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第16話 稲生の前夜

 火種は、消えたふりがうまい。


 灰をかぶり、音を潜め、誰も見ていないところで赤く残る。


 そして、人が安心した頃に風を食う。


 林美作守の周囲で起きた小さな集まりは、最初はただの不満に見えた。


 守山の件で面目を潰された。


 信長様は帳面で人を裁く。


 武家の面目より町人の荷を重んじる。


 勘十郎様なら、家中をもっと穏やかにまとめられる。


 そういう声だ。


 珍しいものではない。


 父上が死に、政秀が死に、俺が抹香を投げ、道三と会った。


 城の中も外も、落ち着いている方がおかしい。


 だから最初、俺はその声を帳面の中の一行として見ていた。


 だが、帳面の一行は、やがて人の足音になった。


「若様」


 長秀が夜更けに来た。


 顔を見ただけで、よい知らせではないと分かった。


「言え」


「林美作守様の屋敷に、兵が集まり始めています」


「数は」


「まだ多くはありません。ただ、守山道の件で罰を受けた者たち、その縁者、さらに信勝様をお支えすべきだと申す者たちが」


「勘十郎は」


「おそらく、まだ表には」


「まだ、か」


「はい」


 長秀は、はっきりそう言った。


 ありがたい男だ。


 嫌なことを、嫌なまま出してくる。


「津々木は」


「信勝様のもとにおります。こちらへ報せを寄越したのも、津々木殿です」


「つまり、勘十郎は少なくとも知った」


「はい」


 俺は立ち上がった。


 部屋の空気が重い。


 灯火の揺れが、やけに大きく見える。


「勘十郎は止めているか」


「止めようとしている、と」


「止まるか」


 長秀は答えなかった。


 それが答えだった。


 人は、止まろうとしている者を担ぐ時がある。


 本人が嫌がっても、周りが言う。


 あなたしかいない。


 あなたが立たねば家が壊れる。


 あなたが動かぬから、我らが動くのだ。


 そうやって、逃げ道をふさいでいく。


 担がれる者は、自分が選んだのか、選ばされたのか分からなくなる。


 分からなくなった時には、もう旗の前に立たされている。


「恒興を呼べ。犬千代も。佐久間にも知らせろ」


「柴田殿は」


 長秀の声が少し沈んだ。


 俺は、その名が出るのを待っていた。


「柴田は、どこだ」


「守山の件以降、信勝様のもとへ何度か足を運んでいるとのこと」


「そうか」


「若様」


「言え」


「柴田殿は、信勝様側に立つかもしれません」


 その言葉は、思ったより胸に重く落ちた。


 柴田勝家。


 剛直で、怒りを隠すのが下手で、父上を敬っていた男。


 俺の抹香を許していない男。


 だが、守山の評定では俺の言葉を聞いた。


 斬れば早いが、名は残る。


 そう言った。


 あの男は、ただの猪ではない。


 だからこそ、敵に回れば厄介だ。


「分かっている」


 俺は言った。


「柴田は、勘十郎の方が家中をまとめると思えば、そちらへ行く」


「止めますか」


「どうやって」


 長秀は黙った。


「呼びつけて問い詰めれば、答えを急がせる。疑っていると見せれば、向こうへ押し出す。今は見る」


「見るだけでは、遅れるかもしれません」


「ああ」


 俺は頷いた。


「だから、備える」


 その夜、城の中で人を静かに動かした。


 静かに、というのが難しい。


 人を動かせば音が出る。


 音が出れば、誰かが聞く。


 誰かが聞けば、噂になる。


 だから、急ぎすぎてもいけない。


 遅すぎてもいけない。


 刃の上を歩くようなものだ。


 恒興はすぐ来た。


 犬千代はなぜか槍を持ってきた。


「まだ戦と決まったわけではない」


 俺が言うと、犬千代は真顔で答えた。


「決まってから取りに行くと遅れます」


「それはそうだ」


 恒興が小声で言う。


「若様、そこは叱るところでは」


「正しい時は叱りにくい」


「犬千代が正しいと、なんか悔しいですね」


「おい、恒興」


 犬千代が睨む。


 俺は手を上げて止めた。


「二人とも、今夜は口より耳を使え」


