緩んだ。


 だが、すべてが解けたわけではない。


 許した。


 それで終わりではない。


 許しは刃だ。


 俺は勘十郎を生かした。


 その代わり、弟の命を俺の責にした。


 次に弟の名で誰かが動けば、俺が止めねばならない。


 弟自身も、許された命を背負わねばならない。


 死ぬより重い時もある。


 それでも生かす。


 今は、それが織田を残す道だと思った。


 母の部屋を出ると、帰蝶が廊下で待っていた。


 偶然ではない。


 この女の偶然は、だいたい意図がある。


「許されたのですね」


「ああ」


「苦しそうなお顔です」


「許すのは楽ではないな」


「楽な許しは、たぶん忘れるためのものです」


「俺のは」


「覚えておくための許しでしょう」


 俺は帰蝶を見た。


 よく見ている。


 本当に。


「道三なら何と言う」


「甘い、と」


「だろうな」


「けれど、悪くないとも言うでしょう」


「半分か」


「はい」


 俺は少し笑った。


「皆、半分ばかりだ」


「生きていること自体、半分ずつなのかもしれません」


「難しいことを言う」


「父に似ました」


「それは認めるのか」


「嫌ですが」


 帰蝶の目元が少し緩んだ。


 俺は廊下の柱に手を置いた。


 体が重い。


 戦った疲れだけではない。


 勝ち、許し、生かし、縛る。


 その全部が体に乗っている。


「帰蝶」


「はい」


「飯は」


「用意してあります」


「やはり」


「今日は、食べてください」


「食う」


 今度は素直に言った。


 帰蝶が少し驚いた顔をする。


「何だ」


「いえ。素直でしたので」


「皆そればかり言う」


「よいことです」


「たぶんな」


 俺は歩き出した。


 稲生の戦は終わった。


 信勝を許した。


 柴田を生かした。


 林美作守を縛った。


 捕らえた者たちに飯を食わせた。


 それで、すべてが片づいたわけではない。


 むしろ、今日の許しが明日の火種になるかもしれない。


 甘いと見る者がいる。


 恐ろしいと見る者がいる。


 信長は人を生かして縛る、と見る者もいる。


 どれも間違いではない。


 俺自身、まだ自分のしたことが正しいか分からない。


 ただ、今はこうするしかなかった。


 斬ることだけが強さではない。


 許すことだけが優しさでもない。


 許すとは、相手を生かし、自分もその責を背負うことだ。


 それは刃だ。


 握れば、自分の手も切れる。


 俺の手は、もう少し血で濡れていた。


 敵の血だけではない。


 自分の内側から滲む血だ。


 それでも、握る。


 織田を残すために。


 父上の城を、俺の城にするために。


 うつけのまま、変わるために。

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