第13話 正徳寺、蝮と会う
美濃の蝮が、俺を見たいと言った。
斎藤道三。
油売りから身を起こし、美濃一国を呑んだ男。
そう言えば、いかにも物語に出てくる悪党のように聞こえる。
だが、本当に恐ろしいのは、悪党という呼び名では足りぬところだ。
あの男は、ただ奪ったのではない。
見たのだ。
人の欲。
国の隙。
古い権威の腐り方。
そして、その腐った梁をどこから抜けば家が崩れるか。
父上は道三を嫌っていた。
警戒もしていた。
だが、軽くは見ていなかった。
父上の文箱にも、美濃に関する書付は多かった。
道三という男の名は、そこに何度も出てくる。
蝮。
油断するな。
銭で動く者を知っている。
寺社の扱いを知っている。
百姓の怖さを知っている。
武士の面子を餌にする。
父上の字で、そう残されていた。
俺はその書付を見て、少し笑った。
父上は、よほど道三が嫌いだったのだろう。
嫌いな相手ほど、よく見ている。
そして、よく見ている相手ほど、どこかで認めている。
そういうものだ。
「信長様」
出立前、帰蝶が俺の前に立った。
美濃の蝮の娘。
今日の会見では、妻というより、美濃と尾張の間に置かれた一本の細い糸に見えた。
切れば血が出る。
引きすぎれば絡まる。
緩めすぎれば意味がない。
「何だ」
「父は、あなたを見ます」
「知っている」
「ただ見るのではありません」
「それも知っている」
「では、なぜそのような格好を?」
帰蝶の視線が、俺の姿を上から下まで見た。
湯帷子をだらしなく羽織り、髪もきちんと整えていない。
腰には長めの太刀。
いつもの、うつけの姿だ。
正室の父に会いに行く格好ではない。
ましてや美濃の蝮に会う格好では、なおさらない。
「お前の父が俺を見たいと言ったのだろう」
「はい」
「ならば、見たいものを見せる」
「父が見たいのは、ただのうつけではありません」
「だからだ」
帰蝶は目を細めた。
「信長様」
「何だ」
「父を侮らないでください」
「侮っていない」
「ならば、なぜ」
「侮っていないから、この格好で行く」
帰蝶は黙った。
説明を求める目をしている。
だが、俺はすぐには言わなかった。
言えば、少し色あせる。
それに帰蝶なら、半分くらいは分かっているだろう。
「父は、おそらく道中であなたを見ます」
「だろうな」
「正徳寺の座敷で初めて見るような真似はしません」
「蝮なら当然だ」
「では、道中でうつけを見せるおつもりですか」
「そうだ」
「そして、座敷では?」
「さてな」
「信長様」
「帰蝶」
俺は笑った。
「お前は、答えを全部聞かぬ方が楽しめる」
「私は楽しむために申し上げているのではありません」
「心配か」
「当然です」
即答だった。
俺は少しだけ意外だった。
いや、意外に思う方がおかしいのか。
妻なのだから。
そう思って、すぐに自分で否定した。
妻だから心配するとは限らぬ。
政略の妻なら、夫の失敗を冷静に見ていることもある。
帰蝶なら、なおさらだ。
だが、今の「当然です」は、政略だけではなかった。
少なくとも、そう聞こえた。
「俺が蝮に食われると思うか」
「食われるとは思いません」
「では」
「噛み合うかもしれません」
「よいではないか」
「よくありません」
帰蝶は溜息をついた。
「父は、人を試します」
「俺も試されるのには慣れている」
「あなたは、試されたら試し返すでしょう」
「悪いか」
「相手が父です」
「なら、なおさらだ」
帰蝶は、しばらく俺を見ていた。
やがて、静かに言った。
「父に、私の夫はただのうつけではないと見せてください」
