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第11話 平手政秀の選んだ死

 評定の場は、燃える前の薪に似ていた。


 まだ炎は上がっていない。


 だが、熱はある。


 誰かが不用意に息を吹けば、たちまち赤くなる。


 俺は上座に座り、長秀の帳面を前に置いた。


 帳面。


 たかが紙だ。


 だが、その紙には人の名がある。


 止められた荷の数がある。


 怪我人の名がある。


 誰がどの名を使ったかがある。


 口だけの忠義より、よほど重い。


 林秀貞、林美作守、佐久間信盛、柴田勝家。


 そこに政秀、勘十郎、帰蝶、長秀、恒興、犬千代、津々木蔵人が控える。


 犬千代は座り慣れていないのか、膝が落ち着かない。


 隣の恒興が小声で何か言うと、犬千代は慌てて背筋を伸ばした。


 こういう時、若い者は分かりやすい。


 分かりやすい者が一人いると、場の息が少し抜ける。


 だが、今夜はそれでも重い。


 林美作守は、顔を青くしていた。


 自分の出入りの者が、勘十郎の名を使って荷を止めていた。


 直接の命か。


 黙認か。


 それとも、本当に知らなかったか。


 まだ分からない。


 分からないからこそ、評定の場に出した。


 闇で斬れば、噂が育つ。


 光に出せば、顔が見える。


「長秀」


「はい」


「読め」


 長秀は帳面を開いた。


 声は静かだった。


 派手さはない。


 だが、こういう場ではそれがよい。


「守山へ向かう道にて、馬借の荷が止められました。止めた者は、織田の御用を称し、銭と米を求めたとのこと。さらに、勘十郎様の御用であるとも名乗った者がございます」


 林美作守の肩が動いた。


 勘十郎は、まっすぐ前を見ている。


 顔は整っている。


 だが、膝の上の手だけがわずかに固い。


「怪我人は馬借二名、小者三名。死人はなし。前田犬千代殿が双方を引き離し、池田恒興殿、津々木蔵人殿とともに聞き取りを行いました」


 犬千代が少しだけ得意げな顔をした。


 政秀が横から鋭く見ると、すぐに顔を引き締めた。


「名を騙った者の一人は、林美作守様の屋敷へ出入りする男。名は市助。本人は、勘十郎様をお支えするため、と申しました」


 そこまで読み上げると、部屋が静まり返った。


 言葉にしてしまえば、もう戻らない。


 勘十郎を支えるため。


 それは、一見すると忠義の言葉だ。


 だが、勝手に名を使えば、忠義ではない。


 主君を支える顔をして、主君の名を汚すことになる。


「美作守」


 俺は言った。


「市助に命じたか」


 林美作守は深く頭を下げた。


「命じてはおりませぬ」


「知らなかったか」


「……噂は、耳にしておりました」


「噂?」


「守山道で、荷が止められていると。されど、それが私の屋敷へ出入りする者の仕業とは」


「では、なぜ止めなかった」


 林美作守は答えに詰まった。


 その沈黙が答えだった。


 知らなかったわけではない。


 知っていたが、動かなかった。


 なぜか。


 自分に都合が悪くなかったからだ。


 勘十郎の名で人が動く。


 信長への不安が広がる。


 林美作守が直接命じずとも、周りが勝手に動く。


 それを止めなければ、流れは自然と弟の方へ向く。


 火をつけたのではない。


 火がつくのを見ていた。


 そういう罪だ。


「美作守」


 勘十郎が口を開いた。


 林美作守の背が震える。


「私は、あなたにそのようなことを頼みましたか」


「いいえ」


「私の名で荷を止めよと申しましたか」


「いいえ」


「では、なぜ私の名が道で使われるのです」


 静かな声だった。


 だから余計に重かった。


 林美作守は額を畳につけた。


「申し訳ございませぬ」


「謝る相手が違います」


 勘十郎は言った。


「私ではありません。荷を止められた者たちです。怪我をした者たちです。そして、父上の死で不安になっている町の者たちです」


 俺は弟を見た。


 よい。


 実によい。


 その言葉は、俺が言うより場に届いた。


 俺が言えば、林を追い詰める言葉になる。


 勘十郎が言えば、自分の名を守る言葉であり、織田の名を正す言葉になる。


 だが、同時に危うくもある。


 今の勘十郎の姿を見て、家臣たちはどう思うか。


 やはり勘十郎様は立派だ。


 そう思う者はいる。


 俺はその視線の動きを見た。


 林秀貞。


 佐久間。


 柴田。


 政秀。


 帰蝶。


 全員が、勘十郎を見ていた。


 弟は、俺より美しく座るだけではない。


 俺より美しく叱る。


 俺は、胸の奥にわずかな苦さを覚えた。


 嫉妬か。


 いや、そうかもしれない。


 主になる者が、弟に嫉妬してどうする。


 そう思いながら、それでも苦いものは苦い。


