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第9話 町は、城より正直だ

 翌朝、俺は父上の書付を勘十郎と見た。


 その話を先にすれば、ずいぶん兄弟らしい穏やかな時間だった、と言えなくもない。


 言えなくもない、というだけだ。


 実際には、文箱を開いた途端、勘十郎は黙り込んだ。


 父上の字を見たからだろう。


 俺も、同じだった。


 父上の字は、死んでいなかった。


 紙の上で、まだこちらを睨んでいるようだった。


 誰に貸しがある。


 誰が誰と縁を結びたがっている。


 どの道で米が詰まりやすい。


 どの寺がいざという時に兵糧を出し渋る。


 どの商人は信用でき、どの商人は強い方へすぐ尻尾を振る。


 父上は、それを細かく残していた。


 勘十郎は、その書付を丁寧に読んだ。


 俺は、やや雑に読んだ。


 すると勘十郎に叱られた。


「兄上、紙を乱暴に扱わないでください」


「読めればよいだろう」


「父上の書付です」


「父上の書付だから使うのだ」


「使うにしても、丁寧に」


「お前は本当に、物をきれいに扱うな」


「兄上が扱わなさすぎるのです」


 政秀が部屋の端で深く頷いた。


 味方が少ない。


 いや、これは俺が悪いのか。


 その後、父上の書付の中から、道と米に関わるものをいくつか選んだ。


 尾張は小さい。


 だが、小さいから単純というわけではない。


 町がある。


 湊がある。


 寺がある。


 土豪がいる。


 商人がいる。


 百姓がいる。


 武士になりきれぬ者も、百姓でいられぬ者もいる。


 その全員が、それぞれ少しずつ国を動かしている。


 城の広間で家臣たちが真面目な顔をしていても、外で米が止まれば終わりだ。


「兄上は、今日も町へ出られるのですか」


 勘十郎が聞いた。


「ああ」


「昨日あれほど平手殿に叱られたのに」


「叱られたから出る」


「意味が分かりません」


「昨日は葬儀の途中だった。今日は違う」


「そういう問題では」


「そういう問題だ」


 勘十郎は呆れた顔をした。


 だが、怒鳴りはしない。


 こいつは、怒り方まで整っている。


「兄上」


「何だ」


「町を見ることが必要なのは、分かります」


「ほう」


「分かったふりではありません。昨日の米の話も、父上の書付も見ました。城の中だけでは見えぬものがあるのでしょう」


「ある」


「ですが、兄上が動けば、町も動きます」


「当然だ」


「当然で済ませないでください」


 勘十郎は少し身を乗り出した。


「町の者たちは、兄上をただの見物人として見ません。織田の嫡男として見ます。兄上が何かを言えば、それは命と受け取られることもあります。兄上が黙って見ただけでも、誰かを咎めたことになるかもしれません」


