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第14話 幕間 道三、帰蝶へ告げる

 斎藤道三は、正徳寺の座敷にしばらく残っていた。


 織田信長が去った後も、すぐには立たなかった。


 庭に面した障子の向こうで、夕方の光が少しずつ薄くなっていく。


 寺の者たちは、遠巻きに気配を消している。


 美濃から連れてきた家臣たちも、主君が何を考えているのか測りかねていた。


 道三は、座したまま、空になった茶碗を見ていた。


 茶はもう冷めている。


 だが、道三はその茶碗を退けさせなかった。


 物というものは、そこに置かれた時の空気を少し吸う。


 この茶碗は、さきほどまで尾張のうつけと呼ばれる男の前にあった。


 ならば、しばらく置いておいてもよい。


「父上」


 控えていた義龍が、やや低い声で呼んだ。


 斎藤義龍。


 道三の嫡男である。


 背は高く、体つきもよい。


 武家の嫡男として、見栄えがする。


 その見栄えのよさが、時に道三には退屈だった。


 もちろん、口には出さない。


 退屈という言葉は、相手を油断させる時か、本当に捨てる時に使うものだ。


 身内には、軽く使わぬ方がよい。


「何じゃ」


「織田信長、いかがご覧になりましたか」


 義龍の声には、探る響きがあった。


 単に感想を聞いているのではない。


 父が信長をどう評価したかによって、自分が何を考えるべきか測っている。


 嫡男としては正しい。


 だが、道三はその正しさに、わずかな物足りなさを覚えた。


「面白い」


 道三は短く答えた。


 義龍の眉が動く。


「面白い、でございますか」


「うむ」


「うつけではありませんでしたか」


「うつけじゃ」


 道三は茶碗を見たまま言った。


「ただし、ただのうつけではない」


 義龍は不満そうだった。


 その顔を見て、道三は内心で小さく笑った。


 若い者は、答えが一つであることを好む。


 賢いか愚かか。


 強いか弱いか。


 敵か味方か。


 だが、人はそれほど単純ではない。


 単純に見える者ほど、たいてい危うい。


 または、単純に見せている。


「あの男は、道中でわしらの目を見ておった」


 道三が言うと、義龍は少し顔を上げた。


「道中で?」


「湯帷子をだらしなくまとい、髪も整えず、茶店で水を飲み、町人に声をかける。あれを見た者は、まず笑う。礼を知らぬ若造と見る」


「実際、そうではありませぬか」


「半分はな」


 道三は口元を少し歪めた。


「だが、あれは見せておった。己がどう見られるかを、見せながら見ておった」


「父上は、あの振る舞いが芝居だと?」


「全部が芝居なら、もっと薄い」


 義龍は黙った。


 道三は続ける。


「全部が本物のうつけなら、座敷であの姿にはならぬ。あれは、半分は芝居、半分は地じゃ」


「半分が地なら、やはり危ういのでは」


「そうじゃ。危うい」


 道三はようやく茶碗から目を離し、義龍を見た。


「危ういから、使える」


 義龍はその言葉をうまく飲み込めない顔をした。


 道三は、息子のそういう顔を見るたび、少しだけ苛立つ。


 教えれば分かる。


 だが、教えなければ分からない。


 それは、凡庸ではない。


 しかし、抜き身の才でもない。


 義龍は武家の嫡男として強い。


 だが、強すぎる形は、時に折れやすい。


「よいか、義龍」


「はい」


「乱世で最も扱いにくいのは、自分が正しいと思っている者じゃ」


「正しい者、でございますか」


「そうじゃ。己の正しさを疑わぬ者は、折れぬようでいて、曲がれぬ。曲がれぬ木は、大風で折れる」


 道三は庭の木を見た。


 夕風に枝が揺れている。


「あの信長という男は、己を疑っておる」


「自信がないということですか」


「違う」


 道三の声が少し硬くなった。


「己を疑うことと、己に自信がないことは違う。あれは己を疑いながら、それでも前へ出る。そこが厄介じゃ」


「私には、危うすぎるように思えます」


「その通りじゃ」


 道三は笑った。


「おぬしの目も、まったく節穴ではない」


 義龍の顔がわずかに強張った。


 褒められたのか、刺されたのか分からぬ顔だった。


 どちらでもある。


 道三の言葉は、たいていそういう形になる。


「では、尾張との縁は続けるべきと?」


「続ける」


 道三は即答した。


「今、尾張が崩れれば、喜ぶのは今川じゃ」