「若君」


 林秀貞が口を開いた。


 弟の美作守を庇うつもりか。


 そう思ったが、声は思ったより慎重だった。


「此度の件、美作守の監督不行き届きは明らかにございます。されど、出入りの者が勝手に名を騙ったこと。まずは市助なる者を捕らえ、詳しく調べるべきかと」


「捕らえている」


 長秀が答えた。


「別室に」


 林秀貞の目が一瞬動いた。


 早い、と思ったのだろう。


 そうだ。


 早く動かねば、名を騙った者は消える。


 消えた後で人は言う。


 そんな者はいなかった。


 あるいは、誰かに消された、と。


「市助は何と」


 佐久間が問う。


 長秀が帳面を見る。


「勘十郎様をお支えする者たちの間で、信長様では家中が不安だという話があった。だから、まず道と荷を押さえ、勘十郎様のお力を示すべきだと考えた、と」


 勘十郎が目を閉じた。


 林美作守はさらに深く頭を下げた。


 柴田勝家が低く唸った。


「馬鹿な」


 実に短い言葉だった。


 だが、場の多くが同じことを思った。


 馬鹿な話だ。


 だが、馬鹿な話ほど火がつきやすい。


 人は賢い理屈より、分かりやすい不安に乗る。


「力を示すために、荷を止める」


 俺は言った。


「米を止め、鉄を止め、炭を止め、道を詰まらせる。それで織田の力を示すつもりだったか」


 誰も答えない。


「道を詰まらせる者は、敵と同じだ」


 柴田が顔を上げた。


 武辺者にも届くよう、俺は続けた。


「戦場で敵の兵糧を止めれば手柄だ。だが、己の国の道を止めれば、己の兵の腹を減らす。腹の減った兵に忠義を説く者は、主ではない。ただの怠け者だ」


 佐久間が静かに頷いた。


 林秀貞は、表情を消している。


 林美作守は、汗を額に浮かべていた。


「美作守」


「はっ」


「市助は罰する」


「承知いたしました」


「お前にも罰を与える」


 林美作守は顔を上げた。


 林秀貞の目が鋭くなる。


 ここで重すぎる罰を与えれば林一門が揺れる。


 軽すぎれば示しがつかない。


 俺は政秀を見なかった。


 見れば、政秀の考えに寄りかかることになる。


 自分で決める。


「美作守、お前はしばらく守山道に関わることを禁じる。出入りの者をすべて洗い、名簿を出せ。さらに、止められた荷の損は、お前の屋敷から半分補え」


 場が揺れた。


 殺さない。


 役をすべて奪うわけでもない。


 だが、銭で責任を負わせる。


 名を騙らせたことで生じた損を、目に見える形で払わせる。


「半分、でございますか」


 林秀貞が問うた。


「残り半分は、織田が補う」


 政秀が俺を見た。


 勘十郎も顔を上げる。


「若、それは」


「名を盗まれた責は、名を持つ者にもある」


 俺は言った。


「織田の名が軽くなったから、こうなった。ならば織田も払う」


 林秀貞の顔が、わずかに変わった。


 佐久間は目を伏せた。


 柴田は俺を見ている。


 政秀は何か言いたげだったが、黙った。


 勘十郎は、長く俺を見ていた。


「兄上」


「何だ」


「その半分、私にも負わせてください」


 部屋が静まった。


「私の名が使われました。命じていないとはいえ、私の名です」


「お前に払うだけの蔵があるのか」


「足りぬなら、母上に借ります」


「母上を巻き込むな」


「では、私の持ち物を売ります」


「お前の持ち物など、たいしてないだろう」


「兄上よりは、きれいに残っています」


 こんな場で、弟は少しだけ皮肉を言った。


 俺は思わず笑いそうになった。


 だが、こらえた。


「よい」


「兄上」


「お前は別に払え。馬借の怪我人に見舞いを出せ。名目は、勘十郎の名を騙られて迷惑をかけた詫びだ」


 勘十郎は深く頭を下げた。


「はい」


 よし。


 これで勘十郎は、自分の名を自分で正すことになる。


 俺が弟を罰した形ではない。


 弟が己の名に責任を持った形になる。


 それなら、家中にも町にも届く。


 届くはずだ。


 届かなければ、また考える。


「若君」


 佐久間が言った。


「町への触れは、いかがいたしますか」


「出す。ただし大げさにするな」


「文言は」


「織田の名、信長の名、勘十郎の名を騙り、荷を止めることを禁ずる。真の御用であれば、必ず印と名を示す。名を示せぬ者は従うな。帳面につけ、丹羽へ届けよ」


 長秀が遠い目をした。


「また私ですか」


「お前の帳面だ」


「はい」


 帰蝶が静かに口を挟む。


「触れには、信長様と信勝様の名を並べるべきです」


 場がまた少し動いた。


「並べる?」


 政秀が問う。


「はい。信長様の命として出せば、信勝様側の者は疑います。信勝様の詫びだけを出せば、信勝様が責められたように見えます。織田家として、二人の名で名を騙る者を禁じる。そう見せるべきです」