「見せる必要があるか」
「あります」
「なぜ」
「私が、尾張で見る目を誤ったと思われるのは嫌です」
俺は思わず笑った。
「そこか」
「そこです」
「蝮の娘らしい」
「あなたの妻です」
「それも慣れてきた」
「ええ」
帰蝶は少しだけ目元を緩めた。
「では、行ってくる」
「はい」
「帰ったら飯を食う」
「まだ何も言っておりません」
「言いそうな顔をしていた」
「なら、言わずに済みました」
帰蝶は一歩下がり、静かに頭を下げた。
俺は出立した。
供は多すぎず、少なすぎず。
恒興、長秀、犬千代。
それに幾人かの近習。
政秀がいれば、必ず衣装に文句を言っただろう。
若、せめて髪を。
若、せめて衣を。
若、せめて歩き方を。
声が聞こえる気がした。
俺は馬上で少しだけ笑った。
「若様、どうされました?」
恒興が横から聞く。
「爺がうるさい」
「え?」
「いや、死んでもうるさいと思ってな」
恒興は一瞬黙り、それから小さく頷いた。
「平手様なら、今日の若様を見て、きっと怒ってますね」
「烈火のごとくな」
「はい」
「だが、その後で何と言うと思う」
「ええと……お気をつけください、と」
「違うな」
「違いますか」
「たぶん、こうだ。若、やるなら最後までおやりください、と」
恒興は少し驚いた顔をした。
「平手様がですか」
「あの爺は、小言ばかり言うが、半端は嫌いだった」
長秀が静かに頷いた。
「たしかに、そういう方でした」
犬千代は馬上で落ち着かない様子だった。
「若様」
「何だ」
「蝮とは、やはり毒を持っているのでしょうか」
恒興が吹き出した。
長秀も目を伏せた。
俺は犬千代を見た。
「お前は本気で聞いているのか」
「はい」
「持っている」
犬千代の顔が引き締まった。
「では、斬ればよろしいですか」
「斬るな」
「毒があるのに?」
「舌に毒がある」
「舌なら、なおさら」
「なおさら斬るな」
犬千代は難しい顔をした。
「戦より難しゅうございます」
「今日は刀ではなく耳を使え」
「耳で戦うのですか」
「そうだ」
「承知しました。耳で戦います」
恒興が肩を震わせた。
犬千代は真剣だった。
こういう男は、いつか大きく化けるかもしれない。
ただし、それまでに何度か誰かを殴りそうだ。
そこは気をつけねばならぬ。
道中、俺はいつものように振る舞った。
馬上で干し柿を食い、道端の子供へ半分投げ、馬借と話し、茶店の前で水を飲んだ。
供の者たちは慣れている。
だが、美濃の者が遠くから見ている気配があった。
分かりやすい。
見られている。
帰蝶の言った通りだ。
道三は正徳寺で俺を初めて見る気などない。
道中の俺を見て、尾張のうつけがどれほどのうつけか測るつもりだ。
ならば、見せてやればよい。
乱れた衣。
無作法な振る舞い。
町人へ気安く声をかける姿。
武家の嫡男らしからぬ態度。
美濃の者たちは、どう見るか。
軽い。
危うい。
礼を知らぬ。
父の後を継ぐ器ではない。
そう思う者もいるだろう。
それでいい。
むしろ、そう思う者が多いほどよい。
ただし、道三はどう見るか。
そこだけが肝だった。
茶店の前で水を飲んでいる時、俺は美濃の者らしき男が木陰にいるのを見た。
目が合った。
向こうはすぐ逸らした。
下手だ。
俺は笑って手を振った。
男はぎょっとした顔で姿を消した。
「若様、何を」
恒興が聞く。
「蝮の目に手を振った」
「やめてください」
「なぜ」
「相手が困ります」
「困らせている」
「でしょうね」
正徳寺に近づくと、空気が変わった。
寺というものは、不思議な場所だ。
