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婚約破棄を承知いたしました。では、王家への立て替えは本日で終了です 〜元王太子妃候補は監査卿殿下と王宮の赤字を暴く〜  作者: 本城オブリゲータ


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第六話 消えた帳簿より先に、私の私印が狙われていました

 監査局の夜は、思っていたより静かだった。



 人の声は少ない。

 紙の擦れる音と、羽ペンの先が机を打つ音と、遠くで誰かが書庫の扉を開け閉めする音だけが、時折うっすらと重なる。


 それでも私は、この静けさが嫌いではなかった。

 夜会場のざわめきより、ずっと仕事のしやすい音だったからだ。



 仮机へ座ってから、どれくらい経っただろう。


 机の右端には、ヒルダ書記主任が持ってきてくれた原帳簿の束。

 左端には、私が引き直した照合表。


 そして手元には、ユリウス殿下が言葉通り用意させた甘くない茶がある。



 香りは強くない。


 でも、冷めてもまだ飲める味だった。

 そういう茶を選ぶあたり、この人はやはり実務家だと思う。



「少し休まれては」



 ヒルダ書記主任が、向かいの机から顔を上げた。


 彼女の眼鏡の奥の目はまだ冴えている。

 この時間までしゃんと座っていられる人は、たいてい信用できる。



「もう少しだけ」



 私は答える。


「ガルストン会計監督官の机から抜かれた帳簿の月だけ、先に流れを確定させたいので」


「根が真面目ですね」


「そう見えますか」


「ええ。

 普通は婚約破棄されたその日に、ここまで帳簿へ執着しません」



 その言い方に悪意はなかった。


 むしろ、少しだけ面白がっているように聞こえる。

 だから私も、少しだけ正直に答えることにした。



「帳簿を残しておかないと、次に何を失うか分からなくなるんです」



 ヒルダ書記主任は何も言わなかった。


 でも、その沈黙は分かったという意味に近かった。



 私は再び紙へ視線を落とす。


 冬前。

 新年。

 春先。


 大きな飛ばしがあったのはその三度で、ガルストンの机から抜かれた補助台帳も、その三つの山に綺麗に重なっていた。



 ただの慌てた隠蔽ではない。


 《《どこを抜けば一番困るか》》を知っている者の手だ。


 そして、その知識は帳簿の中に慣れていなければ持てない。



「ユリウス殿下」



 私は少し離れた書架の前に立っていた灰色の背へ声をかけた。



「何だ」



 返事は短かった。

 けれど、こちらを見ていないのに聞く準備ができている声だった。



「ガルストンが帳簿を抜いたとは、私は思っておりません」



 ユリウス殿下が振り返る。

 その目の動きだけで、部屋の空気がわずかに引き締まった。


 たぶんこの人は、こういう種類の話を聞き慣れている。



「理由は」


「抜かれたのが《《補助台帳》》だけではないからです」



 私は机の上の一覧へ指を落とした。



「印影簿も、仮払控えも、一部だけ消えています。

 しかも、どれも《《過去の処理を消す》》ためというより、《《同じ手口を続けるため》》に必要なものです」



 ヒルダ書記主任が、眼鏡の位置を少しだけ上げた。



「続けるため」



「はい」



 私は頷く。



「過去を隠したいだけなら、帳簿は雑に処分しても足ります。

 でも印影簿まで持ち出した。

 それは、《《誰の印をどう使えば通るか》》を後からなぞる必要がある、ということです」



 その一言で、ヒルダ書記主任の表情が変わった。

 若い書記官たちも、今度は警戒ではなく本気で私の言葉を追い始める。



「つまり」



 ユリウス殿下が言った。



「帳簿を抜いた相手は、過去の不正を消したいのではなく、今後も同じ方法で金を動かしたい」


「そう考えるのが自然です」



 私は答えた。



「王太子殿下が謹慎になったからといって、実務側の人間がすぐに手を止めるとは限りません。

 むしろ《《今のうちに痕跡を整えておこう》》と考えるほうが早いです」


「……好きじゃない発想だな」



 ヒルダ書記主任がぼそりと言う。



「私もです」



 私は素直に同意した。


 数字の改ざんは嫌いだ。

 ただ、嫌いなものほどよく知っておいたほうが対処しやすい。



「出入り記録を」



 ユリウス殿下が短く命じる。


 若い書記官の一人がすぐに走っていった。

 数分後、近衛詰所と会計局の夜間・昼間出入り控えが三冊、机へ運び込まれる。



 私はそのうち二冊を引き寄せ、抜かれた帳簿の月に合わせて頁を開いた。


 昼の混雑時。

 結界院からの催促が強かった日。

 施療院名目の宴席費が通った日。


