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第5話 路地裏の名前のない店

 申の刻を過ぎ、宮中の巡回から戻ってきた周 鉄岩(しゅう てつがん)を捕まえて事情を話すと、案の定、分かりやすく顔を顰めた。

 父の腹心だったこの筋骨隆々の大男は、意外と心配性な面がある。


「閣下が行かずとも、これまで通り、飛燕に行かせたら良いのではないですか?」


 戦地での武功を認められ、禁衛軍統括のために帝都に呼び戻されて将軍位を賜ったとしても、『謀反人の息子』として宮廷内外に関わらず、敵が多いのは変わらない。

 いくら湛星が戦場では向かうところ敵無しの「戦神」の異名を持っていようと、鉄岩にとっては無念のうちに亡くした主君の一人息子。仕えるべき藍家の正統な嫡男。目に入れても痛くない新たな主君だ。

 視線を感じて隣を見れば、飛燕が「ほらね言ったでしょ」と得意げな顔をしている。


「お前たち二人を連れて行くのに何の危険があるんだ。むしろ俺一人で行っても良いんだぞ」

「ええ〜! オレも行きた〜い!」

「黙ってろ」


 すかさず飛燕が参戦してきて面倒なことになりそうだった。

 小さくため息をつき、湛星は鉄岩をまっすぐ見つめて口を開く。


「俺の不眠と頭痛のことは知ってるな? この五年、一度たりとも平穏が訪れたことはなかった。ーーだが、その香屋の香に救われたんだ。俺は、その理由が何故なのか知りたい」


 鶴の一声とでも言うのか、何とか鉄岩を説き伏せ、湛星は飛燕が用意した青磁色の簡素な服に身を包んだ。

 ただでさえ軍人があまり頻繁に来ない下町に、禁衛将軍とわかる格好でいくと萎縮させてしまうかもしれない、とのことで当然だが軍服はあえなく却下となった。

 銀の髪冠を外し、高く結い上げていた髪を下ろして組み紐で緩く結べば、細身というのも相まって軍服時の威圧感は薄れ、裕福な商家の病弱な若君に見えなくもない。

 付き添う二人も軍装を解き、鉄岩は護衛役に、飛燕は従者の格好が板についている。

 三人は湛星を筆頭に、日が暮れ始めた城下へ向かった。







「……本当に、ここか?」


 湛星は、飛燕に案内されるまま、三番通りの突き当たりに立ち尽くした。

 邸店が立ち並ぶ表通りから一歩裏路地に入ると、途端に人通りも喧騒も遠のき、人々の生活を身近に感じる。

 湛星たちの目の前には一軒の家。飛燕の言った通り看板なども無く、そもそも戸が閉まっているので店かどうかすら分からない。ただ、戸の隙間から漏れ出すのは、先日、彼の凍てついた頭痛を溶かした、あの「雪解け」の薄い香り。


「そう。でも今日は戸が閉まってるね。いつもなら開いてるんだけどおかしいな」


 困惑した飛燕が戸を叩き、控えめに声をかける。

 すると、中から大きな足音がすると同時に勢いよく戸が開いた。


「いらっしゃい! ……おや、(りん)の旦那。今日は何の香をご所望だい?」


 店の奥から現れたのは、熊のように逞しい体格の、日焼けした笑顔の男。笑うと目尻にぎゅっと皺が寄って、いかにも人が良さそうだ。

「今日は客入りが少なかったんで、閉めようと思ってたんだ」と言いながら、嫌な顔一つせずに湛星たちを店の中へ招き入れ、三人に入り口に近い場所にある椅子を薦めると、茶を振る舞いだした。

 

 湛星は飛燕たちからそっと離れ、店内を観察する。

 一階は店舗になっているようだが、置いてあるのは香よりも炭がほとんどなのが気になる。

 それでも店内に焚かれた香は、当然だが外にいた時よりもさらに濃く香った。思わず深呼吸をしてしまう程にーー本当に、なんと心地よい香りなのか。


「先日、うちの若旦那の不眠解消のために安眠香を調合してもらったんだけど、それが大層良くてね。……さ、若君。こちらがこの香房の御店主ですよ」


 すっかり顔馴染みらしい飛燕が、湛星に声をかけ店主を紹介する。

 一歩近づいて拱手した湛星の顔が蝋燭の火に照らされると、店主は惚けたようにポカンと口を開いた。


「これはまた……とんでもない男前もいたもんだな。『目の覚めるような』ってのを初めて見た」


 本当にいま目が覚めたかのように目を瞬かせると、感心しながら湛星に隣の椅子を勧める。

 湛星が椅子に座り、飛燕と鉄岩が後ろに控えると、さっそく本題を切り出した。


「御店主。今日伺ったのは他でもない。『安眠香』を調合した調香師に会わせてもらえないでしょうか」


 長い間、不眠と頭痛に悩まされてきたこと。

 どの安眠香でも一刻も眠れたことがなかったこと。

 薬では頭痛を止められなかったこと。


 今までの事を切々と語り、つい最近、この店の香を試す機会があったことを正直に話した。


「私はこの店の安眠香に救われました。あの香を調合したのは貴方でしょうか」


 話をふむふむと聞いていた店主は、ニヤリと笑い湛星の腕を軽く何度か叩くと、「今呼ぶから、少し待ってな」と言って、店のさらに奥に向かって大声を上げた。


「おーい、小莉(シャオリィ)!  お客さんだぞ! お前の香りに惚れ込んだ男前が来てる!」


 バタバタと足音が響き、暖簾をくぐって一人の少女が飛び出してきた。


「えっ、お客さん!? ……って、うわあ、びっくりした」


 杏色の短袍の袖をリボンでぐるっと襷掛けにし、生成り色のズボンとその上から紺色の前掛けという、何とも動きやすさを重視した服装。頭のてっぺんの近くで高く結い上げられた後、三つ編みされた髪。

 卵形のつるりとした顔に、リスのようにくりくりとした大きな瞳が印象的だった。

 湛星よりも頭一つ二つ低い位置にいる少女は、成人したばかりか、そんなに経っていないと思われるくらいに若い。

 てっきり物事の酸いも甘いも知り尽くした、経験豊かな年配の香師かと思っていた湛星は、正直に言って面食らった。


 少女はついさっきまで調香をしていたのか、頬に煤をつけたまま、湛星を大きなで見つめている。

 それからぐるっと店内の客を見渡すと、そのうちの一人ーー飛燕を見つけて納得したように頷いた。

 汚れていた両手を前掛けで拭い、彼女は湛星の目の前まで来ると、物怖じせずじっと顔を覗き込む。

 間近で見た少女の瞳は、一般的な瞳よりも色が薄く、皇帝の献上品にも匹敵するほどの最上級の琥珀のように美しかった。


「もしかして不眠でお悩みのお客様ですか? お香は体に合いましたか?」

「……君が、あの香を作ったのか」


 湛星は言葉を失って彼女を見つめた。

 まさかーーまさか、あの慈悲のような香を調合したのが、自分よりも年下の少女だったなんて。

 自分自身でがんじからめにした呪いのような鎖に触れたのが、これほどまでに若く、そして無垢な少女の手によるものだったとは。


「はい。この店の香りは今は全部、わたしが作っています」


 なんの衒いもなく答えた少女が、店主と似た笑顔でにっこりと笑いながら続ける。


「ようこそ。小花香房(シャオファこうぼう)へ」



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