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婚約破棄を承知いたしました。では、王家への立て替えは本日で終了です 〜元王太子妃候補は監査卿殿下と王宮の赤字を暴く〜  作者: 本城オブリゲータ


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第四話 謁見の間では、泣き言より帳簿のほうが強い

 謁見の間は、夜会場よりずっと静かだった。


 高い天井も、赤い絨毯も、磨かれた柱も同じ王宮のものなのに、ここには人を飾るための華やかさがない。



 代わりにあるのは、言い逃れのきかない空気だった。


 私は玉座の前へ進み、ゆっくりと膝を折る。

 その少し後ろで、アルノルト殿下も同じように跪いた。


 けれど姿勢の乱れ方が違う。



 私は準備してここへ来た。


 あちらは、引きずられるようにここへ来た。

 それだけの差なのに、立場の違いはもう隠せなかった。



「セシリア・フォン・ヴァルテール」



 国王陛下の声は低く、疲れていた。


 怒鳴り声ではない。

 だからこそ重い。



「この封箱と帳簿は、すべてそなたが用意したものか」


「はい」



 私は顔を上げずに答える。



「王太子府の不足金、立替保証、支出先の記録。

 いずれも私が把握していた分を整理したものにございます」



「なぜ、ここまで詳細に」



 一拍だけ、考える。


 答えは簡単だ。

 前世で一度死んだから。


 でもそれをこの場で言うわけにはいかない。



「婚約者としての責務だと考えておりました」



 私は静かに言った。



「王太子殿下の名に傷をつけぬよう、必要な支出を管理し、不足があれば補うのが務めだと」



 国王陛下の前に置かれた帳簿の束は、思ったより厚かった。


 昨夜、私が封箱へ入れたときよりも分厚く見えるのは、きっと玉座の前という場所のせいだろう。

 数字は場所を選ばないはずなのに、出される場所によって重さが変わることがある。



「アルノルト」



 国王陛下が息を吐いた。



「そなたは、これを知っていたか」


「……一部は、です」



 アルノルト殿下の返答は苦しかった。


 まだ《《全部》》ではないと言い張るつもりらしい。

 けれど、その時点でもう負けている。


 知らなかったと認めれば無能。



 知っていたと認めれば不正。

 どちらへ転んでも軽くは済まないのだ。



「一部、だと?」



 宰相の声が険しくなる。

 玉座の左右に控える重臣たちの視線が一斉に殿下へ集まった。



「王太子府の裁量内で調整できる範囲のものと思っておりました。

 婚約者であるセシリアが、自ら補助したいと――」


「申し上げておりません」



 私はすぐに否定した。



「私が補助を申し出たのは、結界院補修費の仮払を最初に一度だけです。

 その後は《《今月だけ》《《次で戻す》《《婚約者なのだから》》というお言葉で、なし崩し的に続いてまいりました」



 アルノルト殿下がこちらを睨む。


 でも、前世の私はその視線で黙った。

 今世の私は黙らない。



「しかも」



 平坦な声が、そこへ重なった。


 ユリウス王弟殿下だった。

 灰色の瞳を帳簿へ落としたまま、一枚の証憑を抜き出している。



「これは《《裁量内》》で済む額ではない」



 彼は金箔付きの納品票を掲げた。



「王都結界東区画補修用の高純度蒼石、二十基分。

 搬入予定日に《《急遽見送り》》となり、その翌日に別名目で同額が宝石商へ流れている。

 購入品は首飾り。

 受取人は伯爵令嬢ミレイア」



 場がざわついた。


 当然だと思う。

 補修用魔石と首飾りが、同じ列の中に並ぶべきではない。


 それが並んでいる時点で、もう十分異常なのだ。



「み、ミレイアは関係ありません!」



 アルノルト殿下が叫ぶ。



「彼女は何も知らない!

