第10話 爪を研ぐ獅子
説明回になっちゃいました
湛星たちが小花香房を訪れてから、ひと月が経った。
禁衛軍を統括する将軍位に就いている湛星の日常は、表面上は何も変わっていないように見えた。
禁衛軍とは皇帝直属の精鋭が集まった近衛部隊であり、皇帝の警護が主な職務である。そのため、その指揮官の湛星は本来ならば、皇帝に関することだけに集中していればよかった。
それがそうもいかなくなってしまったのは、禁衛軍とは別のーー南衙と呼ばれる国家の正規軍の指揮系統が上手く機能していないことに皇帝が気づいたからだった。
禁中(皇帝の住む場所)を中心に、北側に軍営があり、禁中の側にある北衙。南側の官庁舎が多い位置に軍営を構えるため南衙と呼ばれた。
南衙は禁衛軍とは異なり、十六衛と呼ばれる組織で成り立っている。
府兵制に基づき、各地から交代で都に送られてくる兵士を統括する衛軍が十二あり、残りの四衛は兵を持たず、門の管理や儀式を専門に行う組織となっている。
主な任務は湛星たち禁衛軍が皇帝に関する警護を担っているのに対し、市街地の見回りや夜間の門限の監視、軍事訓練などの街の治安維持を担っていた。
以前の南衙は、名門の子弟が所属していたりする、いわゆる花形組織でもあった。
部隊によっては皇帝陛下の覚えめでたく、出世の登竜門でもあったからだ。
中でも十二衛のうち最も格が高く、多くの府兵を統括していた左右衛や、騎兵と中心とした精鋭が集う左右驍衛の将軍たちがいた頃はいっそ華々しいとも言えた。
左右衛の大将軍、そして左右驍衛の大将軍ーーそれが、湛星の祖父、そして父だった。
宮廷警備の総指揮官でもあり、皇帝からの信頼が最も厚く、政治的な発言力も絶大で「国家の重鎮」と呼ばれた祖父。
いざという時は真っ先に戦地へ赴き、最強の精鋭騎兵を率いて戦場で槍を振るい、敵をなぎ倒してきた「英雄」の父。
宮廷を牛耳りたい者たちからすれば、都の軍権を掌握する藍家は真っ先に排除したい存在だっただろう。
二人の大将軍を失った穴は大きく、穴の空いた盤で水を掬うように戦力はじわじわと下降していく。
今となってはかろうじて南衙の将軍という地位は残っているものの、それは実力のない「名誉職」となり、国境で実績を重ねた湛星が北衙の将軍として都のすべての軍事権を握るようになったのは、なんの因果か。
禁衛軍と南衙の仕事に加えて彼個人の問題ーー父の汚名を晴らすことへの執念。
帝都に戻ってから一度も休んでいるところを見たことがなく、彼が一番動き回っているんじゃないかと思う程に忙しい。
しかし、側近たちの目から見れば、その変貌は劇的ですらあった。
◇
執務室の窓を叩く、湿った夜風が止んだ。
かつてこの場所は湛星にとっての刑場と変わりなかった。瞼を閉じても訪れない眠気、眠れたとしても絶え間なく脳を抉り続ける頭痛の疼きで起こされる。こんなの心が荒まない方がおかしい。
しかし今は銀の香炉から立ちのぼる一筋の煙が、殺伐とした空気を雪解けの静寂で包んでいた。
湛星は筆を止めて自らの手を見つめる。
長年、戦場にいたにも関わらず荒れた様子のない白い肌は、月光を透かすように冴え冴えと光っている。けれどそこには以前のような幽鬼じみた青白さはない。顔色の悪さを助長していた隈は驚くほどに薄くなり、黒曜石の切り口のごとく煌めく瞳の奥には、研ぎ澄まされた冷徹な光が戻っていた。
「……信じられないな」
独白が夜の静寂に落ちる。
あれほど景雲の薬を嫌がり、宮廷調香師の技術の粋を嘲笑っていた自分の脳が、下町の路地裏で出会ったあの娘――茉莉の香に、これほどまであっさりと屈服するとは。
一刻、あるいは二刻。
椅子に座ったまま、もしくは自邸の寝床で。
茉莉の香が灯る間だけ、湛星は五年間、自らに科してきた「覚醒」という名の重罪から解放される。
夢も見ないほど深く、無に近い眠り。それが、枯渇していた彼の生命力を、恐ろしい速度で呼び覚ましていた。