 俺は帰蝶を見た。


 この女は、本当に噂の流れをよく見る。


「採る」


 俺が言うと、帰蝶は軽く頭を下げた。


 勘十郎も頷いた。


 政秀も今度は反対しなかった。


 評定は長く続いた。


 市助の処罰。


 怪我人への見舞い。


 止められた荷の補償。


 守山道の確認。


 寺社の関への聞き取り。


 織田の名を使う時の印の整備。


 小さな話がいくつも並ぶ。


 だが、小さくない。


 俺は今日、それを嫌というほど知った。


 評定が終わる頃には、夜が深くなっていた。


 林美作守は青ざめたまま退いた。


 林秀貞は弟を支えるように歩きながら、一度だけこちらを見た。


 その目に、恨みはある。


 だが、それだけではない。


 測り直している目だった。


 佐久間は静かに頭を下げて去った。


 柴田は最後まで残った。


「若君」


「何だ」


「本日は、斬らぬ評定でございましたな」


「不満か」


「いいえ」


 柴田は首を振った。


「斬れば早い。されど、斬っても名は残ります。名が残れば、また騙る者が出る。そういうことかと」


 俺は少し驚いた。


「お前にしては、よく見ている」


 柴田の眉が跳ねた。


「それは褒めておられるのですか」


「かなり」


「若君の褒め言葉は、腹が立ちますな」


「よく言われる」


 柴田は少しだけ笑った。


 そして、すぐ真顔に戻った。


「されど、若君。いずれ斬らねばならぬ時も来ましょう」


「ああ」


「その時、迷われませぬよう」


 柴田の言葉は重かった。


 俺は答えた。


「迷う」


 柴田の目が鋭くなる。


「迷って、それでも必要なら斬る」


 柴田はしばらく俺を見た。


 それから深く頭を下げた。


「承知」


 柴田が去った後、広間には俺と政秀だけが残った。


 帰蝶と勘十郎も少し前に下がっていた。


 長秀は帳面を抱え、仕事の山に埋もれる顔で去っていった。


 犬千代は、政秀の説教を免れたことに心底安堵していた。


 場が静かになる。


 俺は息を吐いた。


「爺」


「はい」


「今日の評定は、どうだった」


 政秀はすぐには答えなかった。


 いつもなら、まず小言が来る。


 だが、今夜は沈黙が長かった。


「悪くは、ございませんでした」


「珍しい」


「よくも、ございません」


「結局そうか」


「若らしい評定でした」


「それは褒めているのか」


「半分は」


「皆、半分ばかりだな」


 政秀は笑わなかった。


 俺も笑えなかった。


 政秀の顔は、いつになく疲れていた。


「若」


「何だ」


「お疲れでございましょう」


「爺こそ」


「私は老いぼれですから」


「知っている」


「そこは否定していただきたかった」


「爺は、俺に嘘を嫌うよう育てた」


「都合のよい時だけ、教えを守られますな」


 いつものやり取り。


 だが、どこか音が違った。


 政秀の声が、遠い。


「若」


「まだあるのか」


「はい」


 政秀は俺の前に座り直した。


 その姿勢があまりに改まっていて、俺は嫌な予感がした。


「此度の件、若はよく見ておられました。町を見て、道を見て、名の使われ方を見て、勘十郎様の立場もお考えになった」


「珍しく褒めるな」


「ですが」


 やはり来た。


「若は、まだ御自身の言葉が人を動かす重さを、軽く見ておられます」


「今日のどこがだ」


「長秀殿に帳面を命じたこと。犬千代殿に斬るなと命じたこと。林美作守殿へ罰を与えたこと。勘十郎様を評定に座らせたこと。すべて、必要だったのでしょう」


「ならば」


「ですが、必要なことをする時、人の心がどう擦り切れるかを、若は後からお気づきになる」


 俺は黙った。


「今日、勘十郎様は傷つかれました。津々木殿も傷ついた。林美作守殿は追い詰められた。長秀殿は重荷を背負った。犬千代殿は命を守りましたが、今後も若の無理を受けるでしょう」


