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聖女をクビにしたら国が詰んだ  作者: 秋月 もみじ


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第1話 お前の代わりなどいくらでもいる


「——はい。それでは、本日をもって筆頭聖女の職を辞します」


声が思ったより平坦に出た。

自分でも少し驚いたけれど、まあ、そんなものかもしれない。十年も同じ場所にいれば、最後の日の声だって慣れたものになる。


謁見室の空気が固まったのがわかった。

マティアス様が書類を落としかけ、侍祭の若い神官が口を半開きにしている。みんな、私が泣くか怒るかすると思っていたのだろう。


第一王子アルベルト殿下は、玉座の隣に立ったまま目を瞬いた。


「……聞こえなかったか? お前を筆頭聖女から——」

「解任、ですね。伺いました」


殿下の言葉を遮ったのは、失礼だったかもしれない。でも、二度聞く必要はなかった。


お前の代わりなどいくらでもいる。真の聖女はローザだ。


殿下はそう仰った。

明瞭な声だった。社交会の挨拶みたいに、よく通る声。


私の隣——いや、殿下の隣に控えている男爵令嬢ローザが、少しだけ不安そうに殿下の袖を見ている。可憐な人だ。睫毛が長くて、頬がほんのり赤い。聖女というより、お伽噺の姫君に似合いそうな容姿をしている。


「フラウ。何か言うことは」

「引き継ぎ書を本日中にお出しします。三百頁ほどありますので、お時間のある時にお目通しいただければ」


殿下の眉がわずかに寄った。怒っているのではなく、困惑しているのだと思う。もっと取り乱すと思っていたのだろう。


取り乱すには、十年は長すぎた。


官舎に戻ると、荷物は思ったより少なかった。


十年も住んでいたのに、私物がほとんどない。着替え二組、巡回用の外套、浄化の触媒一式、巡回記録の帳面。あと母から貰った小さな押し花の栞が一枚。それだけ。


寝台の脚がほんの少し傾いている。入居した日からずっとそうで、直そうと思いながら十年が過ぎた。結局、直さないまま出ていく。


荷造りは半刻で終わった。残りの時間は引き継ぎ書の最終確認に使った。


結界の維持手順。月ごとの大規模更新の注意点。神獣ギンガの食事内容と好み——銀鮭は塩を振りすぎると食べない——。地方巡回の順路と各神殿の事情。祝祭の典礼次第。瘴気の監視記録の読み方。神託の受信方法と翻訳の書式。


三百頁。

十年間の仕事を文字にすると、三百頁になった。多いのか少ないのか、自分ではよくわからない。


引き継ぎ書を神殿の事務室に持っていくと、マティアス様がひとりで書類を整理していた。


「マティアス様。引き継ぎ書です」


重ねた紙束を差し出すと、マティアス様は両手で受け取って、その厚みに目を丸くした。


「これは……こんなに業務があったのか」

「全て書いてあります」


マティアス様は私の直属の上司だ。温厚で、政治的な立ち回りが上手くて、神殿内での信頼も厚い。ただ、私の仕事の中身を、この人がどこまで把握していたかは——。


考えてもしかたない。


「マティアス様、一つだけ」

「何だね」

「ローザ様に、念のため神鏡テストを実施されてはいかがでしょうか」


マティアス様の手が止まった。


引き継ぎ書の角を、意味なく撫でている。目が少しだけ泳いだ。


「……フラウ。王子殿下が仰っていただろう。『神鏡テストは旧弊だ。聖女は民の信頼で選ぶべきだ』と。今さらテストを持ち出しては、殿下のお顔に泥を塗ることになる」


旧弊。


十年前、私がこのテストを受けた時は、旧弊とは言われなかった。あの時は「伝統ある認定儀式」だったはずだ。


「……そうですか」


それ以上は言わなかった。言っても変わらないことは、十年やっていればわかる。


マティアス様は少し申し訳なさそうな顔をして、それからいつもの穏やかな笑みに戻った。


「フラウ。長い間、よく頑張ってくれた」


ありがとうございます、と言った。

嘘ではなかった。本当に思ってもいた。でも、ありがとうの温度が少し低いことに、自分で気づいていた。


大広間に戻ると、ローザ様の浄化の儀が行われていた。


殿下が誇らしげに見守る中、ローザ様が両手を掲げる。白い光が広間を満たした。華やかで、きらきらと粒子が舞って、神官たちから感嘆の声が漏れる。


綺麗だ、と思った。


同時に、違和感があった。


光の拡散の仕方が、祝福のそれとは少しだけ違う。聖女の浄化は光が内側から染みるように広がるものだけれど、あの光は外側で弾けている。まるで——。


でも、確信は持てなかった。光の質の違いなんて、十年やっている私の思い込みかもしれない。そして仮に何か言ったところで、マティアス様の反応はさっき見た通りだ。


私はもう筆頭聖女ではない。


進言は、した。神鏡テストを、と言った。握りつぶされた。ならばもう、私にできることはない。


広間の端を通り抜ける時、ローザ様と目が合った。彼女は少しだけ怯えた目をしていた。


「……お勤め、頑張ってくださいね」


何と返せばいいかわからなかったらしく、ローザ様は小さく頷いただけだった。


馬車は王都の東門から出た。


御者が気を遣ってゆっくり走ってくれている。揺れは少ない。でも、座面の革が少し裂けていて、そこから藁が覗いている。急な手配だったのだろう。


荷物の間から、古い帳面が滑り出てきた。


巡回記録。地方神殿への巡回指導の時に使っていた記録帳だ。


何となくめくる。三年前の夏の巡回。二年前の秋。そして——五年前の冬。


辺境古神殿、グリューネ神殿。


頁の端に、几帳面な字で書いてある。


「辺境古神殿 神官長 ディートリヒ・ヴェーバー」


五年前。瘴気が溢れかけた辺境の村を、夜通しで浄化した時だ。あの夜のことはよく覚えている。浄化が終わった朝、足元がふらついた私に、誰かが黙って温かいスープを差し出してくれた。


無口な人だった。名前も覚えていなかった——いや、覚えていた。帳面に書いてあるのだから。ただ、顔がぼんやりとしか思い出せない。


無愛想で、背が高くて、スープの湯気の向こうに翡翠色の目があった気がする。


「……元気にしているかしら」


口に出してから、少し恥ずかしくなった。


誰に聞かせるでもない独り言が、馬車の天蓋に吸い込まれて消えた。


帳面を閉じて、膝の上に置いた。


窓の外では、王都の尖塔がゆっくり遠ざかっていく。夕日が屋根の金箔を赤く染めている。明日の朝もあの尖塔に日が当たるだろう。私がいなくても。


十年間、頑張った。


もう十分だ。


目を閉じると、馬車の揺れが少しだけ心地よかった。藁のはみ出た座面ごと、身体を預けた。どこに向かうかは明日考えればいい。今はただ、肩の荷が下りた軽さだけがあった。


泣かなかった。

泣くほどの感情が残っていないことが、少しだけ寂しかった。


翌朝。


王都大神殿の聖堂に立つ結界の光柱——日々の瘴気を払う第一層の淡い輝きが、音もなく、消えた。


気づいたのは、朝の祈祷に出た下級神官がひとりだけだった。


「……あれ、今朝は光柱が薄くないですか?」


誰も答えなかった。

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