 俺は黙った。


 意外だった。


 いや、意外と言うのは弟に失礼か。


 こいつは、俺が見ていないものを見る。


 俺は米の流れを見る。


 勘十郎は、人が俺をどう見るかを見る。


「それは、覚えておく」


「忘れる時の言葉です」


「覚えておく。たぶん」


「たぶんを取ってください」


「努力する」


「それも怪しいです」


 政秀がまた頷いている。


 やはり味方が少ない。


 俺は文箱を閉じた。


「勘十郎」


「はい」


「お前も来るか」


 弟は少し驚いた顔をした。


「私が、町へ?」


「嫌ならよい」


「嫌というわけではありません。ただ……私が行けば、家中は何か意味を探します」


「だろうな」


「兄弟仲が良いと見る者もいれば、兄上が私を監視していると見る者もいるでしょう」


「お前が俺を見張っていると見る者もいる」


「それもあります」


「面倒だな」


「兄上が面倒にしているのです」


 それはそうかもしれない。


 勘十郎は少し考えた後、首を振った。


「今日は遠慮します」


「なぜ」


「兄上が町で何を見るのか、まずは後で聞かせてください」


「俺の話で分かるか」


「分からないかもしれません。ですが、私が行くことで町の顔が変わるなら、今日は行かない方がよいでしょう」


 こいつはこいつで、よく見ている。


 悔しいが、悪くない判断だ。


「分かった」


「それから、兄上」


「まだあるのか」


「帰ったら、食事をしてください」


「お前もか」


「帰蝶様に言われました」


「手を回すのが早いな、あの女」


「よい奥方様です」


「お前はすぐ人を褒めるな」


「兄上が褒めなさすぎるのです」


 まったく、朝から耳が痛い。


 俺は恒興と丹羽長秀を連れて城を出た。


 政秀は来ようとしたが、俺が止めた。


「爺は城にいろ」


「なぜでございますか」


「俺が町へ出るたびに爺がついてくれば、町の者が説教の匂いで逃げる」


「私を何だと思っておられますか」


「小言の城」


「若」


「冗談だ。半分は」


「半分」


 政秀の眉がつり上がる前に、俺は続けた。


「城の中を見ておけ。俺が外へ出れば、中で動く者がいる」


 政秀は表情を変えた。


「……承知いたしました」


「林の動きも見ろ。佐久間が誰と話すかも。柴田が兵をどう扱うかも」


「若は町を、私は城を、でございますか」


「そうだ」


「お一人で無茶をなさらぬよう」


「長秀がいる」


「丹羽殿は若を止められますか」


 長秀が困ったような顔をした。


「できる限りは」


「できる限りでは困ります」


「爺、長秀を困らせるな」


「若が困らせているのです」


 結局、政秀は城に残った。


 出がけに、帰蝶の姿が廊下の奥に見えた。


 声はかけなかった。


 向こうも声をかけてこなかった。


 ただ、目だけでこちらを見た。


 食べろ。


 無茶をするな。


 見ている。


 その三つくらいを一度に言われた気がした。


 不思議な女だ。


 何も言わないのに、小言が聞こえる。


 町へ出ると、朝の匂いがした。


 炊いた米の湯気。


 魚を焼く煙。


 馬の汗。


 湿った土。


 古い木戸。


 人の暮らしの匂いだ。


 城の中にいると、人は国が畳と柱でできているような気になる。


 だが違う。


 国は、朝飯の匂いでできている。


 飯を炊く者がいて、火を起こす者がいて、水を汲む者がいて、米を運ぶ者がいる。


 そういうものを忘れた武士は、戦場で立派な死に方をするかもしれない。


 だが、国は残せない。


「若様」


 恒興が横に並んだ。


「今日はどこへ」


「まず米屋だ」


「またですか」


「昨日上がった値が戻ったか見る」


「戻っていなかったら?」


「理由を聞く」


「理由を言わなかったら?」


「言うまで聞く」


「それを人は脅しと言います」


「聞いているだけだ」


「若様の『聞いているだけ』は、なぜか相手が震えるんですよね」


 長秀が小さく笑った。


 この男は、声を上げて笑わない。


 だが、面白い時はちゃんと顔に出る。


 米屋に着くと、昨日の主人がすぐにこちらに気づいた。


 顔がこわばる。


 昨日より値札が下がっていた。


