第6話 『小花香房』
「へえ! 『看板もない店』って聞いてたけど、実はちゃんと名前があったんですね」
飛燕が驚いたように言うと、少女は秘密を打ち明けるように声を落とした。
「実は元々、お香作りは母がやっていた仕事なの。今はわたしが引き継いだけど、一人で作っているからたくさんお客さんが来ると対応しきれなくて…….。それにこのお店も本業は香屋じゃなくて、父の墨問屋だから。なので、店主は父」
(なるほど、墨が多い理由は墨問屋が本業だからか……)
「いやぁ、妻は香作りが驚くほど上手くてな。オレの稼ぎが少ないから家計の足しにって手助けしてくれてたんだが、いつの間にかそれが人伝てに評判になっちまってね。看板は出さずに『知ってる人』だけを相手にしようって事になったのさ。今じゃ墨は配達専門になったから店に置いてあるのはただの在庫だ」
「”小花”は母の名前なんです。母の香房だから、『小花香房』」
「妻は数年前に亡くなっちまったが、オレにとっちゃこの小莉も、母親に負けず劣らずの腕前を持った自慢の娘なのさ!」
得意げな顔で娘自慢を始めた父親をジトッとした目で睨みながら、脇腹を肘でつつく。
初めて会った湛星にも、仲の良い父娘というのが見るからにわかる。愛情をかけられて育った子どもの天真爛漫さ。少女からはそれが、溢れんばかりに滲み出ていた。
光と影。幸福を過去に置いてきた湛星には、目がくらむほど眩しい。
「わたしは楚 茉莉。こっちは父の楚仁。今日はどうしますか? 前と同じ香を作る? それとも今日仕上げるのは難しいけど、違うものを作りましょうか」
湛星は珍しく躊躇いの表情を顔にのせ、何度か口を開いては閉ざすを繰り返した。
聞きたいことが聞けないーーまるで、そんな様子で。
しばらく沈黙した後、湛星は思わず一歩踏み出しながら問いかけた。
「……君は、『客の心の欠け』に合わせた香を調合すると聞いた。なぜ……俺にあの香を選んだのか聞いてもいいか?」
湛星の声は、自分でも驚くほど低く、擦れていた。
少女は少しだけ首を傾げると少しの間目を瞑り、ふわりと空気を嗅ぐような仕草をする。それからゆっくりと目を開け、腰にぶら下げていた鍵の束を使っていくつかある抽斗の一つを開けると、中から綴じられた紙を取り出した。
「わたしはいつも香を作る時、対象の人のことを詳しく聞くんです。その方が、その人をもっと深く知れるから」
少女は何かを探すようにぱらぱらと紙をめくっていき、とある所で指をぴたりと止めた。
止めた場所の紙を引き抜いて湛星に見せる。飛燕が、湛星について書いた紙を。
(『若君の不眠と頭痛は五年もの間続いており、気が休まる日がないように感じる。何卒、負担なく安眠できる香を調合して頂きたく』……)
後に続く、日々の頭痛薬摂取回数、摂取量、試した香の種類。睡眠の感覚。好きな香り、苦手な香り。責任感が強く部下想いだが、自らには厳しいこと……。
この問いが快癒の一端になればと言わんばかりに、細々と切実な文字が綴られていた。
「香りと思い出って深く結びついてるんです。良い思い出も嫌な思い出も全部。だから、その人の『今』ではなく、『帰りたがっている場所』を教えてくれます。最初に依頼された時も今もーーあなたから漂ってくるのは、とても古いけど、大切に守られてきた、雨上がりの花の匂い」
湛星の胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
いま心に浮かぶのは、大丞相への殺意でも、姉への執着でもない。五年前、封印された自邸の庭で、父と母と姉と、最後に見たあの雨上がりの風景。
不意に襲われた、頭痛とは別の、心臓を鋭く刺す痛み。
つん、と鼻の奥も痛んで、息苦しくなって呼吸が揺らいだ。胸を突く懐かしさに死んでしまいそうだった。
「この文字を見ても、あなたはあまりにも長い間、自分自身を冷たい氷の中に閉じ込めているように感じました。……わたしはただ、その氷が少しでも、痛みなく溶けるように手伝えたら良いと思っただけ」
少女の言葉は、頭痛薬よりも深く、彼の脳の芯に染み渡っていく。
傍らの乳兄弟が驚きに目を見開いている。父の腹心だった男も、その少女の言葉に亡き主君の面影を重ねたのか、深く頭を垂れていた。
湛星は、威厳溢れるな将軍としての自分も、商家の若君としての演技も忘れ、ただ呆然とその少女――自分と同じように、『大切な誰か』を失いながらも、その遺志を香の中に灯し続けている小さな顔を見つめ続けていた。
(楚茉莉……)
湛星はその名を、一度だけ唇の中で反芻する。
冷たい「刃」として生きてきた彼の中に、初めて復讐以外の「希望の光」が、この香りのように静かに混ざり始めた気がした。
「……もし出来るならば、実際に目の前で、あの香を作って見せてもらえないだろうか」
懇願するように頭を下げると、後ろで護衛として連れてきた二人が息を飲んだ気配を感じた。
いまや将軍位にある湛星が頭を垂れる相手など、皇帝陛下を頂点にしても数えるほどしかいない。むしろ、頭を下げられる方が多い立場にある人物だ。
茉莉がそのことを知る訳もないが、かと言って長い時間、頭を下げさせる訳にもいかない。飛燕は、どうやって上手い言い訳で主君の頭を上げさせるかを焦りながら考えていると、座って動向を見守っていた楚仁の助け舟がやってきた。
「良いじゃねえか、小莉。男前に見せてやんな。こっちは店仕舞いしとくから」
「……父さんがそう言うなら。散らかってるけど、奥にどうぞ」
「ありがとう。御店主もお許しいただけたこと、感謝いたします」
頭を上げた湛星の顔に、綻ぶような安堵の笑みが浮かぶ。
それは本人も気づかないくらいの無意識の産物だったが、目の前でまともに喰らってしまった哀れな父娘ーー特に娘の方ーーは、可哀想なほど真っ赤になって視線をキョロキョロさせながら、頭を掻いたり(父)、前掛けを握りしめたりする(娘)始末。
飛燕は鉄岩と顔を見合わせると、同時にため息を吐いた。
ーーあーあ。なんて罪作りなお方だ。




