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第8話 忘れがたきもの

 湛星が目を開けたのは、それから一刻(約二時間)も後のことだった。


(……静かだ……)


 最初に感じたのは、重く、心地よい重力だった。

 ゆっくりと瞼を持ち上げると、そこには夜の帷が下り始めた光が差し込む、見知らぬ天井があった。


「……若君! お気づきになられましたか!」


 頭上から乳兄弟の必死な声が響く。

 湛星は自分が下町の香屋の、硬い板敷きの上に寝かされていたことに気づき、慌てて身を起こそうとした。


「……っ、俺は、何を……」

「香の気に当てられ、そのまま……」


 飛燕の説明を聞きながら、湛星は自分の体に触れた。

 驚くべきことに、常にこめかみを万力で締め付けていたようなあの激痛が、跡形もなく消えている。

 視界は洗われたように澄み渡り、体に纏わりついていた重い鎖がすべて解け落ちたような軽やかさがあった。


「……俺は、どれほど眠っていた」

「二刻ほどです。……突然、崩れるように倒れられたので、我らも肝を冷やしました」


 飛燕の背後では、鉄岩が未だに少女への警戒を解かずに白刃の柄に手をかけている。商人の護衛にしては、その殺気はあまりにも鋭すぎた。

 鉄岩へと視線を合わせ軽く頭を振ると、ようやく刀から手を離し、少女から距離を置く。


「家の者が驚かせてすまない。俺が急に意識を失ったから、害されたと思ったのだろう」

「い、いえ……」


 可哀想なことに茉莉の方こそ、今にも倒れてしまいそうな程に震えている。

 警戒を解かれて動けるようになった父親が慌てて茉莉に駆け寄り、少女を背中に庇う。無理もない、と湛星はため息をついた。

 彼はふらりと立ち上がり、茉莉のそばへ歩み寄った。側近たちが制止しようとするのを手で制し、少女の前に跪く。


「……君も聞いていると思うが、俺は……この五年間、一度もまともに眠ったことがなかった」


 湛星の指が、床に落ちていた香の残り滓に触れた。

 あの強烈なほどの香りはないが、未だ室内に優しく穏やかに漂っている。


「薬も香も数え切れないほど試しても、どれも無駄だったんだ」


「……多分、」

 茉莉の声は、困惑と納得が混ざった複雑な音をしていた。


「どれも無駄だったというのも、仕方ないかもしれません。……多分、若様が抱えているのは『病』ではなく、あまりにも重すぎる『記憶』や『呪い』と言われるような物ですから」


 ーー何故それを。


 湛星は、言葉を失った。

 この少女は、自分が禁衛軍の将であることを知らない。父が処刑され、家が封じられ、姉が後宮で人質となっている凄惨な背景など、知るはずもないのだ。

 それなのに、彼女の作った香も、彼女自身も、まるで全てを見通しているかのように、誰にも触れさせなかった彼の「聖域」を、簡単に探り当てた。


「……は。『呪い』か。……本当にそうかもしれないな」


 湛星は自嘲気味に、しかし今日何度目かの、そして今までで最も深い苦笑いを漏らした。

 指先に残った香の粉を擦り合わせる。見ていた限り、手順や材料にも特に問題はなく、一般的な香師の調香でしかなかった。それであの効果だ。もう彼女が()()であることが疑いようもない。


「救世主現る、か」


 小さく呟くと湛星は立ち上がり、懐から重い金貨の袋を取り出し、調香台に無造作に置いた。


「見ての通り、俺はひどい不眠と頭痛持ちなんだ。いい加減、薬屋を回るのも飽き飽きしている。これからは、君の香に頼りたい。それなりの頻度で買いに来ることになると思うが、他の客に影響はないか? もしあればこちらで調整する」


 茉莉は少しだけ驚いたように顔を上げた。


「うちに来るお客さんは、割と簡単というか虫除けとか普段使い用の香を買っていく人が多いから、その辺は全然大丈夫なんですけど……」

「そうか。それならこちらも安心だ」


 彼にとって、この少女と香は、血塗られた宮廷闘争の中で見つけた、唯一の「安寧の地」になる予感がした。




 楚家の親子に長居したことを謝り、湛星たちが店を出ようとしたその時。

 茉莉が香の袋を湛星に手渡しながら顔を覗き込んで、ふんわりと笑った。


「若様。お顔の隈が少しだけ、薄くなりましたね。よかった」


 心配と安心の滲んだ優しい声音と言葉に、湛星は一瞬だけ、十歳の少年のように目を見開いた。

 口元に微かな笑みを乗せると、湛星の顔は途端に人間らしくなる。


「……今日は助かった。ではまた。……行くぞ」


 翻した外套の裾が、夜の風を孕む。

 夜の路地裏を歩き出す湛星の足取りは、いつになく軽く、力強かった。

 さっさと歩き出した背中を追って、側近たちが慌てて後に続く。


「暁空、景雲にあの香の話をしたら絶対、研究魂にまた火が点くんじゃない?」


 横に並んだ飛燕が面白そうに提案した。湛星は月明かりの下で冴え冴えと光る白皙の美貌を、少しだけ和らげる。


「……だろうな。俺が彼女の香で気絶するように寝たと知ったら、今度はアイツの方が悔しすぎて眠れなくなるかもな」


 自分が成し遂げられなかったことを、うら若き少女がやってのけたと知ったら、負けず嫌いのあの男のことだ。不眠不休で解明に没頭するに違いない。

 湛星からすれば、調べて何か分かれば、それはそれで良い。彼女の香が特別だということの説明がつくから。自分を『幽鬼』ではなく、『人間』に戻してくれるあの存在の。


(……今夜は、執務室ではなく、あの屋敷に帰ってみても良いかもしれない)


 その夜、湛星は五年ぶりに、執務室の硬い椅子ではなく、自邸の古い寝床へと向かった。

 窓から入る夜風に、服に染み付いた茉莉の香が微かに揺れる。

 彼はその夜、一度も頭痛に苛まれることなく、静かな闇へと沈んでいった。


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