表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
聖女をクビにしたら国が詰んだ  作者: 秋月 もみじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/10

第8話 お前は迷惑なんかじゃない


殿下へ——十年間、ありがとうございました。どうかお元気で。フラウ


机の上に残されていたのは、それだけだった。ありがとうと、お元気で。紙の大半は、白いままだった。


俺はフラウの旧官舎に立っていた。きれいに片づけられた部屋。埃一つない。寝台のシーツは畳まれ、棚は空で、窓は閉じられている。


生活の匂いがしない部屋だった。十年も住んでいたはずなのに、最初から誰もいなかったみたいに何も残っていない。


恨み言でもなく、皮肉でもなく。


ありがとうございました。お元気で。


紙を持つ指先が、少し震えていることに気づいた。怒っているのではない。何に震えているのか、自分でもわからなかった。


机の引き出しを開けた。一つだけ、中に帳面が残されていた。


業務日誌。


表紙に「筆頭聖女執務記録」と書いてある。フラウの字だ。均整のとれた、読みやすい字。十年分の記録が、この一冊に詰まっている。


開いた。


ある頁が目に留まった。一年前の春。「瘴気の異常増加。三日間連続で結界修復。体調不良。巡回日程変更せず」。行間が、他の頁より狭い。急いで書いたのだろう。


俺はこの三日間、何をしていた。


——社交会で、踊っていた。


ローザと出会ったあの社交会の少し前だ。大広間で貴族たちと杯を交わしている裏で、フラウは一人で結界を張り直していた。体調が悪いのに、巡回の日程すら変えなかった。


そんな頁が、何十もあった。徹夜の浄化。体調不良でも休まない巡回。俺の行事の裏で、いつも一人で。


最後の頁を開いた。


解任当日の記録。


「本日付で筆頭聖女を辞任。引き継ぎ書(三百頁)を提出。神鏡テストの実施を上級神官に進言。却下される」


進言していた。


神鏡テストを、と。あの日、フラウは言っていたのだ。握りつぶされたのだ。そして俺は、それを知らなかった。


最後の最後まで、責任を果たそうとしていたのか。


日誌を閉じた。


窓の外で、瘴気の霧が王都の通りを這っている。第二層が弱っている。街路の花が枯れ始めている。あの霧は、前はなかった。フラウがいた頃は——。


「俺は、何をしたんだ」


誰もいない部屋に、声が落ちた。


メモを、もう一度見た。


十年間、ありがとうございました。


なぜ恨まないんだ。なぜ怒らないんだ。怒ってくれた方が、まだ楽だった。


辺境の朝は、いつもと同じように来た。


ルーシェに頬を突かれて起きた。シロが枕元でミルクを待っている。窓の外は曇りで、空気が少し湿っている。


いつもと同じ朝。


なのに、胸の奥に何かがわだかまっていた。


昨夜からだ。殿下が来るという知らせを聞いてから、ずっと。


シロにミルクをやりながら考えていた。


ここにいていいのだろうか。


ディートリヒさんは勅使を追い返してくれた。ルーシェは毎日「ここにいて」と言ってくれる。村の人たちは嘆願書まで書いてくれた。


でも、それは——。


私が元筆頭聖女だからではないのか。根源浄化ができるから。結界の知識があるから。いなくなると不便だから。だから「いてほしい」と言ってくれているだけで。


ディートリヒさんの優しさも。茶葉も、花も、外套も、髪飾りも。


筆頭聖女としての私に対する、丁重な扱いなのではないか。


肩書きを外した私に、価値はあるのか。


シロがミルクを飲み終えて、顔を上げた。口の周りが白い。鼻先で私の手を突いた。


「……ごめんね。今日はちょっと」


ちょっと何なのか、自分でもわからなかった。


昼過ぎ、回廊でディートリヒさんとすれ違った。


いつもの花が机にあった。今日は白い花。少しだけ茎が曲がっていて、完璧ではない一輪。


「ディートリヒさん」


呼び止めたのは自分なのに、言葉が出てこなかった。


「何だ」

「あの……」


言うべきではないのかもしれない。でも、言わないと壊れそうだった。何がとは言えないけれど、胸の奥のわだかまりが、もう一日持たない気がした。


「迷惑を、かけているのではないかと思って」


声が小さかった。


「勅使を追い返していただいたり、村の人たちに嘆願書を書かせてしまったり。殿下まで来ることになって。全部私がここにいるせいで——」


「お前は迷惑なんかじゃない」


声が、大きかった。


ディートリヒさんが声を荒げたのは、初めてだった。回廊の石壁に反響して、余計に大きく聞こえた。


驚いて顔を上げた。


ディートリヒさんの目が、まっすぐこちらを見ていた。翡翠色の瞳に、怒りがあると思った。でも、違った。怒りではなかった。


もっと深い場所にあるもの。


——怖がっている。


この人は、私がいなくなることを怖がっている。


「お前が……」


続きを言いかけて、ディートリヒさんは口を閉じた。奥歯を噛み締めるように顎が動いた。拳が、外套の下で握られている。


「お前がいなくなったら困ると言っただろう」


声が低く戻っていた。でも、さっきの一瞬で見えたものは消えなかった。


「……はい」


頷いた。


何と返せばいいのかわからなかった。ただ、胸の奥のわだかまりが——消えたわけではないけれど、形が変わった。冷たい塊が、少しだけ温かくなった気がした。


夕方。


シロを抱いて裏庭にいると、ルーシェが走ってきた。


「フラウ。馬車が見えた」


東の街道から、紋章旗を掲げた馬車が近づいてくる。王都の紋章だ。護衛の騎士が六名。前回の勅使より規模が大きい。


来た。


足が、少しだけ竦んだ。


気づくと、ディートリヒさんが隣に立っていた。いつの間に来たのかわからない。


何も言わず、私の前に一歩出た。


背中が見えた。広い背中だ。外套の革の匂いがかすかにする。あの日、帰り道で貸してもらった外套と同じ匂い。


「……俺の後ろにいろ」


振り向かずに言った。


低い声だった。さっき回廊で荒げた声とは違う。静かで、固くて、何かを決めた人間の声。


馬車が、石畳の上で止まった。


扉が開く。


金の髪が、夕日に光った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