第五話 客室ではなく、仮机が用意されていました
王宮の監査局は、思っていたより質素だった。
同じ王宮の中でも、夜会場や謁見の間のような飾りはほとんどない。
磨かれた石床と、傷の少ない机と、積み上がった帳簿。
それだけで十分だと言わんばかりの部屋だった。
私はその空気が少しだけ好きだと思った。
少なくとも、見栄のためだけに金が消えていく部屋ではなさそうだったからだ。
「こちらです」
ユリウス殿下付きの側近が、長い廊下の奥にある部屋の扉を開いた。
室内にはすでに机が一つ、壁際へ増やされていた。
新しい机ではない。
だが天板は綺麗に拭かれ、インク壺と計算板、紙束、封蝋台まで整えられている。
客用の応接椅子ではなく、最初から《《仕事をする前提》》の机だった。
「仮机だ」
後ろから聞こえた声に振り返ると、ユリウス殿下が立っていた。
「帳簿を読むなら、寝台よりこちらのほうがよいだろう」
「……はい」
私は素直に頷いた。
実際、その通りだった。
婚約破棄された令嬢に用意されるものといえば、普通は休ませるための客室か、せいぜい静かな待機室だろう。
でもここにあるのは仮机。
それだけで、私が《《慰められる相手》》ではなく、《《働く相手》》として見られているのが分かった。
「必要なものがあれば言え」
「紙をもう少し。
あとは王太子府の原帳簿と、結界院の支出簿、それから王家会計の月次まとめを」
私が答えると、部屋にいた書記官たちが一斉にこちらを見た。
好意的な驚き半分。
露骨な警戒半分、といったところだろう。
婚約破棄されたばかりの令嬢が、客室へ案内されるより先に原帳簿を要求したのだから無理もない。
「最初から飛ばしますね」
年配の女性書記官が、少しだけ口元を緩めた。
彼女は細い眼鏡の奥で、仕事のできそうな目をしている。
「結界院から先に見ますか。
それとも王太子府側から?」
「王太子府からお願いいたします」
私は答えた。
「結界院の数字はまだ素直です。
問題は、王太子府側で何度《《飛ばし》》が行われたかですから」
女性書記官の眉がわずかに上がる。
隣の若い書記官も、露骨に目を丸くした。
どうやら思ったより話が早いらしい。
「名前を」
ユリウス殿下が短く言う。
女性書記官がすぐに一礼した。
「ヒルダ・メルク。
監査局の書記主任でございます」
「原帳簿を」
「すでに運ばせています」
会話が無駄なく噛み合う。
私は少しだけ肩の力を抜いた。
こういう場なら、たぶん働ける。
少なくとも、笑顔の角度や刺繍の出来ではなく、数字の揃い方で評価される。
やがて運び込まれた帳簿の束は、思った以上に多かった。
王太子府の月次帳簿。
裁量支出簿。
仮払処理簿。
結界院補修費台帳。
そして王家会計との照合用総括簿。
紙の重みだけで、数か月分の誤魔化しが詰まっていると分かる。
「始めます」
私は椅子へ腰を下ろした。
目の前の帳簿を開き、まず最初に日付の流れを見る。
不足した日。
飛ばした日。
仮払が異様に増えた日。
宝石商の納品日と、結界院の搬入遅延日。
紙の上では、嘘は思ったより目立つ。
ただ、人はその嘘を“いつもの処理”だと思い込むと見なくなるだけだ。
「……やはり」
私は三冊目をめくりながら、小さく呟いた。
「何か見えたか」
ユリウス殿下が、少し離れた場所から訊く。
「三回です」
「三回?」
「大きな飛ばしが三回あります」
私は指先で日付を示した。
「ひとつ目は冬前。
北外壁結界の補修費を翌月扱いへ回したとき。
ふたつ目は新年の祝賀夜会。
慈善施療院名目の支出が膨らんだとき。
三つ目はつい先月。
東区画補修費が首飾りへ変わったとき」
「その三回で共通するものは」
「確認印です」
私は頁の端を軽く叩いた。
「殿下の裁可印だけではありません。
必ず《《ガルストン会計監督官の確認印》》が入っている」
部屋の空気が、そこで少しだけ変わった。
王太子個人の浪費だけなら、まだ単純だ。
でも、実務側が毎回同じ手で通しているなら、それは構造になる。
そして構造は、一人を処分しただけでは止まらない。
「ガルストンは今、別室で取り調べ中だ」
ユリウス殿下は言った。
「連れて来られたときの顔色は悪かったが、口はまだ回るらしい」
「回るでしょうね」
私は帳簿から目を離さずに答えた。
「数字を飛ばしてきた人は、言い訳も上手いものです」
そこで、若い書記官が思わずといったように声を漏らした。
「婚約者だった方を、ずいぶん冷静に見ていらっしゃるのですね」
ヒルダ書記主任が小さく咳払いをした。
不用意な一言だったのだろう。
でも私は気分を害さなかった。
むしろ当然の疑問だと思う。
「冷静でいないと、数字が逃げますから」
私は紙を一枚抜き取りながら答えた。
「泣き声は証拠になりませんけれど、帳簿は証拠になります」
「……なるほど」
若い書記官は真顔で頷いた。
今の返答に感心したのか、少し怖がったのかは分からない。
どちらでもよかった。
私は空白の紙へ、三本の線を引き始めた。
左に王太子府の表帳簿。
中央に仮払と保証。
右に、実際の支出先。
見比べるのではなく、一枚へ並べる。
そうすると、嘘の流れは驚くほど見やすくなる。
「……綺麗だな」
気づけば、ユリウス殿下が机の反対側へ来ていた。
彼は私の手元を見下ろし、できあがり始めた照合表へ視線を落としている。
「ありがとうございます」
「褒めているのは字ではない」
「分かっています」
思わずそう返すと、彼の口元がほんの少しだけ動いた。
笑ったのだと思う。
でも声にはならない。
この人はたぶん、笑うのがあまり得意ではない。
「一枚で流れが見える」
ユリウス殿下は言った。
「これなら、陛下も会計長も言い逃れを許さないだろう」
「許させないために作っていますので」
私が答えると、灰色の瞳がわずかに細くなった。
また、あの見えにくい笑い方だった。
そのとき、扉が強く叩かれた。
「失礼いたします!」
入ってきたのは、先ほど玉座の間にもいた監査局付き近衛だった。
顔色が悪い。
ただ事ではないとすぐに分かる。
「ガルストン会計監督官の執務室を封鎖しましたが……」
「何だ」
ユリウス殿下の声が短く落ちる。
「保管箱の一部が抜かれております!