 王太子府と会計局と書庫を、違和感なく行き来できる人間でなければ、この盗み方はできない。



「……いました」



 思ったより早く見つかった。

 名前の並びは多かったけれど、《《三度とも同じ時間帯に同じ導線を踏んでいる》》人間は一人だけだったからだ。



「誰だ」


「主計補佐官ラドフォード」



 私は頁を押さえたまま言った。



「ガルストンの直属ではありませんが、王太子府の仮払書類にも王家会計の照合にも顔を出せる立場です。

 しかも、三回とも《《昼の交代前》》に書庫へ入っている」



 ヒルダ書記主任がすぐに隣へ来て、私の指先の先を覗き込んだ。



「……本当ですね」


「夜ではなく昼を選んだのは、夜の出入りが目立つからです。


 昼なら、書類の運搬や確認を装える」


「だが、帳簿を抜くだけならともかく、印影簿まで持ち出す理由がまだ弱い」



 ユリウス殿下はそう言って腕を組んだ。


 それはもっともだった。

 帳簿の山は見えても、《《どこまで進むつもりだったか》》はまだ分からない。



 私は少しだけ考える。


 そして、机上の紙の端へ目が止まった。

 そこには、今朝マリーが残してくれた、私の私印の押し直し見本があった。


 保証停止の書状へ添えるために、念のため持っていたものだ。



「……私印」



 自分でも驚くほど小さな声が出た。



「何だ」



 ユリウス殿下の視線が動く。



「もし、抜きたかったのが帳簿そのものではなく、《《保証を続けるための手掛かり》》だとしたら」


「詳しく言え」



 私は立ち上がった。


 頭の中で、昨日の夜会と今朝の混乱が一本につながる。



「王太子府が最初に困ったのは、結界院への保証が切れたことでした。

 つまり、向こうは《《私の保証が今朝も生きている》》前提で動いていた」


「当たり前だろう。

 昨日までそうだったのだから」


「ですが、その《《当たり前》》を誰が維持するつもりだったか、です」



 私は紙を一枚取り、走り書きで三つの語を書いた。


 保証印。

 印影簿。

 仮払控え。



「ガルストンやラドフォードの立場から見れば、婚約解消は最悪です。

 私の保証が切れれば、帳尻合わせができなくなる。

 なら、一番簡単な延命方法は何でしょう」



 ヒルダ書記主任が先に息を呑んだ。



「……《《まだ保証が生きていることにする》》」


「はい」



 私は頷く。



「私の印がまだ通るように見せかける。

 あるいは、写しを使って新しい保証状を偽造する。

 そのために必要なのが、印影簿と、過去の仮払控えです」



 部屋の空気が、一段冷えた。


 若い書記官の一人が小さく「そこまで」と呟いたのが聞こえる。

 でも、そこまで行くと思ったほうがいい。


 数字を飛ばす人間は、いざとなれば印も飛ばす。



「ラドフォードの部屋を」



 ユリウス殿下が言う。



「今すぐ押さえろ。

 私印の写し、封蝋型、白紙保証状、何でも構わん。

 紙一枚残すな」



 近衛が即座に一礼し、数人を連れて駆け出していく。


 その背を見送りながら、私は無意識に両手を握っていた。


 前世で処刑されたとき、私は最後まで自分の印がどこでどう使われていたか分からなかった。

 でも今世では違う。

 見えるところまで掘り返せる。


 その差は大きい。



「座れ」



 不意に、ユリウス殿下の声が近くで落ちた。



「顔色が少し悪い」



 私は少し遅れて、自分が立ったままだったことに気づいた。

 たしかに、指先が少し冷えている。



「大丈夫です」


「そう見えない」


「でも、まだ倒れるほどでは」


「倒れてからでは遅い」



 その言い方が、妙にきっぱりしていた。


 私は少しだけ黙り、それから素直に椅子へ腰を下ろす。

 ユリウス殿下は何も言わず、机の端へ新しい茶を置いた。


 今度も甘くない。

 しかも、さっきより少しだけ濃い。


 こういうところだけは本当に妙によく見ている人だと思う。



「ありがとうございます」


「同僚を倒れさせると監査が遅れる」



 平坦な返答だった。


 でも、その言い回しが私にはちょうどよかった。

 気遣いとして受け取れと言われるより、ずっと楽だ。



 私は温かい茶を一口飲んだ。


 苦い。

 でも、頭は少しだけ冴える。



 それから半刻ほどして、廊下が慌ただしくなった。


 近衛たちの重い靴音。


 低く抑えた声。

 そして扉が開く。



「殿下」



 先頭に立っていた近衛が、一礼して前へ出た。

 その手には布で包まれた平たい箱と、数枚の紙束がある。



「ラドフォード主計補佐官の執務卓、二重底の隠し箱より押収しました」



 机の上へ置かれた布包みを、ユリウス殿下が自ら開く。

 中から出てきたのは、小さな封蝋型、半乾きの蝋片、そして見覚えのある紋様を転写した薄紙だった。



