第11話 謎のご新規さんと帷帽の常連
小花香房に景雲が初めてやってきたのは、湛星たちが去ってから七日後の昼過ぎのことだった。
茉莉が調香室で乾燥中の薬草の仕分けをしていると、控えめに戸を叩かれる。
こんこん
茉莉の店に来る常連と言えば、戸が閉まっていると無遠慮に開けてくる人がほとんどだ。
勝手知ったる他人の家、とでも言うのだろうか。赤ん坊の頃から住んでいるから、この辺はみんな顔見知りというせいもあるけれど。
だからこうして戸を叩くということは、常連ではないということだった。
茉莉が店の戸を開けると、そこに立っていたのは見知らぬ青年。
年の頃は先日の若様と変わらないくらいか。線の細いすらりとした体つきに柔らかな物腰、目元に知性の光を宿した品のある顔立ちをしている。ただ、その目だけが、明らかに茉莉の全てを値踏みするように動いていた。
「陳景雲と申します。知人のご紹介で」
顔に似合いの柔らかな声で男は丁寧に名乗った。
茉莉は少し面食らいながらも、愛想よく頭を下げる。
「楚茉莉です。こちらこそ、よろしくお願いします」
「……香師は、あなた一人で?」
「はい」
「若い」
率直すぎる一言に、茉莉は苦笑いした。
「よく言われます」
「いえ、失礼しました。ただ……あれほど評判になるとは、どのような方かと思っていたので」
評判になっているらしい。一体どこでだろう。
時々くる新規のお客さんが茉莉の香の噂をどこから仕入れているのか、全く知らなかった。
不思議がる茉莉をよそに、景雲はすでに調香室の方へ視線を向けていた。
「拝見しても?」
「どうぞ」
暖簾をくぐった景雲は、棚に並ぶ香木や薬草を一通り眺めてから、感心したように息をついた。
「これは……想像以上の品揃えですね。伽羅まである。どこから仕入れを?」
「兄が担当していますので、詳しくは」
「なるほど。では、この沈香と白檀の配合比率は?」
「それは……香によって変えています」
「先日調合されたという安眠香に使った酸棗仁の量は」
「それは少し、お答えしにくいですね」
立板に水のように喋り続けていた景雲が、ぴたりと動きを止めた。それから振り返り、今度こそ真剣な目で茉莉を見た。
「……お答えいただけない理由は?」
「調合は一人一人に合わせていますので。配合を知られると、他の方に同じものを作られてしまう恐れがあって」
景雲はしばらく無言でいた。それから、ふっと気まずそうに苦笑した。
「……なるほど。筋が通っている」
「怒りましたか?」
「いいえ。むしろ感心しています。こちらが探りを入れているのをわかっていて、きちんと断った。大した方です」
「あの、陳様もお体の調子が悪いのですか?」
景雲の表情が、僅かに揺れた。この反応は、茉莉の推測もあながち外れてなさそうだ。
「……そう見えますか」
「はい。あまり眠れていないんじゃないかなと。さっきも安眠香の話をしていましたし」
「私の場合は少し違います。眠れないというよりも……考えすぎて、夜になっても頭が止まらない」
なるほど。
茉莉は頷いた。それならば、作るべき香の方向性が見えてくる。
「わかりました。少し時間をいただけますか。陳様に合わせた香を調合します」
「今から?」
「はい。直接お話を聞いてから作る方が、合うものができるので」
景雲がまた値踏みするような目をした。しかし今度はその目の中に、純粋な好奇心が混じっていた。
「……では、お願いします」
それからしばらく後、出来上がった香を受け取った景雲は、蓋を少し持ち上げた。
澄んだ草の香りがほんのりと漂い、目の奥がすうっと軽くなる。
「……よく効きそうです」
「よかったです。陳様、目が赤いですよ。かなり眠れていませんよね」
「……上司に付き合わされることが多くて」
「無理に気合で乗り切ろうとする方が近くにいますか?」
