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聖女をクビにしたら国が詰んだ  作者: 秋月 もみじ


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第9話 フラウを追い出した人間に、用はない


「フラウ。頼む、戻ってきてくれ」


アルベルト殿下が、頭を下げていた。


神殿の大広間——と呼ぶには小さすぎる、グリューネ神殿の集会室。石の床に、王都の王子が膝をついている。金の髪が垂れて、表情が見えない。


窓の外で、虫の声がしていた。いつもと同じ辺境の夕方だ。だけど空気だけが違う。シロが私の足元から動かない。小さな身体を、靴にぴったり押しつけている。


隣に立つクラウス殿下は、兄の背中を見つめたまま何も言わなかった。


「俺が間違っていた。王都にはお前が必要だ」


殿下の声は、記憶の中のそれと違っていた。社交会の挨拶みたいに通る声ではない。掠れていて、少し震えている。


「神鏡テストの進言を、お前がしていたことも知った。業務日誌に書いてあった」


知ったのか。あの最後の頁を。


「全て俺の不明だ。お前の仕事を理解せず、お前の言葉を聞かず、お前を——」


声が途切れた。


殿下が顔を上げた。目が赤い。泣いてはいなかったけれど、泣く手前の顔をしていた。二十二歳の王子が、こんな顔をするのを見たのは初めてだった。


胸が揺れた。


十年間仕えた人だ。嫌いではなかった。華やかで、社交的で、人を惹きつける力があった。ただ、見えないものを見ようとしない人だった。


今、見えているのだろうか。遅すぎた目で。


ディートリヒさんが、私の斜め後ろに立っている。何も言わない。ただ、いる。


「殿下」


自分の声が、思ったより静かに出た。


「私はもう、王都の筆頭聖女ではありません」


殿下の目が揺れた。


「ここに——私を必要としてくれる人たちがいます」


アルト村の嘆願書。四十の署名と拇印。インクの滲み。


「そして、ここで初めて『ここにいていい』と言ってもらえたんです」


ルーシェの声。あの夜、膝の上で眠りながら。


「ですから——」


「待ってくれ」


殿下が立ち上がった。一歩、近づこうとした。


その時だった。


空気が変わった。


集会室の温度が、二度ほど下がったように感じた。窓から差し込む光が金色に変わる。壁の聖紋が、薄く光り始めた。


「——おい、人間の王子」


声は、天井の梁の上から降ってきた。


ルーシェが、そこに座っていた。


ただし、いつものルーシェではなかった。金色の髪が風もないのに揺れている。琥珀の瞳が、光を帯びて別の色に見える。八歳の少年の姿なのに、部屋の空気を全部支配していた。


神だ。


この子は、神なのだ。


わかっていたはずなのに、改めて突きつけられた。おやつをねだって、ケーキで厨房を爆発させて、私の膝で寝ていた子ども神が——今、この部屋で最も強い存在として座っている。


殿下の顔から、血の気が引いた。クラウス殿下も、目を見開いている。護衛の騎士たちが剣に手をかけた。だが、抜けない。指が、動かない。


「フラウを追い出した人間に、用はない」


ルーシェの声は、子どものままだった。でも、重さが違う。


「裁定を下す」


梁の上から降りてきた。裸足が石の床に触れると、床に光の紋様が広がった。


「一つ。アルベルト・ヴァイゼル。お前は聖女の解任と神鏡テストの省略を、王族の助言権を超えて命じた。よって、聖務への関与を永久に禁止する」


殿下が何か言おうとして、声が出なかった。


「二つ。ローザ・メルツ。祝福を持たない者が聖女を名乗った。これは神への冒涜。聖女の資格を剥奪する」


ローザ様はここにいない。だが、裁定は距離に関係なく効力を持つのだろう。ルーシェの声には、それだけの重さがあった。


「三つ。フラウ・リンデンを、俺の聖殿の筆頭聖女に指名する。人事は神の権限だ。文句は——ない方がいいよ」


最後だけ、少しルーシェらしい言い方だった。


「行政の手続きは人間同士でやって。俺、そういうの面倒だから」


光が収まった。


ルーシェが、すとんと床に降り立った。さっきまでの威圧感が嘘のように消えて、いつもの裸足の少年に戻っている。


「——疲れた。おやつ食べたい」


殿下は、床に膝をついたまま動かなかった。


クラウス殿下が、兄の腕を取って立たせた。


「兄上。帰りましょう」


殿下——アルベルト殿下は、抵抗しなかった。さっきの裁定で、何かが完全に折れたのだろう。目の焦点が少しぼんやりしていた。


入口で、クラウス殿下が振り返った。


「フラウ殿」

「はい」

「今まで、ありがとうございました。あなたはもう自由です」


自由。


その言葉が、思ったより重かった。


「聖殿の昇格手続きは、僕が正式に進めます。書類は追って送りますので」


クラウス殿下は小さく会釈して、兄を支えたまま馬車に向かった。


金の髪が二つ、夕日の中に消えていく。馬車の紋章旗が揺れて、やがて街道の向こうに見えなくなった。


石畳の上に、馬蹄の跡だけが残っていた。


振り返ると、ディートリヒさんが立っていた。


さっきまで私の後ろにいたはずなのに、今は正面にいる。いつ動いたのかわからない。


夕日が逆光になっていて、表情がよく見えなかった。


「ここにいろ」


声が聞こえた。


四日前にも同じことを聞いた。あの時は「お前がいなくなったら困る」の延長に聞こえた。業務上の。合理的な。


今は、違った。


声の色が違った。低くて、少し掠れていて、何かを堪えているような——。


「……はい」


頷いた。


涙が出そうだった。こらえた。でも一粒だけ、落ちた。顎の先から石畳に落ちて、小さな染みを作った。


ディートリヒさんは、何も言わなかった。


ただ、半歩だけ近づいた。


腕を伸ばせば届く距離。でも、触れなかった。触れない距離のまま、隣にいた。


裏庭からルーシェの声が聞こえた。


「フラウー、おやつー」


泣き笑いになった。


鼻を啜って、袖で目を拭いた。不格好だったと思う。でも、構わなかった。


「……今行きます」


歩き出した足元に、シロが駆け寄ってきた。足首に頭を擦りつけて、小さく鳴いた。


辺境の空は広くて、夕焼けが全部見えた。

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