第3話 辺境にも、守れるものがありました
一週間が経つと、辺境の暮らしにも慣れてきた。
朝はルーシェに起こされる。起こし方は日によって違って、枕を引っ張るか、頬を突くか、耳元で「おやつ」と囁くかの三択だった。今朝は頬だった。
朝食はディートリヒさんが作る。黒パンと、固めのチーズと、昨日の残りのスープ。味は悪くないけれど、毎朝同じだった。変化をつけたいのか、今朝はパンが少しだけ厚く切ってある。多分それが彼なりの工夫なのだと思う。
「ディートリヒさん」
「何だ」
「ジャムはありますか」
「ない」
「はちみつは」
「あるかもしれない」
棚の奥から、結晶化しかけた蜂蜜の壺が出てきた。蓋を開けるのに二人がかりで三分かかった。
そんな毎日だった。
問題に気づいたのは、三日目の巡回でだった。
グリューネ神殿から歩いて半刻ほどの場所に、小さな村がある。農業と牧畜で暮らす四十世帯ほどの集落で、名前をアルト村という。
村に近づくにつれて、空気が変わった。
甘ったるい腐臭——瘴気だ。それも、表層に漂っているだけでなく、地面の下に根を張っている。窪地の底にある古い泉から、じわじわと瘴気が滲み出していた。
「これは……どのくらい前から」
「三年前に俺が赴任した時にはもうあった」
ディートリヒさんは淡々と答えた。
「月に一度、表層を浄化してしのいでいる。だが根が深い。一人では断ちきれない」
一人で。三年間。月に一度、この窪地まで歩いてきて、表層だけでも浄化して、それでしのいできた。
村の入口で、年配の女性が私たちに頭を下げた。
「神官長様、今月もすみません……」
「気にするな」
女性はディートリヒさんに深く頭を下げてから、私を見て少し不思議そうな顔をした。
「あの——こちらの方は」
「新しく来た聖女だ」
聖女。
王都を追い出された元筆頭聖女、とは言わなかった。ディートリヒさんの紹介は事実だけを短く伝えるもので、余計な情報がない。それが少しありがたかった。
翌朝、私はディートリヒさんに申し出た。
「瘴気の根源浄化をさせてください」
ディートリヒさんの眉が動いた。反対とも賛成ともつかない表情だ。
「根源浄化は消耗が大きい。お前の体力で——」
「これが私の仕事です」
言い切ってから、少しだけ心臓が跳ねた。私の仕事。一週間前に奪われたものを、自分で取り戻すみたいな言い方だった。でも、間違ってはいないと思った。
ディートリヒさんはしばらく黙っていた。窓の外を見て、それから私を見た。
「……無理だと思ったら止めろ」
許可とも命令ともつかない言い方だった。でも、反対はしなかった。
窪地に降りると、瘴気の濃度は想像以上だった。
泉の底——地下水脈の合流点に、瘴気の核がある。これを断たないと、いくら表層を払ってもまた溜まる。ディートリヒさんが三年間、一人で表層浄化を続けていた理由がわかった。表層なら一人で届く。でも根には、届かない。
膝をつき、両手を地面に押し当てた。
祝福を流す。光は出ない。根源浄化とはそういうものだ。華やかな光ではなく、地の底にしみこむ力。泥水に清水を注ぐように、ゆっくり、じわじわと、汚れを押し戻していく。
時間がかかった。
どのくらい経ったのかわからない。額から汗が落ちて、土に染みた。膝が痛い。指先が冷たい。でも、確実に瘴気の核が薄くなっていくのがわかった。
あと少し——。
ぶつり、と核が断ち切れた感触があった。
顔を上げると、窪地の空気が変わっていた。あの甘ったるい腐臭が消えている。泉の水面に、澄んだ光が映っている。
「……できた」
立ち上がろうとして、膝が笑った。ディートリヒさんの手が伸びてきて、腕を掴まれた。
「立てるか」
「はい……多分」
多分、は余計だった。実際、少しふらついた。
窪地の縁に、村人たちが集まっていた。いつの間に来ていたのかわからない。年配の女性が目を丸くしている。
「匂いが……消えてる」
「泉の水、澄んでる!」
「三年分の瘴気が——」
ざわめきが広がった。誰かが泣いていた。三年間、あの瘴気の匂いの中で暮らしていたのだ。子どもが泉に駆け寄ろうとして、母親に止められている。
「聖女様——」
年配の女性が私の手を取った。節くれだった、よく働く手だ。
「ありがとうございます。ありがとう……」
ありがとう、と言われたのは、マティアス様の冷めたそれとは温度が違った。この人は本当にそう思っている。手の震えでわかる。
「いえ、これが——」
私の仕事ですから、と言いかけて、やめた。
代わりに、頷いた。
帰り道は、来た時の倍の時間がかかった。
足が重い。根源浄化の消耗が、遅れて身体に来ている。日が傾いて、森の中の道は薄暗くなっていた。風が冷たい。
前を歩くディートリヒさんの背中が、不意に止まった。
振り返りもせず、外套を脱いだ。革の外套を、そのまま後ろ手に差し出してくる。
「え——」
「風が出てきた」
それだけ言って、また歩き出した。
外套は大きくて、私の身体にはだいぶ余る。革の匂いと、わずかに残る体温。肩にかけると、重さの分だけ安心した。
「すみません、お借りします」
返事はなかった。
少し早足で横に並ぼうとして、ディートリヒさんの横顔が見えた。
——耳が、赤い。
風のせいだろうか。日焼けだろうか。夕日の色が映っているだけかもしれない。でも、耳だけが赤いのは少し変だ。
聞いてみようかと思って、やめた。聞いたところでこの人は「風のせいだ」としか言わないだろう。
神殿に戻ると、机の上に手紙が置いてあった。
王都大神殿の封蝋。見覚えのある紋章。開く前から、中身はわかった。
「筆頭聖女フラウに帰還を命ずる」
差出人は第一王子アルベルト殿下。
手紙は短かった。要約すると、結界の維持に問題が生じているため速やかに帰還せよ、という内容だ。問題が生じている。そうだろう。第一層が消えたのだから。
私を切った翌日に結界が消えて、一週間で帰って来いと言う。
笑うべきなのか怒るべきなのか、少し迷った。どちらでもなかった。ただ、疲れた身体の奥で何かが静かに凪いだ。
手紙を裏返して、机に置いた。
「……帰りません」
誰に言うでもない言葉だった。
窓の外では、アルト村の方角の空が、今日は少しだけ澄んで見えた。




