第4話 湧き出る興味
執務室の空気は、数日前までの刺すような冷気とは明らかに変わっていた。
湛星が「もう焚かなくていい」と言い放った後も、飛燕は全く引かなかった。
「安眠香が強すぎるなら、せめてこれを」と、日中は清涼感のある衛生香を、夕暮れ時には微かに甘い防虫香を、甲斐甲斐しく執務室の隅で焚き続けた。
それは眠らせるためのものではなく、張り詰めた神経を宥める程度の、ごく淡い揺らぎ。
(……不思議だな。あれほど嫌っていた香りの類が、今は心地いい)
湛星は筆を止め、その長い指先でこめかみをなぞった。
以前なら、香炉から立ち上る煙すら視界を遮る邪魔者でしかなかった。けれど、あの香屋が作った安眠香を知ってからというもの、彼の嗅覚は飢えた獣のように「救い」を求めている。
衛生香のおかげで、岩盤のように固まっていた頭痛は、今や寄せては返す波のような鈍い痛みにまで和らいでいた。それだけで、書類の文字を追う効率は劇的に上がる。
何より、椅子に座ったまま、数刻ほど「意識が遠のく」ような浅い眠りを得られるようになったのは、彼にとって奇跡に等しかった。
将軍となり封じられていた自邸を返還されたものの、任されたばかりの仕事が山積みというのを言い訳に自邸に帰ることを避け、いまだ禁衛軍の詰所で寝泊まりをしている。
五年もの間、過酷な戦地にいた湛星にしたら、雨風を凌げさえすれば御の字。硬い椅子や床でも文句はない。
何よりこれまでは不眠と頭痛で、ろくに眠ることすら出来なかったのだから本末転倒とも言える。
そして、寝に帰るだけの自邸で眠れない時間を過ごすよりも、仕事を捌ける場所にいる方が勝手が良い。ーーなんて、またこれも言い訳にすぎないけれども。
「飛燕!」
湛星が短く呼ぶと、すぐさま控えの間から飛燕が顔を出した。その手には、また新しい香の包みがある。
「暁空。ちょうど今、香を替えようと――」
「それのことだ」
湛星は飛燕の言葉を遮り、銀の香炉をじっと見つめた。
隈の薄れた瞳には、将軍としての鋭さとは別の、個人的な好奇の光が宿っている。
「その香屋……客の『心の欠け』に合わせて調合すると言ったな。俺のための香を作った時、香師は何と言っていた?」
飛燕は、主君がこれほどまでに特定の「物」に興味を示す姿を、戦地にいた時を含めても見たことがなかった。めずらしいこともあるもんだと、彼は少しだけ得意げに、しかし声を潜めて答える。
「お前には、『強制よりも安らぎが必要』と言ってたかな。色々聞かれて答えたけど、それで、一晩かけてあの安眠香を練り上げたらしい」
強制より、安らぎ。
なるほど。なかなか、言い得て妙だと思った。
確かにこれまでに作ってもらった香や薬はどれも、強制的に『どうにかしよう』としてばかりだったのだから。
初めのうちは効いていた物でも回数を重ねる度に効かなくなり、「もっと、もっと」と強い効力を求めてしまう。その全てに慣れてしまった結果が、現在だった。
誰がどんなに手を尽くしても届かなかった自分の深淵に、その香師はいとも簡単に飛び込んできたのだ。気にならない訳がなかった。
「まあ、香師が言うには、直接やり取りながら調合した方が正確らしいけど、さすがに我らが将軍閣下に下町に行かせる訳にもいかないんで」
体調や悩み、諸々。そう言ったものを聞き出して、『その人だけの香』を作るのだという。
これだけ聞くと他の調香師となんら変わりはなさそうなのに、一体なぜ。
「……一度、その店へ行っても良いかもしれないな」
「は? 本気か? 下町の路地裏に将軍なんかが来たら、悪目立ちするぞ」
「分かってるよ。……名も身分も伏せ、護衛も最小限にする。お前と、父の腹心だった周 鉄岩、二人だけを連れていく。それで文句ないだろ?」
「いや、文句っていうか〜……絶対、反対されると思うけどなあ」
湛星は立ち上がり、椅子に掛けられていた黒の外套を手に取った。まずは鉄岩を捕まえないと。
仕事以外で執務室という「城」から出ることは、普段の彼なら考えられない出来事だった。
凌霄処で寝起きしているから当然といえば当然なのだが、たまの休みでも仕事をしているので『出かける』とか『買い物』という言葉を知らないんじゃないかと噂している部下もいる。
「……香屋の主がどのようにあの香を作っているのか。確かめないと、結局また眠れなくなりそうだからな」
そう言って苦笑いする湛星の顔は、冷酷さの中に年相応の青年の危うい熱を孕んでいる。
父の仇と一族の再興だけをただひたすら考えてきた青年が、初めて『自らの外』に目を向ける。それは、彼がこの五年間決して見せなかった、未来へのわずかな一歩のように見えた。




