第17話 稲生、兄弟の戦
稲生へ向かう道は、やけに静かだった。
戦の朝だというのに、鳥の声がする。
土の匂いがする。
馬の鼻息が白くほどける。
兵たちの足音が、まだ湿り気を含んだ道を踏んでいく。
俺は馬上で、前を見ていた。
稲生。
今日、そこで織田が織田とぶつかる。
敵は今川ではない。
美濃でもない。
父上の仇でもない。
弟だ。
いや、正確には、弟を旗にした者たちだ。
そう言い聞かせた。
何度も。
だが、どれほど言い聞かせても、勘十郎が向こうにいる事実は消えなかった。
俺は弟を殺したいわけではない。
だが、戦場でその言葉はあまり役に立たない。
矢は、こちらの気持ちを読んで避けてはくれぬ。
槍は、兄弟の情に遠慮して止まってはくれぬ。
戦になれば、人が死ぬ。
その当たり前を、俺は今朝からずっと口の中で転がしていた。
苦い。
「若様」
横を進む恒興が声を低くした。
「前方に物見が戻ります」
馬を走らせてきた若い者が、泥を跳ね上げて膝をついた。
「申し上げます。敵勢、稲生付近に布陣。柴田殿の勢、前面に。林美作守様の勢はやや後ろにございます」
「柴田が前か」
「はっ」
思った通りだ。
柴田勝家は、前に出る。
あの男は、退いて策を弄するより、正面から押し潰す方を選ぶ。
厄介だが、分かりやすい。
分かりやすい者は、読める。
ただし、読めたからといって止められるとは限らない。
大岩が転がってくると分かっていても、足が遅ければ潰される。
「数は」
「こちらより多く見えます」
「だろうな」
兵の数で負ける。
それは最初から分かっていた。
だが、戦は数だけではない。
もちろん、数は大事だ。
数を軽んじる者は、たいてい早く死ぬ。
けれど、数の多い側ほど、時に動きが鈍る。
まして相手は寄せ集めだ。
信勝を支えたい者。
俺を嫌う者。
林の面目に引かれた者。
柴田の武に従う者。
父上の時代を守りたい者。
それぞれの心が、同じ方向を向いているとは限らない。
そこを突く。
「長秀」
「はい」
「林の勢は、柴田ほど前へ出ていないな」
「はい。美作守様の性格なら、まず柴田殿の働きを見るはずです」
「なら、そこが割れ目だ」
長秀は地図をたたみ、俺を見た。
「柴田殿を正面から受け止めつつ、林勢の足を止める」
「そうだ」
「簡単ではありません」
「簡単なら、お前の出番がない」
「最近、難しいことばかり回ってきます」
「出世だ」
「命が先に減りそうです」
その言い方に、ほんの少しだけ兵たちの緊張が緩んだ。
長秀は狙って言ったのかもしれない。
地味だが、よい。
俺は振り返り、兵たちを見た。
顔は硬い。
当然だ。
これからぶつかる相手は、昨日まで同じ織田の名を背負っていた者たちだ。
知った顔もいるだろう。
同じ釜の飯を食った者もいるだろう。
その相手へ槍を向ける。
気持ちのよい戦など、この世にない。
だが、今日の戦はとりわけまずい。
腹の底に、砂を噛むような嫌な味が残る。
「聞け」
俺は声を張った。
兵たちが顔を上げる。
「向こうには、柴田がいる。強い。正面から当たれば、簡単には崩れぬ」
ざわめきかけた気配を、俺は声で押さえた。
「だから、勝つ」
兵たちの目が変わる。
「強いところを強いまま受けるな。柴田を止め、林を揺らす。向こうは数で勝っていると思っている。ならば、その数が一つに動かぬうちに崩す」
犬千代が槍を握っている。
目が燃えていた。
あれは放っておくと柴田へ突っ込む目だ。
「犬千代」
「はっ」
「柴田へ勝手に行くな」
「……はっ」
少し遅れた。
やはり行く気だったな。
「お前の役は、前へ出すぎた敵の脇を叩くことだ。大将首を夢見るな」
「しかし」
「今日の手柄は、首の数ではない」
犬千代は唇を噛んだ。
「では、何でございますか」
「俺の命令通りに動き、味方を死なせすぎず、敵を崩すことだ」
犬千代は一瞬、納得できない顔をした。