「人を動かせば、誰かは傷つく」


「はい」


 政秀は頷いた。


「それを知ることと、傷つく者の顔を最後まで見ることは違います」


 痛いところを突かれた。


 俺は見る。


 見ているつもりだ。


 だが、見た後で次へ行く。


 次の火種。


 次の帳面。


 次の道。


 次の不安。


 そのたび、誰かの心が削れている。


 政秀は、それを見ている。


 俺が見落としているものを。


「爺」


「はい」


「俺は、主に向いていないか」


 政秀は少しだけ目を見開いた。


 俺も、自分の問いに驚いた。


 弱音だ。


 間違いなく。


 だが、出てしまった。


「向いている主など、最初からおりませぬ」


 政秀は静かに言った。


「皆、向いていないまま、向かされるのです」


「父上もか」


「お屋形様も」


「爺は何でも父上を持ち出すな」


「若がよくお聞きになるので」


「そうか」


 政秀は続けた。


「若は、主に向いておられぬところが多うございます」


「遠慮がないな」


「嘘は嫌いでございましょう」


「それもそうだ」


「ですが、若でなければ見えぬものがある。それも事実です」


 政秀は、ゆっくり頭を下げた。


「どうか、その目を人を斬るためだけに使わないでいただきたい」


「斬るためだけに使っているつもりはない」


「存じております」


「ではなぜ」


「若の目は、鋭すぎるのです」


 政秀の声が、少し震えた。


「鋭い刃は、敵だけでなく、味方の袖も裂きます。若はそれに気づかぬまま、先へ進まれる」


「だから爺が叱るのだろう」


「はい」


 政秀は顔を上げた。


 目が赤かった。


「ですが、私の言葉は、いつまで若に届きましょうか」


 俺は何も言えなかった。


「爺」


「本日は、これにて」


 政秀は立ち上がった。


「休め」


「若こそ」


「俺は少し帳面を見る」


「お食事は」


「食った」


「本当に?」


「帰蝶に見張られた」


「ならば安心です」


 政秀は少しだけ笑った。


 本当に、少しだけ。


 それが、その夜見た政秀の最後の笑みだった。


 翌朝、俺は政秀の死を知らされた。


 最初、何を言われたのか分からなかった。


 小姓が蒼白な顔で飛び込んできた。


「平手様が……」


 その後の言葉が、耳の中で崩れた。


 自害。


 屋敷。


 書状。


 若君へ。


 言葉がばらばらに落ちてくる。


 俺は立ち上がった。


 立ち上がったつもりだった。


 膝が畳を蹴り、文箱に手が当たり、父上の書付が数枚散った。


 誰かが止める声を上げた。


 無視した。


 廊下を走った。


 走ってはならない立場だとか、城中が見るとか、そんなことは一つも頭に入らなかった。


 政秀の屋敷へ向かう道が、やけに長かった。


 昨日、守山へ出たい俺を政秀は止めた。


 動かぬことも主の役目だと言った。


 なのに今、俺は走っている。


 主でも何でもない。


 ただの若造のように。


 屋敷の前には人が集まっていた。


 皆、道を開ける。


 俺は中へ入った。


 血の匂いがした。


 鉄と、畳と、沈んだ香の匂い。


 政秀は、きちんと座っていた。


 最後まで、姿を乱さぬ男だった。


 腹を切ってなお、俺に小言を言うための形を残しているように見えた。


 俺は、その前で足を止めた。


 声が出ない。


 爺。


 そう呼ぼうとした。


 呼べなかった。


 呼べば、返事がないことが分かってしまう。


 いや、もう分かっている。


 分かっているのに、まだ分かりたくなかった。


