第9話 香の秘密
ーーその頃、小花香房。
「……お父さん、あの人たち帰ったわ」
遠ざかる湛星たちの姿を見送り、戸締りをしてから室内に戻ってきた茉莉は、天井を仰いで「ふー」と空気を吐きながら椅子に座り脱力した。すかさず、父親がお茶の入った茶杯を横から差し出してくる。
飲んで一息。今度は、親娘同時に溜息をついた。
「いやー……何か今日は色々と凄かったなぁ。父さんは何年か寿命が縮んだ気がする」
「わたしも」
「小莉の香の力は年々、強くなっていってるのか、それともあの若様に特別効きすぎちまったか、一体どっちかねぇ」
楚仁の短くない人生の中でも、今日ほど怒涛の出来事が起きたのは、三本の指に入るほどだった。茉莉なんてまだ十七である。
いつもなら桃饅頭のように薄紅色した頬が、今はすっかり色が抜けてしまって気の毒なほどだ。心なしか三つ編みもしんなりして見える。
楚仁はそんな娘の肩をポンポンと軽く叩いて慰めた。
「父さんは中に戻るから、お前も程々にして戻ってきなさい。兄たちが帰ってきたら夕食だぞ」
「はぁい……」
答えてから、香炉が落ちたままになっていることを思いだす。
のそのそと身を起こし、店舗の火を全て消してから、調香室へ向かう。
作業台のそばに落ちていた香炉を拾い、散らかった灰たちを掃除しながら、茉莉は先ほどの光景を思い返す。
今思い出しても身震いするくらいには怖かった。うっかり動きでもしたら、あのよく研がれた刃で首をシュッ……ゴロンだったに違いない。
恐怖でブルッと震えてしまい、思わず自分の体を両腕で抱きしめながら二の腕をさすった。
「殺されそうになるって一体どういうこと? 香を作っただけなのに?」
静まり返った調香室で、茉莉はそう独りごちた。
たまたま一番上の兄と二番目の兄が留守にしていて、本当に良かったかもしれない。
長兄はまだしも、次兄の喧嘩っぱやさと来たら、電光石火のようなものだ。気づいた時にはもう殴りかかっている。
そんなことをした日には、それこそ、シュッ……ゴロン、だ。
茉莉は昂った気を落ち着かせるために深呼吸をする。
先ほどまで部屋を満たしていた、あの刺すような殺気と、氷のように冷たい「若様」の気配が消え、ようやくいつもの香木の匂いが戻ってきた。
慣れ親しんだ空気と香りに、平穏が戻ってきたと感じる。
(若様といえば、彼が作業台の上に置いて入った袋は一体何なんだろう?)
しっかりとした作りの袋を何気なく持ち上げると、中で何かがころころと転がる気配がする。
「……!?」
手に取った袋の重みに、茉莉は息を呑んだ。紐を解き、中身を手のひらに滑らせる。指先に触れるのは、冷たく、滑らかな金と銀の質感。それが一つ、二つではなく、十はくだらない。
とてもじゃないが、今までお目にかかったことのない大金だ。
人は驚きすぎると恐怖を感じるらしい。さっきとは違う恐怖で、毛穴という毛穴からドッと冷や汗が吹きだす。
茉莉は引き攣った顔で、手のひらの金の塊を凝視した。
「これ……本物……? こわい! こんな額、一生かかっても使い切れない!」
香を作る時にも最高級と呼ばれる香木もある。
沈香や、沈香の中でも伽羅と呼ばれるものや、龍涎香に老山白檀。これらは貴族や皇族が使用する香に使われる香木で、庶民にはとてもじゃないが手が届かない代物だった。
実はただの一庶民でしかない茉莉の香でも使う時はあるけれども、それは仕入れ担当の長兄が人を介さず直接手に入れているからだった。
ましてや使うにしろ、その香りを本当に必要としている人には使うが、そうじゃない場合は比較的安価な香料を混ぜた代用品ーー合香がほとんど。
何度もいうが、茉莉の家は庶民の香屋だ。
扱っている安い練り香でも銅銭10文〜30文ほどの、飴玉を買うくらいの気軽さの値段のもの。
湛星に作った香は、飛燕に「良い材料を使用するように」とあらかじめ言い含められていたので、多少値段が張る香に仕上がったけれど、それでも1貫(銀1両)だった。