若い武士にとって、手柄とは分かりやすいものだ。
首。
名乗り。
一番槍。
そういうものが血を熱くする。
だが、今日欲しいのは熱ではない。
熱くなりすぎた者から死ぬ。
「犬千代」
「はっ」
「難しいことをしろ」
その一言で、犬千代の顔が変わった。
「承知しました」
やはり、こいつは難しいと言われると乗る。
覚えておこう。
やがて、敵勢が見えた。
稲生の野に、旗が並んでいる。
風に揺れる旗。
その中に、見慣れた紋がある。
同じ織田の色。
それが、胸に嫌な重さを置いた。
向こうの前面に、柴田勝家の勢がある。
遠目でも分かる。
旗の立ち方が違う。
兵の姿勢が違う。
柴田のいるところだけ、地面が少し硬くなったように見える。
あの男は、強い。
それは認めねばならない。
認めた上で、勝たねばならない。
「兄上」
風の中で、聞こえた気がした。
もちろん、勘十郎の声ではない。
距離がある。
だが、あいつの顔が思い浮かんだ。
美しく座る弟。
父の名を守りたい弟。
俺を憎みたくないと言った弟。
今、あいつは向こう側にいる。
自分の意志だけで立ったのか。
周りに押し上げられたのか。
たぶん両方だ。
人の行動に、理由が一つだけということは少ない。
俺が抹香を投げた時と同じだ。
怒り。
悲しみ。
計算。
癇癪。
全部混ざっていた。
勘十郎も、今きっと混ざっている。
家を守りたい。
俺を止めたい。
家臣を見捨てられない。
父上の名を汚したくない。
そして、おそらく少しは、俺への悔しさもある。
それでいい。
人は綺麗な理由だけで戦場には立たない。
太鼓が鳴った。
向こうが動く。
柴田勢が前へ出た。
思ったより早い。
こちらの準備を待たず、力で潰すつもりだ。
「来るぞ」
俺が言うと、恒興が叫んだ。
「構え!」
槍が上がる。
足が土を踏む。
最初の矢が飛んだ。
ひゅっと空を裂く音。
直後に、誰かの悲鳴。
戦が始まった。
柴田勢の押しは強かった。
正面から来る。
迷いがない。
先頭の兵たちは、こちらを同じ織田とは見ていない。
敵として来ている。
柴田がそうさせている。
よい大将だ。
だから厄介だ。
「下がりすぎるな! 受けて流せ!」
俺は叫んだ。
槍がぶつかる音。
木の柄が軋む音。
甲冑に刃が当たる鈍い音。
馬の嘶き。
人の怒号。
戦場は、思っていたより狭い。
地図で見た時は広く見えた稲生の野が、人と槍で一瞬にして狭くなる。
空まで低くなる。
犬千代が前へ出かけた。
「犬千代!」
俺の声に、犬千代は踏みとどまった。
踏みとどまった上で、横へ走った。
よし。
ただ止まったのではない。
役を思い出した。
犬千代は柴田勢の脇へ回り、突出した数人を叩いた。
斬るというより、崩す。
槍の柄で打ち、足を払う。
よくやっている。
正面の柴田を崩すには足りない。
だが、柴田勢の前進の形が少し乱れた。
「今だ、長秀!」
「はい!」
長秀が用意していた小勢を動かす。
狙うのは林美作守の勢だ。
林勢は前に出すぎていない。
だが、柴田が押している間に勝ち馬へ乗ろうと構えていた。
そこへ、こちらの小勢が横から圧をかけた。
大きな攻撃ではない。
だが、揺らすには十分だった。
林勢の旗がわずかに乱れる。
美作守は、すぐには踏ん張れない。
守山の件で面目を傷つけられた者たちを集めている。
怒りはある。
だが、怒りだけで兵は一つにならぬ。
そこへ、長秀が声を張った。
「織田の名を騙り、道を止めた者ども! まだ名を盗むか!」
戦場に帳面の言葉を持ち込む男は珍しい。
だが、その珍しさが効いた。
林勢の一部が動きを止める。
名を騙ったこと。
守山の補償。
市助の処罰。
その記憶が、兵の足に絡んだ。
戦場で人が止まる理由は、恐怖だけではない。
後ろめたさでも止まる。
「卑怯な!」
林勢の中から怒号が上がる。
そうだ。
怒れ。