人の欲を離れた顔をしながら、人の欲が一番集まりやすい。
祈り。
土地。
米。
銭。
縁。
権威。
死者。
全部が寺に流れ込む。
だから寺を軽く見てはならない。
俺は馬を降りた。
その時はまだ、うつけの姿のままだった。
迎えに出た者たちの顔が、わずかに引きつる。
美濃の者もいる。
尾張の供もいる。
皆、俺がこの格好のまま道三と会うと思っているのだろう。
そう思わせるために、ここまで来た。
「部屋を借りる」
俺が言うと、寺の者が慌てて頭を下げた。
奥の一室へ入る。
襖が閉まる。
恒興が待ってましたという顔で荷を開いた。
長秀が着替えの順を確認する。
犬千代は目を丸くしている。
「若様、まさか」
「まさか何だ」
「着替えるのですか」
「そうだ」
「なら、最初からその格好で来ればよろしいのでは」
「それでは見せるものが一つ減る」
「難しいです」
「覚えなくてよい。お前はまず斬らずにいることを覚えろ」
「はい」
衣を替える。
髪を整える。
無駄な飾りはつけない。
だが、乱れは一つも残さない。
父上の葬儀で見せた整った姿とも違う。
あの時は、形に押し込められることへの反発があった。
今日は違う。
これは、俺の選んだ姿だ。
飾るのではなく、整える。
政秀の言葉が胸の中で鳴る。
若、姿は使うものです。
使われてはなりません。
あの爺は、そんな言い方はしていない。
だが、言いそうな気がした。
「どうだ」
俺が立つと、恒興が息を呑んだ。
「別人ですね」
「褒めているのか」
「かなり」
「皆、その言い方を覚えたな」
長秀は静かに頷いた。
「美濃の方々は驚かれるでしょう」
「驚くだけなら、たいしたことはない」
「道三殿は」
「驚いた顔をするかどうかだな」
俺は部屋を出た。
寺の者が、俺を見て固まった。
先ほど入ってきた男と同じ人物だと、すぐには分からなかったのだろう。
それでいい。
俺は廊下を進んだ。
畳の匂い。
香の匂い。
古い木の匂い。
寺の奥にある静けさは、城の静けさとも町の静けさとも違う。
いくつもの嘘と祈りが、長い時間をかけて沈殿した静けさだ。
座敷に入ると、斎藤道三がいた。
思っていたより小柄だった。
だが、場を小さくする男ではない。
座っているだけで、周囲の者が息を測る。
目が細い。
口元に笑みがある。
その笑みは親しみではない。
刃の鞘に塗られた油のようなものだ。
抜きやすくするためにある。
「お初にお目にかかる」
道三が言った。
声は低い。
老いているが、鈍ってはいない。
「斎藤山城守である」
俺は座り、頭を下げた。
作法通りに。
深すぎず、浅すぎず。
「織田三郎信長にございます」
座敷にいた美濃の者たちの気配が揺れた。
さきほどまでのうつけが、ここにはいない。
そう思ったのだろう。
道三だけは、ほとんど表情を変えなかった。
ただ、目の奥が少しだけ笑った。
見ていたな。
そして、待っていたな。
「婿殿」
道三はゆっくり言った。
「わしを騙したな」
場が凍りかけた。
俺は顔を上げた。
「騙されたと思うなら、蝮もまだ若い」
美濃の者たちが息を呑んだ。
尾張の供も固まった。
恒興など、後ろで魂が抜けかけている気配がした。
犬千代は、たぶん意味が分からず真剣な顔をしている。
長秀は何も言わない。
道三は、しばらく俺を見た。
次の瞬間、笑った。
大声ではない。
だが、座敷の空気が一度揺れるほどの笑いだった。
「なるほど。帰蝶が手紙で書かぬわけじゃ」
「何と」
「あれは、言葉にしづらい、とだけ書いてきた」
「便利な娘だ」
「わしの娘じゃ」
「俺の妻でもある」
道三の目が細くなった。