「耳ですか」


 犬千代が嫌そうな顔をした。


「正徳寺で学んだだろう」


「耳の戦は疲れます」


「今夜は疲れろ」


「承知しました」


 佐久間信盛は、遅れて来た。


 遅いと言うより、慎重に来た。


 この男はいつもそうだ。


 だが、こういう夜にはその慎重さが役に立つ。


「若君」


「兵の数は」


「こちらで確かに動かせる者は、すぐには多くございません。お屋形様の喪もあり、守山の件もあり、皆が様子を見ております」


「向こうは」


「林美作守様の周辺に集まっている兵は増えております。柴田殿が動けば、さらに」


「柴田はまだ動いていないか」


「表向きは」


「表向きは、か」


 皆、同じ言い方になる。


 表向き。


 まだ。


 おそらく。


 たぶん。


 戦の前とは、断言できない言葉が増えるものらしい。


「若君」


 佐久間は低く言った。


「今なら、林美作守様を呼び出し、先に押さえる手もございます」


「押さえれば、勘十郎はどうなる」


「……信勝様は、若君が先に兵を動かしたと見るかもしれません」


「家中もそう見る」


「はい」


「なら駄目だ」


 俺は地図を広げた。


 尾張の地図。


 父上の書付と、長秀の帳面と、ここ数日の報を合わせたものだ。


 道。


 屋敷。


 兵の集まり。


 米の蔵。


 湊。


 寺。


 名が流れた場所。


 小さな印がいくつもある。


 国とは、こうして見ると傷だらけだ。


「向こうが先に動くなら、場所はどこだ」


 佐久間が指を置く。


「稲生のあたりが」


「なぜ」


「こちらの動きを探りながら兵を出すには、開けた場所が要ります。守山からの流れも拾える。林の者も動きやすい」


 長秀も頷いた。


「荷の道とも近いです。馬借の話では、ここ数日、そのあたりで不審な動きが増えています」


「犬千代」


「はっ」


「お前なら、そこで戦うか」


 犬千代は地図を見た。


 難しい顔をする。


 たぶん、地図を読むのは得意ではない。


 だが、戦場の匂いには鋭い。


「伏せる場所は少ないです。正面からぶつかるなら、気合がいるかと」


「気合だけで勝てるか」


「勝てませぬ」


 犬千代が即答したので、少し驚いた。


「前は気合と言いそうだったが」


「若様が、腹が減ると槍が重くなるとおっしゃったので」


「覚えていたか」


「はい。悔しいですが、たしかに腹が減ると槍は重いです」


 恒興が笑いそうになったが、場の重さに耐えてこらえた。


「ならば、兵糧は」


 俺が言うと、長秀がすぐ答えた。


「こちらは少数なら動かせます。長引くと不利です」


「長引かせぬ」


 口にした瞬間、自分の声が冷えた。


 部屋の空気も少し冷えた。


 長引けば、家中が割れる。


 町が不安になる。


 今川が笑う。


 美濃も測る。


 尾張の小さな内輪揉めで済まなくなる。


「若君」


 佐久間が慎重に言った。


「信勝様へ、最後に文を出されては」


「出す」


 俺は即答した。


 文はもう半分考えていた。


 弟へ。


 今ならまだ止められる。


 お前の名を使う者を引け。


 林美作守を止めろ。


 柴田を止めろ。


 俺もこちらの者を抑える。


 そう書く。


 だが、それだけでは足りない。


 弟は、ただ命令すれば動く男ではない。


 信勝にも面目がある。


 信勝を支える者たちにも面目がある。


 その面目を全て踏めば、かえって兵は動く。


 言葉を選ばねばならない。


 俺は筆を取った。


 書き始める。


 勘十郎。


 お前は間違っていない。


 この一文を書いて、筆が止まった。


 自分でも、なぜそこから書いたのか分からなかった。


 だが、消さなかった。


 続ける。


 家中を案じること。


 父上の名を守ろうとすること。


 母上を悲しませまいとすること。


 いずれも間違っていない。


 されど、お前の名で人が動き、道が詰まり、兵が集まれば、それはお前の望みでなくともお前の責となる。


 俺の名でも同じことだ。


 互いの名を盗ませぬと約したはずだ。


 今ならまだ、止められる。


