第8話 幕間 信勝の家臣たち
信勝は、父の文箱を兄へ渡したことを、まだ少しだけ後悔していた。
渡すべきではなかった、という後悔ではない。
あれは嫡男である兄が持つべきものだった。
父の書付。
父の筆。
父の印。
それらは、織田信秀という男がこの世に残した重みの欠片である。
信勝が抱え込むものではない。
そう思ったから渡した。
けれど、手元から文箱がなくなった後、胸の奥にぽっかりと穴が空いたような心地がした。
父のものを兄へ渡した。
それは、父の後を継ぐのが兄であると、自分自身に言い聞かせる行為でもあった。
信勝は、それを理解していた。
理解していたからこそ、苦しかった。
「勘十郎様」
控えめな声がした。
信勝は顔を上げる。
部屋の外に、林美作守が控えていた。
林秀貞の弟であり、信勝の周囲にいる者の中でも、ひときわ熱心に言葉を運んでくる男だった。
悪い男ではない。
少なくとも、信勝はそう思っている。
ただ、熱心すぎる。
信勝のために、と言いながら、その熱が時に信勝本人の息を狭くする。
「入れ」
「失礼いたします」
林美作守は静かに入ってきた。
続いて、数名の家臣が頭を下げる。
若い者もいれば、父・信秀の代から仕えている者もいる。
皆、喪の顔をしていた。
けれど、その目には喪だけではないものが宿っている。
期待。
不安。
そして、決意に似た危うい光。
信勝は、それを見るのが苦手だった。
彼らは自分を見ている。
しかし、自分の奥に何を見ているのかは分からない。
父の影か。
織田家の安定か。
兄への不満か。
それとも、自分たちの居場所か。
「このような夜更けに、何用だ」
信勝はなるべく穏やかに言った。
荒げてはならない。
兄は、言葉を刃のように使う。
自分までそうなっては、誰が家中を落ち着かせるのか。
そう思っていた。
「勘十郎様。明日の御段取りについて、少々お耳に入れたきことがございます」
「明日の段取りなら、兄上と平手殿が進めているはずだ」
林美作守は一瞬、視線を落とした。
「さればこそ、でございます」
信勝の胸が少し沈んだ。
まただ。
兄の名が出ると、場の空気が濁る。
「兄上に、不足があると言いたいのか」
「不足などと、恐れ多いことは申しませぬ」
「では、何だ」
「不安がございます」
その言い方は、ずるい。
信勝はそう思った。
不足と言えば、兄を責める言葉になる。
不安と言えば、家中を案じる言葉になる。
そして今、誰もが不安を口実にできる。
父が死んだばかりなのだから。
「父上が亡くなられた。家中が不安になるのは当然だ」
「はい。だからこそ、勘十郎様にお立ちいただきたいのです」
部屋の空気が、すっと細くなった。
信勝はしばらく黙った。
予想していなかったわけではない。
だが、こうも早く言葉にされるとは思っていなかった。
「立つとは、どういう意味だ」
「家中をお鎮めいただく、という意味にございます」
「それは兄上の務めだ」
「無論、表向きは」
「表向き?」
信勝の声が少し硬くなった。
林美作守は深く頭を下げた。
「言葉が過ぎました」
「過ぎた言葉は、戻らぬ」
「承知しております」
「ならば、続けるな」
普段なら、そこで家臣たちは引いただろう。
けれど、その夜の彼らは引かなかった。
父・信秀の死。
信長の抹香投げ。
葬儀の日の町歩き。
そういうものが、彼らに妙な勇気を与えていた。
悪い勇気だ。
「勘十郎様」
今度は別の家臣が口を開いた。
年配の男だった。
父の代から家に仕えている。
信勝はその男をよく知っていた。
幼い頃、馬の乗り方を褒めてくれたこともある。
「恐れながら、若君……いえ、信長様の御振る舞いに、家中は動揺しております」
「それは分かっている」
「お屋形様の葬儀にて、抹香を投げられました」
「見ていた」
「あれを、家中の者たちはどう受け止めましょう」
信勝は答えなかった。
どう受け止めるか。
そんなもの、聞かずとも分かっている。
父を侮辱したと見る者がいる。
嫡男として不適格だと見る者がいる。
やはりうつけだと安堵する者さえいるだろう。
信勝自身も傷ついた。
父の前で、なぜあのようなことを。
