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第10話 守山の火種

 火種というものは、たいがい小さい。


 大きな炎になってから騒ぐ者は多い。


 だが、炎になってからでは遅い。


 藁の下で赤くなっている小さな点。


 灰の奥で消えたふりをしている熱。


 誰かの舌の上に乗った噂。


 帳面の端に書かれた一文。


 そういうものが、後になって城を焼く。


 だから俺は、長秀の帳面を見ていた。


 朝餉の後、長秀がまとめた町の声を、政秀、勘十郎、帰蝶とともに確認した。


 部屋の空気は妙だった。


 父上の文箱。


 長秀の帳面。


 政秀の渋面。


 勘十郎の整った沈黙。


 帰蝶の何も見逃さぬ目。


 そして俺。


 いかにも織田家の今後を決める厳かな評定、というには、湯気の残る椀がまだ片づけられていなかった。


 だが、それくらいがちょうどよい。


 国の話は、飯の後にするべきだ。


 腹が空いていると、人は勇ましいことばかり言いたがる。


「まず米屋」


 長秀が帳面を開いた。


「父上……いえ、お屋形様の御逝去後、値が一時上がりましたが、若様のお声がけ後、やや戻しております。ただし、蔵を締めている店が複数」


「締めるだろうな」


 俺は頷いた。


「不安な時、人は米を抱く。抱きすぎれば町が詰まる」


 政秀が小さく唸った。


「蔵を無理に開かせれば、反発いたします」


「だから帳面をつけさせた。誰が、どこで、どれだけ止めているか。まず見る」


 帰蝶が静かに言った。


「見ることは大事です。ですが、見ている間に買い占める者が出ます」


「美濃でもあるか」


「あります。父は、そういう者をすぐ罰する時と、わざと泳がせる時がありました」


「蝮らしい」


「褒め言葉として受け取っておきます」


 帰蝶は涼しい顔をしている。


 勘十郎が帳面を覗き込んだ。


「米だけではないのですね」


「ああ」


 長秀が次の頁をめくる。


「鍛冶場では鉄と炭が詰まり始めております。山方からの炭、寺社の関で余計な銭を取られるとのこと。馬借からも同様の訴えがありました。さらに、織田の名を勝手に使う者が出ているようです」


 政秀の顔が険しくなった。


「織田の名を」


「はい」


 長秀は指先で帳面の一箇所を押さえた。


「特に守山へ向かう道で、荷を止める者がいるとのこと」


 守山。


 その名が出た瞬間、勘十郎の肩がわずかに動いた。


 ほんの少しだ。


 だが俺は見た。


 帰蝶も見ただろう。


 政秀も、おそらく気づいた。


「守山か」


 俺は帳面を覗いた。


「織田の御用、勘十郎様の御用、どちらの名も使われております」


 長秀の声は低かった。


 部屋の空気が重くなる。


 俺の名だけならまだよい。


 いや、よくはないが、扱いは単純だ。


 俺の名を騙る者を捕らえればよい。


 だが、勘十郎の名が出ると話が違う。


 弟が命じたのか。


 弟の周囲が勝手に使ったのか。


 俺の周囲の者が、弟を陥れるために流したのか。


 外の者が織田家を割るためにやったのか。


 一つの火種に、いくつもの手が重なる。


「私は命じておりません」


 勘十郎が言った。


 声は静かだった。


 だが、悔しさが混じっていた。


「分かっている」


 俺はすぐ答えた。


 勘十郎が俺を見た。


 少し驚いたような顔だった。


「本当に、分かっておられるのですか」


「お前が命じたなら、もっときれいな形にする」


 勘十郎は一瞬、言葉に詰まった。


「それは褒めているのですか」


「かなり」


「やはり、兄上の褒め方は分かりにくい」


 帰蝶の目元がわずかに緩んだ。


 政秀は咳払いした。


「若。冗談を申している場合ではございません」


「分かっている」


 俺は帳面に視線を戻した。


「守山で荷が止まり、人夫が集められ、俺と勘十郎の名が混ざっている。これは小さくない」


「すぐに人を遣わしましょう」


 政秀が言う。


「誰を」


「確かな者を」


「確かな者とは誰だ」


 政秀は少し黙った。


 それが問題だった。


 今の織田家で、誰が確かな者なのか。


 父上が生きていた頃なら、父上の命で動く者は確かだった。


 だが今は違う。


 俺の命で動く者。


 勘十郎の名で動く者。


 林の顔色を見る者。


 柴田を頼る者。


 佐久間に様子を尋ねる者。


 皆、少しずつ別の方を見ている。


「恒興を出す」


 俺が言うと、政秀は即座に眉をひそめた。


「池田殿だけでは軽うございます」


「軽いからよい」


「若」


「重い者を出せば、守山が身構える。林を出せば林の色がつく。柴田を出せば武で押したと見られる。佐久間を出せば様子見に見える。政秀、お前が行けば説教の匂いが道中に残る」