 完全に戻ったわけではないが、少なくとも上げっぱなしではない。


「下げたな」


 俺が言うと、主人は畳に頭がつきそうなほど下げた。


「は、はい。若様のお言葉を受けまして」


「俺の言葉で下げたのか」


「い、いえ、その、道の方も少し落ち着きまして」


「誰が落ち着かせた」


 主人は一瞬、視線を逸らした。


 逸らした先を見る。


 店の奥に、帳面を持った若い男がいる。


 息子か番頭か。


 そいつも目を逸らした。


「恒興」


「はい」


「昨日、道で余計な銭を取っていた者の名は調べたか」


「少しだけ。林田という男の後ろに、津島へ出入りしている小者がいるようです」


「小者だけか」


「まだそこまでは」


 米屋の主人の肩が揺れた。


 津島。


 尾張で銭と物が動く場所だ。


 湊と商いを押さえる者は、城の中の武士よりよほど国を動かすことがある。


「主人」


「は、はい」


「お前は米を隠しているか」


 場が凍った。


 恒興が目を丸くする。


 長秀は黙っている。


 主人は汗を浮かべた。


「め、滅相もございません」


「少しは隠しているだろう」


「……」


「責めているのではない。父上が死んだ。米を持つ者が不安になって蔵を締めるのは自然だ」


 主人は恐る恐る顔を上げた。


 俺は続けた。


「だが、締めすぎるな。町が飢えれば、真っ先に米屋が襲われる」


 主人の顔色が変わった。


「それは」


「人は腹が減ると、礼を忘れる。武士も町人も同じだ」


「若様は、我らをお守りくださるので?」


「守るために聞いている」


 主人は黙った。


 その顔には、まだ疑いがある。


 当然だ。


 織田の若様が、町の米屋を守るなどと言って、すぐに信じる方がおかしい。


 信じる信じないではない。


 まず言葉を置く。


 次に行動を見る。


 信とは、たぶんその後に来る。


「三日分は出せ」


「三日分、でございますか」


「一気に出せとは言わぬ。値を急に上げるな。道で取られた分は、帳面につけておけ」


「帳面に?」


「誰に、どこで、いくら取られたか。分かる範囲でよい」


 主人は驚いた顔をした。


「そのようなものを、若様がご覧になるので」


「見る」


「武士の方が、銭の細かいことを」


「銭は細かいから怖い」


 俺は店先の米俵を軽く叩いた。


「一俵の米が止まっても、城は揺れぬ。百俵止まれば、兵が揺れる。千俵止まれば、国が揺れる。だが、最初はいつも一俵だ」


 主人は深く頭を下げた。


 完全に信じた顔ではない。


 だが、少しだけ目が変わった。


 それでよい。


 米屋を出ると、恒興が変な顔をしていた。


「何だ」


「若様、米屋を脅しに行ったのか、励ましに行ったのか、分かりませんでした」


「両方だ」


「やっぱり」


 長秀が言った。


「帳面をつけさせるのは、よい手かと」


「なぜだ」


「人は、漠然と損をした時より、名と額が残った時の方が怒りを保てます」


「怒りを保たせてどうする」


「後で、誰が道を詰まらせているか分かります」


 俺は長秀を見た。


 やはりこいつは使える。


 いや、使えると言うと帰蝶にまた顔に出たと言われそうだ。


「長秀」


「はい」


「その帳面をまとめる役をやれ」


「私が、ですか」


「お前が今言った」


「墓穴を掘りました」


「よい穴だ」


「褒められている気がしません」


「褒めている」


 恒興が笑った。


 次に向かったのは鍛冶場だった。


 町外れに近い場所にある。


 朝から鉄を打つ音が響いていた。


 かん、かん、と乾いた音。


 火の匂い。


 汗の匂い。


 鉄が焼ける匂い。


 俺はこの匂いが嫌いではない。


 戦場の刀は美しく語られる。


 だが、その前にこういう場所がある。


 鉄を熱し、叩き、曲げ、直し、研ぎ、また叩く者たちがいる。


 戦は、刀を抜く前から始まっている。


「弥七」


 俺が声をかけると、鍛冶の親方が顔を上げた。


 太い腕。


 煤けた顔。


 片目を細める癖。


 父上の頃から槍先や金具を納めている男だ。


「若様か」


 弥七は頭を下げなかった。


 周りの若い者が慌てた。


 俺は手で制した。