「そう言うか」
「事実ですので」
「事実は、言う場を間違えると刃になる」
「今日は刃を見に来たのでしょう」
道三はまた笑った。
今度は声を出さなかった。
口元だけが動く。
「よい。実によい。尾張のうつけとは聞いていたが、なるほど、うつけじゃ」
「やはりそう見えますか」
「見える」
「それは何より」
「ただし、ただのうつけではない」
道三は、身を少し前に出した。
「道中、よく見せてくれたな」
「見たいと聞きましたので」
「町人に声をかけ、干し柿を投げ、茶店で水を飲み、美濃の者に手まで振った」
「あの者は隠れるのが下手でした」
「あれは、あとで叱っておこう」
「生きて叱るのはよいことです」
言ってから、胸の奥が少し痛んだ。
政秀のことがよぎった。
道三は、そのわずかな変化を見逃さなかった。
「誰か死んだか」
鋭い。
俺は答えた。
「傅役が」
「平手政秀か」
「ご存じで」
「織田のことを何も知らずに婿殿を見るほど、わしは優しくない」
「でしょうね」
「死んで諫めたと聞いた」
「耳が早い」
「耳の遅い蝮は、蛇の干物になる」
俺は少し笑った。
道三は俺を見たまま言った。
「して、届いたか」
その問いは、軽くなかった。
死んで諫めた言葉が、俺に届いたか。
届いた。
そう簡単に言いたくない。
だが、届いていないとも言えない。
「腹が立つほどには」
俺が答えると、道三は目を細めた。
「よい答えじゃ」
「よいですか」
「死者をすぐありがたがる若造は、たいてい嘘をつく。怒れるなら、まだ生きた言葉として受け取っておる」
この男。
嫌なところを突いてくる。
帰蝶に似ている。
いや、帰蝶が道三に似ているのか。
「父上のことも聞いている」
道三が言った。
「信秀殿は惜しい男だった」
「嫌っていたのでは」
「嫌いな男が惜しくないとは限らぬ」
「なるほど」
「おぬしは父に似ておらぬな」
「よく言われます」
「だが、似ている」
「どちらです」
「似ておらぬところが似ている」
分かるような、分からぬような言葉だ。
禅問答の類か。
いや、道三は坊主ではない。
商人上がりの蝮だ。
こういう言い方をする時は、相手を揺らしに来ている。
「俺は父上にはなれません」
「ならんでよい」
道三は即答した。
「信秀殿の真似をした信長など、わしは見る価値がない」
「では、何を見に?」
「帰蝶の夫が、どの程度の毒を持つか」
「毒ですか」
「ただの薬では乱世は治らぬ。毒も要る」
道三は、傍らの茶碗を手に取った。
「しかし、毒ばかりでは国が死ぬ」
「蝮が言うと重いですね」
「わしは己の毒で何度も腹を壊しておる」
美濃の者たちがわずかに気配を乱した。
こんなことを言う主なのか。
あるいは、俺だから言っているのか。
おそらく後者だ。
道三は、自分の過去をただ誇っているわけではない。
失敗も毒も、人を測る道具にしている。
「婿殿」
「はい」
「尾張をどうする」
来た。
帰蝶と同じ問いだ。
いや、同じようで違う。
帰蝶の問いは、夫を見る問いだった。
道三の問いは、国を測る問いだ。
俺はすぐには答えなかった。
座敷の中の者たちが、息を潜める。
天下。
尾張統一。
今川への備え。
美濃との同盟。
そういう言葉を期待しているのかもしれない。
だが、今の俺に言えることは一つだった。
「まず、飢えぬようにします」
道三の目がわずかに動いた。
「ほう」
「兵が飢えれば盗む。百姓が飢えれば逃げる。商人が怯えれば道が死ぬ。道が死ねば国が死ぬ」
帰蝶に言った言葉と同じだ。
だが、ここでは少し重さが違う。