「最後の一言は不要です」


「半分冗談だ」


「半分」


 政秀は深く息を吐いた。


 帰蝶が口を開く。


「池田殿だけでは軽い。ですが、軽い者に帳面を持たせれば、見えるものがあります」


「帳面?」


「はい。誰を罰するかではなく、まず誰がどの名を使ったかを集める。軽い者なら、相手も油断します」


 長秀が少し嫌な予感のする顔をした。


 俺はその顔を見た。


「長秀」


「はい」


「恒興と行け」


「やはりそうなりますか」


「お前の帳面だ」


「最近、帳面に人生を支配されている気がします」


「よい人生だ」


「若様にとっては」


 政秀が珍しく少しだけ笑った。


 勘十郎は真剣な顔で言った。


「兄上。私の側からも一人出しましょう」


 部屋が静まった。


 俺は弟を見た。


「誰を」


「津々木蔵人を」


 政秀の目が細くなる。


 俺もその名は知っている。


 勘十郎に近い若い家臣だ。


 礼儀正しく、動きも早い。


 ただし、周囲に流されやすいところがある。


 出すには危うい。


 だが、出さないのも危うい。


 勘十郎の名が使われている以上、弟の側から誰も出さなければ、俺が弟の周りを勝手に探ったことになる。


 それはまた別の火種になる。


「よい」


 俺は言った。


 政秀が少し驚いた顔をした。


「若」


「ただし、長秀の指示に従わせる」


 勘十郎が頷く。


「それで構いません」


「お前から言い含めろ。勘十郎の名を守るために行くのではない。織田の名を盗まれぬために行くのだ、と」


「はい」


 帰蝶が静かに言った。


「信勝様」


 勘十郎が顔を向ける。


「津々木殿が、あなたのために余計な働きをしようとしたら、どうなさいますか」


 鋭い問いだった。


 勘十郎は少しだけ息を呑んだ。


 そして、きちんと答えた。


「私が叱ります」


「それを、出立前にお伝えください」


「分かりました」


 帰蝶は頷いた。


 この女は、俺には棘を刺し、勘十郎には釘を刺す。


 便利な妻だ。


 いや、また顔に出る。


 俺は考えを消した。


 だが遅かったらしい。


 帰蝶がこちらを見た。


「何か?」


「何でもない」


「その顔は何かあります」


「食事のことを考えていた」


「嘘がお下手です」


 政秀が咳払いした。


「若。守山の件、急ぎましょう」


「ああ」


 その時、廊下の向こうから足音がした。


 荒い。


 小姓が慌てて襖の外に膝をつく。


「若君、申し上げます!」


「入れ」


 小姓の顔は青かった。


「守山へ向かう道で、小競り合いが起きたとのこと!」


 部屋の空気が張り詰めた。


「誰と誰だ」


「詳しくはまだ。ただ、織田の御用を名乗る者たちと、荷を運ぶ馬借たちが揉め、そこへ勘十郎様の名を出す者が現れたと」


 勘十郎の顔色が変わった。


「私の名を」


 俺は立ち上がった。


「死人は出たか」


「今のところ、その報は」


「怪我人は」


「数名」


「恒興を呼べ。長秀、帳面を持て。勘十郎、津々木を出せ。政秀は城に残れ」


「若は」


 政秀が俺を見た。


「俺も行く」


「なりませぬ」


 即答だった。


「なぜ」


「今、若が出れば、守山の小競り合いが家中の争いに見えます」


「俺が行かなくてもそう見える」


「行けば、決定的になります」


 政秀の言葉は正しかった。


 腹立たしいが、正しい。


 俺が行けば、信長自ら守山へ出た、という噂になる。


 しかも勘十郎の名が絡んでいる。


 俺が弟の名を使う者を討ちに行った。


 そう広がる。


 それは避けるべきだ。


 俺は歯を食いしばった。