『こんにちは若様、今日はこの間よりもっと、顔色が良いですね!』
実は、あの香房で倒れた次の日、湛星は小花香房を訪れていた。
地味な鼠色の羽織りと顔を隠すための帷帽を被ってひっそりと。
たまたま店先にいた茉莉は、湛星を見つけて微笑んだ。
相変わらず、汚れてもいいように藍染の前掛けをつけ、高く結った髪を三つ編みにまとめている。
光が弾けるような溌剌としたその笑顔に、思わずこちらまで頬が緩んだ。
すると突然、何かを思い出したのか茉莉の口が「あ」と開き、ものすごい速さで湛星の腕を掴んで店の隅まで引っ張ってゆく。
「どうした?」
「あの、若様……この間いただいたお代なんですけど、多すぎて困ります。お返しします」
声を潜めた茉莉のために屈んでやると、何を言いだすかと思えば金の話。
湛星は、その「若様」という呼び名に奇妙な疼きを覚える。胸の奥がチリつくような、むず痒いような言い表せない感覚。
それらを綺麗に抑え込むと、湛星は面白そうに片眉を跳ね上げ、茉莉に目線を合わせて微笑んだ。
「ーー『一両黄金一両香』」
「え?」
「とても貴重なものは、同量の金と同じくらいの価値がある、という意味だ。君の香にはそれだけの価値がある」
茉莉の瞳が驚きで見開かれる。あまりにも大きく開くから、こぼれ落ちてしまいそうだ。
「香の前払いだと思っていてくれ。いつまで頼むか、数年……数十年かかるかもしれないし、都度払うのも面倒くさい。俺に香が不要になったとしたら、その時、差額を返してくれればいい」
「……うーん。それにしたって多すぎるような……最高級の香木もバンバン買えちゃいそうで仕入れ担当の兄が大喜びしてるんです」
「それはいい。選りすぐりの材料で俺の香を作ってくれ」
困りきった茉莉の顔を見て、思わずひそかな笑みがこぼれた。
貰えるものなら貰ってしまえばいいのに、律儀に悩むあたり、人が善いのだろう。
茉莉の香が漂うこの空間と、彼女の前では湛星は楽に息が出来るような気がする。
彼女の前では、自分は血塗られた将軍ではなく、ただの『不眠に悩む若様』でいられる気がして。
それに時々、茉莉の指先から漏れ出る金色の帯のようなものが、彼の内側に巣食うどす黒い不眠の澱を、静かに、けれど確実に洗い流していくのを感じていたからだ。
一度気づいてしまえば、どの場所にいても彼女の香を焚くと、香の煙に混じって金の粒子がキラキラと立ちのぼるのがわかる。
茉莉との会話を思いだしている今も、空気中に漂う金色が湛星の痛みを鎮めている。
休息を得た湛星の思考は、今や恐ろしいほどの精度で回転し始めていた。
以前は頭痛に耐えるだけで精一杯だった時間が、今はすべて「敵を屠るための策」に充てられる。
まだ見えない敵は多い。しかし、それらは少しずつ、湛星の洗われた視界の先に鮮明な形となって浮かび上がっていた。
「閣下、どうやら大丞相の私兵の動きが活発になってきているようです」
入室してきた鉄岩の報告に、湛星はゆっくりと顔を上げた。
その美貌は、もはや折れかけた鋭いだけの刃ではない。獲物を確実に断つために、最高の研ぎ、最高の鞘を得た名刀の輝きだった。
「……今はまだ泳がせよう。奴が『完璧な証拠』と信じているものが、自らの首を絞める索に変わるまで」
湛星は、机の上の香炉に視線を落とした。
茉莉の香は彼から復讐心を奪ったのではない。
復讐という名の地獄を走り抜けるための、強靭な「生」を、再び彼に与えたのだ。
(楚茉莉、君は知らないのだろうな。君の作る香が、俺にどれほどの力を与えているかを)
不敵な笑みが顔に浮かぶ。
けれどその瞳に宿る殺意は、もはや狂気によるものではなく、正義を貫こうとする一人の男の澄み渡った意志だった。
湛星は深く香を吸い込み、再び筆を執る。
その指先に迷いはない。
眠れる獅子は、自らの「眠り」を武器に変え、一族の雪辱を晴らすための最初の一歩へと踏み出した。