庶民からしたら、銀1両だけで1ヶ月〜2ヶ月分の生活費になる。
茉莉の母のお得意様にも金払いの良い客はいたので、時々、銀を拝むことはあったものの、金なんて見たことも手にしたこともない。
小刻みに震える指で、彼女はそのお金を数えようとして、やめた。
あの客――湛星から漂っていたのは、雨上がりの花の泣きたくなるほどの切ない匂いだけではない。もっと深く、鋭く、そして悲しい「死」の匂いだった。
(……あの人はまるで、体そのものが『痛み』で出来ているようだった)
茉莉の「目」には、湛星の姿は黒く淀んだ霧を纏っているように映っていた。
五年間、ろくな睡眠も出来ずに積み重なった不眠の澱。それがどろりとした影となって、作り物のように美しい顔に荊のように張り付き、こめかみを絶え間なく締め付けているのが見えた。
只人であれば発狂してもおかしくない苦痛を、彼は気力と精神力だけで五年も耐えている。
湛星が置いていったこのお金は、香の対価というより、彼が縋り付こうとした「命の代金」のように茉莉には感じられた。
茉莉は、乾燥させたばかりの材料が入った乳鉢の前に座り直す。
(あんなに綺麗な顔と声をしてるのに、心の中は真っ暗な冬の底にいた……)
彼女が香を作る時、それは単に材料を混ぜ合わせる作業ではない。
茉莉は、そっと目を閉じ、自身の内側にある「気」を研ぎ澄ませる。彼女の調香は、五感のすべてを「依り代」とする行為だった。ーー茉莉の母と同じように。
母も同じように香を作る時に、自分の「気」を練り合わせていた。
材料の欠けた部分に自分の気で蓋をして均す。必要な部分に必要なもので補う。そうして全てが調和の取れた状態に作り上げる。
これこそが、『小花香房』の香が、特別な理由だった。
もちろん、この力のことは家族しか知らないし、これから先もきっと、誰かに言うこともないだろう。
極秘技術ということもあるが、何より一番は、母や茉莉の身を守るために。
乳棒を握る手に、自身の体温を乗せる。材料が擦れ合う微かな音を聞き分け、その「音の色」が変わる瞬間を待つのだ。
(痛みが消えますように。あの人の夜が、少しでも静かなものでありますように……)
茉莉は深く呼吸を整えると、自身の丹田に眠る温かな気を、指先へと集中させた。
調香中の彼女の指先は、微かに金色に光っているかのように見える。彼女はその気を、乳鉢の中で細かく砕かれた草花や香木の粉末一つひとつに、丁寧に染み込ませていく。
それは、祈りに近い作業だった。
自らの生命力を、香料という「器」に封じ込める。湛星にまとわりついていた、あのどす黒い不眠と頭痛の影。それらを一つずつ、光の粒子で打ち消していくように気を込めた。
先ほど湛星が意識を失ったのは、茉莉が込めた強烈な「生の気」が、彼の枯れ果てていた精神に急激に流れ込み、魂が強制的に休息を求めたからに他ならない。影が一時的に払われ、湛星はようやく「無」に帰ることができたのだ。
「お母さん……わたし、あの人に嘘をついちゃった」
茉莉は、空になった香炉を見つめた。
「『ただの香屋』だって言ったけど……あんなに壊れそうな魂を見せられたら、もう、ただの客とは思えないよ」
自嘲的で、なのにどこか縋るような切実な願い。
茉莉は自分の白い指先を見つめた。この小さな手が作る香が、あのどこか放っておけない雰囲気の「若様」の闇をどこまで照らせるのかはわからない。
けれど、金の重みよりもずっと重く、彼女の胸には、湛星が眠りに落ちる瞬間に漏らした、小さな、小さな安堵の吐息が残っていた。
「……明日も、一番良い材料を練ろう。あの凍える冬のような人が、春を忘れてしまわないように」
茉莉は静かに立ち上がり、『若様』の元へ届けるための、新しい香の構想を練り始めた。
1文(銅銭1枚)…約50円 〜 100円
1貫(1000文)…約5万 〜 10万円_紐で通した銭の束
銀1両(銅銭1000枚)約5万 〜 10万円_【1両 ≒ 1貫】
金1両 (銀の銀の10倍程度の価値)
です。