「今川義元」


「そうじゃ」


 道三の顔から笑みが消えた。


「義元を侮る者は多い。公家かぶれだの、軟弱だのとな。愚か者どもめ。あれは国を食う男じゃ。駿河、遠江、三河を束ねるだけの胃袋を持っておる」


「尾張をも狙うと」


「狙わぬ理由がない」


 道三は低く言った。


「信秀殿が死んだ。尾張は割れる。嫡男はうつけと呼ばれ、弟は家中受けがよい。守山では名を騙る者まで出ていると聞く。今川から見れば、まことに美味そうな国よ」


「ならば、信長を助けると?」


「助ける?」


 道三は鼻で笑った。


「違う。倒れられると困る間は、倒れぬようにするだけじゃ」


「それを助けると言うのでは」


「言葉は似ておる。中身は違う」


 義龍は黙った。


 納得してはいないだろう。


 だが、今はそれでよい。


 すぐに納得する者は、すぐに別の言葉にも納得する。


 少し噛み砕くくらいがよい。


「帰蝶は」


 道三はふと、娘の名を出した。


「信長をどう見ていると思う」


 義龍は少し考えた。


「夫として、案じているのでは」


「それだけなら、わしの娘ではない」


「では」


「あれは見ておる。信長という男の危うさも、面白さも、自分がそこに巻き込まれていることもな」


 道三の声には、わずかな父の響きが混じった。


 義龍はそれに気づいたかもしれない。


 気づかぬふりをしたかもしれない。


「父上は、帰蝶を尾張へやったことを悔いておられますか」


「今のところはな」


「今のところ」


「人の縁など、死ぬまで正しかったか分からぬ」


 道三は茶碗を手に取った。


 冷めた茶を、わずかに口へ含む。


 苦い。


 当然だ。


 冷めた茶に甘さを求める方が悪い。


「だが、帰蝶は退屈しておらぬだろう」


「それは、よいことですか」


「生きておるなら、退屈せぬ方がよい」


 義龍は、また少し不満そうだった。


 道三はその顔を見て、ふと胸の奥が鈍くなるのを感じた。


 息子と娘。


 同じ血を分けたはずなのに、ずいぶん違う。


 帰蝶は、相手を分からぬまま見続ける。


 義龍は、分かる形に相手を置こうとする。


 どちらがよいとは言えない。


 ただ、乱世では前者の方が長く生きる時がある。


 もちろん、後者が一気に押し切る時もある。


 世は公平ではない。


 才も、性も、運も、同じ重さでは配られない。


「義龍」


「はい」


「信長を軽く見るな」


「承知しております」


「いや、まだ軽く見ておる」


 義龍の顔がこわばった。


「私は」


「あれの奇行を見て、危うい若造と見た。座敷の姿を見て、意外にやる男と見た。どちらも軽い」


「では、どう見れば」


「変わる男として見よ」


 道三は言った。


「信長は固定された器ではない。うつけのまま変わる。そういう男じゃ」


 その言葉は、道三自身にも奇妙に残った。


 うつけのまま変わる。


 信長が言ったわけではない。


 だが、今日見た信長を言うなら、それが一番近い気がした。


「変わる男は、危険じゃ。昨日の評で動くと、今日には別の形になる」


「ならば、余計に信用できません」


「信用するな」


 道三は即座に言った。


「信用などせず、見続けよ」


 義龍は頭を下げた。


「承知いたしました」


 道三は、その返事を聞いても、完全には満足しなかった。


 承知したと言う者ほど、本当に承知したか分からない。


 それは息子でも同じだった。


 やがて、道三は立ち上がった。


「帰るぞ」


「はい」


「いや、その前に」


 道三は傍らの者へ目を向けた。


「帰蝶へ文を出す。筆を」


 家臣が慌てて用意する。


 義龍が少し驚いた顔をした。


「すぐに、ですか」


「熱いものは、冷める前に伝えねば意味がない」


「信長のことを?」


「それもある」


 道三は筆を取った。


 だが、すぐには書かなかった。


 帰蝶へ何を告げるべきか。


 娘に向ける言葉と、美濃の主として送る言葉は違う。


 だが、今はその二つを分ける方が嘘くさい。


 道三は、短く書き始めた。


 帰蝶。


 婿殿を見た。


 うつけである。


 されど、ただのうつけではない。


 あれは尾張という狭い桶に入れられた火である。


 桶が割れれば火は消える。


 されど桶が保てば、いずれ周りを焼く。


 その火を、恐れよ。


 同時に、見失うな。


 道三はそこで筆を止めた。