景雲は一瞬、何かをこらえるような顔をしてから、静かに頷いた。「……心当たりがあります」
「これ、寝る前に枕元で少し焚いてください。あと、これは昼間用。頭がぼんやりしている時に。細かいお仕事をする方には、香りで頭の靄を払う方が、無理に気合を入れるより効きますよ」
「……ご紹介いただいて良かった。思っていた以上です」
茉莉がひとつひとつ香の説明をするたびに、ふんふんと頷いたり、時には手帳に書き留めている。
それだけでも、この景雲という人間がものすごく几帳面な性格をしているというのが窺えた。
かなりお気に召していただけたようで、茉莉がおすすめしたものは全てひとつ返事でお買いあげとなった。
ホクホク顔をした景雲が帰り際、振り返って言った。
「また来てもいいですか。香について、もう少し聞かせてもらいたいことがあって」
茉莉は頷いた。「もちろんです。お待ちしています」
去っていく景雲の背中を見送りながら、茉莉は思った。
知人というのは一体どんな方なんだろう。
先日来た若様と同じような、どこかただならない雰囲気を持った人だった。
それにしても景雲様、最後まで紹介してくれた方のことを一切おっしゃらなかった。
まあ、いつか分かるだろう。
そう思って、調香室に戻った。
◇
それからひと月。景雲は週に一度ほど香を受け取りに来るようになった。
来るたびに香について根掘り葉掘り聞いてくるのには最初こそ困惑したが、今では茉莉の方も楽しみになってきていた。
景雲の知識は広く深く、茉莉が知らない香木の産地や効能を教えてくれることもある。医術にも精通しているのか、薬草の知識も豊富だ。
ただ、紹介してくれたという知人については、景雲は何を聞いても柔らかく話を逸らすばかりだった。
そんなある夕暮れ時のこと。
店先で香袋の整理をしていた茉莉が顔を上げると、路地の入り口に人影が立っている。
深めの帷帽を被り、地味な鼠色の長衣。その立ち姿に、茉莉は見覚えがあった。あの夜、調香室で糸の切れた人形のように崩れ落ちた、あの若様だ。
(……来てくださった)
茉莉は自然に頬が緩むのを感じながら、手を振った。
「若様、いらっしゃいませ! お体の具合はいかがですか」
男が、僅かに面食らったように体を揺らす。帛紗であまり顔の見えない帷帽越しでも、その戸惑いが伝わってくる。
「……気づいていたのか?」
「そりゃ分かりますよ。お顔、ちゃんと拝見しましたから」
茉莉があっけらかんと言うと、男は少しの間黙ってから、観念したように路地を歩み寄ってきた。
「……この間といい、帷帽の意味がないな」
「素性を隠したいのはわかりますので、そこは気にしないでください。うちは皆そういうお客様に慣れてますから」
男が、ほんの少し肩の力を抜いたのが分かった。
「……香を買いに来たんだ。作りたての方が効きが良いと気づいたから」
「ちょうど良かったです。今朝新しく仕上がったものがあるので中へどうぞ!」
◇
それから若様は、三日か四日おきに来るようになった。
毎回、帷帽を被って、鼠色の長衣で、静かに立っている。茉莉が声をかけると短く答えて、香を買って、深く頭を下げて帰る。
名前は聞いていなかった。向こうも名乗らなかった。ただ茉莉にとっては、それで十分だった。
一緒に過ごすうちに少しずつ、会話が増えていくのもちょっとした楽しみになっている。
「これは何に効く」「眠りが浅い方に向いています」「この白檀は」「気持ちを落ち着けます。頭の中が騒がしい夜に」「……今日はそれにする」
茉莉は気づいていた。この人が来る日と来ない日で、顔色が全然違う。来ない日が続いた後は、紗の隙間から見える目の下が青黒くなっている。
ある日の夕暮れ、若様がいつもより少しだけ遅い時間にやってきた。店じまいの片付けをしていた茉莉が、箒を持ったまま出迎える。