「いつものことだ」


 弥七は悪びれずに言う。


「鉄を打ってる時に頭下げたら、手元が狂う」


「頭を下げるより、鉄を曲げるな」


「話が分かる」


 恒興が小声で言った。


「若様、こういう人好きですよね」


「分かりやすいからな」


 弥七は火箸で赤い鉄をつかみ、水へ入れた。


 じゅっと音が立つ。


「父上が死んだ」


「聞いた」


「何か困ったことは」


「鉄の入りが悪い」


「どこから」


「美濃の方も、三河の方も、道がうるさい。荷を通すたびに銭を取られる。こっちは刀も槍も直さなきゃならんのに、鉄が来なけりゃどうにもならん」


 弥七は遠慮がない。


 だが、こういう遠慮のなさは役に立つ。


「武士は、槍を増やせと言う。刀を直せと言う。馬具の金具を急げと言う。だが鉄が来ない。炭も高い。人も足りん。言うだけなら猫でもできる」


「猫は言わぬだろう」


「にゃあと言う」


「それはそうだ」


 恒興が吹き出しかけた。


 長秀は真面目に聞いている。


「炭はどこで止まる」


「山方から来る途中だな。寺の者が道を押さえてる場所がある。あそこが面倒だ」


「寺か」


「寺だ。ありがたい顔して銭を取る。仏も腹が減るのかね」


「仏は知らぬが、寺は飯を食う」


「違いねえ」


 弥七は笑った。


 俺は炉の火を見た。


 寺社。


 座。


 関。


 古い権利。


 それらは、ただ悪いものではない。


 長く続いたものには、続いた理由がある。


 道を守り、人をまとめ、商いの秩序を保ってきた面もあるだろう。


 だが、それが国の血管を詰まらせるなら、どうする。


 切れば血が出る。


 放れば体が腐る。


「弥七」


「何だい」


「鉄と炭の入りを、月ごとに書けるか」


「俺に字を書けってか」


「書けぬのか」


「自慢じゃねえが、読める字と読めねえ字がある」


「自慢するな」


「だから、うちの倅に書かせる」


「それでよい。いつ、どこで止まり、いくら余計に取られたか。鉄が来ないなら、槍は増えない。槍が増えないなら、武士の威張りも減る」


「武士の威張りも鍛え直せるなら、安くしとくぞ」


「高くても注文が来そうだな」


 弥七は声を上げて笑った。


 こういう笑いは城には少ない。


 遠慮がない。


 だが、媚びもない。


 町は城より正直だ。


 次に向かったのは馬借たちが集まる場所だった。


 荷を運ぶ者たちだ。


 武士は彼らを軽く見る。


 だが、荷を運ぶ者を軽く見る武士は、いざ戦になって自分の兵糧が届かずに慌てる。


 荷は勝手に動かない。


 人が動かす。


 人は腹と銭と安全で動く。


 馬借の頭は、仁助という男だった。


 背は低いが、肩が妙に強い。


 顔に古い傷がある。


 武士の礼はしない。


 しかし、誰より早く道の危険を知っている。


「若様が来るなんて、こりゃ道が荒れる前触れですかね」


「もう荒れているだろう」


「まあ、多少は」


「多少で済ますな」


 仁助は口の端を曲げた。


「多少と言わなきゃ、こっちが潰れますよ」


 そういうものかもしれない。


 町の者は、危機を笑いに変えながら生きる。


 武士のように面目を飾る余裕がない分、言葉が軽く、現実が重い。


「最近、どこが危ない」


「清洲へ向かう途中で、夜に荷を止める連中が出てます。あとは川沿い。小銭を出せば通す。出さなきゃ荷を調べる。調べるだけならいいが、米袋に穴を開ける馬鹿もいる」


「誰の手の者だ」


「さあ。名乗る時は立派な方の名を使う。織田の名も使うし、寺の名も使うし、どこぞの土豪の名も使う。本物かどうか、こっちに分かるわけがない」


「なるほど」


 名を使う。


 父上の死で、織田の名も軽くなり始めている。


 誰かが勝手に織田の名で銭を取る。


 それを放れば、町は織田を恨む。


 実際に命じていなくてもだ。


 名は、使われた時点で責を負う。


「仁助」


「へい」


「今後、織田の名で銭を取る者がいたら、顔を覚えろ」


「斬っていいんで?」


「斬るな。顔を覚えろ」


「斬る方が簡単なんですが」


「簡単なことをするな」


「武士らしくねえことを言いますね」


「よく言われる」


「でしょうね」


 こいつまで同じことを言うのか。