 少し考え、さらに書き足す。


 婿殿は天下をまだ知らぬと言った。


 この答え、悪くない。


 知らぬものを知らぬと言う者は、いずれ知ろうとする。


 知ろうとする者は、道を探す。


 その道が京へ向かうか、地獄へ向かうかは、まだ分からぬ。


 おぬしは近くで見よ。


 ただし、近づきすぎるな。


 火は、寄り添えば暖かい。


 抱けば焼ける。


 道三はまた筆を止めた。


 娘に送る文としては、少し物騒かもしれない。


 だが、帰蝶なら読む。


 読んで、眉をひそめる。


 そして、たぶんこう言う。


 父上らしい、と。


 道三は口元を緩めた。


「父上」


 義龍が声をかける。


「何じゃ」


「そこまで、信長を買われますか」


「買うというほどではない」


「では」


「値をつけるには、まだ早い」


 道三は文を折った。


「だが、店先で見かけて素通りするには惜しい品じゃ」


「人を品のように」


「人は己も品にする。武士は家名を売る。商人は信用を売る。僧はありがたみを売る。わしは毒を売った。信長は、うつけを売っておる」


「うつけを売る」


「そうじゃ」


 道三は文を家臣に渡した。


「急ぎ尾張へ届けよ。人を選べ。道中で中を見るような愚か者なら、戻った時に指を詰めさせる」


 家臣は青ざめて頭を下げた。


 道三は座敷を出た。


 寺の廊下を歩きながら、道三はふと振り返った。


 正徳寺の座敷。


 さきほどまで信長が座っていた場所。


 あの若者は、まだ若い。


 荒い。


 危うい。


 人の痛みを見落とす時がある。


 だが、米を見る。


 道を見る。


 名が盗まれる怖さを見る。


 弟を殺さずに済むなら殺さぬと言いながら、必要なら殺すことから目を逸らしていない。


 そして、天下とは何かと問うた。


 あれは、普通のうつけが出す問いではない。


 天下を欲するかと問われた時、多くの若者は大きな言葉を吐く。


 あるいは、恐れて否定する。


 信長は違った。


 天下とは何かと聞き返した。


 知らぬものを知らぬと言い、だが見ていないとは言わなかった。


「嫌な若造じゃ」


 道三は小さく呟いた。


 その声には、わずかな愉快さが混じっていた。


 美濃へ戻る道中、道三はあまり話さなかった。


 義龍も、家臣たちも、その沈黙を破らなかった。


 日が沈みかけ、空が赤くなる。


 道の脇の田には、風が走っていた。


 稲はまだ若い。


 だが、風を受けて一斉に揺れる。


 道三はその揺れを眺めた。


 国とは、田だ。


 米だ。


 道だ。


 銭だ。


 武士はそれを忘れ、城と刀だけで国を語りたがる。


 信長は、そこを見ている。


 それはよい。


 だが、見すぎる者は疲れる。


 疲れた者は、時に人を道具として扱う。


 道具として扱われた者は、いつか折れる。


 平手政秀という男は、それを命で知らせたのだろう。


 それを受け取ったかどうか。


 今日の信長を見る限り、受け取りかけている。


 かけている、というところが危うい。


 完全に受け取れば、慎重になりすぎる。


 受け取らなければ、壊れる。


 半分受け取っている今が、最も伸びる時かもしれない。


「父上」


 また義龍が声をかけた。


「何じゃ」


「信長は、いずれ美濃にとって敵となりましょうか」


 道三はしばらく答えなかった。


 馬の歩く音だけが続く。


 やがて言った。


「なるかもしれぬ」


 義龍の顔が硬くなる。


「ならば今のうちに」


「殺せばよいか」


「そこまでは」


「思ったであろう」


 義龍は答えない。


 道三は前を見たまま続けた。


「殺せる時に殺す。それは一つの正しさじゃ。だが、殺した後に何が残るかを見ぬ者は、ただの刃物持ちよ」


「信長を殺せば、尾張は割れる」


「今川が食う」


「美濃も動けるのでは」


「動ける。だが、今川も動く。織田の内乱に手を突っ込めば、こちらの手も汚れる。手を洗っている間に、別の者が背を刺す」


 義龍は唇を結んだ。


 道三は横目でそれを見た。


「戦とは、敵を殺すことではない」


「では何です」


「殺した後に、己が立っていることじゃ」


 道三の言葉に、義龍は黙った。


 覚えておくがよい。


 そう道三は思った。


 理解するかどうかは、義龍次第だ。


 一方その頃、尾張の城では、帰蝶が道三からの文を受け取っていた。


