第7話 深き眠り
茉莉の後に続いて暖簾をくぐると、そこはもう調香室へと繋がっていた。
部屋の真ん中に置かれた作業台の乳鉢には、粉末になりかけの香材料が入ったままだ。
棚や机に所狭しと並べられている香木や薬草。花が漬けこまれた香油。調香に必要な乳鉢や摺鉢などの道具ひとつ取っても、とても下町の小さな香屋とは思えない量の設備と在庫に、湛星は言葉を失う。
「これは……すごいな」
「あっ、机の上の生薬はまだ乾燥中だから、触らないように気をつけて」
静止の声に思わず机から体を離す。
少女一人が作業している狭い調香室に、大人の男が三人(うち一人は筋骨隆々の大男)集まると、圧迫感がありすぎてむさ苦しいにも程があったので、鉄岩と飛燕の二人は暖簾のある作業場入口で待機することとなった。
守るべき主から離れてるとは言え、大股一歩で届く距離だ。
「あの、お客様用の椅子がないので、立ったままになっちゃいますけど……」
「大丈夫だ。問題ない」
「……では、練香は時間がかかるから、香篆でもいいですか?」
「それも、君に任せる」
作業台を挟んで反対側の隅に立った湛星は、準備を始めた茉莉の動きを視線だけで追いかける。
茉莉は湛星たちを気にする様子もなく、ただ静かに手元を動かし始めた。
手際よく後ろの棚にならぶ粉末の入った容器から、小さい匙で順番に粉を乳鉢に入れていく。
そうして、乳鉢の中で粉末になった沈香や柏木、酸棗仁、そして名もなき数種の乾いた花弁が、微かな音を立てて擦り潰され混ざり合うのを、湛星はいつの間にか目を閉じて聞き入っていた。
ーースゥ……
どれくらい目を閉じていたのか。
茉莉が深く息を吸う音に目を開けると、印型の香具の上にゆっくりと香の粉を乗せているところだった。型の隙間を満遍なく埋めるように丁寧に乗せていく。
その間、茉莉は瞬きひとつせずに、ただ目の前の香だけに集中していた。
ーー否。香を作り始めた時点で、おそらく湛星たちは彼女の世界から追い出されていたのだと思った。
この作業場では、「茉莉」と「香」だけが全てなのだ。
「出来た」
満足そうに微笑んだ口元のまま、茉莉は湛星の前に香炉を差し出した。
出来上がった香篆は、香炉の中で美しい蓮の花を咲かせている。
「それでは、火をつけますね」
そう言って彼女が小さな香炉に火を灯した、その瞬間。立ち上ったのは、安眠香よりもさらに淡く、しかし驚くほど透き通った香り。
それは凍てついた大地の下で、春を待つ根が吸い上げる水の匂いにも似ていた。
(……あ……)
湛星は香りの奔流に目を見開いた。鼻腔を抜けた香りが、直接、脳の奥底に巣食う「痛みの核」に触れる。
五年間、一秒たりとも離れることのなかった鉛のような頭痛。それが、少女が一息で吹き飛ばしたかのような軽やかさで、ふっと消え去ったのだ。
体内を洗い流されるようなあまりの解放感に、全身の力が一気に抜ける。
知らず知らずのうちに張り詰めていた精神の糸が、プツリと切れた。
白皙の美貌から生気が引き、膝から崩れ落ちる湛星の身体を、飛燕が辛うじて抱きとめた。
「若君……!? 若君!!」
湛星の意識は、深い、深い闇の底へと沈んでいた。
それは死のような無ではなく、家族を失ってから一度も訪れなかった、温かな泥濘の中へ溶けていくような安息。
けれど、傍らの側近たちにとっては、それは悪夢以外の何物でもなかった。
離れていたとはいえ、飛燕も鉄岩も、瞬きの間ですら警戒を怠ってはいなかった。なのに湛星は、二人の目の前で何の予兆もなく、糸の切れた操り人形のように突然、意識を失ったのだから。
「おのれ、貴様……若君に何をした!! まさかその香、毒ではなかろうな!?」
一息に距離を詰めた鉄岩が、瞬時に腰の剣を抜き放った。白刃が鞘を走る鋭い音が、狭い室内に響き渡る。
驚いて一歩下がった茉莉の体が作業台にぶつかり、火をつけたばかりの香炉が、ガシャンと立てて床に落ちる。その音を聞きつけ、慌てて隣の店舗から調香室まで走ってきた楚仁も、倒れている湛星を見て目をひん剥いた。
「おおおおおい、小莉! こりゃどうなってんだ。お前、何をやった!?」
「わたし!? ななな何もしてない、香を作って火をつけただけなのにいきなり倒れたの!」
目を白黒させながら素早く首を左右に振り続ける。茉莉にとっては、命の危機なのだから当然と言えば当然。
飛燕もまた、意識を失いぐったりと腕の中に沈んだ湛星の青白い顔を見て、血の気が引いていた。
端正な顔立ちはあまりにも静かすぎて、まるで魂が抜けてしまったかのようだ。
鼻の下に指を近づけ呼吸を確認する。吐血なし、痙攣なし、呼吸困難もなし。
緊急性のある状態ではないことに安心しながらも、何が原因なのか分からず首をひねる。
そんな湛星と飛燕をよそに、意識を失った原因が香ならば、換気するべきかと思い当たった茉莉が、窓の方を向くのを鉄岩は見逃さなかった。
「……動くな、娘! 動けば切る」
「っ!」
二人の側近から放たれる凄まじい殺気が、動こうとした茉莉の足を縫い付けた。
普段、殺気なんてものとは無縁の生活を送っているであろう楚親子は、震えあがりながらぴくりとも動けない。
「ほ、本当に毒なんて使っていません……」
彼女の声は震えて弱々しいが、倒れてもおかしくない殺気の中、何とか気力だけで立っている様子だった。
「材料を全部見てもらえれば分かります、どうか……」
「黙れ! ただの香なのに、なぜ若君は倒れたのだ!!」
まっすぐ向けられた鉄岩の剣先が、茉莉の晒された細い喉元に突きつけられる。
しかし、その時だった。
飛燕の腕の中で、湛星の指先が微かに動いた。
不眠の象徴だった深い隈が、安らかな寝息と共に、わずかに和らいで見える。
「……鉄岩殿、待て!」
飛燕が、剣を構える鉄岩を制した。
近距離で主君の様子を確認した彼には分かった。湛星の胸は、これまで見てきた中でも最も深く、穏やかな拍子で上下している。
それは毒に冒された者の苦悶ではなく、ただの、あまりにも深い「眠り」そのものだった。
「……信じられん。若君が、人前で……これほど無防備に」
戦禍にいた時から人の気配に敏感で、長年の付き合いでもある側近の前でも完全に気を抜くことはなかった。
それがまさか自邸でも執務室でもない下町の路地裏の店で、素性も知らない普通の少女の前で、ただの青年として眠りに落ちている。
その光景は側近たちにとって、どんな勝利の報告よりも信じがたく、そして切ないものだった。