 お前が止めよ。


 俺も止める。


 それでも止まらぬ者は、織田の名を乱す者として扱う。


 俺はお前を敵にしたくない。


 だが、織田を割る者を見逃すこともできない。


 兄としてではなく、父上の跡を継ぐ者として書く。


 返答を待つ。


 俺は筆を置いた。


 短くはない。


 だが、これ以上削ると心が消える。


 これ以上足すと弱くなる。


「届けろ」


 津々木に届けさせるべきか、一瞬迷った。


 だが、津々木は信勝側の者だ。


 今、こちらの文を持たせれば、立場を割る。


 俺は恒興を見た。


「恒興」


「はい」


「お前が行け」


「私が」


「お前なら、勘十郎も会う」


「分かりました」


「ただし、挑発に乗るな」


「誰のですか」


「全員のだ」


 恒興は困った顔をした。


「それは難しいですね」


「だから頼む」


 恒興は少し背筋を伸ばした。


「承知しました」


 文を持って出ていく恒興の背を見送りながら、俺は思った。


 これで止まればよい。


 本当にそう思った。


 だが、心のどこかで分かっていた。


 たぶん、止まらない。


 すでに動き始めたものは、言葉だけでは止まらない。


 なぜなら、勘十郎が止まりたくても、周りが止めさせないからだ。


 俺が文を出せば、その文もまた使われる。


 信長様は恐れている。


 信長様は信勝様を押さえつけようとしている。


 信長様は兄弟の情を盾にしている。


 どんな言葉でも、都合よく読める。


 人は、自分の欲に合う読み方をする。


 それでも、出さないわけにはいかなかった。


 後で、自分に言い訳しないためにも。


 日が落ちた。


 城の中の灯が増える。


 夜の城は、昼より嘘が濃い。


 誰がどこへ行ったか。


 誰と誰が小声で話したか。


 誰が急に黙ったか。


 そういうものが、灯の陰で増える。


 帰蝶が来たのは、そんな時だった。


「信長様」


「飯なら食っていない」


「まだ何も申し上げておりません」


「言う前に答えた」


「では、召し上がってください」


「後で」


「その後では遅いです」


 帰蝶は膳を持たせていた。


 こういうところは容赦がない。


 俺は抵抗する気力もなく、粥を口に入れた。


 味はほとんど分からない。


「文は出されたのですね」


「ああ」


「止まると思われますか」


「思いたい」


「思いたい、ですか」


「止まらぬと思っている」


 帰蝶は黙った。


 俺は粥を飲み込んだ。


「勘十郎は止める。だが、周りが止まらぬ」


「信勝様は、それを背負うでしょう」


「背負えば、あいつは旗になる」


「はい」


「旗になれば、俺はその旗を倒さねばならぬ」


 帰蝶の顔が少し硬くなった。


「信勝様を?」


「旗をだ」


「旗の下に、信勝様がおられます」


「分かっている」


 声が荒くなった。


 帰蝶は目を逸らさない。


「分かっているから、腹が立つ」


「誰に」


「全部に」


 帰蝶は静かに座った。


「平手様なら、今、何とおっしゃるでしょう」


「飯を食え」


「それは私が言いました」


「では、姿を整えよ」


「それも言いそうですね」


「それから、若、弟君を斬る前に弟君の顔を見よ、と」


 口にして、胸が痛んだ。


 帰蝶は何も言わなかった。


 俺は続けた。


「父上なら、必要なら泣いても斬れと言う」


「道三なら」


「殺しは道具だ。性分にするな」


「では、信長様は?」


 帰蝶の問いは静かだった。


 俺は椀を置いた。


「俺は」


 言葉が出なかった。


 俺は何と言う。


 弟を殺したくない。


 そんなことは当たり前だ。


 だが、当たり前の情だけで家は保てない。


 織田を割る者を見逃せない。


 それも当たり前だ。


 当たり前同士がぶつかっている。


 だから苦しい。


「俺は、まだ斬らずに済む道を見る」


 俺はようやく言った。


「それでも駄目なら?」


「その時に決める」


「逃げていますか」


「半分は」


「もう半分は」


「今決めれば、目が曇る」