「父が死んだだけで、尾張の米の値が動きました。守山の道で荷が止まりました。俺と勘十郎の名が盗まれました。鉄も炭も詰まり始めています」
道三は茶碗を置いた。
「そこを見るか」
「そこを見ずに、どう戦をするのです」
「武士は、槍と首の話を好む」
「槍は腹が減ると重くなる」
道三は、今度こそ愉快そうに笑った。
「帰蝶が書けぬわけだ」
「またそれですか」
「あれは、おぬしを褒めもせず、貶しもせず、ただ『見ているものが違う』とだけ書いてきた」
「帰蝶らしい」
「すでに分かった顔をするか」
「少しは」
「少し、か」
「妻を全部分かったと言う男は、たぶん長生きしません」
道三は声を上げて笑った。
「その通りじゃ」
笑いが収まると、道三の目が鋭くなった。
「しかし、飢えぬようにするだけでは国は取れぬ」
「国を取るとは言っていません」
「では、守るだけか」
「守るために変えます」
「何を」
「道を。米の流れを。名の使い方を。家中の顔の見方を」
「大きなことを言わぬくせに、やることは大きい」
「大きく言えば、大きいことをした気になる者が多い」
「嫌な若造じゃ」
「よく言われます」
「誰に」
「生きていた頃の傅役に」
道三は少しだけ目を伏せた。
それは弔意だったのかもしれない。
蝮にも、そういう顔があるらしい。
「勘十郎殿はどうする」
道三が言った。
座敷の空気が変わった。
美濃の者たちも、尾張の供も、その名に反応した。
道三は当然、知っている。
俺と信勝の間にある火種を。
「弟です」
「それは知っている」
「父の子です」
「それも知っている」
「俺より美しく座ります」
「そこは見たことがない」
「見れば分かります」
道三は、少し呆れたように笑った。
「おぬしは、弟をどう見ておる」
「俺と違うものを見る男です」
「危ういな」
「はい」
「担がれるぞ」
「もう担がれ始めています」
「殺すか」
座敷の空気が凍った。
美濃の者が息を呑む。
恒興の気配が強張る。
犬千代はたぶん刀の柄を意識した。
長秀は黙っている。
俺は道三を見返した。
「今は殺しません」
「今は、か」
「殺さずに済むなら、その方がよい」
「甘い」
「そうかもしれません」
「だが、最初から殺すと言う男よりは、見どころがある」
「蝮なら、殺せと言うかと思いました」
「必要なら殺せ。不要なら殺すな。殺しは道具じゃ。性分にしてはならぬ」
その言葉は、父上の言葉と似ていた。
必要なら、泣いても斬れ。
腹が立ったから斬るな。
怖いから斬るな。
強く見せたいから斬るな。
俺は少しだけ息を呑んだ。
道三がそれを見た。
「信秀殿も似たことを言ったか」
「なぜ分かる」
「おぬしの顔に出た」
帰蝶と同じことを言う。
血は争えない。
「嫌な親子ですね」
「それもよく言われる」
「誰に」
「わしの娘に」
「でしょうね」
道三はまた笑った。
だが、その目は笑いきっていなかった。
「婿殿」
「はい」
「わしと手を組め」
突然の言葉だった。
いや、突然に聞こえるように置いたのだろう。
蝮は、間合いを外すのがうまい。
「もう組んでいるのでは」
「帰蝶を嫁がせた。だが、それは縁を置いただけじゃ。手を組むとは違う」
「何を望みます」
「尾張が崩れぬこと」
意外な言葉だった。
「美濃が尾張を呑みたいのでは」
「呑める時なら呑む」
「正直ですね」
「だが今、尾張が崩れすぎれば、今川が笑う」
道三の声が低くなった。
「今川義元は馬鹿ではない。公家かぶれの遊び人と思う者は、首を取られる。あれは国を作れる男じゃ。駿河、遠江、三河を束ねておる。尾張が割れれば、必ず来る」