 俺は少し嫌な顔をしたらしい。


 仁助がにやにやした。


「顔を覚えたら、どこへ言えば?」


「丹羽へ」


 俺が長秀を見ると、長秀が一瞬だけ固まった。


「私ですか」


「帳面が増えるな」


「先ほどから、私の仕事が増えております」


「よいことだ」


「若様にとっては」


 恒興が横で笑っている。


 長秀は諦めたように頭を下げた。


 その後、井戸端で百姓の女に呼び止められた。


 年は若い。


 だが、手は荒れている。


 子を背負っていた。


「若様」


 声が震えている。


 俺は足を止めた。


「何だ」


「うちの村の者が、城へ夫役に出されると聞きました」


「誰から」


「庄屋からです」


「何の夫役だ」


「分かりませぬ。ただ、織田様の御用だからと」


 嫌な話だ。


 父上の死後の混乱に乗じて、誰かが人を動かしている可能性がある。


 城の本当の命かもしれない。


 勝手な名乗りかもしれない。


 どちらにせよ、村の者には区別がつかない。


「村の名は」


 女が答えた。


 俺は恒興に目で合図した。


 恒興が覚える。


 長秀も帳面に書く。


「すぐには返事できぬ」


 俺が言うと、女は一瞬不安そうな顔をした。


 だから俺は続けた。


「だが、調べる。織田の本当の命なら、何のためか言わせる。偽なら止める」


「本当に、でございますか」


「嘘をついてどうする」


 女は泣きそうになって頭を下げた。


 俺は少し困った。


 こういう礼は苦手だ。


 怒られる方がまだ楽だ。


 信じられるのは重い。


 疑われるのも面倒だが、信じられるのはもっと重い。


 それでも、これを受け取らねば主にはなれないのだろう。


 疑うためだけに見るな。


 受け取るためにも見ろ。


 勘十郎の言葉が、こんなところで出てくる。


 厄介な弟だ。


 町を歩くうちに、声が集まってきた。


 米の値。


 道の銭。


 寺の関。


 鍛冶の炭。


 夫役の噂。


 兵に売る草鞋の値上がり。


 父上が死んだことで、町のあちこちに小さな不安が生まれている。


 それぞれは小さい。


 だが、小さいものを放っておくと、やがて大きな流れになる。


 城の中では、家臣が誰につくかが問題になる。


 町では、明日の米がいくらかが問題になる。


 どちらも国だ。


 どちらか片方だけ見ても、国は分からぬ。


 昼近く、俺たちは湊へ向かった。


 熱田の方から来る荷の話を聞くためだ。


 水の匂いが近づくと、空気が変わる。


 魚。


 塩。


 濡れた木。


 縄。


 汗。


 湊の男たちは声が大きい。


 城の者のように、誰の耳があるかを気にして声を削ったりしない。


 もちろん、本当に大事なことは言わぬだろう。


 だが、表に出ている不満は分かりやすい。


「織田の若様だ」


「うつけの?」


「馬鹿、声がでけえ」


「聞こえている」


 俺が言うと、男たちが固まった。


 別に斬る気はない。


「うつけで合っている」


 そう言うと、何人かが恐る恐る笑った。


 恒興が頭を抱える。


「若様、自分で広げないでください」


「もう広がっている」


「そういう問題では」


 湊の年寄りが出てきた。


 名を与兵衛という。


 父上とも何度か話したことがあるらしい。


「若様。お悔やみ申し上げます」


「父上は世話になったか」


「こちらが世話になりました。お屋形様は、怖い方でしたが、筋は通される方でした」


「怖いが筋は通す、か」


「はい」


 よい言葉だ。


 俺もそう言われるようになるだろうか。


 いや、今は「怖いかどうかも分からぬし筋も読めぬ」と言われそうだ。


「荷は動いているか」


「動いてはおります。ただ、様子見が増えました」


「様子見?」


「お屋形様が亡くなられ、織田がどうなるか見ている者が多い。大きな荷を出して、途中で揉め事に巻き込まれたくないのでしょう」


「当然だな」


「それから、津島の方でも少し噂が」


「何の」


 与兵衛は周囲を見た。


 湊の男たちが少し離れる。


 声が低くなった。


「若様の弟君を推す声がある、と」


 恒興の顔が変わった。


 長秀も筆を止めた。


 俺は水面を見た。


