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第15話 弟よ、お前は間違っていない

 道三と会ってから、城の空気がまた少し変わった。


 正徳寺で俺が何をしたのか、どんな姿で現れ、どんな言葉を交わしたのか。


 そういうものは、放っておいても城の中を流れる。


 人は飯を食うのと同じくらい、噂を食う。


 そして、噂は米よりも早く腐る。


 だから、あまり当てにはならない。


 それでも、流れる向きくらいは見える。


 尾張のうつけは、正徳寺で美濃の蝮に笑われたらしい。


 いや、蝮を笑わせたらしい。


 道中ではいつものうつけ姿だったが、座敷では見違えたらしい。


 帰蝶様の父君も、すぐに見限ることはなかったらしい。


 そんな話が、廊下の隅や井戸端や馬屋の前で囁かれていた。


 面白い。


 人は、俺が何を言ったかよりも、道三がどう反応したかを気にする。


 俺自身の中身より、誰が俺をどう見たかを見る。


 それが世だ。


 ならば、道三に見限られなかったという噂は、少しは役に立つ。


 だが、役に立つものは、必ず誰かに使われる。


 俺にとって都合のよい噂は、俺の敵にとっては都合が悪い。


 俺を不安視していた者たちは、急に黙る。


 黙った者は消えたわけではない。


 声を潜める。


 潜めた声は、別の場所へ流れる。


 それがどこへ向かうか。


 言うまでもない。


 勘十郎のもとだ。


 俺は、長秀の帳面を見ていた。


 守山の件以降、帳面は増えた。


 増えすぎた。


 長秀はとうとう自分だけでは抱えきれず、字の読める者を数人選んだ。


 その中に、町人の息子まで混じっている。


 武士だけで帳面を作ると、町の言葉がこぼれるからだ。


 これは長秀の考えだった。


 悪くない。


 地味だが、実によい。


 国は、声の大きな者だけでできているわけではない。


 むしろ、小さな声の方が数は多い。


 それを拾う者がいる。


 拾ったものを読む者がいる。


 読んだものを、どう使うか決める者がいる。


 俺は今、その最後のところに座らされている。


 座り心地は悪い。


 悪いが、逃げるわけにはいかない。


「若様」


 長秀が帳面を閉じた。


「守山道の件、表向きは落ち着いております」


「表向きは、か」


「はい」


 長秀は正直だ。


 正直すぎて、時々ありがたくない。


「美作守様の屋敷から補償は出ました。勘十郎様からも見舞いが出ております。荷を止められた馬借たちは、ひとまず納得した様子です」


「ひとまず、だな」


「はい」


 長秀は次の帳面を開いた。


「ただ、林美作守様の周りでは、若様が美作守様を辱めたという声もございます」


「そうだろうな」


「一方、町では、信勝様が自ら詫びを出されたことへの評判がよいです」


「だろうな」


「さらに、若様が信勝様の名を並べて触れを出されたことで、兄弟が協力していると見る者もいます」


「そう見たい者はそう見る」


「逆に、若様が信勝様を取り込もうとしていると見る者も」


「それもいるだろう」


 長秀は俺を見た。


「若様」


「何だ」


「ご不快ではないのですか」


「何が」


「何をしても、別々の意味に取られることです」


 俺は少し考えた。


「不快だ」


「そうは見えません」


「慣れてきただけだ」


 そう。


 不快ではある。


 俺が一つ言えば、十の解釈が生まれる。


 俺が黙れば、黙った理由が二十作られる。


 勘十郎と並べば、仲がよいと言われ、取り込んでいると言われ、互いに牽制していると言われる。


 帰蝶と話せば、美濃の影が濃くなったと言われる。


 道三と会えば、尾張が美濃に寄ったと言われる。


 飯を食えば、落ち着いたと言われる。


 食わねば、不安定だと言われる。


 まったく、世は面倒だ。


 だが、面倒だから見ないというわけにはいかない。


 面倒なものほど、後で効く。


「勘十郎の周りは」