 政秀の側に、書状が置かれていた。


 俺宛てだった。


 手が伸びない。


 伸ばせば、政秀の最後の言葉を読まねばならない。


 読みたくない。


 だが、読まねばならない。


 俺は書状を取った。


 字は乱れていなかった。


 最後まで、几帳面な男だ。


 そこには、長々と恨み言が書かれていたわけではない。


 俺の行状を諫める言葉。


 家中を思う言葉。


 父上への忠義。


 勘十郎への配慮。


 帰蝶を粗末に扱うなという、余計なようで余計でない一文。


 そして最後に、こうあった。


 若の目は、乱世を見るには鋭すぎる。


 されど、人の痛みを見るには、時に急ぎすぎる。


 どうか、御身を整えられよ。


 うつけの仮面は、若を守りましょう。


 しかし、いつか若自身を孤独にいたします。


 この老骨の死が、若の足を一度だけ止めるならば、それを最後の奉公といたします。


 最後の奉公。


 俺は書状を握りしめた。


 ふざけるな。


 そう思った。


 最後の奉公だと。


 死んでまで俺を叱るのか。


 俺の足を止めるために、自分の命を使ったのか。


 爺。


 そんなものはいらぬ。


 俺は、そんな奉公を頼んでいない。


 怒りが込み上げた。


 悲しみより先に。


 まただ。


 また俺は怒っている。


 父上が死んだ時と同じだ。


 置いていかれた怒り。


 言うだけ言って死んだ者への怒り。


 背負わせるだけ背負わせて、こちらの答えを聞かずに逝った者への怒り。


「ふざけるな」


 声が出た。


 低く、掠れていた。


 周囲の者が震えた。


「ふざけるな、爺」


 政秀は答えない。


 当たり前だ。


 死んでいる。


「俺を叱るなら、生きて叱れ」


 声が震えた。


「昨日も叱っただろう。今日も叱ればよかっただろう。明日も、明後日も、飽きるほど叱ればよかっただろう」


 返事はない。


 政秀はきちんと座ったまま、動かない。


「死ぬことでしか届かぬ言葉など」


 喉が詰まった。


 その先が出ない。


 死ぬことでしか届かぬ言葉など、いらない。


 そう言いたかった。


 だが、本当にそうか。


 昨日まで、政秀の言葉は届いていた。


 届いていたのに、俺はどこかで甘えていた。


 また叱られる。


 また止められる。


 また小言を言われる。


 その「また」が、今日もあると思っていた。


 だから聞き流せた。


 だから反発できた。


 だから笑えた。


 もう、ない。


 政秀は自分の命で、俺の「また」を断った。


 俺は、その場に膝をついた。


 書状を握ったまま。


 涙は出なかった。


 出ない。


 なぜだ。


 父上の時も出なかった。


 政秀の前でも出ない。


 胸の中は、こんなに滅茶苦茶なのに。


 人は、あまりに痛い時、泣くことすら遅れるのかもしれない。


「若」


 後ろから声がした。


 勘十郎だった。


 その隣に、政秀の子らがいた。


 帰蝶も少し離れて立っている。


 勘十郎は、政秀の亡骸を見て、深く頭を下げた。


 その目は赤かった。


 泣ける男だ。


 俺は、それを羨ましいと思った。


 こんな時に。


 勘十郎は俺の横に座った。


「兄上」


「何だ」


「今は、何もおっしゃらなくてよいと思います」


 俺は弟を見た。


 勘十郎は泣いていた。


 だが、崩れてはいない。


「平手殿は、兄上を見捨てたのではありません」


「分かっている」


「なら」


「分かっているから、腹が立つ」


 勘十郎は黙った。


 帰蝶が近づいてきた。