 風で細かく揺れている。


 もう町に出ているか。


 早い。


 だが、遅いくらいかもしれぬ。


 父上が死んだ。


 俺が抹香を投げた。


 信勝は整っている。


 家中の不安が町へ流れ、町の不安が商人へ流れ、商人の不安が道へ流れる。


 風の通り道が見える。


「誰が言っている」


「名は分かりませぬ。ただ、商いの者は耳が早い。織田家が割れるのではないかと見れば、荷を控えます」


「割れぬと言えば信じるか」


「言葉だけでは」


「だろうな」


 与兵衛は頭を下げた。


「若様」


「何だ」


「町は、強い方につきます」


「正直だな」


「商いですので」


「嫌いではない」


「ただ」


 与兵衛は少し迷ってから続けた。


「強い方が誰か、まだ分かりませぬ」


 恒興がむっとした。


「与兵衛」


 俺は手で止めた。


「よい。正直で」


 与兵衛は深く頭を下げた。


「恐れ入ります」


「では、見ていろ」


「はい」


「俺が強いかどうかではない。俺が荷を動かせるか、米を流せるか、道を守れるか。それを見ろ」


 与兵衛は顔を上げた。


「武士の方で、そう言われる方は少のうございます」


「武士は首の数を数えたがる」


「若様は何を数えられるので」


「今は、止まった荷と上がった米の値だ」


 与兵衛は少し笑った。


「なるほど。うつけと呼ばれるわけでございます」


「その言い方だと褒めているように聞こえぬ」


「半分は褒めております」


 どいつもこいつも。


 半分ばかりだ。


 湊を出る頃には、長秀の帳面はかなり埋まっていた。


 長秀は真面目な顔をしているが、どことなく諦めの色がある。


「若様」


「何だ」


「この量を整理するには、人手が要ります」


「お前が人を選べ」


「私が選ぶのですか」


「お前の仕事だ」


「また増えました」


「よいことだ」


「若様にとっては」


 二度目だ。


 長秀も意外と根に持つ。


 城へ戻る途中、道端で下級武士の二人組が言い争っていた。


 一人は若い。


 一人は中年。


 どちらも身なりはよくない。


 だが、刀は差している。


「だから、勘十郎様の方が家中はまとまると言っている」


「馬鹿を言うな。嫡男は信長様だ」


「嫡男だから何だ。葬儀であのようなことをする主に仕えられるか」


「だが、今さら家を割る気か」


「割るのは信長様の方だろう」


 俺たちは足を止めた。


 恒興が顔を青くする。


「若様、これは」


「黙っていろ」


 二人はまだこちらに気づいていない。


 町は正直だ。


 城では言えぬことも、道端ではこぼれる。


「信長様は、米だの道だのと言っておられるらしいぞ」


「それが何だ。武士なら武で示せ」


「腹が減ったら武も何もあるか」


「お前は町人か」


「お前は腹が減らぬのか」


「それと主の器は別だ」


「別ではないだろう」


 俺は少し笑いそうになった。


 下級の武士たちも、同じ話をしている。


 米か。


 武か。


 形か。


 実か。


 俺と勘十郎の間にある違いは、もう家臣の下の方まで落ちている。


「若様」


 長秀が小声で言った。


「行かれますか」


「ああ」


 俺は二人の前に出た。


 二人は俺を見て固まった。


 顔から血の気が引く。


「続けろ」


 俺が言うと、若い方が膝をついた。


「も、申し訳ございません!」


 中年の方も慌てて頭を下げる。


「聞かれて困る話なら、道端でするな」


「はっ」


「だが、今の話はよい」


 二人が恐る恐る顔を上げた。


「お前は勘十郎の方がよいと言ったな」


 中年の男が震えた。


「い、いえ、それは」


「言った」


「……はい」


「理由は」


「家中が、まとまるかと」


「俺ではまとまらぬか」


「恐れながら、若様は……分かりにくくございます」


 恒興が横で息を止めた。


 俺は頷いた。


「そうだな」


 男は驚いた顔をした。


「分かりにくい主は不安だ。お前は間違っていない」


「若様」


「だが、分かりやすければ勝てるとも限らぬ」


 俺は若い方を見た。


「お前は米の話をしていたな」


「は、はい」


「なぜだ」