「ならば、誰が行く」


「恒興殿、丹羽殿、津々木殿。そこにもう一人、武のある者を」


「柴田は重すぎる」


「はい」


「佐久間は遅い」


「慎重と申してください」


「同じだ」


 俺は少し考えた。


「犬千代を呼べ」


 政秀が顔をしかめた。


「前田犬千代でございますか」


「ああ」


「あの者は、荒い」


「荒いからよい」


「若」


「ただし、斬らせるな。長秀の護衛だ。犬千代にはそう言え」


 政秀は渋い顔をした。


「言って聞く者でしょうか」


「聞かせる」


 俺は小姓に命じた。


 ほどなくして、前田犬千代が現れた。


 まだ若い。


 だが、部屋に入ってきただけで空気が少し荒くなる。


 背は伸びきっていないが、目が強い。


 獣のようというより、まだ飼い慣らされていない若い馬に近い。


「若様、お呼びと聞きました!」


「声が大きい」


「申し訳ございません!」


「だから大きい」


 犬千代はきょとんとした。


 恒興が横で笑いをこらえている。


 長秀は帳面を抱えて、少し不安そうだ。


「犬千代」


「はっ」


「守山へ行け」


「戦ですか!」


「違う」


 犬千代の顔が少し曇った。


 分かりやすい。


「ならば喧嘩ですか」


「それも違う」


「では何を」


「斬らずに見る」


 犬千代は心底分からないという顔をした。


「斬らずに、見る」


「そうだ」


「それは、難しゅうございます」


「だから命じている」


 犬千代は一瞬、口を閉じた。


 それから、真面目な顔になった。


「若様の御命なら」


「長秀を守れ。恒興を助けろ。津々木と揉めるな。誰かが勘十郎の名を出しても、すぐ斬るな」


「すぐ、でございますか」


「最後まで斬るな」


「最後まで」


 犬千代が今度こそ苦い顔をした。


 俺は思わず笑いそうになる。


 だが、ここで笑えば本気が伝わらない。


「犬千代」


「はっ」


「刀を抜くより難しいことをしてこい」


 犬千代の目が変わった。


 難しいこと。


 この手の若者は、その言葉に弱い。


「承知しました」


「失敗したら、爺の説教を一刻聞かせる」


 犬千代の顔が青くなった。


「それは……必ず成功いたします」


 政秀が不満そうに俺を見た。


「若」


「効いただろう」


「私を何だと思っておられますか」


「抑止力」


 帰蝶がうっすら目を伏せた。


 笑いを隠したように見えた。


 こうして、長秀、恒興、犬千代、そして勘十郎の側から津々木蔵人が守山へ向かった。


 俺は城に残った。


 残ったと言えば聞こえはよい。


 実際には、政秀に残された。


 だが、今回は従うべきだった。


 動かぬことも、時には働きだ。


 そう自分に言い聞かせる。


 しかし、じっと座っているのは性に合わない。


 俺は広間ではなく、城の上から道を見た。


 守山へ続く方角には、薄い雲がかかっている。


 見えるはずもない。


 それでも見ていた。


 政秀が後ろに立っている。


「若」


「何だ」


「動かぬことも、主の御役目にございます」


「今、同じことを考えていた」


「本当に?」


「疑うな」


「日頃の行いが」


「皆それを言う」


 政秀は少し間を置いてから言った。


「守山の件、ただの小競り合いで終わればよいのですが」


「終わらぬだろうな」


「なぜ、そう思われます」


「火種に名が混ざっている」


「名」


「俺の名、勘十郎の名、織田の名、寺の名、土豪の名。名が混ざると、人は責任を見失う。誰が命じたのか分からぬまま、誰かが傷つく。傷ついた者は、分かりやすい相手を恨む」