 俺が問うと、長秀は少し声を落とした。


「林美作守様の件以降、表立った動きは減りました」


「表立った動きは」


「はい」


「裏は」


「津々木殿から、少し話が」


「言え」


「信勝様のもとへ、家中の不安を訴える者が増えているようです。信長様は変わられたが、なお危うい。信勝様が支えにならねば、という言い方で」


「支え、か」


 便利な言葉だ。


 支え。


 支えると言えば、誰も責めにくい。


 支えるために人が集まり、支えるために名を使い、支えるために相手を遠ざける。


 そのうち、支える側が柱を選び始める。


 柱は自分で立っているつもりでも、周りが土台を削れば傾く。


「勘十郎自身は」


「津々木殿の見る限り、抑えておられるようです」


「そうか」


「ただ」


「ただ?」


「信勝様は、抑えることで疲れておられる、と」


 俺は帳面から目を離した。


 疲れている。


 そうだろう。


 弟は俺と違う形で疲れる。


 俺は疑い、測り、見すぎて疲れる。


 勘十郎は受け止め、なだめ、期待を拒めずに疲れる。


 どちらがましか。


 比べても仕方がない。


 どちらも、国を持つには避けられぬ疲れなのだろう。


「会う」


 俺は言った。


 長秀が顔を上げる。


「信勝様に?」


「ああ」


「今ですか」


「今だ」


「お二人だけで?」


「できれば」


 長秀は少し考えた。


「場所は選ばれた方がよろしいかと」


「どこがよい」


「人に見えすぎても、見えなさすぎても噂になります」


「面倒だな」


「はい」


「庭は」


「庭なら、離れたところから姿は見えるが、声は届きません」


「それでよい」


 長秀は頷いた。


「お伝えします」


 その日の夕刻、俺は庭で勘十郎を待った。


 庭の木は、少し葉の色を深くしていた。


 季節は人を待たない。


 父上が死のうが、政秀が腹を切ろうが、守山で小競り合いが起きようが、木は葉を伸ばす。


 それが冷たいようで、少し救いでもある。


 人の悲しみに合わせて空まで沈まれたら、たまったものではない。


 勘十郎は、約束の時刻より少し早く来た。


 きちんと衣を整えている。


 当然のように。


 俺は今日、あえて少しだけ崩した格好をしていた。


 ただし、以前のようにだらしなくはない。


 整えた上で、外している。


 政秀が見れば、何と言っただろう。


 若、それは整えたのですか、崩したのですか。


 そう聞いたかもしれない。


 俺は、たぶんこう答える。


 両方だ。


 そして叱られる。


「兄上」


 勘十郎が頭を下げた。


「来たか」


「お呼びと聞きました」


「座れ」


 庭に面した縁側に、二人で座った。


 少し離れたところに恒興がいる。


 さらに遠くに津々木もいる。


 互いの側近を完全に消せば、かえって不自然だ。


 だが声は届かない。


 それくらいの距離だ。


「疲れているらしいな」


 俺が言うと、勘十郎は少し苦笑した。


「津々木ですか」


「長秀経由だ」


「蔵人には、あとで言っておきます」


「叱るな。役に立った」


「兄上は、すぐ人を役に立つかどうかで見ますね」


「悪い癖だ」


 俺がそう言うと、勘十郎は驚いた顔をした。


「今、悪い癖とおっしゃいましたか」


「言った」


「珍しい」


「皆が俺を何だと思っているのか、最近よく分かってきた」


「それはよいことです」


「たぶんな」


 勘十郎は庭を見た。


 風で葉が揺れている。


 あの葉の動きを見て、帰蝶は何を思うだろう。


 道三なら何を測るだろう。


 政秀なら、庭を見る前に座り方を叱るだろう。


 父上なら、黙って酒を飲むかもしれない。


「兄上」


「何だ」


「正徳寺では、父上……いえ、斎藤道三殿と、何をお話しになったのですか」


「お前のことも話した」


 勘十郎の肩がわずかに動いた。


「私のことを?」


「ああ」


「何と」


「俺より美しく座る男だと」


