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第3話 わずかな変化

 翌朝。

 執務室の窓から差し込む朝陽は、いつもなら頭痛を悪化させる忌々しい凶器でしかなかった。眠れずに霞んだ瞳を無遠慮な眩しさで刺し、鼓動が脈打つごとに鈍い痛みで頭を重く締めつけてくる。

 湛星は普段から言葉少なめな青年だが、朝の彼は輪をかけて無口になり、一目で分かるほどの不機嫌さで周囲の人々を震え上がらせていた。

 とはいえ、理不尽に当たり散らしたり暴力で鬱憤を晴らす訳でもなく、無言の圧だけがひたすらに恐ろしいので、部下たちは皆『触らぬ神に祟りなし』とばかりに湛星の機嫌が治まるまで放置されている。


 しかし、この日の彼は数年ぶりに「光」を穏やかなものとして受け入れていた。

 磁器人形のような肌には不健康な青白さではなく、薄氷の下に紅を一滴落としたかの如く、微かな血色が戻っている。

 目の下にべったりと張り付いていた隈も、心なしかその影を潜めていた。


 漆黒を基調とした生地に深い藍色の縁取りが施された軍服の襟を整え、定位置である執務机に座った湛星は、報告書を持ってきた乳兄弟の側近を呼び止めた。


「……林 飛燕(りん ひえん)。昨夜の、あの香の件だが」


 飛燕は、主君の目が驚くほど澄んでいるのを見て密かに安堵の息を漏らす。


「気に入ったか? 調香師たちの高価な品よりも、よほど効いたみたいだけど」

「……まあ。宮廷の香は無駄に香りが強くて、最初はいいが最後は不快になっていたのに昨日は全然違った。うまく言えないが……俺の脳裏にへばりついていた泥を、静かに洗い流すような感覚だった」


 湛星は空になった銀の香炉を指先でなぞった。今はすっかり跡形もなく消えてしまったあの香りが、凍てついた心をどれほど深く解き放ったか。

 それを言葉にするのは気恥ずかしく、彼はあえて事務的な口調を保つ。


「この香はどこの店の物だ?」

「下町の外れ、三番通りの裏路地の突き当たりにある小さな店。看板も何も無いんで、一見すると香屋には見えないけど……何でも、客の『心の欠け』に合わせた香をその場で調合すると噂されてたのを、たまたま耳にしたんだ」


 湛星は、わずかに眉を動かした。

「心の欠け」――。その言葉が、今の自分にはあまりにも鋭く突き刺さる。


 左手で頬杖を付き、思案するように右手の指でコツコツと机を叩く。かと思えば、足を組んで椅子の深く腰掛け、ふんぞり返ったりしている。

 多感な時期をひたすら戦場で過ごしてきただけあって、ときどき粗野な仕草をすることがあるにも関わらず、それでもどこか気品が滲む姿はその体に流れる血によるものかもしれない。

 藍将軍も端正な男前であったし、藍夫人は帝都でも貌若天仙(ぼうじゃくてんせん)と名高い美女であった。その二人の子どもである映月や湛星ももちろん、類稀な美貌の持ち主だ。


 この顔立ちで一騎当千の猛将で、今や全軍を総べる将軍なのだから、父母が生きていたならどれ程の誇りだっただろうか。

 などと、飛燕が心の中で思っている事などつゆ知らず。湛星は訝しむことに気を取られている。


「……あの香は一体何なんだ? 妖術かと思えばそうでもない。俺の過去も、何も知らないはずなのに」

「何だろうねえ。あーでも、店の者が言ってたっけ」


 ーー『香りは嘘をつかない。魂が本当に帰りたがっている場所を覚えているものだ』と。


 飛燕の言葉に、湛星はふっと自嘲気味な、しかし棘のない苦笑いを浮かべた。


 普段は鬼神のごとき強さと冷酷さで覆い隠されてしまっているが、毒気のない笑みを浮かべる湛星はまだ二十になったばかりの若者だった。

 家族を失ってすぐ、一般兵として戦況が激化していた前線に向かい、そこからひたすら軍功を重ねてきた。

 没落した藍家のため、後宮で冷遇されている姉のため、死に物狂いで戦い続けた湛星の姿を飛燕は間近でずっと見続けてきた。

 時には命の危険があるほどの重傷を負いながらも、連戦連勝を重ね、小隊長、中隊長、連隊長と出世し、百戦錬磨の戦神とまで称されるようになった姿も。

 そして敵の総大将を討ち取った結果、世の平定の立役者となった功績を買われ、禁衛軍を総べる将へと駆け上った。


 何不自由なく暮らしていた十五の子どもが、いつ命を落とすかも分からない死地へ自ら赴き、わずか五年で将軍になった。それがどれほど過酷なものだったか想像に難くない。

 飛燕が仰ぐ主君は、子どもらしさを大して味わえずに、強制的に大人にならざるを得なかった。

 それを目の当たりにする度に、『これ以上、傷つくことのないように』と強く思う。


「皮肉なものだな。自邸には足が向かないのに、香の中では、俺はあの庭の白梅の下にいたんだ」


 湛星は視線を窓の外、遠くに見える後宮の屋根へと向けた。

 あそこには湛星の姉の映月(えいげつ)がいる。禁衛将軍として帝都に戻ってから妃嬪の位が上がったと聞くが、それまではずっと下級妃だった。


(俺ががむしゃらに功を立てることで、姉上の助けになるなら何だってやる)


 没落した家では後宮での後ろ盾にはならない。

 蝶よ花よと育てられていた時のような、贅沢な暮らしは出来なかっただろう。

 時折届く文には苦労していることなど何一つ書かれていないが、湛星が出世することで禄が上がり、衣装や装飾品など豪華な贈り物も出来るようになった。


「とりあえず、その香屋は今後も注視しておいてくれ」

「わかった。今夜も香を焚くか?」

「いや。今夜はいい。俺はこれから、陛下との定例報告がある。その後は南衙(なんが)の確認に向かうから、お前もそのように動くように」


 飛燕が了承して部屋を出ていくと、湛星も続いて凌霄処を出た。

 定期報告にはそんなに時間はかからなそうだが、その後にやらなくてはならないことが山積みになっている。

 人をうまく使うことが出来ればいいが、なにぶん湛星は全て自分で把握していたい性質だった。

 将軍位を賜ってからまだ日が浅く、全兵士の支持を得られているとは思わない。だからこそ、自分の目でしっかり見る必要があると思っている。

 何をするにも己が先に。自らの行動で示さなくては。前線でもずっとそうやって戦ってきた。


 ()()『逆賊の息子』が将軍なのだ。兵士たちの中でも反感や批判はもちろんある。口さがない者たちもいる。

 それでも湛星は、父や祖父たちが守ってきた、誇り高き藍家の名に恥じない自分でありたかった。それがいつか身を結ぶことを信じている。


 

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