怒る者は、怒りの方向を一つにできぬ時、勝手に乱れる。
俺は柴田勢の方を見た。
柴田が気づいた。
こちらの狙いが林にあると。
さすがに早い。
柴田勢の圧がさらに増す。
正面を突破して、こちらの本陣へ迫るつもりだ。
俺の周囲の兵が揺れた。
「退くな!」
恒興が叫ぶ。
俺は馬を前へ出した。
「若様!」
恒興が止めようとする。
「下がれば終わる」
俺は前へ出た。
矢が横を抜けた。
頬に風が触れる。
怖くないわけがない。
怖い。
怖いが、今ここで後ろへ下がれば、兵の腹に恐怖が落ちる。
俺が前へ出すぎても危うい。
だが、ここは出る。
出ねばならない場所だ。
政秀。
これは感情ではない。
必要だから出る。
そうだろう。
たぶん。
柴田の姿が見えた。
距離がある。
それでも目が合った気がした。
あの男は、俺を見ている。
怒り。
疑い。
そして、どこかに悲しみ。
柴田もまた、好きで織田を割っているわけではないのだろう。
だからどうした。
戦場で、相手の事情に同情して槍を下ろせば、こちらが死ぬ。
「柴田!」
俺は叫んだ。
声が届いたかどうかは分からない。
だが、柴田の旗がわずかに動いた。
「お前の武で、織田の道を塞ぐな!」
何を言っているのか、自分でも一瞬思った。
戦場で道の話か。
だが、俺にはそれしかなかった。
米。
道。
名。
それを守るために来た。
ならば、その言葉で叫ぶしかない。
柴田勢の押しは止まらない。
だが、一瞬だけ、前列の動きに乱れが出た。
その一瞬に、犬千代が飛び込んだ。
「おおおっ!」
やはり行った。
柴田本人へではない。
柴田勢の前へ出すぎた小隊へだ。
槍を叩き、体ごとぶつかり、相手を崩す。
無茶だ。
だが、今の無茶は必要な無茶だ。
「続け!」
恒興が兵を押し出した。
こちらの正面が一歩前へ出る。
柴田勢の勢いが、ほんの少し鈍った。
その間に、長秀の小勢が林勢の旗元をさらに揺らす。
林美作守の周辺で、兵が後ろを見る。
前ではなく後ろを見る。
戦場で後ろを見る兵は、もう半分崩れている。
「林が揺れた!」
誰かが叫んだ。
その声は、こちらの兵を強くした。
逆に、向こうの兵を不安にした。
柴田勢はまだ強い。
だが、後ろが揺れれば、前は孤立を恐れる。
柴田は孤立を恐れぬかもしれない。
しかし兵は恐れる。
そこへ、佐久間が動いた。
慎重な男らしく、今まで溜めていた小勢を、林勢と柴田勢の間へ差し込んだ。
遅い。
だが、遅いからこそ今効く。
早ければ柴田に潰されていた。
佐久間の兵が間に入ることで、柴田と林の連なりが細くなる。
「よし」
俺は息を吐いた。
まだ勝ったわけではない。
だが、形が見えた。
柴田を討つ必要はない。
柴田を孤立させ、林を崩す。
そうすれば、向こうの「信勝を支える」という大義は足元から揺れる。
なぜなら、信勝自身は前に出ていない。
旗として立てられているだけだ。
旗を支える者たちが崩れれば、旗は風に晒される。
俺はその時、遠くに勘十郎の旗を見た。
胸が詰まった。
あそこに弟がいる。
おそらく、この乱れを見ている。
何を思っている。
兄上、止めてくださいか。
兄上、なぜここまでか。
それとも、兄上、やはりあなたは恐ろしいか。
分からない。
だが、今は考えるな。
考えすぎれば、手が止まる。
手が止まれば、人が死ぬ。
「押せ!」
俺は叫んだ。
「林を崩せ! 柴田を囲むな、押し離せ!」
囲めば柴田は死力を尽くす。
押し離せば、退く道が見える。
退く道が見えた兵は、そこへ流れる。
皆が死にたいわけではない。
武士は勇ましい顔をする。
だが、兵の多くは生きて帰りたい。
それでよい。
生きて帰りたい者に、退く方向を見せれば戦は終わる。
犬千代が叫んでいる。
恒興が兵をまとめる。
長秀が声を張り上げ、林勢の動きを読む。
佐久間の小勢がじわじわと間を割る。
こちらも傷ついている。