 勘十郎は困ったような顔をした。


「兄上」


「本当に言った」


「それを言われた道三殿は?」


「見たことがないと言っていた」


「でしょうね」


 勘十郎は小さく息を吐いた。


 少しだけ緊張が抜けたようだった。


「他には」


「担がれるぞ、と言われた」


 今度は、空気が戻った。


 勘十郎の顔が静かになる。


「そうですか」


「あの蝮は、見えている」


「兄上も、そうお思いですか」


「ああ」


 俺は弟を見た。


「お前は担がれる」


「望んでいません」


「分かっている」


「本当に、分かっておられますか」


「分かっている」


 今度は、すぐ答えた。


 勘十郎は俺を見た。


 疑いではない。


 確かめる目だった。


「兄上は、以前なら『今は』とつけたでしょう」


「言いたかった」


「正直ですね」


「だが、言わなかった」


「なぜ」


「お前が望んでいないことは、今だけではなく、本当だと思った」


 勘十郎は何も言わなかった。


 少し驚いたように見えた。


 いや、傷ついたのかもしれない。


 信じられたことに傷つく時もある。


 人は面倒だ。


「だが」


 俺は続けた。


「望んでいなくても、道は作られる」


「はい」


「お前が断っても、周りは言葉を変える。支えろ、守れ、家を安んじろ、兄を諫めろ。そう言うだろう」


「すでに言われています」


「だろうな」


 勘十郎は膝の上で手を握った。


「兄上」


「何だ」


「私は、何をすればよいのでしょう」


「俺に聞くのか」


「はい」


「俺が答えれば、それもまたお前を縛る」


「では、聞いてはいけませんか」


「いや」


 俺は庭を見た。


 答えは簡単ではない。


 弟に従えと言えば、嘘になる。


 自由にしろと言えば、無責任になる。


 俺を支えろと言えば、弟の周りの期待を無視することになる。


 俺に背くなと言えば、弟を疑っていることになる。


 何を言っても、刃になる。


 だから、しばらく黙った。


 政秀なら、ここで焦るなと言うだろう。


 言葉を急ぐな、と。


「勘十郎」


「はい」


「お前は、間違っていない」


 弟は顔を上げた。


「父上の名を守りたいこと。家中を安心させたいこと。母上を嘆かせたくないこと。俺のやり方を危ういと思うこと。どれも間違っていない」


「兄上」


「俺は、それを分かっているつもりだった。だが、たぶん半分しか分かっていなかった」


「半分」


「いつものやつだ」


 勘十郎が少しだけ笑った。


 だが、その目はすぐ真剣に戻る。


「兄上は、私を認めてくださるのですか」


「認める」


 俺は答えた。


「お前は俺にできぬことができる。家臣を安心させる。人の面目を整える。傷ついた者へ先に手を伸ばす。俺は、それを軽んじすぎていた」


 勘十郎は目を伏せた。


「では、私は兄上の不足を補えばよいのですね」


「それだけではない」


「え?」


「お前は俺の不足を埋めるための道具ではない」


 口にしてから、自分でも驚いた。


 以前の俺なら、そこまで考えなかったかもしれない。


 使える。


 そう思って終わっただろう。


 だが、今は少し違う。


 政秀の死後、誰かを「使える」と思うたび、その後ろに顔があることを思い出す。


 面倒だ。


 だが、たぶん必要だ。


「お前には、お前の見る尾張がある」


 俺は言った。


「俺には俺の見る尾張がある。それが違うから、お前は俺の横にいる価値がある」


「横に」


「下ではない。上でもない。横だ」


 勘十郎は息を呑んだ。


 遠くで津々木が少し身じろぎする気配がした。


 聞こえてはいないはずだ。


 だが、勘十郎の表情で何かを察したのだろう。


「兄上」


「何だ」


「そのようなことを言われると、私は」


 言葉が途切れた。


 勘十郎は、何かをこらえているようだった。


「私は、あなたを信じたくなります」


「信じればよい」


「簡単に言わないでください」