特に王太子府関連の補助台帳、印影簿、仮払控えの一部が見当たりません!」
部屋の中の全員が息を呑んだ。
ヒルダ書記主任がすぐに机を離れ、若い書記官は青ざめる。
私は逆に、妙に頭が冴えた。
「抜かれたのは、いつの記録ですか」
近衛が戸惑ったようにこちらを見る。
でもユリウス殿下がすぐに言った。
「答えろ」
「は、はい!
冬前から春先にかけての分です!
ただ、すべてではなく……飛び飛びで……」
「三回の山ですね」
私は机上の照合表を見下ろしながら言った。
「一冊丸ごとではなく、必要な月だけ抜いている。
なら、ガルストン一人の判断ではありません」
「なぜそう言える」
「帳簿を隠す人間は、普通もっと雑です」
私は紙の上の日付を指で追った。
「でもこれは違う。
《《一番痛いところだけ》》を抜いている。
つまり、何を抜けばどの照合が崩れるか分かっている人が選んでいます」
ヒルダ書記主任が低く息を吸う。
「……内部に、まだ数字の読める協力者がいる」
「はい」
私は頷いた。
「しかもガルストンの机へ入れる程度には、王太子府か会計局の導線を知っている人です」
ユリウス殿下の表情は動かなかった。
でも空気だけが少しだけ冷たくなる。
怒っているのではない。
狙いを定めているときの静けさだと、なんとなく分かった。
「抜かれた帳簿は戻らないと思ったほうがいいでしょう」
私は続けた。
「ですが、完全には消せません」
「理由は」
「私の写しがあります」
私は淡々と言った。
「原帳簿ほどではありませんが、主要な金額と日付と支出先は押さえています。
それに――」
一枚の紙をめくる。
「抜いた帳簿の月だけ、王家会計側の総括簿に不自然な余白があります。
帳尻だけ合わせて、内訳を飛ばした跡です。
ですから、戻せます」
近衛がぽかんとした顔をした。
ヒルダ書記主任は、むしろ愉快そうに目を細める。
きっと彼女は、こういう仕事が好きなのだろう。
少しだけ気が合いそうだと思った。
「セシリア嬢」
ユリウス殿下が、机の端へ指を置いた。
「今夜のうちに、欠けた月の再構成はできるか」
「できます」
私は即答した。
「ただし、紙が足りません」
「用意する」
「それと、甘くないお茶を」
「それも用意する」
返事が早い。
私は少しだけ目を瞬いた。
前世でも今世でも、必要なものを言ってすぐ通る経験はあまりなかった。
「客室より仮机のほうがよい、という話」
私は小さく言う。
「本当にその通りでした」
「そうだろうと思った」
ユリウス殿下は平然と答えた。
でも、その一言だけで少しだけ肩の力が抜ける。
抜かれた帳簿は痛い。
けれど、痛いだけだ。
終わりではない。
むしろ、どこを抜けば困るか知っている人間がいると分かったぶん、次の敵の輪郭が出た。
私は新しい紙を引き寄せ、照合表の続きへ線を引く。
冬前。
新年。
春先。
消えた帳簿の月だけ、赤い印をつける。
すると嘘の流れが、逆に濃く浮かび上がった。
王太子個人の浪費だけではない。
王太子府の会計を支える実務側に、まだ手がいる。
なら、次に暴くべきはそこだ。
帳簿を盗まれたくらいで止まるなら、最初からこんな封箱は作っていない。
「ユリウス殿下」
「何だ」
「ガルストンの机から、印影簿も消えたのですよね」
「ああ」
「でしたら、印だけでは足りません。
《《誰がどの時間に出入りできたか》》も押さえたほうがよいです」
「近衛詰所の出入り記録か」
「はい。
帳簿を抜くなら、夜ではなく《《昼の混雑》》に紛れるほうが自然ですから」
ヒルダ書記主任が、そこで初めてはっきりと笑った。
「殿下。
この方、もう客人ではなく同僚でよろしいのでは?」
「最初からそのつもりだ」
ユリウス殿下はそう答えた。
短い返事だった。
でも、その短さが妙に胸へ残る。
婚約者ではない。
飾りでもない。
《《同僚》》。
その言葉は、今の私には驚くほど座りがよかった。
夜は長くなりそうだった。
でもたぶん、悪い長さではない。
少なくとも今夜の私は、誰かの浪費を隠すために帳簿を読むのではなく、ようやく《《暴くために》》帳簿を読めるのだから。
消えた台帳の先にいるのが誰であれ、次はそちらの番だ。
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