 これは私の判断で――」


「ならばなお悪い」



 ユリウス殿下が視線だけを上げる。



「知らぬ女へ、結界補修費を流して贈り物をしたということだからな」



 短い言葉だった。


 でも、その一撃で十分だった。

 アルノルト殿下はそこで口を閉ざす。


 ミレイアは後方で顔を覆って震えていた。

 けれど、可哀想だとは思わなかった。


 少なくとも彼女は、あの首飾りを受け取ったのだ。

 その綺麗な石の値段を、誰かの帳簿の穴が埋めていたとも知らずに。



「他にもございます」



 ユリウス殿下は次の頁をめくる。



「慈善施療院支援名目で処理された夜会費。

 南部街道修繕費からの一時流用。

 公爵家保証による魔導具師団の代金先送り。

 どれも《《一時》》だが、その《《一時》》が三か月続けば、それはもう構造だ」



 構造。


 その言葉が、ひどく正確だと思った。

 王太子府の乱れは、気まぐれの失敗ではない。


 《《誰かが埋めるから大丈夫》》を前提にした仕組みに変わってしまっていた。

 そして、その誰かが私だった。



「セシリア嬢」



 ユリウス殿下の視線が、初めて私へ向いた。


 値踏みする目ではない。

 仕事の確認をする目だった。



「この帳簿は、すべてそなた一人で整理したのか」


「はい」


「原帳簿の写しも残している?」


「ございます。

 写しは三組。

 一組は今朝、父へ。

 一組は私の手元に。

 原本相当は封箱へ収めました」


「よろしい」



 その一言だけで、胸の奥がわずかに軽くなる。


 誰かに褒められたかったわけではない。

 でも、ちゃんと準備してきたことを、ちゃんと評価されるのはやはり違う。


 そのとき、会計長が震える声を上げた。



「へ、陛下。

 恐れながら、問題はそれだけではありません」



 彼は脂汗を浮かべながら一枚の紙を差し出す。



「一部の支出において、王太子殿下の裁可印と異なる《《確認印》》がございます。

 帳簿の書式も、途中で手が変わっております」



 私は思わず顔を上げた。


 そこは、まだ封箱へ入れた帳簿の中でも検証しきれていない部分だった。

 数字の流れは追えた。


 でも、誰が《《実務側》》で改ざんを補助していたかまでは、確証が薄かった。



「具体的に申せ」



 国王陛下の声が、さらに低くなる。



「王太子府付会計監督官ガルストンの確認印です」



 会計長はほとんど呻くように言った。



「本来、裁量支出の翌月持ち越しは許されません。

 ですが彼は、形式上だけ一時借用へ組み替え、さらに別項目へ飛ばして帳尻を合わせておりました」



 玉座の間の空気が変わった。


 これまでは王太子の浪費と私の立替の話だった。

 けれど今の一言で、それが《《王太子府内部の腐り》》へ変わる。


 しかも会計官吏まで絡んでいるなら、王太子個人を罰して終わりでは済まない。



「ガルストンを連れてこい」



 国王陛下が即座に命じる。

 近衛が一礼し、急ぎ足で玉座の間を出ていった。



「アルノルト」



 王の視線が再び息子へ落ちる。



「そなたはこの会計監督官の処理を承知していたか」


「……細かい実務までは」


「つまり見ていなかった」



 国王陛下が言う。

 怒鳴っていないのに、その一言は重かった。



「結界補修費を宝石へ変え、施療院の寄付を宴席へ回し、公爵家の信用を婚約者の善意で済ませていた。

 しかも実務側の改ざんに気づきもしなかった。

 それで王太子の務めが果たせると思うか」



 アルノルト殿下は、もう何も言えなかった。


 膝をつく姿勢が崩れ、肩が落ちている。

 昨日の夜会で婚約破棄を告げた人間と同じとは思えないほど、小さく見えた。



「王太子アルノルト」



 国王陛下が宣告する。



「本日をもって、継承権を一時停止する。

 王太子府は監査下に置く。

 そなたは私的裁量権を剥奪し、謹慎とする」


「陛下……!」


「ミレイア・ベルナール」



 王の視線が、震える伯爵令嬢へ移る。



「王宮から退去。

 ただし事情聴取のため、当面は伯爵家の責任下で待機せよ」



 ミレイアが崩れ落ちるように泣いた。


 でも、それを見ても誰も動かない。

 泣き声で帳簿の穴は埋まらないからだ。


 私は静かに息を吐いた。


 ここまでは、前世にはなかった景色だった。

 前世のこの場で、私はもう罪人として扱われていた。


 でも今は違う。

 私は帳簿を出した側で、数字を整えた側で、王太子府の外に立っている。



「セシリア嬢」



 国王陛下が、今度は私を見た。



「迷惑をかけた」



 短い謝罪だった。

 けれど王の口からその言葉が出るとは思っていなかったので、一瞬だけ驚く。



「望みがあるなら聞こう」


「では二つ」



 私は背筋を伸ばした。



「第一に、私名義で立て替えた分の清算を、王太子府ではなく王家正式会計で行ってください。