倒れる者がいる。
血が土に染みる。
悲鳴が聞こえる。
これは勝っている景色ではない。
人が死ぬ景色だ。
だが、戦は進む。
やがて、林勢の一角が崩れた。
小さな崩れだった。
しかし、一角が崩れると、隣が迷う。
隣が迷うと、そのまた隣が動きを止める。
そこへこちらの兵が押し込む。
林美作守の旗が下がった。
「林が下がる!」
声が広がった。
これで決まった。
柴田勢はまだ強い。
だが、戦場全体の流れは変わった。
柴田勝家は、それを見誤る男ではなかった。
あの男は退き時を知っている。
怒りで突き進むだけなら、ここで討てたかもしれない。
だが、柴田は兵をまとめながら退き始めた。
見事だった。
悔しいほどに。
敵として見るなら、厄介。
味方として見るなら、得がたい。
なら、殺すな。
俺は即座に叫んだ。
「柴田を深追いするな!」
犬千代が反応した。
ほんの一瞬、追いたそうな顔をした。
だが止まった。
えらい。
後で褒める。
いや、褒めると調子に乗るか。
それでも褒めるべきだ。
「追うな! 崩れた者だけ押さえろ!」
戦場は、勝ち始めた時が一番危うい。
追いたくなる。
首が欲しくなる。
相手を完全に潰したくなる。
だが、今日それをすれば、織田家は戻れないところまで割れる。
勝て。
だが、殺しすぎるな。
言うのは簡単だ。
実際には難しい。
血が上がった兵に、止まれと言うのは、走る馬に耳打ちするようなものだ。
それでも止める。
止めなければならない。
戦は、やがて終わった。
完全な沈黙ではない。
呻き声。
馬の荒い息。
逃げる足音。
勝った者の荒い呼吸。
負けた者のすすり泣き。
稲生の野は、朝の静けさとは別の顔になっていた。
土は踏み荒らされ、草は倒れ、血がところどころ黒くなり始めている。
俺は馬上から、それを見た。
勝った。
勝ったのだ。
だが、胸は軽くならなかった。
勝てば楽になると思っていたわけではない。
それでも、勝った瞬間に何かが晴れることを、心のどこかで期待していたのかもしれない。
晴れない。
むしろ、空は低くなった。
「若様」
恒興が来た。
顔に泥がついている。
「勝ちました」
「ああ」
「こちらの損害は、今まとめています」
「長秀に」
「はい」
長秀はすでに動いていた。
怪我人を分け、討死の名を拾い、捕らえた者を集めている。
こういう時の長秀は、本当に早い。
犬千代が戻ってきた。
肩で息をしている。
頬の傷が少し開いていた。
「若様!」
「勝手に柴田へ突っ込まなかったな」
犬千代は目を輝かせた。
「はい!」
「よくやった」
犬千代は、まるで首を三つ取ったかのような顔をした。
単純だ。
だが、こういう単純さに救われることもある。
「しかし、柴田殿は強うございました」
「ああ」
「追えば」
「駄目だ」
「分かっております」
「本当に?」
「……半分は」
「正直でよい」
俺は遠くを見た。
勘十郎の旗は、もう下がっていた。
捕らえられたわけではない。
退いたのだろう。
俺は胸の奥で息を吐いた。
生きている。
たぶん。
そのことに安堵した自分がいた。
同時に、まだ終わっていないと分かる自分もいた。
戦に勝った。
だが、兄弟の問題は終わらない。
むしろ、これからだ。
敗れた弟をどう扱うか。
柴田をどう扱うか。
林をどう扱うか。
殺すのか。
許すのか。
許せば甘いと言われる。
殺せば血が残る。
どちらも正しい。
どちらも間違う。
その中で決めねばならない。
嫌な仕事だ。
主とは、嫌な仕事の集まりだ。
「若君」
佐久間が来た。
「敵は退きました。深追いは止めております」
「よい」
「捕らえた者たちは」
「分けろ。名を聞け。誰の下か。なぜ来たか。傷のある者は先に手当てしろ」
「敵も、でございますか」
「同じ織田だ」
佐久間は少しだけ目を伏せた。
「承知いたしました」
その言葉に、俺は自分で救われた気がした。