 届けた者は、道三の命通り、文を決して開かなかった。


 その顔があまりに緊張していたので、帰蝶は何を言い含められたのかすぐに察した。


「父上に、脅されましたか」


 使者はびくりと肩を震わせた。


「い、いえ」


「指ですか」


 使者の顔が白くなる。


 帰蝶は小さく息を吐いた。


「やはり」


 父は相変わらずだ。


 帰蝶は文を受け取り、人払いをした。


 部屋に一人になる。


 灯りのそばで文を開いた。


 父の字は、昔から変わらない。


 荒いようで、線の終わりに迷いがない。


 読み進めるうちに、帰蝶の表情が少しずつ変わった。


 うつけである。


 されど、ただのうつけではない。


 あれは尾張という狭い桶に入れられた火である。


 帰蝶は、その一文でしばらく手を止めた。


 桶に入れられた火。


 父らしい言葉だった。


 乱暴で、正確で、少し意地が悪い。


 信長を表すには、確かに近い。


 信長は火だ。


 近くにいると、暖かい時もある。


 暗いものを照らす時もある。


 だが、油を注げば燃え上がる。


 風が強すぎれば、思わぬものまで焼く。


 そして、自分自身も燃やしかねない。


 帰蝶はさらに読む。


 天下をまだ知らぬと言った。


 知らぬものを知らぬと言う者は、いずれ知ろうとする。


 その道が京へ向かうか、地獄へ向かうかは、まだ分からぬ。


 帰蝶は、信長の顔を思い浮かべた。


 天下を語らぬ男。


 だが、町の米を見て、道を見て、名が盗まれることを見ている男。


 父が言う通り、あの人は知らないものを知らないと言う。


 そのくせ、目を逸らしてはいない。


 知らないと言って、一歩引くのではなく、いつか知るために距離を測っている。


 それが信長だ。


「火は、寄り添えば暖かい。抱けば焼ける……」


 帰蝶は小さく読み上げた。


 父らしい。


 そして、余計なお世話だ。


 けれど、否定はできない。


 信長に近づきすぎれば焼ける。


 遠ざかりすぎれば、彼が何を焼き、何を照らしているのか見えなくなる。


 自分はどこに立つべきか。


 妻として。


 斎藤の娘として。


 そして、織田の中で少しずつ自分の場所を作り始めた一人の女として。


 その時、襖の外で声がした。


「帰蝶」


 信長だった。


 帰蝶は文を畳んだ。


「どうぞ」


 襖が開く。


 信長は、少し疲れた顔をしていた。


 正徳寺から戻ったばかりだというのに、すでに城の報告をいくつか聞かされたのだろう。


 衣は整っている。


 だが、目の奥はいつものように落ち着かない。


 何かを見ている。


 何かを考えている。


 そして、少し腹を空かせている顔だった。


「食べましたか」


 帰蝶が言うと、信長は足を止めた。


「やはり言ったな」


「顔に出ています」


「俺はそんなに顔に出るか」


「食事に関しては」


「それは困るな」


「困る前に食べてください」


 信長は部屋に入り、帰蝶の向かいに座った。


 その目が、帰蝶の手元の文に向く。


「蝮からか」


「はい」


「何と」


「あなたのことを、うつけだと」


「正しい」


「ただのうつけではないとも」


「それは褒めているのか」


「かなり」


 信長が少しだけ笑った。


「美濃でも流行っているのか、その言い方」


「私が流行らせました」


「そうか」


 帰蝶は文を差し出した。


「ご覧になりますか」


「よいのか」


「あなたのことが書かれています」


「なら、読まぬ方がよいかもしれぬ」


「珍しく慎重ですね」


「人が自分をどう見ているかばかり読むと、足が鈍る」


 帰蝶は少し驚いた。


 以前の信長なら、すぐ読んだかもしれない。


 読んで、笑って、使えるところだけ拾っただろう。


 だが今の信長は、一度止まる。


 政秀の死が、確かにこの人の中に残っている。


「では、私が要点だけ」


「聞こう」


「父は、あなたを尾張という狭い桶に入れられた火だと」


 信長は黙った。


 怒らなかった。


 笑いもしなかった。


 しばらく考えた後、言った。


「うまいことを言う」


「腹が立ちませんか」


「立つ」


「立つのですね」


「うまいことを言われると腹が立つ」


 帰蝶は少しだけ笑いそうになった。


 こらえた。


「そして、火は寄り添えば暖かいが、抱けば焼けると」


「お前へ言ったのか」


「はい」


「余計なことを」