「いらっしゃいませ、若様。今日は遅かったですね」
「……少し手が離せなかったんだ」
帷帽の陰から見える顔は、いつもより疲れが滲んでいる。目の奥に鈍い痛みが宿っているのが、茉莉にはわかった。
耐えるように目をきつく瞑る姿は、茉莉から見ても心配になってしまうほどだ。
「頭、痛いですか」
「……少し」
「少しって、いつも少しって言いますけど、目が半分閉じてますよ」
「……問題ない」
「問題あります」
茉莉は箒を壁に立てかけ、「少し待っていてください」と言って調香室へ向かった。
白檀を主軸に、今日は鎮静効果の高い竜脳を少し加えた香を手早く調合する。冷たく澄んだ、深夜の静けさを思わせる香だった。
香炉に火を入れて店先に戻ると、若様は壁にもたれて目を閉じていた。いつの間にか脱いだ帷帽を膝の上に置いている。
煙がゆるりと立ち上った瞬間、男の眉間の皺が、ゆっくりと解けていく。
(……効いてるみたい)
目への刺激を減らすために店内の蝋燭の灯りをいくつか消して、茉莉はこっそりとその横顔を見た。
壁にもたれて目を閉じているその姿は、いつもの研ぎ澄まされた緊張感が少しだけ抜けて、ただの疲れた青年のように見えた。肌が磁器みたいに白くて滑らかで、目の下の隈と眉間の皺が痛々しい。
この人、ずっと無理してる。
「……少し、楽になった」
目をつぶったまま、男が静かに言った。
茉莉が見ていることに気づいていたはずだが、それには何も言わなかった。
「よかった。今日は少し強めにしたので」
「なぜ強めに?」
「三日来てなかったから、その間に何かあったのかなと思って」
男が目を開けた。視線だけずらして茉莉を見る。
「……覚えているのか。来ない日のことを」
「お客様のこと、だいたい覚えてますよ。特に体調が気になる方は」
男はしばらく黙って、また目を閉じた。
遠目から見ても伏せたまつ毛が長いのがよく分かる。
「……気疲れしそうだな」
「商売ですから」
「……そういうものか」
そう言った時の声が、なんとなく、少しだけ残念そうに聞こえた。茉莉の気のせいかもしれなかったが。
しばらく二人とも黙っていた。香の煙が、秋の夜風の中でゆっくりと漂っている。路地の奥で虫が鳴いていた。
「楚茉莉」
「莉莉、でいいですよ。みんな、そう呼ぶので」
「……莉莉」
「はい」
「お前の店に来ると、頭が静かになる」
あ。
茉莉は香炉を持ったまま、若様を見た。呼び方が『君』から『お前』に変わっている。『莉莉』と呼ぶようになった。それだけで、この若様と一気に近くなった気がした。
「それは、お香の効果ですよ」
「……そうかもしれないな」
「そうかもしれない、って、違う可能性があると思ってるんですか」
男は答えなかった。
茉莉は少し俯いて、香炉を両手で包んだ。昔から使っている香炉は、茉莉の手にひんやりと馴染む。
呼び方ひとつで、と笑われてしまうかもしれないけど、さっき若様に『莉莉』と呼ばれたとき、胸の中で何かが小さく動いた気がした。それが何なのか、まだよくわからなかった。
ただ、この人がまた来てくれたら、また香を作ろうと、それだけ思った。
しばらく休んである程度回復がすむと、男は帷帽を被りながら立ち上がった。
その動作は相変わらず無駄がなく、美しかった。
「若様」
「どうした」
「また三日後に来てください。次は今日より、もう少し長く効くものを作ります」
「……ああ」
数日前の景雲のときと同じように、路地に消えていく背中を見送りながら、茉莉は思った。
この人は三日後に来る。また帷帽を被って、背筋をまっすぐにして。
それがなぜかひどく自然なことのように思えて、茉莉は香炉の煙がゆっくりと夜に溶けていくのを、しばらくそのまま見つめていた。