「若を、でございますか」


「俺かもしれぬ。勘十郎かもしれぬ。織田家そのものかもしれぬ」


 政秀は黙った。


 俺は道の方角を見た。


「父上が死んだだけで、名が軽くなった」


「お屋形様の御威光が大きかったのです」


「違う」


 俺は首を振った。


「父上が大きかったから、父上の名に皆が寄りかかりすぎた。父上が死んだ途端、寄りかかっていた者たちが倒れかけている」


「厳しい見方です」


「俺自身も含めてだ」


 政秀は何も言わなかった。


 それから、静かに続けた。


「若は、少し変わられましたな」


「昨日からか」


「はい」


「抹香を投げた甲斐があったか」


「それは別でございます」


 即答だった。


 俺は少し笑った。


 昼を過ぎても、守山からの報はなかった。


 城の中は落ち着かない。


 表向きは静かだが、明らかに人の動きが増えている。


 林秀貞が政秀を訪ねた。


 佐久間信盛が兵の配置について確認に来た。


 柴田勝家は、兵の様子を見に行ったまま、まだ戻らない。


 勘十郎は自室で待っている。


 いや、待つだけではいられなかったのだろう。


 途中で俺のところへ来た。


「兄上」


「来ると思った」


「私の名が出ている以上、じっとしているのは」


「分かる」


 勘十郎は少し驚いた顔をした。


 俺は続けた。


「だが、行くな」


「分かっています」


「本当に?」


「兄上ではないので」


「どういう意味だ」


「今、行けば余計に混乱することくらい、私にも分かります」


「ならよい」


 勘十郎は隣に立ち、同じ方角を見た。


 兄弟で、見えない道を見る。


 妙な時間だった。


「津々木は、余計なことをするでしょうか」


「分からぬ」


「私は言い含めました」


「言い含めた通りに人が動くなら、国は楽だ」


「そうですね」


 勘十郎の声は沈んでいた。


「私の名を使う者がいる」


「ああ」


「それだけで、私は動いていないのに、動いたことになるのですね」


「名とはそういうものだ」


「怖いものですね」


「今さら知ったか」


「はい」


 勘十郎は素直に認めた。


「私は、名を大事にすることは知っていました。けれど、名が盗まれるものだとは、あまり考えていませんでした」


「俺も昨日までは、ここまで早いとは思っていなかった」


「兄上にも、思わぬことがあるのですね」


「山ほどある」


「少し安心しました」


「安心するところか?」


 勘十郎は小さく笑った。


 だが、その笑いはすぐ消えた。


「兄上」


「何だ」


「もし、私の周りの者が勝手に動いていたら」


「止めろ」


「止まらなければ」


「その時考える」


「兄上は、すぐそう言う」


「先に決めすぎると、目が曇る」


 勘十郎は黙った。


 納得したのか、していないのか。


 おそらく半分だ。


 俺たちは、いつも半分ばかりだ。


 夕刻近くになって、ようやく長秀たちが戻った。


 城門まで迎えに出たい気持ちを抑えた。


 政秀の目があったからではない。


 いや、少しはある。


 だが、ここで俺が走れば、城中が余計に騒ぐ。


 動かぬことも役目。


 面倒な言葉だ。


 長秀は疲れた顔で入ってきた。


 恒興は少し泥をかぶっている。


 犬千代は頬に薄い傷があった。


 津々木蔵人は顔色が悪い。


 怪我人はいるが、死人はいない。


 まずそれを聞いて、俺は胸の奥で息を吐いた。


「報告しろ」


 長秀が帳面を開いた。


「守山へ向かう道で、馬借の荷が止められていました。止めていたのは、近在の小者たちです。織田の御用と称し、銭と米を取っていました」


「誰の命だ」


「表向きは、勘十郎様の御用と」


 勘十郎の顔が白くなる。


 津々木蔵人が膝をついた。


「申し訳ございません!」


 声が震えている。


 勘十郎が言った。


「蔵人、顔を上げなさい」


 津々木は顔を上げなかった。


「私の名を出した者は、知った者か」


「……はい」


 場が静まった。


「誰だ」


 俺が問うと、津々木は唇を噛んだ。


 言いにくい相手か。


 勘十郎の周囲の者だろう。


「林美作守様に出入りしている者の一人です」


 政秀の顔が険しくなった。


 林。


 やはりそこへ繋がるか。


 ただし、林美作守本人の命かはまだ分からない。


 出入りの者が勝手にやった可能性もある。


 むしろ、そういう曖昧さが一番厄介だ。


「本人は何と言った」


 長秀が答えた。


「勘十郎様をお支えするため、と」


 勘十郎が目を閉じた。


 痛そうな顔だった。


 俺は言った。


「続けろ」


「さらに、若様のお名前も使われていました」


「俺の?」


「はい。信長様が町の帳面を集めているから、先に荷を押さえねばならぬ、と」


 今度は俺が黙る番だった。


 俺の動きも使われている。


 町の帳面を集める。


 その名目が、荷を止める口実に変わった。


 早い。


 あまりに早い。


 俺が一手置けば、誰かがその影を使う。