「父ですので」


「親は、死んでも生きていても面倒だな」


 信長の声は軽い。


 だが、その奥に父・信秀と平手政秀の影があることを、帰蝶は感じた。


「道三殿は、俺をどう見た」


「見限ってはいません」


「同じ見立てだな」


「あなたもそう思われましたか」


「ああ」


「ただし、父はこうも書いています。道が京へ向かうか、地獄へ向かうかは、まだ分からないと」


 信長は、今度こそ長く黙った。


 帰蝶はその沈黙を乱さなかった。


 やがて、信長が言った。


「京は遠い」


「はい」


「だが、遠いものほど、見ていないと急に近づいてくる」


「父も、そう見たのでしょう」


「嫌な親子だ」


「あなたも、父を嫌いではなかったでしょう」


 信長は少し視線を逸らした。


「好かぬ」


「父も同じことを書きそうです」


「嫌なところが似ている」


「親子ですから」


「お前と道三は、嫌なところがよく似ている」


「その言葉、父にも言ってください」


「言ったら噛まれる」


「おそらく」


 二人の間に、少しだけ穏やかな空気が流れた。


 帰蝶は、その空気を珍しいと思った。


 少し前まで、二人の間にはいつも刃の気配があった。


 今も消えてはいない。


 だが、刃だけではなくなった。


 言葉を交わし、探り、時に刺し、それでも同じ場に座っている。


 これを夫婦と呼ぶには、まだぎこちない。


 だが、政略だけではない何かが、少しずつ形を取り始めていた。


「帰蝶」


「はい」


「道三は、今川をどう見ていた」


「尾張が崩れれば今川が喜ぶ、と」


「同じか」


「同じ?」


「俺もそう思う。父上の書付にもあった。今川義元を侮るな、と」


「父も、義元を国を食う男だと見ています」


「厄介だな」


「はい」


「尾張の内で名を盗まれている場合ではない」


 信長は息を吐いた。


「守山の後始末を急ぐ。林美作守の件は、まだ尾を引く。勘十郎の周りも見る。だが、それだけでは足りない。外も動く」


「焦ってはなりません」


「分かっている」


「本当に?」


「たぶん」


「そこは言い切ってください」


「努力する」


「それも怪しいです」


 信長は少し笑った。


 帰蝶は、文を折り直した。


「信長様」


「何だ」


「父は、あなたを見続けるでしょう」


「俺も見る」


「美濃を?」


「道三を。義龍を。お前を」


「私もですか」


「お前は美濃でもあり、尾張でもある」


 帰蝶は静かに目を伏せた。


 その言葉は、思ったより深く胸に入った。


 美濃でもあり、尾張でもある。


 嫁いできた女にとって、それは時に苦しい立場だ。


 だが、信長の口から出ると、不思議と役目のようにも聞こえた。


「ならば、私も見ます」


「何を」


「あなたを。尾張を。父を。そして、火がどちらへ向かうのかを」


「抱くなよ。焼けるらしい」


「近づきすぎたら、あなたが先に言ってください」


「俺が気づけばな」


「そこが心配です」


「だろうな」


 信長は立ち上がりかけて、ふと止まった。


「飯は」


「用意させます」


「やはり」


「はい」


「帰蝶」


「はい」


「お前の父は、実に嫌な男だった」


 帰蝶は、今度は小さく笑った。


 ほんの少し。


 けれど、はっきりと。


「知っています」


 信長は、その笑みを見て一瞬言葉をなくした。


 それから、少し照れたように視線を逸らした。


「そうか」


「はい」


 その夜、帰蝶は道三の文をもう一度読んだ。


 火。


 桶。


 京。


 地獄。


 父の言葉は物騒で、冷たく、そして正しかった。


 信長は火だ。


 まだ小さな桶の中にいる。


 尾張という桶。


 父の死、政秀の死、弟との火種、家中の不安、町の米、道の銭。


 その狭い桶の中で、火は揺れている。


 消えるか。


 燃え広がるか。


 誰にも分からない。


 ただ一つ、帰蝶には分かっていた。


 自分は、その火から目を離せない。


 それは斎藤の娘としての務めでもあり、織田の妻としての役目でもあり、そして少しだけ、自分自身の意思でもあった。


 外では、夜風が庭の木を揺らしていた。


 尾張の風は、まだ落ち着かない。


 けれど、風の向きは確かに少しずつ変わり始めている。

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