「簡単ではないから、今言った」


 勘十郎は俺を見た。


 その目には、涙に近いものがあった。


 けれど、流さなかった。


 流せば楽になるのに、流さない。


 弟もまた、背負い始めている。


「信じたいのです」


 勘十郎は言った。


「けれど、兄上は遠くを見すぎる。町を見て、米を見て、道を見て、今川を見て、美濃を見て、いずれ京を見るのでしょう。私は、その速さについていけるか分からない」


「ついてこなくてよい」


「え?」


「お前は、お前の速さで見ろ」


 俺は庭の石を見た。


 古い苔がついている。


 石は動かない。


 だが、水の流れを変える。


「俺が早く行きすぎれば、お前が止めろ。お前が止まりすぎれば、俺が引く」


「それで家が保てるでしょうか」


「分からぬ」


「兄上は、最近よく分からぬとおっしゃいますね」


「分かったふりをするよりはよい」


「それは、少し兄上らしいです」


 勘十郎が小さく笑った。


 その笑みは、少し寂しそうだった。


「ですが、私の周りは待ってくれません」


「知っている」


「兄上の周りも、待ってくれないでしょう」


「ああ」


「では、どうすれば」


「まず、互いの名を盗ませぬ」


「守山の時のように」


「そうだ。俺の名でお前を叩く者を許すな。お前の名で俺を遠ざける者を許すな」


「できるでしょうか」


「やるしかない」


 勘十郎は深く息を吸った。


「兄上は、私の周りを疑っておられますね」


「疑っている」


「正直ですね」


「嘘をついても仕方ない」


「では、私も申し上げます」


 勘十郎は、まっすぐ俺を見た。


「私は、兄上の周りも怖いです」


「そうか」


「兄上を守るという名目で、兄上を孤立させる者が出ると思います。兄上に耳触りのよいことを言い、兄上の鋭さを利用して、邪魔な者を排除させようとする者が出る」


「誰だ」


「まだ分かりません」


「分からぬのに言うか」


「兄上の真似です」


 俺は少し笑った。


 弟が、ほんの少しだけ俺に似た言い方をした。


 悪くない。


 いや、少し危ういか。


「気をつける」


「本当に?」


「本当に」


「なら、私も気をつけます」


 風が吹いた。


 庭の葉が揺れる。


 その揺れを、二人で見ていた。


 しばらく、どちらも話さなかった。


 遠くで鳥の声がした。


 城の中の誰かが廊下を歩く音も聞こえた。


 その音の一つ一つが、妙に遠い。


 俺と勘十郎は、同じ庭を見ている。


 だが、同じものを見ているかは分からない。


 それでも、今はそれでよい気がした。


「兄上」


「何だ」


「一つ、聞いてもよろしいですか」


「言え」


「もし、私の周りの者が、私を担いで兵を動かそうとしたら」


 俺は弟を見た。


 勘十郎の顔は青ざめてはいない。


 ただ、静かだった。


 覚悟を探す顔だ。


「お前はどうする」


 俺が聞き返すと、勘十郎は目を伏せた。


「止めます」


「止まらなければ」


「……止めます」


「それでも止まらなければ」


 勘十郎は答えられなかった。


 俺は、そこを責めなかった。


 答えられないのが当然だ。


 自分を慕う者たちが、自分のためだと言って動く。


 それをどこで切るか。


 簡単に言えるなら、最初から悩まない。


「勘十郎」


「はい」


「その時は、俺に知らせろ」


「兄上に?」


「ああ」


「知らせれば、兄上は」


「斬るかもしれん」


 弟の肩がわずかに震えた。


「だが、知らせなければもっと斬ることになる」


 勘十郎は黙っていた。


「火が小さいうちに知らせろ。俺もそうする。俺の周りでお前を敵にしようとする者がいれば、お前に知らせる」


「本当に?」


「ああ」


「兄上が、そのようなことを約束してくださるとは」


「俺も少しは変わった」


「政秀殿のおかげですね」


「腹が立つがな」


 勘十郎は、今度は少し笑った。


「兄上は、まだ怒っておられるのですか」


