第2話 やっと来た
辺境の古神殿は、想像していたよりずっと小さかった。
馬車を一日も走らせた先にあったのは、蔦に半分覆われた石造りの建物だった。尖塔はない。鐘楼もない。正面の壁に刻まれた聖紋は苔で緑色になっていて、かろうじて輪郭だけがわかる。
王都の大神殿が白い城だとすれば、ここは——何だろう。森のなかに忘れられた箱、という感じが近い。
ただ、空気が違った。
瘴気の気配がない。いや、正確には遠くにかすかに感じるけれど、この神殿の周囲だけ別の場所のように澄んでいる。肺の奥まで冷たい風が通って、自分の呼吸がやけに大きく聞こえた。
石畳の隙間から雑草が伸びている。その先に、人影がひとつ。
長身の男が、神殿の入口に腕を組んで立っていた。
銀に近い灰色の髪。翡翠の目。神官服の上から革の外套を羽織っている。無愛想というより、表情の初期値が不機嫌に設定されているような顔だ。
「——やっと来た」
第一声がそれだった。
「遅い」
自己紹介もなければ、歓迎の言葉もない。ただ「遅い」とだけ。
「あの……ディートリヒ・ヴェーバー神官長様で」
「ディートリヒでいい。荷物はそれだけか」
「はい」
「少ないな」
少ないのは自覚している。十年分の荷物が革鞄ひとつなのは、我ながらどうかと思う。
ディートリヒ様——ディートリヒさんは、私の鞄を無造作に片手で持ち上げて、さっさと神殿の中に入っていった。重くないですか、と聞く暇もなかった。実際、そんなに重くない。
中は外見よりずっと手入れが行き届いていた。
石の床は磨かれているし、壁のひび割れは丁寧に漆喰で埋めてある。ただ、明らかに人手が足りていない。廊下の奥の扉が一つ外れかけていて、応接間らしき部屋の椅子は三脚のうち一脚の背もたれが欠けていた。
「お前の部屋はこっちだ」
案内された部屋は、小さいけれど窓が大きかった。窓の外に森が見える。緑が近い。王都では見たことがないくらい濃い緑だ。
寝台に荷物を置いて、ふと気づいた。
机の上に、茶器が用意されている。
白い湯呑みと、小さな茶壺。それから、乾燥した花弁が入った缶。
蓋を開けて、匂いを嗅いだ。
「——桜花茶?」
桜の花弁を乾燥させた茶。王都でも専門の茶舗にしか置いていない、少し珍しいお茶だ。甘い香りがして、疲れた日の夜に飲むのが好きだった。
辺境にも、こういうお茶があるのだろうか。
少し嬉しくなって、廊下に出るとディートリヒさんが壁に背を預けて立っていた。待っていたのか、たまたまなのかはわからない。
「あの、お茶を用意してくださったんですね。ありがとうございます」
「……備品だ」
それだけ言って、目を逸らした。
備品にしては随分気が利いている、と思ったけれど、言わなかった。
食堂で遅い昼食をとっていると、天井からどさりと何かが落ちてきた。
正確には、梁の上から飛び降りてきた。
「おー。来た来た」
男の子だった。八歳くらいの、金色の髪をした少年。瞳が琥珀色で、服は神官服をそのまま子ども用に縮めたような白い装束。裸足だった。
「ねえ、おやつ作れる?」
初対面の挨拶がそれだった。本日二人目の、自己紹介を省略する人物である。
「えっと……あなたは」
「ルーシェ」
少年はそう名乗ってから、当然のように私の隣に座った。椅子に座るというより、しゃがむように丸くなって膝を抱えている。
「ルーシェ様……もしかして」
「うん。神様」
あまりにもあっけらかんと言うので、一瞬理解が追いつかなかった。
神。
この辺境の守護神。古い文献で読んだことがある。グリューネ神殿の守護神は気まぐれで、姿を見せることは稀だと。
「あの、本当に、神様……?」
「疑ってるならこれ見て」
ルーシェが指を鳴らすと、食堂の窓から光が差し込んだ。ただの陽光ではない。空気の粒子そのものが金色に光って、私の肌をくすぐるように流れた。
祝福の光だった。
それも、とてつもなく純度の高い。
「……すごい」
「でしょ。で、おやつは?」
話が戻った。
思わず笑ってしまった。声を出して笑ったのは、いつ以来だろう。
「何が好きですか?」
「甘いやつ。焼いたやつ。卵とバターが入ってるやつ」
それはだいたい全部の焼き菓子だと思う。
夕方になって、知らなかったことがわかった。
ルーシェは普段からこの神殿で実体化しているらしい。ディートリヒさんと二人で——正確には神と神官長で——この小さな神殿を切り盛りしていた。他の神官は巡回の侍祭が月に一度来るだけ。
つまり、この神殿の常駐人員は実質二人。いや、一人と一柱。
「足りないでしょう」
「足りてる」
ディートリヒさんは素っ気なく答えた。嘘だ。廊下の扉は外れかけているし、厨房の棚は傾いている。一人で全部やるのは明らかに無理がある。
でも、そのことを指摘する前に、遠くで何かの気配が揺れた。
東——王都の方角だ。
微かだけれど、結界の波長が乱れている。第一層の日常浄化が途切れた時の、あの濁り。ここまで届くほどの揺らぎということは——。
「……気づいたか」
ディートリヒさんが窓の外を見ていた。
「王都の第一層が消えた。昨日の朝からだ」
昨日。
私が発った翌朝。
「知って……いたんですか」
「風で分かる。瘴気の流れが変わった」
胸がざわついた。でも、それは私の仕事ではもうない。進言はした。握りつぶされた。
ディートリヒさんは、私の顔を一瞬見て、それからまた窓の外に目を戻した。何か言いかけたように口が動いたけれど、結局何も言わなかった。
夜。
割り当てられた部屋の寝台は、王都の官舎より少し固かった。でも、傾いていない。それだけで妙に安心する。
桜花茶を淹れて飲んだ。甘い香りが湯気と一緒に立ち上る。ちゃんと美味しい。王都で飲んでいたものと、ほとんど変わらない味がした。
窓を開けると、虫の声がした。星が近い。王都では見えなかった小さな星まで見える。空気が冷たくて、少し鼻の奥がつんとした。
部屋の扉が、こんこん、と鳴った。
開けると、誰もいない。
足元を見た。
ルーシェが、壁にもたれて半分眠りかけていた。
「……ルーシェ?」
「ん……さむい」
「部屋があるでしょう」
「ディートリヒの部屋はせまい。フラウの部屋がいい」
勝手に入ってきて、勝手に寝台に上がって、勝手に私の膝に頭を載せた。金色の髪がさらさらと膝の上に広がる。神様とは思えないほど無防備な寝顔だった。
足を投げ出して、毛布を引っ張って、小さなあくびをひとつ。
「ねえフラウ」
「はい」
「ここにいてよ。ずっと」
半分眠りながら、ルーシェがそう言った。
ここにいてよ。
その言葉が、思ったより深いところに落ちた。
十年間、王都の大神殿にいた。毎日結界を整えて、神獣の世話をして、巡回に出て、祝祭の準備をして、瘴気の監視をして。
ここにいてほしい、と言われたことは——。
一度もなかった。
鼻の奥がつんとした。さっきの夜風のせいだと思った。たぶん夜風のせいではなかった。
膝の上のルーシェの髪を、そっと撫でた。指に絡む金糸が、温かかった。
ここにいていい、と言われたのは、十年で初めてだった。




