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聖女をクビにしたら国が詰んだ  作者: 秋月 もみじ


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3/10

第3話 辺境にも、守れるものがありました


一週間が経つと、辺境の暮らしにも慣れてきた。


朝はルーシェに起こされる。起こし方は日によって違って、枕を引っ張るか、頬を突くか、耳元で「おやつ」と囁くかの三択だった。今朝は頬だった。


朝食はディートリヒさんが作る。黒パンと、固めのチーズと、昨日の残りのスープ。味は悪くないけれど、毎朝同じだった。変化をつけたいのか、今朝はパンが少しだけ厚く切ってある。多分それが彼なりの工夫なのだと思う。


「ディートリヒさん」

「何だ」

「ジャムはありますか」

「ない」

「はちみつは」

「あるかもしれない」


棚の奥から、結晶化しかけた蜂蜜の壺が出てきた。蓋を開けるのに二人がかりで三分かかった。


そんな毎日だった。


問題に気づいたのは、三日目の巡回でだった。


グリューネ神殿から歩いて半刻ほどの場所に、小さな村がある。農業と牧畜で暮らす四十世帯ほどの集落で、名前をアルト村という。


村に近づくにつれて、空気が変わった。


甘ったるい腐臭——瘴気だ。それも、表層に漂っているだけでなく、地面の下に根を張っている。窪地の底にある古い泉から、じわじわと瘴気が滲み出していた。


「これは……どのくらい前から」

「三年前に俺が赴任した時にはもうあった」


ディートリヒさんは淡々と答えた。


「月に一度、表層を浄化してしのいでいる。だが根が深い。一人では断ちきれない」


一人で。三年間。月に一度、この窪地まで歩いてきて、表層だけでも浄化して、それでしのいできた。


村の入口で、年配の女性が私たちに頭を下げた。


「神官長様、今月もすみません……」

「気にするな」


女性はディートリヒさんに深く頭を下げてから、私を見て少し不思議そうな顔をした。


「あの——こちらの方は」

「新しく来た聖女だ」


聖女。


王都を追い出された元筆頭聖女、とは言わなかった。ディートリヒさんの紹介は事実だけを短く伝えるもので、余計な情報がない。それが少しありがたかった。


翌朝、私はディートリヒさんに申し出た。


「瘴気の根源浄化をさせてください」


ディートリヒさんの眉が動いた。反対とも賛成ともつかない表情だ。


「根源浄化は消耗が大きい。お前の体力で——」

「これが私の仕事です」


言い切ってから、少しだけ心臓が跳ねた。私の仕事。一週間前に奪われたものを、自分で取り戻すみたいな言い方だった。でも、間違ってはいないと思った。


ディートリヒさんはしばらく黙っていた。窓の外を見て、それから私を見た。


「……無理だと思ったら止めろ」


許可とも命令ともつかない言い方だった。でも、反対はしなかった。


窪地に降りると、瘴気の濃度は想像以上だった。


泉の底——地下水脈の合流点に、瘴気の核がある。これを断たないと、いくら表層を払ってもまた溜まる。ディートリヒさんが三年間、一人で表層浄化を続けていた理由がわかった。表層なら一人で届く。でも根には、届かない。


膝をつき、両手を地面に押し当てた。


祝福を流す。光は出ない。根源浄化とはそういうものだ。華やかな光ではなく、地の底にしみこむ力。泥水に清水を注ぐように、ゆっくり、じわじわと、汚れを押し戻していく。


時間がかかった。


どのくらい経ったのかわからない。額から汗が落ちて、土に染みた。膝が痛い。指先が冷たい。でも、確実に瘴気の核が薄くなっていくのがわかった。


あと少し——。


ぶつり、と核が断ち切れた感触があった。


顔を上げると、窪地の空気が変わっていた。あの甘ったるい腐臭が消えている。泉の水面に、澄んだ光が映っている。


「……できた」


立ち上がろうとして、膝が笑った。ディートリヒさんの手が伸びてきて、腕を掴まれた。


「立てるか」

「はい……多分」


多分、は余計だった。実際、少しふらついた。


窪地の縁に、村人たちが集まっていた。いつの間に来ていたのかわからない。年配の女性が目を丸くしている。


「匂いが……消えてる」

「泉の水、澄んでる!」

「三年分の瘴気が——」


ざわめきが広がった。誰かが泣いていた。三年間、あの瘴気の匂いの中で暮らしていたのだ。子どもが泉に駆け寄ろうとして、母親に止められている。


「聖女様——」


年配の女性が私の手を取った。節くれだった、よく働く手だ。


「ありがとうございます。ありがとう……」


ありがとう、と言われたのは、マティアス様の冷めたそれとは温度が違った。この人は本当にそう思っている。手の震えでわかる。


「いえ、これが——」


私の仕事ですから、と言いかけて、やめた。


代わりに、頷いた。


帰り道は、来た時の倍の時間がかかった。


足が重い。根源浄化の消耗が、遅れて身体に来ている。日が傾いて、森の中の道は薄暗くなっていた。風が冷たい。


前を歩くディートリヒさんの背中が、不意に止まった。


振り返りもせず、外套を脱いだ。革の外套を、そのまま後ろ手に差し出してくる。


「え——」

「風が出てきた」


それだけ言って、また歩き出した。


外套は大きくて、私の身体にはだいぶ余る。革の匂いと、わずかに残る体温。肩にかけると、重さの分だけ安心した。


「すみません、お借りします」


返事はなかった。


少し早足で横に並ぼうとして、ディートリヒさんの横顔が見えた。


——耳が、赤い。


風のせいだろうか。日焼けだろうか。夕日の色が映っているだけかもしれない。でも、耳だけが赤いのは少し変だ。


聞いてみようかと思って、やめた。聞いたところでこの人は「風のせいだ」としか言わないだろう。


神殿に戻ると、机の上に手紙が置いてあった。


王都大神殿の封蝋。見覚えのある紋章。開く前から、中身はわかった。


「筆頭聖女フラウに帰還を命ずる」


差出人は第一王子アルベルト殿下。


手紙は短かった。要約すると、結界の維持に問題が生じているため速やかに帰還せよ、という内容だ。問題が生じている。そうだろう。第一層が消えたのだから。


私を切った翌日に結界が消えて、一週間で帰って来いと言う。


笑うべきなのか怒るべきなのか、少し迷った。どちらでもなかった。ただ、疲れた身体の奥で何かが静かに凪いだ。


手紙を裏返して、机に置いた。


「……帰りません」


誰に言うでもない言葉だった。


窓の外では、アルト村の方角の空が、今日は少しだけ澄んで見えた。

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