「怒っている」


「平手殿に」


「ああ」


「大事だったのですね」


 俺は返事をしなかった。


 勘十郎も、それ以上聞かなかった。


 この弟は、踏み込むところと止まるところを知っている。


 俺は、それが少し羨ましい。


「兄上」


「まだあるか」


「はい」


 勘十郎は姿勢を正した。


「私は、兄上に背きたくありません」


「知っている」


「けれど、兄上が織田を壊すと私が思った時、私は兄上を止めます」


「ああ」


「その時、兄上は私を敵と見ますか」


 難しい問いだった。


 俺はすぐには答えなかった。


 少し前なら、こう言ったかもしれない。


 敵かどうかは、その時のお前の立ち方次第だ、と。


 それは正しい。


 だが、今はそれだけでは足りない。


「お前が俺を止める理由を見る」


 俺は言った。


「俺を倒すためか。織田を守るためか。己を担ぐ者を守るためか。母上を悲しませぬためか。理由を見る」


「それで?」


「それでも斬る必要があれば、斬る」


 勘十郎は息を止めた。


 俺は続けた。


「だが、理由を見ずに斬ることはしない」


 父上の言葉。


 政秀の言葉。


 道三の言葉。


 すべてがそこに混ざっていた。


 必要なら斬れ。


 腹が立ったから斬るな。


 怖いから斬るな。


 殺しは道具だ。性分にするな。


 勘十郎は目を閉じた。


「怖いですね、兄上は」


「そうか」


「はい。けれど、以前より少しだけ怖くありません」


「どちらだ」


「両方です」


「皆、半分だな」


 勘十郎は小さく笑った。


 その笑みの中に、確かに兄弟の時間があった。


 だが、それは長く続かない。


 俺たちの背後には、家中がある。


 俺たちの名を使おうとする者たちがいる。


 今川がいる。


 美濃がいる。


 父上の影がある。


 政秀の死がある。


 ただの兄弟でいられる時間は、もう短い。


 そのことを、二人とも分かっていた。


「勘十郎」


「はい」


「お前は、間違っていない」


 俺はもう一度言った。


「だが、間違っていない者同士が争うこともある」


 勘十郎は、静かに頷いた。


「はい」


「だから、間違っていないだけで安心するな」


「兄上も」


「分かっている」


 勘十郎は立ち上がった。


「今日は、お話しできてよかったです」


「俺もだ」


「本当に?」


「本当に」


「兄上がそうおっしゃると、少し怖いですね」


「なぜだ」


「嵐の前の静けさのようで」


 俺は笑えなかった。


 同じことを、どこかで思っていたからだ。


 勘十郎も、笑わなかった。


 ただ、深く頭を下げた。


 俺も、わずかに頭を下げた。


 弟が去っていく。


 その背は、やはり美しい。


 まっすぐで、整っている。


 家臣たちがあの背に安心する理由が分かる。


 だからこそ、危うい。


 あの背を旗にしたがる者が必ず出る。


 俺は庭に残った。


 恒興が近づいてくる。


「若様」


「聞こえたか」


「いえ。ですが、信勝様のお顔は見えました」


「どうだった」


「泣きそうで、けれど少し安心したような」


「そうか」


「若様は?」


「俺も似たようなものだ」


 恒興が驚いた顔をした。


「若様が?」


「何だ」


「いえ、正直に言われたので」


「最近、そればかり言われる」


 俺は立ち上がった。


 庭の向こうで、津々木が勘十郎の後を追っていくのが見えた。


 あの男も変わるだろうか。


 変わらねば、いずれ切られる。


 俺が切るか、勘十郎が切るか、家中が切るか。


 いずれにせよ、火種になる。


 城へ戻る途中、帰蝶と会った。


 偶然ではない。


 この女は、偶然の顔をして必要な場所にいることがある。


「お話は済みましたか」


「ああ」


「信勝様は」


「間違っていない」


 帰蝶は少しだけ目を伏せた。


「それは、難しいですね」


「分かるか」