 第二に、今後ヴァルテール公爵家の信用を、婚約者という名目で流用しないことを明文化していただきたく存じます」



 ざわ、と空気が揺れた。


 もっと感情的な願いが来ると思われたのかもしれない。

 でも私が欲しいのは謝罪の言葉ではなく、再発防止の線引きだった。



「……妥当だ」



 国王陛下が頷く。



「それ以外は望まぬか」


「今は、ございません」



 本当はある。


 自由もほしいし、静かな生活もほしい。

 けれど今ここでそれを言うのは違う。


 帳簿の処理が終わっていないのだから。



「陛下」



 そこで、ユリウス殿下が一歩前へ出た。



「この件は王太子府の浪費だけで終わりません。

 会計監督官の印が入っている以上、実務側に協力者がいる。

 結界補修費と施療院費だけでも、最低三か月分の精査が必要です」


「分かっている」


「ならば、セシリア嬢の身柄を数日だけ王宮へ留め置きたい」



 その言葉に、私ははっきりと顔を上げた。


 前世の記憶が、一瞬だけ背筋を冷たくする。

 留め置く。


 その言葉の危険さを、私は誰より知っている。



「証人としてではない」



 たぶん、私の表情を読んだのだろう。

 ユリウス殿下はすぐに続けた。



「証拠の整理役としてだ。

 帳簿を作った本人がいたほうが、無駄がない」



 灰色の瞳はまっすぐだった。


 そこに前世の断罪人たちが持っていたような、楽しげな残酷さはない。

 ただ、仕事のために必要だと言っているだけだ。



「選択肢はございますか」



 私は慎重に訊いた。



「もちろん」



 ユリウス殿下は即答した。



「断っても構わない。

 その場合は監査局側で時間をかけて読み直すだけだ。

 ただし、そなたほど早くは進まない」



 それは、脅しではなく事実なのだろう。


 そして事実である以上、私には断りにくい。

 ここで抜ければ、誰かが私の残した帳簿を読み違えるかもしれない。


 それは嫌だった。



「……何日必要でしょうか」


「三日」



 彼は言う。



「長くても五日だ」



 三日。


 それなら耐えられるかもしれない。

 前世のように閉じ込められ、全部の罪を押しつけられるのとは違う。


 今の私は、数字を握っている側だ。



「承知いたしました」



 私がそう答えると、ユリウス殿下の目がほんの少しだけ和らいだ気がした。

 本当にほんの少しだけ。

 見間違いかもしれない程度に。



「助かる」



 それだけ言われる。

 妙な慰めより、その一言のほうが胸に残った。



 謁見の間を下がるとき、私は一度もアルノルト殿下を見なかった。


 見る必要がなかったからだ。

 もう、私が知るべき数字は彼ではなく、彼の後ろに積まれた帳簿のほうへ移っている。



 前世では、私は処分される側だった。


 今世では違う。

 私は初めて、《《後始末を任される側》》に立っている。


 それが良いことなのかどうかは、まだ分からない。

 けれど少なくとも、処刑台よりはずっとましだ。



 玉座の間の外で、ユリウス殿下が足を止めた。



「セシリア嬢」


「はい」


「客室ではなく、監査局の仮机を用意する」



 私は瞬きをした。

 監査のために王宮へ残ると言われたとき、てっきり客扱いされるのだと思っていたからだ。



「帳簿を読むなら、客室の寝台より机のほうがよいだろう」



 そう言われると、少しだけ可笑しくなる。

 たしかにその通りだった。


 少なくとも、この人は私を《《気の毒な婚約破棄令嬢》》ではなく、《《帳簿を読める人間》》として扱っている。



「ええ。

 そのほうが助かります」



「そうだろうと思った」



 短い返答だった。

 でも、その短さが妙に心地よかった。



「それと」



 ユリウス殿下は続ける。



「黒い封箱、見事だった」



 一瞬、言葉が出なかった。


 褒められたかったわけではない。

 でも、あれを《《見事》》だと理解してくれる人がいたことに、思った以上に救われる。



「ありがとうございます」



 私がそう返すと、彼はわずかに頷いた。



「明日から忙しくなる」


「承知しております」


「なら、今夜は少し休め」



 それだけ言って、ユリウス殿下は去っていく。

 灰色の外套が、王宮の白い廊下を静かに曲がって見えなくなった。


 私はその背を見送りながら、少しだけ思う。


 前世のこの時間の私に、こんな机が待っていたなら。

 もしかすると、あの処刑台へは行かずに済んだのだろうかと。



 でも、その答えはもう要らない。

 今の私は生きている。


 そして明日からは、王太子の婚約者としてではなく、帳簿を読める人間として王宮へ座るのだから。

第5話は本日20:20に投稿します。

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