「怪我人は」


「馬借二名、小者三名。犬千代殿が止めなければ、死人が出ておりました」


 俺は犬千代を見た。


 犬千代は居心地悪そうにしている。


「刀は抜いたか」


「抜きました」


「斬ったか」


「峰で」


「命令は」


「斬るな、でした」


「よく守った」


 犬千代の目が丸くなった。


 褒められると思っていなかったらしい。


「はっ」


「頬の傷は」


「馬鹿が棒を振りまして」


「やり返したか」


「足を払いました」


「よい」


 犬千代は今度こそ嬉しそうな顔をした。


 荒いが、悪くない。


 この男は、きちんと命じれば動く。


 ただし、命じ方を誤れば暴れる。


 覚えておく。


「津々木」


 俺は呼んだ。


 津々木は肩を震わせた。


「お前は何をした」


「私は……最初、勘十郎様の名を騙る者を叱ろうとしました。しかし、相手が勘十郎様をお支えするためだと言い張り……」


「迷ったか」


「はい」


 正直だ。


「そこで丹羽殿に止められました」


 長秀が静かに頷く。


「津々木殿が一人で踏み込めば、勘十郎様の側と小者たちの揉め事になります。ですので、まず馬借と荷を離し、双方の名を聞き取りました」


「よい」


 俺は長秀を見た。


「よくやった」


 長秀は少し疲れた笑みを浮かべた。


「帳面の力を思い知りました」


「だろう」


「増やしすぎないでいただければ、なおよいです」


「それは約束できぬ」


「でしょうね」


 勘十郎が津々木の前に進んだ。


「蔵人」


「はっ」


「私の名を出した者を、私のためだと思って庇おうとしたのですか」


 津々木は答えられなかった。


 沈黙が答えだった。


 勘十郎の声は静かだった。


「それは、私を支えたのではありません。私の名を汚したのです」


 津々木の顔が歪んだ。


「申し訳ございません」


「次に同じことをしたら、私はあなたを側には置けません」


「はっ」


 俺は弟を見た。


 よい叱り方だった。


 怒鳴らず、しかし逃がさない。


 こういうところは、やはり勘十郎の方がうまい。


 政秀も少し安堵した顔をしている。


 帰蝶は、黙って弟を見ていた。


「さて」


 俺は言った。


「問題は、林美作守に出入りする者だ」


 場が重くなる。


 ここで扱いを間違えれば、林一門を敵に回す。


 だが放れば、勘十郎の名がさらに使われる。


 罰するか。


 呼び出すか。


 泳がせるか。


「若」


 政秀が慎重に言った。


「まずは林佐渡守殿を通じて」


「いや」


 俺は首を振った。


「美作守を直接呼ぶ」


 勘十郎が俺を見た。


「兄上」


「お前も同席しろ」


「私も」


「お前の名が使われた。お前がいなければ、俺が林を責めたように見える」


 勘十郎は少し考え、頷いた。


「分かりました」


「爺、林秀貞も呼べ。佐久間も。柴田は戻っているか」


「先ほど戻りました」


「呼べ」


 政秀は眉をひそめた。


「評定にするおつもりですか」


「そうだ」


「火が大きくなります」


「隠せばもっと大きくなる」


 俺は長秀の帳面を手に取った。


「今回は、帳面がある。誰がどの名を使い、どこで荷を止め、誰が怪我をしたか。曖昧な忠義で逃がさぬ」


 帰蝶が小さく頷いた。


 勘十郎も、今度は逃げなかった。


 犬千代は何か言いたそうだったが、黙っている。


 恒興は心配そうに俺を見た。


 政秀は深く息を吐き、頭を下げた。


「承知いたしました」


 守山の小競り合い。


 死人は出なかった。


 だが、火種は確かに赤くなった。


 俺の名。


 勘十郎の名。


 織田の名。


 人は名を使う。


 名で人を動かし、銭を取り、米を止め、忠義の顔をして己の利を通す。


 父上がいた頃は、父上の名がそれを押さえていた。


 今は違う。


 俺が押さえねばならない。


 ただし、力だけで押さえれば割れる。


 放れば腐る。


 見るだけでは足りない。


 決めねばならない。


 父上の声が、どこかで聞こえた気がした。


 見ろ。


 決めろ。


 背負え。


 俺は帳面を閉じた。


「内の敵は、外の敵より厄介だ」


 誰に言うでもなく呟いた。


 勘十郎がこちらを見る。


 政秀も、帰蝶も、長秀も黙っていた。


「顔を知っているぶん、斬る時に迷う」


 言ってから、自分の声が思ったより冷たいことに気づいた。


 勘十郎の表情がわずかに曇る。


 俺は弟を見た。


「だから、斬らずに済むうちに火を消す」


 勘十郎は、静かに頷いた。


 夕方の城に、評定を告げる足音が走り始めた。


 守山の火種は、まだ小さい。


 だが、灰の下で確かに息をしている。


 今夜、それを誰が吹くのか。


 誰が踏むのか。


 誰が手をかざして温まろうとするのか。


 俺は見る。


 そして今度こそ、見た後で決める。

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