「はい」


 帰蝶は庭の方を見た。


「間違っている相手なら、まだ楽です」


「そうだ」


「間違っていない相手とは、譲れないところでぶつかります」


「嫌なことを言う」


「現実ですので」


 俺は息を吐いた。


「俺と勘十郎は、まだ争わずに済むか」


「今は」


「今は、か」


「先のことを、きれいに言うのは危ういです」


「お前までそう言うか」


「あなたが教えてくださいました」


「悪いことを教えたな」


「よいことも、少しは」


 帰蝶はそう言った。


 少しは、か。


 俺は小さく笑った。


「帰蝶」


「はい」


「飯は」


「用意してあります」


「まだ何も言っていない」


「顔に出ています」


「最近、俺の顔は働きすぎだな」


「お腹が空くと特に」


 その夜、俺は飯を食った。


 食いながら、勘十郎との会話を思い返していた。


 弟は間違っていない。


 俺も、自分が間違っているとは思っていない。


 だが、それだけでは足りない。


 正しさは、人を救うこともあれば、人を斬る理由にもなる。


 家を守るため。


 国を残すため。


 父の名を汚さぬため。


 そういう美しい言葉ほど、人の手に渡ると刃になりやすい。


 俺は、その刃の光を見逃してはならない。


 そして、自分の手の中の刃も。


 政秀。


 俺は今日、弟に言ったぞ。


 間違っていない、と。


 だが、それで足りぬことも知っている。


 お前なら何と言う。


 若、言葉だけでは足りませぬ。


 きっとそう言う。


 分かっている。


 言葉だけでは足りない。


 次は、行動だ。


 だが行動は、必ず誰かの利を動かす。


 利が動けば、人が動く。


 人が動けば、火種も動く。


 俺は箸を置いた。


「食べ終わりましたか」


 帰蝶が聞く。


「ああ」


「では、少し休んでください」


「休む暇が」


「あります」


 即答だった。


「なぜ分かる」


「休まねば、明日あなたの判断が悪くなるからです」


「まるで爺だな」


「光栄です」


「怒らぬのか」


「平手様に似ていると言われて、怒る理由がありません」


 俺は黙った。


 そして、少しだけ頭を下げた。


「そうだな」


 帰蝶は驚いた顔をした。


 俺が素直だからだろう。


 皆、いつまで驚くのか。


 おそらく、しばらくは驚かれる。


 それでよい。


 俺はまだ変わり始めたばかりだ。


 翌日、林美作守の周囲でまた小さな動きがあった。


 守山の補償に不満を持つ者たちが、密かに集まっていたという報が入った。


 勘十郎を直接担ぐというほどではない。


 だが、信長様のやり方は強引だ。


 信勝様なら、家中の面目をもっと重んじてくださる。


 そういう話が出ているらしい。


 俺は報告を聞き、目を閉じた。


 やはり、火は消えていない。


 灰の下で赤い。


 昨日、弟と話したばかりだ。


 互いに名を盗ませぬと約したばかりだ。


 だが、世は俺たちの約束を待ってくれない。


 火種は、自分の都合で燃える。


「若様」


 長秀が低く言った。


「どうされますか」


 俺は目を開けた。


「見る」


「また、でございますか」


「今度は、ただ見るだけでは終わらせぬ」


 長秀が表情を引き締めた。


「はい」


 俺は立ち上がった。


 庭の風は、もう穏やかではなかった。


 葉がざわめいている。


 嵐の前か。


 勘十郎は、そう言った。


 たぶん、その通りだ。


 俺たちはまだ兄弟だ。


 だが、兄弟でいられる時間を、周りが削り始めている。


 弟よ。


 お前は間違っていない。


 だからこそ、次の一手を誤れば、俺たちは間違っていないまま敵になる。


 それだけは、まだ避けたい。


 まだ。


 俺はその「まだ」という言葉の危うさを噛みしめながら、廊下へ踏み出した。

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