そう思った。
けれど。
兄と話した後、簡単に断じられなくなっていた。
兄は父を侮辱したのではない。
それだけは分かった。
分かったからといって、許せるわけではない。
しかし、ただの奇行だと切り捨てることもできなかった。
「兄上には、兄上のお考えがある」
信勝は静かに言った。
家臣たちが顔を見合わせる。
林美作守が少し身を乗り出した。
「勘十郎様は、あれをお認めになるのですか」
「認めるとは言っていない」
「では」
「だが、兄上をただのうつけと笑うことは許さぬ」
その言葉は、自分で思っていたより強く出た。
部屋の者たちが息を呑んだ。
信勝もまた、胸の内で驚いていた。
自分は、兄を庇ったのか。
父の葬儀を乱した兄を。
自分を疑っている兄を。
それでも。
兄は兄だった。
幼い頃、木に登る背を追いかけた兄。
誰より先に馬を走らせ、誰より遠くへ行ってしまう兄。
理解できない。
危うい。
腹立たしい。
それでも、兄だった。
「失礼いたしました」
林美作守は頭を下げた。
しかし、声は引いていない。
「我らも、信長様を笑っているのではございません。恐れているのです」
「恐れている?」
「はい。このままでは、織田家が壊れるのではないかと」
信勝は膝の上で手を握った。
その言葉は、何度も胸の中で響いている。
このままでは、織田家が壊れる。
信勝自身も、そう思わぬわけではなかった。
兄の目は遠すぎる。
町を見ている。
米を見ている。
道を見ている。
人の腹を見ている。
それは大事なことなのだろう。
けれど、目の前の家臣の心を置いていきすぎる。
兄は、人の不安を見ようとする。
だが、人は見られるだけでは安心しない。
受け止められたいのだ。
「兄上は、織田を変えようとしている」
信勝が呟くと、家臣たちの目に力が戻った。
しまった、と思った。
心の中の言葉が、声になっていた。
林美作守がすかさず言う。
「まさに、それでございます」
「待て。私は、兄上を責めたわけでは」
「勘十郎様はお優しい。されど、優しさだけでは家は守れませぬ」
その言葉に、信勝はわずかに眉を寄せた。
「それは、兄上も言いそうな言葉だ」
林美作守は一瞬黙った。
信勝は続けた。
「兄上も言っていた。守るものだけを抱えていては、手が塞がると」
「信長様は、そうおっしゃったのですか」
「そうだ」
「では、勘十郎様はどうお考えに?」
信勝はすぐには答えなかった。
自分はどう考えているのか。
分かっているつもりで、実は言葉にできていなかった。
父の名を守りたい。
織田家を守りたい。
家臣たちが安心して仕えられる家にしたい。
母が嘆かぬ家にしたい。
それは本当だ。
だが、それだけでは兄に届かない。
兄は必ず問う。
何を守れば織田を守ったことになる、と。
信勝は、ゆっくりと言った。
「手が塞がっても、抱えていなければ失うものがある」
家臣たちは黙って聞いた。
「家の形、礼、父上の名、家臣たちの面目。兄上は、それを軽く見ているわけではないのだろう。だが、急ぎすぎる」
「急ぎすぎる」
「そうだ」
信勝は、自分の中の言葉を探しながら続けた。
「古くなった梁を替えねば家が潰れる。兄上はそう言った。確かに、腐った梁は替えねばならぬ。けれど、家にいる者へ何も言わず梁を抜けば、皆は屋根が落ちると思って逃げ出す」
林美作守の目が輝いた。
「まさしく、勘十郎様のおっしゃる通りにございます」
その目を見て、信勝は胸が冷えた。
自分の言葉が、彼らに使われている。
今、そう感じた。
信勝は兄に言われたことを思い出す。
お前が背かなくても、周りが背かせることはある。
あの時は傷ついた。
兄は自分を信じていないのか、と。
だが今、少しだけ分かってしまった。
自分が兄を否定するつもりでなくとも、周りの者たちは自分の言葉を兄への刃に変える。
それは恐ろしいことだった。
「美作守」
「はっ」
「私の言葉を、兄上を責めるために使うな」
林美作守は頭を下げた。
「滅相もございませぬ」
口ではそう言った。
けれど、その奥で何を思ったかは分からない。
信勝には、兄のように人の腹を見抜く自信はなかった。