同じ織田。
そうだ。
敵ではあった。
だが、外敵ではない。
今日殺し合った相手も、昨日までは同じ家の者だった。
それを忘れれば、勝った後に国が残らない。
俺は馬を降りた。
土に足をつける。
ぬかるみではない。
だが、血で少し滑った。
嫌な感触だった。
俺はその場で一度、深く息を吸った。
鉄の匂い。
血の匂い。
汗の匂い。
折れた草の匂い。
勝利の匂いというものがあるなら、きっとこういうものだ。
美しくはない。
ただ、生臭い。
俺は歩いた。
倒れた者たちの間を。
味方も敵もいる。
顔を知っている者もいた。
名前までは知らないが、城で見たことがある者もいた。
そのたびに胸が重くなる。
だが、目を逸らさなかった。
政秀。
見ているぞ。
人の痛みを見落とすなと言ったな。
見ている。
見ているからといって、死んだ者が戻るわけではない。
それでも見る。
一人の若い兵が、腹を押さえて倒れていた。
向こう側の兵だ。
俺を見ると、怯えた。
「殺さぬ」
俺は言った。
兵は目を見開いた。
「名は」
兵は震えながら答えた。
聞いたことのない名だった。
俺は近くの者に手当てを命じた。
その兵は泣きそうな顔で、何度も頭を下げようとした。
「動くな。傷が開く」
そう言って立ち上がる。
その時、遠くから馬の音がした。
使いだ。
緊張が走る。
敵か。
味方か。
馬を走らせてきたのは、津々木蔵人だった。
泥まみれで、顔色が悪い。
だが、無事だった。
「若君!」
「勘十郎は」
俺は先に聞いた。
津々木は馬から転がるように降り、膝をついた。
「信勝様は、ご無事にございます」
胸の奥の何かが、少しだけ緩んだ。
「そうか」
「ただ……」
「ただ?」
「信勝様は、敗北を認めておられます。されど、周囲の者たちはまだ……」
「分かっている」
負けを認める者。
認められない者。
敗戦後の方が厄介だ。
戦場で負けた者は、城へ戻って言い訳を探す。
誰が悪かった。
誰が裏切った。
誰が止めた。
そうしてまた火種を作る。
「津々木」
「はっ」
「勘十郎に伝えろ」
津々木は顔を上げた。
「まず、生きて戻れ。話はそれからだ」
「それだけで」
「それだけだ」
津々木は泣きそうな顔をした。
「承知いたしました」
「それと」
「はい」
「お前も生きて戻れ。死んで伝えるな」
津々木は一瞬、意味を測った。
それから深く頭を下げた。
「はい」
津々木が去る。
俺は稲生の野を見渡した。
勝った。
それは間違いない。
だが、今日の勝ちは始まりだ。
勝った後の処理で、勝利は毒にも薬にもなる。
柴田をどうする。
林をどうする。
勘十郎をどうする。
母上は何と言う。
帰蝶はどう見る。
道三は何を読む。
今川はどう動く。
町はどう受け取る。
長秀の帳面には、また名が増える。
死んだ者の名。
怪我をした者の名。
逃げた者の名。
捕らえた者の名。
名は重い。
今日、その重さを嫌というほど知った。
「若様」
恒興が横に立った。
「戻られますか」
「まだだ」
「何を」
「見る」
恒興は何も言わなかった。
俺は戦場を歩いた。
勝った側の大将としてではない。
父上の城を継ぐ者として。
政秀に足を止められた者として。
弟と戦ってしまった兄として。
全部を混ぜたまま、歩いた。
うつけと呼ばれた俺は、天下を壊したかったわけではない。
けれど今日、俺は確かに一つ壊した。
父上の死後、かろうじて残っていた兄弟の静けさを。
織田家がまだ一つだと信じたい者たちの夢を。
そして、自分の中にあった甘さを。
壊した以上、組み直さねばならない。
それができなければ、俺はただの破壊者だ。
魔王でも何でもない。
ただの愚か者だ。
俺は稲生の野に立ち、遠くの空を見た。
朝はもう過ぎ、光は少し高くなっていた。
その光の下で、血の色はやけにはっきり見えた。
俺は目を逸らさなかった。