その評価は、父上の書付にも近かった。
今川を軽んじるな。
義元を愚将と見るな。
父上はそう残していた。
「尾張が美濃の盾になりますか」
「美濃も尾張の盾になる」
「きれいな言い方だ」
「汚く言えば、互いに利用する」
「そちらの方が分かりやすい」
「帰蝶が言いそうな返しじゃ」
「親子ですね」
道三は少しだけ鼻で笑った。
「わしは、おぬしが尾張をまとめられるか見に来た」
「答えは?」
「まだ分からぬ」
「正直だ」
「だが、少なくとも見限るほどではない」
「それは褒めていますか」
「かなり」
「その言い方、美濃でも流行っているのですか」
「何の話じゃ」
「いえ」
道三は俺をじっと見た。
「おぬしは、うつけを演じておる」
「演じている部分はあります」
「全部ではないな」
「全部なら楽でした」
「よい」
道三は頷いた。
「全部演じている男は、どこかで折れる。全部本物のうつけなら、ここまで来られぬ。半分は演じ、半分は本当に狂っているくらいが、乱世ではちょうどよい」
「ひどい褒め言葉ですね」
「褒めておる」
「かなり?」
「少しじゃ」
俺は笑った。
この男は、話していて疲れる。
だが、退屈しない。
退屈しない相手は危険だ。
なぜなら、少し油断するからだ。
「一つ聞きたい」
道三が言った。
「何でしょう」
「おぬし、京をどう見る」
京。
その言葉が座敷に落ちた瞬間、空気が少し変わった。
尾張。
美濃。
今川。
それらとは違う遠さを持つ言葉だ。
京には将軍がいる。
朝廷がある。
古い権威がある。
乱れた秩序の中心がある。
だが、今の俺にはまだ遠い。
「今は遠い」
俺は答えた。
「ほう」
「尾張もまとまっていない男が、京を語れば足元をすくわれます」
「だが、見てはいるのだな」
「見ていないと言えば嘘になります」
道三の目が細くなる。
「天下を欲するか」
「天下とは何です」
俺が聞くと、道三は笑みを消した。
「面白いことを聞く」
「尾張の百姓が言う天下と、京の公家が言う天下と、武士が酒の席で言う天下は、同じではないでしょう」
道三は黙った。
座敷の奥にいる美濃の者たちも、言葉を失っている。
「俺はまだ、天下を知りません」
俺は言った。
「父上の城も、まだ俺の城になっていない。尾張の道も、まだ詰まっている。弟の名も盗まれている。その俺が天下を欲すると言えば、それは大きな夢ではなく、大きな嘘です」
「では、欲さぬか」
「今は、欲するほど知らない」
道三は、長いこと俺を見ていた。
何を測っているのか。
たぶん、俺の言葉の奥にある欲だ。
欲はある。
ないはずがない。
人の上に立とうとする者が、欲なく立てるはずがない。
だが、その欲にまだ名がついていない。
天下。
国。
秩序。
道。
米。
生き残り。
どれも近いようで違う。
「知らぬものを知らぬと言うか」
道三が呟いた。
「分かったふりは、足を遅くします」
「誰の言葉じゃ」
「俺の言葉です」
「そうか」
道三は、ふっと息を吐いた。
「帰蝶は、面白い男に嫁いだ」
「不幸ではないとよいですが」
「それは帰蝶が決めることじゃ」
「そうですね」
「婿殿」
「はい」
「わしは、おぬしを好かぬ」
美濃の者がまた凍った。
だが、道三は続けた。
「好かぬが、嫌いではない」
「複雑ですね」
「人とはそういうものじゃ」
「分かります」
「なら、よい」
会見は、それからもしばらく続いた。
美濃と尾張の境。
商い。
寺社。
今川への警戒。
帰蝶の扱い。
守山の件。
政秀寺のこと。
道三は、驚くほど細かく聞いた。
国を奪った男は、国の細部を見ている。