いや、見抜きたくなかったのかもしれない。
家臣を疑いながら生きるのは、あまりに寂しい。
だが、疑わずにいれば飲み込まれる。
信勝は、その狭間に立たされていた。
「柴田殿は何と言っている」
信勝が問うと、部屋の空気が少し変わった。
林美作守は慎重に答える。
「柴田殿は、信長様に呼ばれ、兵の様子を見るよう命じられたとのこと」
「兄上が?」
「はい」
「それで、柴田殿は」
「命は受けた、と」
信勝は少しだけ安堵した。
柴田勝家は剛直な男だ。
父を敬っていた。
葬儀の場での兄の振る舞いには、深く怒っているはずだ。
その柴田が、兄の命を受けた。
ならばまだ、家中は決定的には割れていない。
そう思いたかった。
しかし林美作守は続けた。
「されど、柴田殿の怒りは深うございます」
「それを煽るな」
「煽るつもりはございません」
「ならば、そっとしておけ」
「ですが、柴田殿ほどの武辺者が、信長様に疑念を抱かれているのは事実。家中の者たちは、それを見ております」
まただ。
事実。
彼らは事実を言う。
だから厄介なのだ。
嘘なら否定できる。
悪意なら叱れる。
しかし、事実を並べられると、信勝は言葉に詰まる。
兄は家中を揺らした。
柴田は怒っている。
林は慎重に測っている。
佐久間は様子を見ている。
母はおそらく、自分のところへ人が集まるのを感じている。
そして、自分の部屋にもこうして人が来ている。
これはすべて事実だった。
「勘十郎様」
若い家臣が声を上げた。
「我らは、織田家を守りたいのです」
「分かっている」
「信長様が御嫡男であることは存じております。されど、家を守るには、家中の心が要ります」
「それも分かっている」
「ならば、勘十郎様が支えとならねば」
「兄上を支えるという意味なら、そうする」
「いえ」
若い家臣は一瞬ためらった。
それから、意を決したように言った。
「信長様が家中をまとめられぬ時、勘十郎様が織田を支えるという意味にございます」
部屋が静まった。
言ってしまった。
誰もがそう思った。
信勝は若い家臣を見た。
その顔は真剣だった。
欲に濁っているようには見えない。
本気で織田家を案じている。
本気で信勝を必要としている。
だから、なおさら怖かった。
「それは、兄上に背けという意味か」
「そこまでは」
「そこまで言えぬなら、口にするな」
信勝の声は、思ったより冷たかった。
若い家臣が青ざめる。
信勝は胸が痛んだ。
叱りたいわけではなかった。
しかし、ここで曖昧に頷けば、彼らは次の言葉を用意する。
家中のため。
織田のため。
父上のため。
その言葉で、自分を前へ押し出す。
そして気づけば、兄と自分は向かい合うことになる。
それだけは避けたかった。
今はまだ。
「私は兄上に背く気はない」
信勝ははっきり言った。
部屋の者たちは頭を下げた。
だが、その沈黙は納得ではなかった。
待つ沈黙だった。
今はまだ、という言葉を、彼らは勝手に聞き取ったのかもしれない。
信勝はそれに気づき、ぞっとした。
人は、自分の望む言葉だけを聞く。
兄がよく言う通りだった。
「下がれ」
信勝は言った。
「今夜は、これ以上話すことはない」
「勘十郎様」
「父上が亡くなられたばかりだ。家中を案じるなら、まず軽々しく言葉を走らせるな」
林美作守は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
本当に承知したのかは分からない。
家臣たちは一人ずつ下がっていった。
最後に林美作守だけが残り、低く言った。
「勘十郎様。どうか、御身をお小さくなさいませぬよう」
「小さく?」
「信長様は大きく振る舞われます。時に、大きすぎるほどに。ゆえに皆、恐れます。勘十郎様が御自身を小さくなされば、家中には逃げ場がなくなります」
「逃げ場など、作るつもりはない」
「逃げ場ではなく、支えでございます」
林美作守はそう言って、頭を下げた。
「我らは、勘十郎様を必要としております」
その言葉を残し、彼も部屋を出ていった。
襖が閉まる。
信勝は一人になった。
部屋に、夜の冷えが戻る。
父の文箱はもうない。
兄へ渡した。