 帰蝶は小さく頷いた。


「なら、今夜は目を曇らせないよう、少しでも休んでください」


「休めると思うか」


「思いません」


「なら」


「それでも横になってください」


 この女は、時々政秀より厳しい。


「帰蝶」


「はい」


「もし戦になれば、お前はどう見る」


「斎藤の娘としてですか。織田の妻としてですか」


「両方だ」


「斎藤の娘としてなら、尾張が割れることを恐れます。今川が見ているでしょうから」


「妻としては」


 帰蝶は少し黙った。


「あなたが、必要以上に自分を削ることを恐れます」


「俺自身か」


「はい」


「敵より先に俺を心配するのか」


「妻ですので」


 軽く言ったわけではない。


 その言葉は、静かに俺の中へ入った。


「そうか」


「はい」


「なら、少しだけ横になる」


「少しではなく」


「そこは譲れ」


「では、少しから」


 俺は横になった。


 眠れるはずがないと思った。


 だが、いつの間にか浅く眠っていたらしい。


 夢の中で、父上がいた。


 政秀もいた。


 二人とも何も言わない。


 ただ俺を見ている。


 俺は怒鳴ろうとした。


 何か言え、と。


 だが、声が出なかった。


 目が覚めた時、部屋の外が騒がしかった。


 恒興が戻っていた。


 夜は深い。


 それでも城の空気が明らかに変わっている。


 俺は起き上がった。


 帰蝶はまだ部屋にいた。


 どうやら、俺が眠っている間も控えていたらしい。


「恒興を」


「すでに」


 襖が開き、恒興が入ってきた。


 顔に疲れがある。


 だが、怪我はない。


「若様」


「勘十郎は」


「文はお読みになりました」


「返事は」


 恒興は唇を噛んだ。


「止めたい、と」


「本人はそう言ったか」


「はい」


「だが」


「林美作守様、柴田殿、その周辺の者たちがすでに兵をまとめています。信勝様が今下がれば、信勝様の名が地に落ちると」


「誰が言った」


「林美作守様の側の者です。柴田殿は多くは語りませんでしたが、信勝様をお守りする、と」


 柴田。


 やはり行ったか。


「勘十郎自身は何と言った」


「兄上に背きたいのではない。ただ、このままでは家中が割れる。兄上のやり方では、ついていけぬ者が多すぎる、と」


 恒興の声が沈む。


「そして……明朝、兵を進めると」


 部屋が静まり返った。


 分かっていた。


 分かっていたはずだ。


 それでも、言葉として聞くと、胸の底が冷える。


「そうか」


 俺は立ち上がった。


 眠ったせいか、頭は妙に澄んでいた。


 悪い澄み方だ。


 余計なものが落ち、必要なものだけが残る。


 人はこういう時、冷たくなる。


 冷たさを自分の強さと勘違いすると、たぶん壊れる。


 政秀。


 分かっている。


 これは強さではない。


 ただ、そうしなければ立っていられぬだけだ。


「兵を集める」


 俺は言った。


 恒興が頭を下げる。


 帰蝶は、静かに立っていた。


「信長様」


「何だ」


「お顔を」


「顔?」


「少し、怖すぎます」


 俺は一瞬黙った。


 それから、深く息を吸った。


 吐く。


 もう一度。


 帰蝶は俺の前に立ち、衣の乱れを直した。


 妻の手だった。


 しかし、戦へ向かう者の姿を整える手でもあった。


「整いました」


「政秀みたいだな」


「光栄です」


 俺は小さく笑った。


 笑えたことに、自分で少し驚いた。


 外へ出ると、城はもう動いていた。


 恒興が走る。


 長秀が兵糧と道を確認する。


 犬千代は槍を持ち、今度は誰にも止められなかった。


 佐久間が兵の集まりを告げる。


 数は多くない。


 向こうより不利だろう。


 だが、こちらは動きを絞れる。


 長引かせない。


 そこだけは決めている。


 夜明け前、俺は庭に出た。


 空はまだ暗い。


 東の端だけが少し白い。


 この時間の城は、死者と生者の境目のようだ。


 父上がいない。


 政秀がいない。


 だが、俺はいる。


 勘十郎もいる。


 だから、戦になる。


