第2話 心をほどく香り
「……暁空、まーたそんな顔して」
痛みに耐える中、音もなく入ってきたのは乳兄弟であり、今や禁衛軍の最側近を務める男だ。戦地で共に血を浴びた彼だけは、湛星が声もなく耐えている時でもあえて遠慮のない声をかける。
湛星が二十歳で成人となった際に本名とは別に付けられた字の『暁空』呼びを許している数少ない人間でもあった。
「急務以外は持ってくるなと言ったはずだが」
「そう言うと思って、仕事ではなく『差し入れ』を持ってきたぜ」
目は糸のように細く、一見どこにでもいるような顔立ちをしているが、それゆえに人に溶け込むことが上手く、密偵としても有能な男だ。
飄々した態度とは裏腹に、瞳と口調には心配が滲んでいる。
乳兄弟であり、戦友でもあり、腹心の部下でもある。湛星の不眠と万全とは言えない体調は、彼らの間でも長く悩みの種であった。四方八方、手を尽くして、良さそうな物を探しては勧めてくる。
「お前も懲りないな。宮廷調香師ご自慢の香も、景雲が処方した渾身の眠り薬も、全部効かなかったじゃないか」
湛星は低く、ひび割れた声で撥ねつけた。事実、分家の子息である、参謀かつ湛星の補佐役をしているーー陳 景雲が、持てる知識を集めて作った頭痛薬ですら彼の神経を逆なでするばかりで、安らぎを与えることはなかったのだ。
景雲が処方した強い眠り薬は、机の引き出しの奥で埃を被っている。あれを飲めば体は動かなくなるが、意識だけは冴え渡り、永遠に続くような闇の中で父の断末魔の幻聴が聞こえてくる。
それを湛星は「死よりも恐ろしい拒絶」として避けていた。
男が机の端に置いたのは、見覚えのない小さな銀の香炉。
「……これは?」
「下町で噂の香屋から手に入れた『安眠香』ってやつだ。庶民の間では大層な評判みたいで、頑固な不眠も悪夢も、これ一焚きで極楽に変わるとか」
満を持してのお披露目よろしく、糸目の男ーー飛燕は両手を自身の顔の横に上げ、ニカッと笑う。
湛星は胡散臭そうに見た後、机に頬杖を付き、苦々しく唇を歪めた。
「へえ。極楽ね。俺の血生臭さとは真反対にある言葉だな」
「ええ、ええ。分かってるって。でも鏡を見てみろよ。今のお前は刃が立ちすぎて、鞘まで切り裂きそうだぞ。……それに孫嬷嬷も心配してたぜ。藍家に届けた替えの軍服に、また頭痛薬の飲み殻が混ざってたって」
飛燕の言葉に、湛星は一瞬だけ、視線を彷徨わせた。
自邸。年配の元侍女が守る、あの静まり返った屋敷。
あそこに帰れば、父の遺影が、母の形見が、そしてかつて共に笑った姉の残り香が、彼を優しく殺しに来る。だから彼は、戦場のようなこの執務室から動けない。
「ここは騙されたと思って、どうか、一度だけお試しを」
「……今度こそ効けば良いけどな」
そう呟きながらも、湛星は力なく目を閉じた。
疲労と寝不足で血の気の引いた頬に、長いまつ毛の影が落ちる。
やがて香炉の火が一条の煙を立ち上らせると、磨られたばかりの墨の匂いや、湛星が常用する強い頭痛薬の苦い残香をゆっくりと上書きしていく。
瞬間、室内を支配していた重苦しい緊張が、目に見えない光の粒子に溶かされていくような錯覚に陥った。
それは、権力争いの泥臭さも、血生臭い復讐の執念も一切含まない、あまりにも無垢な香りだった。
雨上がりの森の奥深く、まだ誰も踏み入れたことのない土と、陽だまりの中で揺れる茉莉花の、泣きたくなるほど清らかな香り。
(……これは……)
湛星の眉間の皺が、ゆっくりと解けていく。
宮廷調香師の香は「眠らせるため」の作為に満ち、軍師の薬は「思考を止めるため」の毒に近かった。けれど、この香りは違う。
香煙が湛星の頬を撫でた途端、長いあいだ彼を苛み続けていた『銀の針』が、春の雪のように跡形もなく消え去ったのだ。
まだ幸せだった頃。父の広い背中の後ろで、母の衣の袖を掴んで歩いた、白梅の庭。
姉が自分の髪を梳かしながら、小さな声で歌ってくれた古い子守唄。
封印された自邸の、奥座敷に差し込んでいた柔らかな光。
凍てついた刃のようだった湛星の心が、その香りに触れた瞬間、音を立てて武装を解いた。
「……っ」
不意に、視界が滲む。
悲しみでも怒りでもない。五年間、一刻たりとも休むことを許されなかった『幽鬼』の魂が、初めてこの世界に許されたような、圧倒的な安堵感。
側頭部を無数の針で刺されるような頭痛が、香に触れたところから霧散していく。
白皙の頬にほんのりと生きた血色が差し、疲れが刻まれた瞼が抗いようのない重みに耐えかねて落ちていった。
「……おい、暁空……」
飛燕の声が、遠く、心地よい水音のように響く。
その音を聞きながら、深い水底へと沈んでいくようだった。
(ああ……瞼が、身体が、重たくて堪らない。)
復讐も、大丞相への憎悪も、今はまだ闇の向こうにある。
けれどこの香りが満ちる数刻の間だけ、彼は『復讐者』という重い鎧を脱ぎ捨て、帰りたかったあの場所へと、魂を還すことができた。
深く、静かに。
あの日から止まっていた時間が、静かな呼吸と共にようやく動き出そうとしていた。