 何も言わず、俺の手元を見た。


 握りしめた書状が皺になっている。


「信長様」


「何だ」


「書状が破れます」


 俺は一瞬、何を言われたのか分からなかった。


 帰蝶は静かに言った。


「平手様の最後の言葉でしょう。破ってはなりません」


 俺は手の力を緩めた。


 書状は少し皺になっていた。


 破れてはいない。


 政秀の字は、まだ残っている。


「……すまぬ」


 誰に謝ったのか、自分でも分からなかった。


 政秀か。


 帰蝶か。


 書状か。


 俺自身か。


 しばらくして、俺は立ち上がった。


 足が重い。


 だが、立たねばならなかった。


 政秀は、俺の足を止めるために死んだ。


 ならば、止まった後は歩かねばならない。


 それが腹立たしい。


 腹立たしいほど、分かってしまう。


「寺を建てる」


 俺は言った。


 周囲が顔を上げる。


「政秀のために寺を建てる」


 勘十郎が静かに頷いた。


「はい」


「ただ弔うためだけではない」


 俺は政秀の亡骸を見た。


「俺が忘れぬためだ。人は、すぐ忘れる。痛みも、小言も、死者の顔も、都合よく薄める。だから、形に残す」


 帰蝶が静かに俺を見ている。


 政秀が言った。


 飾るのではなく、整えよ。


 寺は飾りではない。


 俺を整えるための傷だ。


「名は」


 勘十郎が問う。


 俺は少し考えた。


 政秀。


 政秀寺。


 いや、まだ名は決められぬ。


「後で決める」


 いつものように逃げた言葉に聞こえたかもしれない。


 だが、今は本当に決められなかった。


 軽く名をつけたくなかった。


 政秀は、軽い男ではなかった。


 俺はもう一度、政秀の前に膝をついた。


 そして、頭を下げた。


 深く。


 父上の葬儀でもしなかったほど、深く。


「爺」


 今度は声が出た。


「俺は、まだ本物のうつけにはならぬ」


 返事はない。


 だが、政秀なら何と言うだろう。


 まだ、では困ります。


 そう言うかもしれない。


 若は油断するとすぐ調子に乗られる。


 そう続けるかもしれない。


 その声が、耳の奥で聞こえた気がした。


 ようやく、涙が一つ落ちた。


 畳に、小さく染みた。


 誰も何も言わなかった。


 それでよかった。


 その日、俺は一つ失った。


 父上に続いて、爺を失った。


 古い秩序の父。


 俺を叱る声。


 俺の乱暴な歩き方に、いつも後ろから手綱を引いていた男。


 その手綱が切れた。


 自由になったのではない。


 むしろ、逆だ。


 手綱が切れた馬は、どこへでも行ける。


 だからこそ、自分で止まらねば崖へ落ちる。


 政秀は、死ぬことでそれを俺に叩き込んだ。


 ふざけた爺だ。


 最後まで、面倒な男だ。


 だが、その面倒を背負わねばならない。


 俺は政秀の書状を懐に入れた。


 父上の文箱とは別に。


 これは俺の胸に置く。


 忘れぬように。


 痛みが薄まらぬように。


 守山の火種は、まだ消えていない。


 家中の割れ目も、まだそこにある。


 勘十郎を担ぐ声も消えない。


 町の米も、道の銭も、寺の関も、今川の影も、すべて残っている。


 それでも、この日の俺は、何かを急いで決めることをやめた。


 まず、見る。


 次に、止まる。


 それから、決める。


 政秀の死は、俺の足を一度だけ止めた。


 そして、その一度が、俺にとってはあまりにも重かった。

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