それが分かった。
蝮はただ噛むだけではない。
地面の温度まで知っている。
会見が終わる頃、日は少し傾いていた。
俺は立ち上がり、頭を下げた。
道三も座したまま頷く。
「婿殿」
「はい」
「帰蝶を泣かすな」
「それは難しいですね」
道三の目が鋭くなった。
「どういう意味じゃ」
「人は泣く時は泣きます。泣かせぬと約束する男は、たぶん嘘つきです」
「なら、何を約束する」
「泣いた理由を見ないふりはしません」
道三は黙った。
それから、低く笑った。
「本当に嫌な若造じゃ」
「よく言われます」
「だが、その答えならよい」
俺はもう一度頭を下げ、座敷を出た。
外へ出ると、恒興が大きく息を吐いた。
「生きた心地がしませんでした」
「お前は何も話していないだろう」
「聞いているだけで寿命が縮みました」
長秀が静かに言った。
「道三殿は、恐ろしい方ですね」
「ああ」
犬千代は真面目な顔で言った。
「若様」
「何だ」
「耳で戦うのは、疲れます」
「よく分かったな」
「はい。刀の方が楽です」
「そこから先を覚えろ」
「はい」
寺の外へ出る前に、俺は一度振り返った。
正徳寺。
ここで道三と会った。
互いに何かを決めたわけではない。
同盟の細部が一気に固まったわけでもない。
だが、見た。
見られた。
それで十分だった。
帰路、道中で恒興が聞いた。
「若様、道三殿は若様をどう見たのでしょう」
「見限りはしなかった」
「それはよいことですか」
「半分は」
「また半分ですか」
「全部よいことなど、そうそうない」
馬を進めながら、俺は空を見た。
曇りではない。
晴れきってもいない。
尾張へ戻れば、また火種がある。
守山の後始末。
林の動き。
勘十郎の周囲。
米の帳面。
鉄と炭。
今川。
そして、政秀のいない城。
だが、今日一つ分かった。
俺は、まだ天下を知らない。
知らないが、京をまったく見ていないわけではない。
尾張を守るには、尾張だけを見ていては足りない。
美濃を見ねばならない。
今川を見ねばならない。
いずれ、京も見ることになる。
だが、焦るな。
政秀が言う。
止まれ。
見ろ。
それから決めろ。
父上も言う。
見て、決めろ。
背負え。
道三は言う。
毒ばかりでは国が死ぬ。
そして帰蝶は、おそらくこう言う。
食べましたか、と。
俺は馬上で少し笑った。
尾張へ帰ったら、まず飯を食う。
それから帰蝶に言う。
お前の父は、実に嫌な男だった、と。
たぶん帰蝶は笑わない。
ただ、目元だけを少し緩めて言うだろう。
知っています、と。
その顔を少し見たいと思った。
そう思った自分に、少し驚いた。
蝮の娘は、いつの間にか尾張の風の中に混ざり始めている。
正徳寺で、俺は蝮と会った。
そして分かった。
乱世には、敵だけではない。
味方でもない者がいる。
嫌いだが、使える者。
好かぬが、見捨てられぬ者。
噛み合いながら、同じ方角を見なければならぬ者。
道三は、そういう男だった。
尾張へ戻る道の先に、城が見えた。
父上の城。
まだ俺の城ではない。
だが、少しずつ変えていく。
父上の真似ではなく。
政秀の死を飾りにせず。
勘十郎をただの火種にせず。
帰蝶をただの政略の妻にせず。
うつけの仮面を捨てず。
しかし、仮面に食われず。
俺は、俺のまま進む。
正徳寺の畳の上で、蝮は俺を見た。
俺もまた、蝮を見た。
その日、尾張のうつけという噂は、美濃で少し形を変えた。
ただのうつけではない。
そう広がれば、それでいい。
分からないものを、人はもう一度見ようとする。
その間に、俺は次の手を考える。