 生きている者同士が、同じ家の中で違う正しさを持った。


 それだけで、戦になる。


 嫌な世だ。


 だが、この世を嫌だと言って座り込めば、誰かに踏まれる。


 長秀が地図を持ってきた。


「若様」


「稲生だな」


「はい」


「向こうの数は」


「こちらより多いと見てよろしいかと」


「柴田がいるなら、正面は強い」


「はい」


「なら、崩す場所は柴田ではない」


 長秀は頷いた。


「林美作守様の側を」


「そこが揺れれば、柴田も動きを変えざるを得ない」


「犬千代殿には」


「勝手に柴田へ突っ込むなと言え」


「すでに三度言いました」


「もう一度言え」


「承知しました」


 長秀が去る。


 恒興が来る。


「若様、兵が整いました」


「顔は」


「皆、緊張しています」


「怯えているか」


「半分は」


「正直だな」


「若様の周りにいると、正直に言わないと後が怖いので」


「よいことだ」


 俺は兵たちの前に出た。


 数は多くない。


 顔も強張っている。


 俺を信じ切っている者ばかりではない。


 中には、なぜ兄弟で戦わねばならぬのかと思っている者もいるだろう。


 当然だ。


 俺も思っている。


 だが、思っていても戦は来る。


「聞け」


 俺は声を張った。


 夜明け前の空気に、声がよく通った。


「これは兄弟喧嘩ではない」


 兵たちが顔を上げる。


「俺は勘十郎を殺したいのではない。だが、勘十郎の名を担ぎ、織田を割ろうとする者たちは、俺を殺す気でいる」


 自分で言いながら、胸が痛んだ。


 だが、言わねばならない。


「向こうにも、織田を守りたいと思う者はいる。父上の名を守りたいと思う者もいる。すべてが悪人ではない」


 兵たちがざわめきかける。


 俺は続けた。


「だからこそ厄介だ。間違っている者だけを斬る戦なら楽だ。だが、今日の相手は、己が正しいと思っている。こちらも同じだ」


 俺は一度息を吸った。


「ならば、勝って示すしかない」


 静まる。


「道を詰まらせ、米を止め、名を盗み、織田を二つに割れば、尾張は外に食われる。今川が見ている。美濃も見ている。町も見ている。ここで割れれば、父上の残したものは、内から腐る」


 犬千代が槍を握り直した。


 恒興が俺を見ている。


 長秀は地図を抱えたまま、まっすぐ立っている。


「腹の減った兵は動かぬ。道の死んだ国は戦えぬ。名を盗まれた家は、主を失う。俺はそれを許さぬ」


 俺は兵たちを見渡した。


「俺をうつけと呼ぶなら呼べ。だが、今日だけは俺についてこい。勝って、織田の名を一つに戻す」


 声が返ってきた。


 大きくはない。


 だが、確かに返った。


 それで十分だった。


 出陣の支度が進む。


 空が白み始める。


 その時、帰蝶が近づいてきた。


 人目がある。


 だから、言葉は短かった。


「ご武運を」


「行ってくる」


「食べましたか」


「少し」


「戻ったら、もっと食べてください」


「戻ったらな」


 帰蝶の目が鋭くなった。


「戻ってください」


 命令だった。


 俺は少し笑った。


「分かった」


「それは忘れる時の言葉では?」


「覚えておく」


「それも怪しいです」


「帰る」


 今度は、はっきり言った。


 帰蝶は頷いた。


「はい」


 俺は馬に乗った。


 城門が開く。


 朝の冷たい空気が流れ込む。


 その先に、稲生への道がある。


 弟がいる。


 柴田がいる。


 林がいる。


 そして、尾張の割れ目がある。


 俺は、弟を殺したいのではない。


 だが、弟を担ぐ者たちは、俺を殺す気でいる。


 ならばこれは、兄弟喧嘩ではない。


 国の形を決める戦だ。


 父上。


 政秀。


 見ていろ。


 俺は、泣いても斬るかもしれない。


 だが、腹が立ったから斬るのではない。


 怖いから斬るのでもない。


 織田を残すために、まず勝つ。


 朝日が、東の空を薄く染めた。


 稲生の前夜は終わった。


 戦の朝が来た。

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