その代わり、部屋には目に見えない別の箱が置かれているようだった。
家臣たちの期待。
不安。
兄への疑念。
父の名を守りたいという願い。
それらが詰まった重い箱。
信勝は、それを開けるつもりなどなかった。
けれど、向こうから蓋が開いていく。
「兄上」
小さく呟いた。
返事はない。
兄は今ごろ、父の書付を見ているのだろうか。
平手政秀に叱られているかもしれない。
あるいは、また町へ出ようとして止められているかもしれない。
思い浮かべると、少しだけ笑いそうになった。
兄は昔からそうだった。
誰もが右を向けと言えば、左へ行く。
しかし、ただ逆へ行くのではない。
左に何があるかを見に行く。
それで怪我をして、怒られて、それでもまた行く。
信勝は、そんな兄を嫌いではなかった。
いや。
本当は、少し憧れていた。
自分にはできないからだ。
自分は、立ち止まってしまう。
誰が不安になるか。
誰が傷つくか。
誰が困るか。
そんなことを考えているうちに、足が遅くなる。
兄は足が速い。
速すぎて、人を置いていく。
自分は足が遅い。
遅すぎて、火に巻かれるかもしれない。
どちらが織田に必要なのか。
答えは出ない。
その時、襖の外から柔らかな声がした。
「勘十郎」
信勝は姿勢を正した。
「母上」
入ってきたのは、土田御前だった。
喪の装いをしているが、顔には疲れが濃い。
夫を亡くしたばかりの女の顔だった。
同時に、二人の息子を持つ母の顔でもあった。
「少し、よいですか」
「もちろんです」
土田御前は信勝の向かいに座った。
しばらく何も言わなかった。
ただ、信勝の顔を見ている。
「人が来ていたようですね」
「はい」
「何を言われました」
「家中が不安だと」
「そうでしょうね」
「母上も、そうお思いですか」
土田御前は目を伏せた。
「母として答えるなら、二人とも心配です」
「二人とも」
「信長も、あなたも」
信勝は黙った。
母は兄をどう見ているのか。
幼い頃から、それは信勝の中にある問いだった。
兄は母を困らせることが多かった。
自分は母に褒められることが多かった。
けれど、母の目が兄を追っていることも知っていた。
困ったように。
怒ったように。
そして、どうしようもなく気にかけるように。
「兄上は、危ういです」
信勝が言うと、土田御前は静かに頷いた。
「ええ」
「家中を不安にさせます」
「ええ」
「それでも、兄上が嫡男です」
「ええ」
同じ返事。
けれど、その一つ一つに違う重みがあった。
「母上は、兄上に継いでほしいのですか」
問うてから、信勝は自分の声が少し震えていることに気づいた。
土田御前は、すぐには答えなかった。
母として。
織田家の女として。
信秀の妻として。
いくつもの立場が、その沈黙の中にあった。
「継ぐのは、信長でしょう」
やがて土田御前は言った。
信勝は胸の奥が小さく沈むのを感じた。
「そうですね」
「けれど」
母の声が少し低くなる。
「あの子一人で、家を保てるのかは分かりません」
信勝は顔を上げた。
「母上」
「信長は、人の見ないものを見ます。あなたは、人の見ているものを守ろうとします」
「兄上にも同じようなことを言われました」
「そう」
土田御前は少しだけ悲しそうに笑った。
「兄弟ですね」
「そうでしょうか」
「違うところばかり見えても、同じところもあります」
信勝には、すぐには分からなかった。
自分と兄が同じ。
そう言われても、まったく似ていないように思える。
「勘十郎」
「はい」
「あなたは、信長を憎んではいけません」
胸を突かれた。
「憎んでなど」
「今は、そうでしょう」
母の声は優しかった。
だが、逃げ場がなかった。
「けれど、人は周りの声で少しずつ変わります。あなた自身が望まなくても、誰かの期待があなたの心に入ってくる」
兄と同じことを言う。
周りが背かせることはある。
信勝は膝の上の手を握った。
「私は、兄上に背くつもりはありません」
「ええ」
「けれど、兄上が家を壊すようなら」
そこで言葉が止まった。
止めるべきだった。
しかし、止まったことで、余計に意味が濃くなった。
土田御前は、信勝を見つめた。