「自分の兄が、兵糧運びに出たことがありまして。米が届かず、兵が荒れたと聞きました。武士も腹が減れば、情けなくなると」


「よく覚えておけ」


「はっ」


「二人とも、名は」


 答えさせる。


 長秀が書く。


 二人は処罰されると思ったのだろう。


 顔がこわばっている。


「罰は与えぬ」


 二人が目を見開いた。


「ただし、次に同じ話をするなら、もっと考えて言え。主の器とは何か。家をまとめるとは何か。腹を満たすことと武が、どこで繋がるか。道端で喋るなら、それくらい考えろ」


「は、はい」


「それから」


 俺は中年の男を見た。


「勘十郎を褒めるなら、俺を貶すために褒めるな」


 男の顔色が変わった。


「弟を刃に使われるのは、気分が悪い」


「申し訳ございません」


「行け」


 二人は何度も頭を下げて去っていった。


 恒興が大きく息を吐いた。


「斬るかと思いました」


「斬ってどうする」


「いつもの若様なら、何かするかと」


「何かはした」


「そうですけど」


 長秀が静かに言った。


「今の二人の話は、家中の下の方にも広がっているということですね」


「そうだ」


「信勝様の名が、すでに道端で出ている」


「ああ」


 思ったより早い。


 だが、焦っても仕方ない。


 火種は見えた。


 見えた火種を、怒りで踏めば火の粉が散る。


 水をかけすぎれば煙が上がる。


 灰を被せれば、下でくすぶる。


 どう扱うか。


 それを考えねばならない。


 城へ戻る頃には、夕方近くになっていた。


 門をくぐると、空気が変わる。


 町の騒がしさが消え、城の沈黙が戻る。


 だが、俺にはもう同じ城には見えなかった。


 町で聞いた声が、城の中の静けさを違うものに変えている。


 静かなのではない。


 隠れているのだ。


 不安も、期待も、不満も、皆、畳の下に潜っている。


 政秀が待っていた。


 顔を見ただけで分かる。


 叱る用意ができている。


「若」


「ただいま」


「お帰りなさいませ。して、どれほど問題を増やされましたか」


「長秀の帳面くらいには」


 長秀が帳面を差し出した。


 政秀はそれを受け取り、目を通す。


 顔つきが変わった。


 小言の顔から、家老の顔になる。


「これは」


「米、鉄、炭、道、夫役、湊、兵の噂。全部小さい」


「小さくございません」


「そうか」


「これを小さいと申されるところが、若の危うさです」


 また叱られた。


 だが今回は、少し違った。


 政秀は俺を責める前に、帳面を読み込んでいる。


 そこに書かれた町の声を、無視していない。


「爺」


「はい」


「町は城より正直だ」


 政秀は帳面から目を上げた。


「そうでしょうな」


「城では、皆が顔を整える。町では、米の値が顔に出る。道が詰まれば荷が止まる。人が不安になれば噂が走る。嘘もあるが、嘘の走る向きにも意味がある」


「若」


「何だ」


「少し、主らしいことをおっしゃいました」


「少しか」


「少しです」


「厳しいな」


「昨日を思えば、かなり譲っております」


 俺は笑った。


 政秀も、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 そこへ、勘十郎が来た。


 帰蝶も一緒だった。


 偶然ではないだろう。


 誰かが俺の帰りを知らせたのか。


 あるいは、二人ともそれぞれ待っていたのか。


「兄上」


「勘十郎」


「町は、どうでしたか」


「正直だった」


「それは、よい意味ですか」


「半分は」


 勘十郎は少し眉を寄せた。


「兄上」


「悪かった。全部ではないが、よい意味だ」


 帰蝶が静かに俺を見ている。


 食べたか、と言いたげな目だ。


 俺は先に言った。


「帰ったら食う」


「まだ何も言っておりません」


「目が言っていた」


「ならば、よろしいです」


 政秀が咳払いした。


「若。町の報告を」


「ああ」


 俺は帳面を指した。


「米屋は値を少し戻した。だが、道で銭を取る者がいる。鍛冶は鉄と炭が詰まり始めている。寺の関が絡んでいる。馬借は織田の名を勝手に使う者がいると言う。湊では、俺と勘十郎の名がもう商人の不安になっている」