 私は息を止めた。



 それは間違いなく、ヴァルテール公爵家の私印だった。

 完全な原版ではない。


 でも、押し急いだ保証状や仮払控えなら騙せる程度にはよく似ている。



「やはり」



 ヒルダ書記主任が低く言う。



「帳簿を消したかったのではなく、続ける気だった」


「そのようです」



 私は答えた。


 声が思ったより静かに出たのは、怒りきる前に確信してしまったからかもしれない。



 布包みの中には、さらに白紙の保証状が三通あった。


 どれもまだ文面は途中だったが、名宛てのひとつに《《王都結界院》》の文字が見える。

 別の一枚には魔石商会の名。


 もう一枚には施療院。



 つまり彼らは、婚約解消のあとも、私の名で保証を継ぎ足す気だったのだ。



「これは」



 若い書記官が顔を青くしたまま呟く。



「もう、単なる横流しでは……」


「公文書偽造未遂ですね」



 私は言った。



「しかも王家会計と公爵家保証の両方を騙す形で」



 近衛がさらに紙束を差し出す。


 そこにはラドフォードの個人覚え書きらしき断片があった。

 いくつかは焼きかけで、端が焦げている。


 でも読めた。


 《《東区画補修分は次月へ》》。

 《《公爵令嬢印、当面そのまま》》。

 《《謹慎中は外から回す》》。



 謹慎中は外から回す。

 その一文だけが、強く目に残った。



「……まだ誰かいる」



 私は小さく言った。



「ラドフォードだけでは終わりません」



「理由は」



 ユリウス殿下が問う。



「《《外から回す》》と書いてあります」



 私は焼け焦げた紙片を指した。



「ラドフォード自身が動けなくなっても、外から帳簿を繋げる相手がいる。

 商会か、王太子派の事務官か、あるいは両方です」



 ユリウス殿下はしばらく紙片を見つめ、それから近衛へ視線を移した。



「ラドフォードは」



「別室で拘束中です」


「今から取り調べる。

 商会との出入り、私的文通、家族の繋がりも洗え」



「はっ」



 近衛が再び去っていく。

 扉が閉まると、部屋にはまた紙と茶の匂いだけが残った。



 私は私印の写しを見下ろした。

 薄紙の上の紋様は、あまりに見慣れた形だった。


 婚約者として差し出してきたはずの印が、こんなふうに《《使い潰すための道具》》として写されていたことに、今さら少しだけ吐き気がする。



「……大丈夫か」



 ユリウス殿下の声が落ちる。



「はい」



 私は答えた。

 そして、すぐに訂正する。



「いいえ。

 あまり気分の良いものではありません」


「だろうな」



 それだけだった。


 でも、その短さがありがたかった。

 安っぽい慰めを言われたら、たぶん余計に苛立ったと思う。



「ですが」



 私は薄紙を机の端へ押しやった。



「見つかってよかったです」


「そう思えるか」



「思えます」



 私は新しい紙を引き寄せる。



「前世では、こういうものがどこかで勝手に使われていたのかもしれません。

 今世では止められます」



 ユリウス殿下は何も言わなかった。


 ただ、私が紙へ向き直るのをそのまま待った。

 止めもしない。

 急かしもしない。


 それが、今の私にはちょうどいい。



 私はペンを取る。


 新しい頁の上に、次の見出しを書いた。



 《《偽印関連》》。

 《《外部協力者候補》》。

 《《継続予定先》》。



 帳簿が消えたなら、消えた先を追えばいい。


 印が写されたなら、写した後の使い道を追えばいい。

 数字は嘘をつく。


 でも、嘘のつき方には必ず癖がある。



「セシリア嬢」



 ユリウス殿下が静かに言った。



「今夜中にどこまで行ける」


「ラドフォードが《《誰と繋いでいたか》》の当たりまでは出せます」



 私は答える。



「でも、その先は商会帳簿が要ります。

 王宮の中だけでは足りません」


「なら明日、商会を開けさせる」



 返事が早い。

 私は少しだけ目を上げた。



「公爵令嬢に偽印を使うつもりだった件で、十分な理由になりますか」



「十分だ」



 灰色の目が、まっすぐこちらを見る。



「むしろ、それだけで扉は開く」



 私は小さく頷いた。


 ここまで来たら、もう止まる理由はない。

 前世の私の首を絞めた縄の端が、ようやく見えてきたのだから。



 帳簿を抜かれた程度では終わらない。

 私の印を写してまで続けようとしたのなら、次はもう《《王太子の浪費》》ではなく、《《王家を使った詐欺》》だ。



 それなら遠慮はいらない。


 私が暴くべき相手は、もう決まった。

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