「その時、あなたはどうするのですか」
「……分かりません」
正直な答えだった。
母は責めなかった。
「分からないうちは、決めたふりをしてはいけません」
信勝は深く頷いた。
「はい」
「それから、あなたの周りにいる者たちをよく見なさい」
「兄上にも言われました」
「信長に?」
「はい」
「そう」
土田御前は今度こそ、ほんの少し笑った。
「あの子も、兄なのですね」
信勝は胸の奥が痛くなった。
兄は兄だ。
そうだ。
あの人は、自分を疑いながらも警告してくれた。
弟として。
いや、主になる者としてかもしれない。
それでも、言ってくれた。
「母上」
「何です」
「兄上は、寂しい方です」
口にすると、昼間の会話が戻ってきた。
兄はその言葉に、一瞬だけ何も返せなかった。
いつもなら言い返してくる兄が。
土田御前は目を伏せた。
「そうかもしれません」
「母上も、そう思われますか」
「あの子は昔から、遠くへ行こうとする子でした。人の手を振りほどいて走っていく。けれど、振りほどいた後で、誰かが追ってきているかを少しだけ気にする」
信勝は初めて聞く兄の姿に、言葉を失った。
母は続けた。
「あなたは逆です。人の手を離さない。離さないから、時に動けなくなる」
「私は」
「どちらが正しいとは言いません」
土田御前は信勝の手に、自分の手を重ねた。
「けれど、二人が逆へ引き合えば、家は裂けます」
「では、どうすれば」
「今は、裂けぬようにしなさい」
「兄上を支えるということですか」
「支えるだけではありません」
母は静かに言った。
「あなた自身が、誰に支えられ、誰に押されているのかを知りなさい」
信勝は頷いた。
その言葉は重かった。
母が去った後、信勝は再び一人になった。
灯火が小さく揺れている。
襖の向こうに、もう家臣の気配はない。
だが、彼らの言葉は部屋に残っていた。
我らは、勘十郎様を必要としております。
必要とされることは、嬉しいはずだった。
幼い頃から、信勝は人に認められることを大事にしてきた。
父に褒められること。
母を安心させること。
家臣に信頼されること。
それが自分の立つ場所だった。
だが今、その「必要」が怖い。
必要とする者は、いつか要求する。
要求は、やがて命令に似てくる。
信勝は立ち上がり、棚から小さな紙を取り出した。
筆を持つ。
兄へ書くべきか迷った。
今夜、家臣たちが来たことを伝えるべきか。
伝えれば、兄はどうするだろう。
笑うだろうか。
やはり来たか、と言うだろうか。
それとも、家臣の名を一つずつ聞き出し、顔を覚え、動きを測るだろうか。
信勝は筆を下ろせなかった。
兄に知らせることは正しい。
だが、家臣を売るような気もした。
家臣を守れば、兄への隠し事になる。
すでに、板挟みだった。
「父上」
信勝は小さく呟いた。
返事はない。
父はもういない。
兄も同じように、死者に問うたのだろうか。
答えがないと知りながら。
信勝は筆を置いた。
今夜は書かない。
それが正しいのかは分からない。
ただ、今書けば、誰かを恐れて書くことになると思った。
恐れて書いた文は、きっと余計に人を傷つける。
翌朝、兄と父の書付を見る。
その時に、話せることがあるかもしれない。
話せないこともあるかもしれない。
信勝は灯火を見つめた。
揺れている。
風もないのに、火は小さく揺れる。
人の心のようだと思った。
兄なら、そこから風の通り道を読むのだろう。
自分は、揺れる火を手で囲いたくなる。
消えないように。
それが自分の弱さなのか、強さなのか、まだ分からない。
ただ一つだけ、分かっている。
織田家は、もう父の生きていた頃の織田家ではない。
兄はそれを見ている。
自分はそれを認めたくない。
そして家臣たちは、その間に立つ自分を見ている。
信勝は静かに目を閉じた。
兄上。
私は、あなたを憎みたくありません。
けれど。
あなたが父上の家を壊すなら、私はどうすればよいのですか。
答えは、まだなかった。
夜の城のどこかで、誰かが低く戸を閉める音がした。
その小さな音が、これから始まる家中の軋みのように、信勝の耳にいつまでも残った。