 勘十郎の表情が変わった。


「私の名が?」


「出ている」


「誰が」


「まだ分からぬ」


 勘十郎は唇を結んだ。


 俺は続けた。


「道端の下級武士まで、お前の方が家中はまとまると言っていた」


 政秀の顔が険しくなる。


 帰蝶は目を伏せた。


 勘十郎は、傷ついたような顔をした。


 それから、何かをこらえるように息を吐いた。


「私が望んだことではありません」


「分かっている」


「本当に?」


「本当にだ」


 俺は勘十郎を見た。


「だが、お前が望んでいなくても、お前の名は流れる」


 勘十郎は黙った。


 昨日なら、この言葉で傷ついただろう。


 今日も傷ついている。


 だが、それだけではない。


 考えている。


「兄上」


「何だ」


「私は、どうすればよいのでしょう」


 それは、答えの難しい問いだった。


 俺一人で答えれば、たぶん間違える。


 だから俺は言った。


「一緒に見る」


「一緒に?」


「ああ。俺は町を見る。お前は家中の顔を見る。爺は城の中を整える。長秀は帳面をまとめる。帰蝶は噂の向きを見る」


 帰蝶が目を上げた。


「私も入っているのですね」


「入っている」


「勝手に役を振られました」


「嫌か」


「嫌ではありません。ただ、あとで貸しにします」


「夫婦でもか」


「あなたが先にそうなさったので」


 何も言い返せない。


 勘十郎が少しだけ笑った。


 その笑いを見て、俺は少し安心した。


 まだ、笑える。


 それは小さいが、大事なことだ。


「勘十郎」


「はい」


「お前の名を使う者が出る。お前を担ごうとする者も出る」


「はい」


「俺の名を使って町から銭を取る者も出ている。俺を守ると言って、お前を敵にしようとする者も出るかもしれぬ」


 勘十郎は頷いた。


 今度は逃げなかった。


「ならば、互いに名を盗まれぬようにする」


「名を盗まれぬように」


「そうだ。俺たちの名で勝手に動く者を見つける。町でも、城でも」


 政秀が深く頷いた。


「それは、よきお考えにございます」


「珍しく褒めたな」


「少しだけです」


「少しか」


 帰蝶が静かに言った。


「まずは、誰がどの名を使っているかを分けるべきです。織田の名。信長様の名。信勝様の名。寺社の名。土豪の名。それぞれが混ざるから、町は不安になります」


 長秀が帳面を開いた。


「分けて記しましょう」


「頼む」


 俺が言うと、長秀は諦めたように笑った。


「仕事が増える予感しかしません」


「当たる」


「嬉しくない予感です」


 部屋の空気が、ほんの少しだけ軽くなった。


 父上の死から、城はずっと重かった。


 不安が消えたわけではない。


 むしろ、見えた分だけ増えたとも言える。


 だが、見えた不安は扱える。


 見えぬ不安は、人を内側から腐らせる。


 俺は町を見た。


 米屋が蔵を締めすぎることを恐れている。


 鍛冶が鉄を待っている。


 馬借が名を騙る者に困っている。


 百姓が夫役に怯えている。


 湊が織田家の行く末を測っている。


 下級武士が道端で俺と勘十郎を比べている。


 城より町の方が正直だった。


 だが、その正直さは優しいものではない。


 町は、強い方につく。


 食える方につく。


 荷が動く方につく。


 それが現実だ。


 ならば、俺は示さねばならない。


 父上の後継ぎとしてではない。


 うつけと呼ばれる若造としてでもない。


 米を動かし、道を開き、人の不安を見て、それでも家を割らせぬ者として。


 まだ遠い。


 遠すぎる。


 だが、まずは見えた。


「腹が減った」


 俺が言うと、帰蝶がすぐに頷いた。


「では、召し上がってください」


 政秀も頷く。


「国を見る前に、まず腹でございます」


 勘十郎まで言った。


「兄上、腹の減った顔は人を不安にさせます」


「それは父上の言葉だ」


「ですから、聞いてください」


 まったく。


 父上が死んでも、父上の小言は残るらしい。


 いや。


 残っているのは小言ではない。


 俺を主にしようとする、周りの手だ。


 疑うだけではなく、受け取れ。


 そう言われた気がした。


 俺は立ち上がった。


「食う」


 そう言うと、帰蝶がほんの少しだけ笑った。


 勘十郎も笑った。


 政秀は安堵したように息を吐いた。


 長秀は帳面を抱えたまま、早くも仕事の量に遠い目をしている。


 その顔を見て、俺は少し笑った。


 父上の城は、まだ俺の城ではない。


 家臣たちも、まだ俺の家臣ではない。


 町も、まだ俺を信じてはいない。


 だが、今日一日で分かった。


 国は、遠い理想では動かない。


 今日の米。


 明日の道。


 誰かの名を騙る小者。


 腹を空かせた子。


 鍛冶場の炭。


 馬借の傷だらけの顔。


 そういう小さなものが、国を動かしている。


 ならば、そこから始める。


 天下など、まだ知らぬ。


 だが、尾張の腹の音なら少し聞こえた。


 まずは、それを無視しないことだ。

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